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    平成二十八年一月二十三日(土)
     国立・谷保天満宮・ハケと用水へ

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2016.02.01

     十八日、月曜日の朝は二年振りの大雪となり、我が家の辺りでは目視で二十センチほど積った。一日前にずれていればセンター試験だったから、全国の受験生にとって幸いだった。東上線は間引きしながらも動いていたが、東武越生線は架線凍結のため運転していない。前日から雪が予想されていたのだから、事前の点検が甘いのではないかと思ったが、人員が不足しているのである。昔はもっといた筈の保安要員も確保できないだろう。問題があるのは観光バス業界だけではない。
     それは理解するにしても、坂戸駅での情報が少なく、動かない原因もなかなか分からないのには苛々する。坂戸で一時間四十分待ってやっと動いた。午後には雨になり、それでなくても湿っぽい雪が融けて翌朝は路面が凍結した。
     十九日、道は凍結していて歩きにくいが、雪道用のブーツだから滑ることはない。東北の人間はニュースを見て、関東の人間がなんであんなに転ぶのかとバカにするが、おそらく靴底のせいなのだ。一年に一回あるかどうか分らないが、雪のための滑らない靴をせめて一足は用意しておかなければならない。
     駅に向かっているとスタッフから電話が入った。「越生線が動いていません。」またか。東上線は普通に動いているのだが、七時半頃に越生線の踏切事故があったのである。車のスリップが原因だろうから、これも雪の影響と言って良い。越生線は単線のマイナーな路線であるが、沿線には大学が四つ(そのうち川角に三つ集中している)、高校が三つもあって、実は重要な路線なのだ。構内には高校生が溢れているので取り敢えず改札を出てみた。タクシーか大学のバスが利用できるかも知れない。
     図書館のスタッフ四人も同じことを考えていて外で一緒になったが、タクシー乗り場は既に長い列が並び、スクールバスは女子学生で溢れている。仕方がないので寒い駅前で立っていること二時間、漸く大学が出してくれたマイクロバスに乗ることができた。
     しかし越生線が動き出したのが十一時過ぎで、十時までに交通機関が回復しないと全日休校になるルールが適用された。必死でさっきのスクールバスに乗り込んでいた学生はお気の毒であるが、図書館は五時までやらなければならない。本当なら夜の九時までなのだが、休日開館に準じたのである。
     そして今週は寒い日が続いた。実は平年並みなのだろうが、正月が暖かかったので寒さが身に沁みる。
     昨夜は池袋で秋田から来たYと飲んだ。「餃子でビール飲もうぜ」と昔聞いた言葉で日高屋に入った。味覚音痴の私でも宇都宮餃子の味と比べれば、やはり違うと漸く認識する。ここはビール一杯だけであげて、居酒屋に移動して浦霞のぬる燗を二人で一升ほど飲んだだろうか。
     そのとき、六月に予定されている中学の同窓会に出席する約束をしてしまった。五十年前の美少女に電話口で「絶対来てくれなくちゃ。これが最後かも知れないでしょ」と言われてしまっては仕方がない。初恋への義理である。私はもしかしたら正真正銘のアホではないだろうか。それにしても、改めて数え直せばYとの付き合いだって半世紀に及ぶのだ。今日は腸が少しゆるい。

     燗酒や茫々たりし半世紀   蜻蛉

     今日は旧暦十二月十四日、大寒の初候「款冬華(ふきのはなさく)」。大寒は一年で最も寒い時期だから現実との平仄はあっている。款冬(カントウ)は蕗であり、その華はフキノトウである。中国の七十二候は日本と違って「鶏始乳(にわとりはじめてとやにいる、又は、にわとりはじめてにゅうす)」で、鶏が卵を産み始める時期だと言う。しかし鶏が卵を産むのは人間でいえば排卵で、その周期はほぼ一日だから理論的には毎日産む。何を考えていたのだろう。
     十年振りと言われる大寒気団がやって来ていて、午後からは雪が降ると予報されている。(翌二十四日、奄美市では百十五年振りの雪が降り、二十五日には沖縄本島で観測史上初めて雪を見た。)
     鶴ヶ島から東武東上線で朝霞台、隣接する北朝霞でJR武蔵野線に乗り換えて西国分寺、ここから中央線で国立までおよそ一時間。片道七百四十八円。我が家からは比較的近い。コースを企画したスナフキンの地元である。
     里山の会は十一月、十二月と欠席していたので久し振りだ。改札を出るとオカチャンと目が合った。「おめでとうございます。」オカチャンとは今年初めて会うのだ。ちょっと一服して戻ると、スナフキンも到着したところだ。「早すぎるじゃないか、まだ八時半だぜ。」「雪が降るかも知れないから、参加者は少ないんじゃないかな。」
     スナフキン、あんみつ姫、ハイジ、サクラさん、隊長、オクチャン、ツカサン、オカチャン、宗匠、ヤマチャン、ロダン、蜻蛉の十二人が集まった。「隊長、今日の雪はどうですか?」病み上がりの気象予報士の鑑定では、降っても大したことはないとのことである。

     スナフキンがA4版五ページにのぼる克明な資料を作ってくれたので、私も勉強しなければならない。
     元ここは谷保村である。谷保村は大正末期でも南武線谷保駅周辺の甲州街道沿いに数百戸の農家が点在するだけの農村だった。そしてこの辺りは村北部の、クヌギやクリにアカマツが混じる雑木林で、地元の人間は「ヤマ」と呼んでいた。谷保は本来ヤボと読むのだが、野暮に通ずる音を嫌って現在ではヤホと呼ぶ。
     大正十四年(一九二五)、箱根土地の堤康次郎が北部の雑木林を開発したことで村の歴史は大きく変わった。学園都市として、関東大震災で建物が倒壊した東京商科大学を誘致したのが目玉である。
     少し前にはイギリスの田園都市構想の影響を受け、関西では明治四十四年(一九一一)小林一三が室町や箕面を開発したのを嚆矢として、千里、大美野、初芝などの町が開発された。東京では大正七年(一九一八)澁澤栄一が田園都市株式会社を設立して、田園都市開発に着手した。
     郊外に新しい街を作るのは電鉄会社の利益のためであるが、東京では、関東大震災による被災の影響もあり、人は西へ西へと移住した。東上線の常盤台も東武の根津嘉一郎によって郊外型住宅として生まれた町だが、そのことは余り知られていない。
     「ピストル堤だよ。」堤康次郎は強引な手法で、強盗ケイタと並び称された人物である。女と見れば手当たり次第で、愛人の数は分らない。正式に認知した子供だけで十二人、実際には百人以上いると言われた。

    「ピストル堤」の異名は、堤の強引な手法に怒りを爆発させた関係者らが、日本刀など凶器を持って殴り込みをした際にピストルで応戦したため、付けられたという説や、ピストルを乱射しながら屋敷へ乱入してきた暴徒を柔道で投げ飛ばしたためとの説(堤は柔道の全日本選士権で三位の実績を持つ腕前)、ピストルで撃たれても全く動じなかったためとの説もある。(ウィキペディア「堤康次郎」より)

     「強盗ケイタは誰でしたか。」「東急の五島慶太。」戦後、堤康次郎と五島慶太の間で繰り広げられた箱根山戦争については、獅子文六が『箱根山』で描いた。また堤康次郎、義明と西武王国については、猪瀬直樹『ミカドの肖像』が詳しい。戦後のどさくさまぎれに、堤がどんな手段で皇族の土地を取得していったかの経緯が良く分る。猪瀬は東京都政に関わってからは全くどうしようもなくなったが、それ以前はちゃんとしたものを書いていたのである。今の体たらくを見れば、明治の大学院で猪瀬が師事した橋川文三は嘆いたことだろう。
     大正十五年(一九二六)に東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)、昭和二年(一九二七)に東京商科大学(現・一橋大学)が移転してきて、学園都市の骨格が定まった。堤は同じ学園都市構想の下に小平学園都市(東京商科大学予科、津田英学塾を誘致)、大泉学園(高等教育機関の誘致失敗)を開発していた。
     昭和二十六年(一九五一)には町制施行に伴って谷保村を改めて国立町が発足した。名称は国分寺と立川の中間にあるというのが理由だが、随分お手軽な命名ではないか。「この地から国を立てる」というは後付けの知恵であろう。谷保のままの方が私は好きだ。
     二十七年には東京で初めて「文教地区」の指定を受けた。朝鮮戦争に伴って立川米軍基地の米兵相手の性風俗産業が浸食してきたことに対して、市民、学生が運動を起こした成果である。基地に性風俗業が付きまとうのは世界どこでも同じだ。
     しかし学生街ならもっと雑駁な雰囲気が良く、安い喫茶店、パチンコ屋、雀荘、小さな飲み屋がなければいけないのではないか。風俗産業だって、大人になる段階で必要でないとは言えない。人は無菌状態で生きていけないから免疫を作る必要があるだろう。ここは学生街ではなく、中流意識の高い住宅地なのだ。昭和四十年(一九六五)に市に昇格した。
     箱根土地が作った赤い三角屋根の旧駅舎は、東京都内では原宿駅に次いで二番目に古い木造建築であった。平成十八年(二〇〇六)十月に利用が中止されたが、復元可能なように解体され保管されていると言う。

     「予定には入れてませんでしたが、鉄道総研の方に行ってみます。」北口前の道を北上する。「こっちには来たことがないな。」隊長は昔、この辺りに住んでいたことがあると言う。「あらっ、何かしら。」ハイジの声で横を見ると、交番脇の木にサルノコシカケが生えていた。リーダーはどんどん先に行ってしまうのだが、残りがここで引っかかってしまう。交番は煉瓦様のタイルを貼ったモダンな建物で、住居も兼用しているようだ。中は無人で、「パトロール中です」の札が張り出されている。
     少し先で左に曲がると、正面が鉄道総合技術研究所だ。国分寺市光町二丁目八番三十八号。「ここは国分寺市なんだね。」中央線の北側は国分寺市なのだ。
     「光町に因んで、新幹線が『ひかり』って命名された。」しかしこれはすぐ後に訂正される。新幹線に因んで町名を光町にしたのだ。「昔の地名はヘイベイ新田だったんだ。」「ヘイベイってどんな字?」私は平米かと思ったが違った。

     国分寺市が一九六六年(昭和四十一年)に町名整理を行った際、同研究所での新幹線開発と一九六四年の東海道新幹線開業を記念し、旧地名の平兵衛新田から改称したものである。由緒ある旧地名のため研究所は地元市民との交流の機会にもなっている一般公開を「平兵衛まつり」と名付けている。(ウィキペディア「鉄道総合技術研究所」より)

     広い総研を外から眺めて、その向かいの国分寺市光プラザに入る。国分寺市光町一丁目四十六番八号。教育委員会や社会教育課、男女平等推進センターなどが入る施設で、一階が新幹線の展示室になっている。十二月の里山で皆は大宮の鉄道博物館に行っている筈で(私は参加していない)、それにつづいての鉄道施設である。
     鉄道技術に関わる年表を見て皆が驚くのは、リニアモーターカーの研究開発開始が、東海道新幹線開通(一九六四年)の二年前(一九六二年)だということだ。「そんなに前からやってたんですね。」ロダンもかなりの鉄道ファンかも知れない。
     ボタンを押すと車両が走る仕掛けのジオラマも人気だ。ボタンを押している間だけ走るから、押し続けていなければならない。「鉄橋だ、鉄橋だ、楽しいな。」姫が喜んで歌を歌い始める。「トンネルだ。」『汽車ポッポ』であるが、こういう童謡も念のために調べてみると意外なことが分る。昭和十三年に作られたときは、歌詞もタイトルも違っていたのだ。タイトルは『兵隊さんの汽車』、作詞は富原薫、作曲は草川信である。第一連だけ引いておこう。

    汽車汽車ポッポポッポ
    シュッポシュッポ シュッポッポウ
    兵隊さんを乗せて
    シュッポシュッポ シュッポッポウ
    僕等も手に手に日の丸の
    旗を振り振り送りませう
    萬歳 萬歳 萬歳
    兵隊さん兵隊さん 萬々歳

     出征兵士を乗せた汽車であろう。歌ったのは川田正子で、童謡歌手が国民的人気を得ていたのも、今では不思議に思える。
     昭和十二年七月の盧溝橋事件に始まった日中戦争(支那事変)は大陸全土に拡大し、収拾のつかない状態に陥っていた。この歌が生まれた十三年は、近衛首相が「国民政府を対手とせず」と血迷ったことを口走って始まった。後先を考えないのは鳩山由紀夫に似ているだろうか。しかし東京のバスに木炭自動車が登場し、資源の枯渇は明らかだった。物資動員計画が策定され、軍需工業動員法が制定された。
     前年十二月の第一次(加藤勘十・黒田寿男・山川均・荒畑寒村・鈴木茂三郎・岡田宗司・向坂逸郎・大森義太郎等四百四十六人が検挙)に続く二月の第二次人民戦線事件では、大内兵衛・有沢広巳・脇村義太郎・宇野弘蔵・美濃部亮吉・佐々木更三・江田三郎など大学教授・運動家を中心に三十八人が検挙された。四月には国家度総動員法公布、五月に徐州会戦。そんな年に作られたもので、私たちが知っている『汽車ぽっぽ』は戦後になって改変した歌詞だった。
     『兵隊さんよありがたう』(肩をならべて兄さんと 今日も学校へ行けるのは 兵隊さんのおかげです)は翌年になるから、『兵隊さんの汽車』は生身の兵隊を歌った童謡としては初めてのものではないか。この辺の事情は山中恒『ボクラ少国民』シリーズで詳細に分析されているだろうが、今、あの全五巻の膨大なシリーズを本棚から引っ張り出して参照する気力がない。ついでに言っておくと、山中は『間違いだらけの少年H』で妹尾河童の欺瞞を徹底的に批判している。
     山中から連想を広げれば、昭和三十年代には児童文学のルネサンスと呼ばれる時代があって、山中恒『赤毛のポチ』『サムライの子』、佐藤さとる『誰も知らない小さな国』、いぬいとみこ『木陰の家の小人たち』などによって、小学生の私の読書経験は始まった。
     同じ頃に安本末子『にあんちゃん』を私に読ませたのは、母の教育的配慮であったろうか。カッパブックスにいちいちルビを振ったのは、教育ママのはしりであった。父母とも「労働者の党」社会党の支持者で、母の養母タマは父を「アカ」だと嫌って、結婚には反対していたと言う。『資本論』が向坂逸郎訳(岩波文庫)と長谷部文雄訳(河出書房)と、それに戦前の高畠素之の訳も本棚にあるなんて、旧制中学卒業のサラリーマンの家としては普通ではなかったかも知れない。私は三十歳を過ぎて大月書店版(全五冊)に挑戦したが、三冊目の途中で挫折した。しかしこれも余計なことである。
     ついでに十三年の歌謡曲を調べてみた。淡谷のり子『雨のブルース』、東京リーダー・ターフェル・フェライン『荒鷲の歌』、霧島昇・木陰の家の小人たちミス・コロンビ『旅の夜風』、東海林太郎『麦と兵隊』、渡辺はま子『支那の夜』、それに『愛国行進曲』。やはり軍国歌謡が広まり始めている。『雨のブルース』は傑作である。野川香文作詞、服部良一作曲。

     雨よ降れ降れ 悩みを流すまで
     どうせ涙に濡れつつ 夜毎嘆く身は
     ああ帰り来ぬ 心の青空
     すすり泣く 夜の雨よ

     中国戦線で雨に濡れて行軍する兵士の心情は、『麦と兵隊』でも歌われた。昭和十三年は隊長や講釈師、ダンディ、ヨッシーの生まれた年である。鉄道総研とは全く関係ない話題になってしまった。
     外に出ると建物の脇に新幹線の車両が一台置かれている。「運んで来るの大変だったろうな。」変なことに感心する。「運転席にも乗れるよ。」それなら座ってみよう。運転席の座席は結構狭い。「見通しがあまり良くないね。」全面や横にはやたらにスイッチがある。「かなりアナログだな。」
     車内は展示スペースに改良されていて、ここにも鉄道のジオラマがある。なぜ小田急があるのか分からない。「連結がおかしいわね」とサクラさんが気付いた二両連結の電車は、山の向こう側に回ると自然に態勢を立て直す。線路の設置具合が悪いのではないか。

     西側の裏道を通って国立駅に戻る。高架下の駅舎は工事中だ。「エキナカを作るんでしょうね。」この工事はJR東日本によって「中央ラインモールプロジェクト」と名付けられているらしい。

     JR東日本グループでは、中央線の沿線価値向上を目指し三鷹~立川間において「緑×人×街つながる」をコンセプトとした「中央ラインモールプロジェクト」を推進しています。
     同プロジェクトでは、商業施設「nonowa西国分寺」「nonowa武蔵境」「nonowa東小金井」の三施設がそれぞれの駅で開業しております。今回、国立駅東側高架下で計画中の「nonowa国立」第一期(東側)の概要がまとまりましたので、お知らせいたします。
     国立の街の持つ「ゆとり」「知性」といったイメージを大切にした居心地の良い施設とし、あわせて、回遊歩行空間を整備し、高架下エリア・周辺地域への回遊性の向上を図ります。(https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20140424/20140424_info_01.pdf)

     現在はその第二期の工事中であった。南口に出ると、北口の風景とは一変する。駅前ロータリーには駅舎完成図が示されていて、三角屋根の旧駅舎も復元されることになっている。
     駅前から一橋大学、桐朋高校、都立国立高校を通って南武線谷保駅まで、真直ぐに南下する道路が「大学通り」と呼ばれる。このうち国立駅前から約一・八キロは、東京商科大学との契約で幅員二十四間(四十三・二メートル)と決められ、片側二車線に独立した自転車道、緑地帯、広い歩道を備えている。
     右斜め(南西)に伸びる道は富士見通り、左斜めに伸びる道が旭通りと名付けられている。富士見通りには国立音楽大学があったが、西武新宿線玉川上水駅の方に移転し、今は付属高校が残っている。
     「正面に富士山が見える。」「あっ、ホント。」スナフキンはいったん裏道に入り、喫茶店らしい店の前で止まる。「『モヤモヤさまぁ~ず』でやってた。別に国立を代表するような店じゃないよ。」私も時々見ることがあるが、サマーズの二人に体育会系でピアノも弾く帰国子女の狩野アナを加えて三人が街をぶらつく番組である。街歩きの参考には絶対にならない。女子アナに対するセクハラ、パワハラめいたやり方も好きではない。以前出演していたは大江アナは美人であった。
     大学通りに戻ると、リーダーは増田書店に入っていく。何をするのか。「ここですよ。」示されたのは国立の作家の本を集めたコーナーである。山口瞳が住んでいたのは知っていたが、スナフキン嵐山光三郎や小島信夫も紹介していた。
     嵐山光三郎は読んだことがない。小島信夫は『アメリカン・スクール』と『抱擁家族』か。昔の記憶だから正確ではないかも知れないが、Occupied Japanにおいてアメリカとの隠微な関わりによって家族が崩壊するのがテーマだったんじゃないか。
     戦後七十年経った今も日本が占領下におかれていることは、在日米軍基地の存在、とりわけ沖縄の状況によって明らかなのだが、どれだけの日本人が理解しているか。加藤典洋は最近の『戦後入門』でも、米軍基地の全廃なくして戦後は終わらないと断言していて、それはそうだろうが実現できる可能性はない。また加藤は平和憲法の理念を徹底するために、自衛隊を国連軍に移すことを主眼に改憲を主張しているが、国連とは加藤が実証するように本来連合国の組織であり、現在もほとんど機能しないことを考えれば、まず無理な相談だ。

     おっ、『寺島町奇譚』(ちくま文庫)が並んでいるではないか。そうか、滝田ゆうも国立だったと思い出した。「これは名作です。」「マンガですか?」とオクチャンは不思議そうな顔をする。マンガに対する反応は世代の違いによる。但し私が持っているのは講談社漫画文庫版(全三巻)の上中巻である。講談社と小学館が文庫サイズで漫画の名作を復刊していた時代に買ったのだが、もう三十年以上も前のことだ。
     「蜻蛉が時々紹介していますよね。」姫はよく記憶している。玉の井にあったスタンドバーで少年時を過ごし、その経験を自伝的なマンガにしたものだ。震えるような描線とフキダシの中に挿絵を入れてしまう独特なスタイルが郷愁を誘う。田川水泡の弟子で、当時の漫画家の例に倣って貸本漫画からスタートし、青林堂の「月刊漫画ガロ」で世間に出た。晩年は坊主頭に着流しスタイルでよくテレビに出ていた。私は『銃後の花ちゃん』と『滝田ゆう名作劇場』を持っている。
     「本屋は駅前にもう一軒あったんだけど、年末に潰れちゃったんだよ。」地方の小書店はどんどんつぶれている。最近の数値はもっていないが、一九九九年に二万二千二百九十六店あった書店は、二〇一三年には一万四千二百四十一店に減少した。十五年間で八千店が廃業もしくは倒産したのである。さまざま原因が錯綜しているのだが、一つの例として、出版物の総販売部数と図書館の個人貸出し冊数の比較をだしてみるか。
     一九九九年、本の総販売部数は七億九千百八十六万冊で、図書館の貸出し冊数は四億九千五百四十六万冊であっ。それが二〇一二年には、販売部数六億六千七百九十万冊に対して、図書館の貸出し冊数は七億一千四百九十七万冊に上った。販売部数の中には勿論図書館への販売も含まれるわけだから、個人がいかに本を買わなくなったかは一目瞭然である。
     これが業界にどういう結果を齎したか。本(雑誌も含む)が最も売れた一九九六年の実売額二兆六千九百八十億円が、二〇一四年には一兆六千八百九十一億円と、十八年で三十八パーセント、一兆円も落ち込んだ。元々零細な出版書店業界が限界産業と呼ばれるようになったのは当然だが、未だに底が見えない。去年は取次の栗田出版販売が倒産した。書店の棚からロングセールの本はなくなり、ベストセラーを例外に三か月で回転していく。
     更にもう一つ言えば、街の書店の営業は雑誌の宅配を柱としていたのだが、雑誌は今や商売にならない。一九九九年の雑誌実売金額は一兆五千九百八十四億円あったが、二〇一四年には八千八百三億円と五十五パーセントまでに落ち込んだ。これは明らかにインターネットの影響である。
     しかし増田書店の地下には『新潮日本古典集成』(新潮社)、『新日本古典文学大系』(岩波書店)なども揃え、「地下は私の趣味のフロア」と社長が豪語しているという。「俺はしょっちゅう来てるよ」とスナフキンが自慢するのも分る。増田書店がこんな道楽ができるのは、自社ビルで、テナントのロイヤルホストから家賃収入が入るお蔭ではないか。

     桜並木は街ができた時に植えられた。それなら最も古いものは九十年近く経ったことになる。「ソメイヨシノはもう寿命ですね」とオクチャンが言う通り、かなり年老いて痛みの激しい木もある。ヤマザクラも多い。通りには洒落た名前の(横文字の)カフェやレストランが目立つが、私やヤマチャン、ロダンには縁がなさそうな店ばかりだ。「小さな店が多いから、大勢だと入りきれない。」
     やがて右手の塀の向こうに雑木林が見えてきた。「ここは何ですか?」ツカサンが声を出す。これが一橋大学だった。通りを挟んで東西に分かれているが、私たちは西側のキャンパスに入る。正門前の右には大きな石を積み重ねた石垣があり、そこに濃いオレンジ色の実が大量になった木(草?)が植えてある。「何ですか?」「サルトリイバラです。」姫とハイジがすぐに答える。「山帰来とも言います。」
     かつて神田一ツ橋にあったことは、二週間前の江戸歩きで、東京外国語大学発祥の地を見た時にも少しだけ触れた。明治八年(一八七五)、森有礼が銀座尾張町に商法講習所を開設したのを嚆矢とする。明治十七年(一八八四)には農商務省の直轄となり東京商業学校と改称した。明治十八年、東京外国語学校と合併して神田一ツ橋に移った。これが二葉亭四迷の外国語学校退学につながる事件だったことも、前に書いた通りだ。
     明治二十年(一八八七)高等商業学校、明治三十五年(一九〇二)東京高等商業学校、大正九年(一九二〇)東京商科大学、昭和十九年(一九四四)東京産業大学、昭和二十二年(一九四七)東京商科大学、昭和二十四年(一九四九)一橋大学となる。その間、明治二十三年(一八九〇)には付属属商工徒弟講習所を職工徒弟講習所とし、東京職工学校に移した。これが東京工業大学の前身である。
     守衛が一人待機しているが、学生の姿はほとんどない。「土曜日は休みなのかな。」「国立はそうかも知れない。」私学は授業消化するため土曜日も授業はやっているのだが。念のために大学の学年歴を見ると、確かに土日は休みである。
     「この声は何でしょうかね。」木の上を見ると、小さな鳥が十羽以上、飛び回っている。鳥のことならツカサンに聞けばよい。「エナガだね。」「エナガがこんなにいるのは初めて見るわ」とハイジが驚く。
     右手には煉瓦造りの兼松講堂、正面に図書館、左には本部棟が建ち、これが昭和の初めの建物だという。特に兼松講堂は伊藤忠太の設計だというだけあって、彫刻には不思議な動物が見える。「これは何かな?」羽根が生えているので麒麟ではないかとオクチャンは言ったが、私はグリフォンではないかと思った。「それは何ですか?」ギリシャ神話に出てくる、ライオンに鷹(あるいは鷲)の羽根を持つ動物である。
     「築地本願寺も不思議な建物ですものね」とロダンが思い出した。坪内祐三に『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り―漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその時代』があるが、伊藤忠太も同じ慶応三年(一八六七)の生まれだ。私は読んでいないが、伊藤忠太の建築に現れた動物を拾い集めた、伊東忠太・藤森照信・増田彰久『伊藤忠太動物園』という本がある。また青空文庫には伊藤忠太の「妖怪研究」という文章が収められている。妖怪と言えば現代では水木しげるを思い浮かべるだろうが、かつては伊藤忠太や井上円了がその第一人者だったのである。
     「兼松って?」「兼松江商と関係あるんじゃないかしら」とサクラさんは言う。多分そうだろう。東大の安田講堂と同じように、財閥が寄付したのであろう。一橋大学の施設案内にはこう書いてある。

    株式会社兼松商店(現兼松株式会社)から創業者兼松房治郎翁の遺訓に基づき寄贈を受け、伊東忠太の設計により一九二七年(昭和二年)八月に創建されたロマネスク様式の建物です。平成十二年には国の登録有形文化財に選ばれました。二〇〇三年四月から二〇〇四年三月にかけて本学卒業生等の募金により大改修が行われ、耐震、空調などの諸機能を備え、かつお化粧直しの行き届いたシックな内装へと見事な変貌を遂げました。(施設案内「兼松講堂」http://www.hit-u.ac.jp/guide/other/facility.html

     兼松講堂の手前の芝生には銅像が立っているが、「誰も知らないよ」とスナフキンが言う通り、私には知識がない。学内には上田貞次郎(元学長)、矢野二郎(草創期の校長)、磯野長蔵(キリンビール設立発起人、社長)、堀光亀(海運学創始者)、福田徳三(社会政策学)、兼松房治郎、佐野善作(元学長)、村瀬春雄(海上保険副社長)の像があるらしい。

     薄日さす雑木林に雪残り  蜻蛉

     雪がまばらに残る雑木林にはアカマツが多いだろうか。その中に校舎が点在している。武蔵野の面影を残してあるのだと思う。「独歩の『武蔵野』でしょうか?」以前玉川上水に沿って歩いたとき桜橋の袂で独歩の碑を見た。独歩は、二葉亭四迷訳ツルゲーネフ『あひびき』によって、自然の美を発見したのである。この時、日本の自然主義は浪漫主義と呼ばれる感傷主義と同じ謂であった。

     今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。
     自分は友と顔見あわせて笑って、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑って、それもばかにしたような笑いかたで、「桜は春咲くこと知らねえだね」といった。そこで自分は夏の郊外の散歩のどんなにおもしろいかを婆さんの耳にも解るように話してみたがむだであった。(国木田独歩『武蔵野』)

     「或友」と書いているが、実際には独歩は佐々城信子と歩いた筈だ。信子は有島武郎『或る女』のヒロイン葉子のモデルである。三鷹駅前にも独歩の「山林に自由存す」碑があった。「この辺が、武蔵野か。」ヤマチャンが感心したような声を出す。しかし独歩の頃には渋谷の郊外だって武蔵野の面影を残していた。当時、独歩は渋谷郊外の丘の上に住んでおり、田山花袋が頻繁に訪れていた。

     夏の末から、翌年、日光に行くまで、国木田君は、その丘の上で暮らした。思うに、国木田君にとっても、この丘の上の家の半年の生活は、忘るることが出来ないほど印象の深いものであったろうと思う。紅葉、時雨、こがらし、落葉、朝霧、氷、そういうものが『武蔵野』の中に沢山書いてあるが、それは皆この丘の上の家での印象であった。(田山花袋『東京の三十年』)

     「『武蔵野夫人』もそうですか?」サクラさんは大岡昇平の方を思い出した。大岡は最初、独歩に挑戦して『武蔵野』としようかとも思ったが、最終的には『武蔵野夫人』に落ち着いた(「成城だより」に書いてある)。武蔵野のハケに住む一族の戦後の没落過程を背景に、貞淑な人妻道子と、従弟で復員者の勉との愛の形を描いたものである。
     敵役のフランス文学者・秋山忠雄(道子の夫)には大岡自身が戯画化されているが、復員者の勉にも大岡の経験が投影されているだろう。小説の最末尾、道子の自殺によって勉が「怪物」になることが予想されているのは、『カラマーゾフの兄弟』第二部(これは書かれなかったが)で、アリョーシャがテロリストになると言う推測と重なるだろうか。
     大岡は戦後、疎開先の明石から上京して小金井市の富永次郎宅に寄寓した。その時に書いた作品で、舞台は国分寺崖線だからここより少し東になる。次郎は太郎の弟で、大岡とは旧制成城高校の同級生として知り合うのだが、この時富永太郎は既に死んでいた。次郎の縁で、太郎の親友だった小林秀雄にフランス語を習う。京都で太郎と知り合った中原中也が上京してくると、小林と中原を二つの焦点とする文学圏に搦め取られてしまう。実際には長谷川康子を巡る小林と中原の三角関係に巻き込まれて高校生は翻弄されるのだが、文学修業の現場としてこれほど豪勢な場はない。大岡昇平十九歳だったと思えば、嫉妬さえ感じてしまう。
     大岡は『野火』以来一貫して地形や水の流れに強い関心を持ってきた。「『武蔵野夫人』の舞台を歩くっていう企画があったんですよ」と姫が言う。初回は座学、二回目は現場を歩くはずだったが天候が悪く延期されるうち、都合が付かなくなって歩く会は参加できなかったと嘆く。
     そういえば大岡は、独歩の「山林に自由存す」をからかっている。文学散歩の番組の下見をしているとき、富永次郎の家の付近でアナウンサーたちに語ったことである。

     ・・・・・「山林に自由存す」といったって、その山林のナラやクヌギは、農民が薪を取るために植えたもので、原生林じゃない、文士が勝手に迷いこんで、「自由あり」なんていうのは、馬鹿げていると気焔をあげる。(『成城だより』)

     武蔵野の雑木林については、民俗学の立場から長沢利明が整理しているのを引用しておこう。

     武蔵野の本来の植生はシイ・カシ類によって構成される常緑樹林(照葉樹林)であったが、人間の関与を通じて、しだいにクヌギ・コナラ・アカマツ林型の落葉樹林(クヌギ‐コナラ林)に変質していったとの指摘はまことに鋭いが、正確にいえばその間にススキの原野というもう一段階があったのである。つまり、古代以前の照葉樹林、中世のススキ草原、近世以降の雑木林という順番で、植生が変化していったと考えられる。里山林としての武蔵野の雑木林が完成したのは当然、江戸時代に入っていってからのことで、武蔵野の開発が進み、そこに人が多く住み着くようになっていったことと軌を一にしている。特に決定的であったのは新田開発で、それを通じて残存照葉樹林とススキ草原(秣場としての採草地を含む)が、耕地とクヌギ・コナラ林とに転換していった。(長沢利明「武蔵野の雑木林と里山環境」http://seikouminzoku.sakura.ne.jp/sub7-14.html)

     駐輪場には、使われていないと思われる自転車が大量に放置されている。マンホールの蓋に「一橋大学」の文字が刻印されているのでロダンが喜ぶ。「東大にもありましたよね。」大学名が刻印されているとプレミアがついて高く売れるのか、あるいは溶かして鉄として売るから関係ないか。

     キャンパスを出て通りの東側に渡る。こちらのキャンパスでは紅梅がきれいだが、中には入らない。自転車道がちゃんと設けられているのに、わざわざ歩道を走る自転車がいる。「文教地区でもマナーは余り良くありませんね。」こちらの通りには女子供が喜びそうな小物やアンティークの小さな店が並んでいる。こんなもので商売になるのだろうか。
     緑地帯の所々には、現代彫刻らしいオブジェが立っている。姫はこういうものが好きではない。黒御影石の板を並べて立てたものは「都市の森」。犬小屋と細長いピラミッド(高い滑り台のようでもある)を配置しているのは「記憶のひきだし」とある。私には現代彫刻家のセンスが分らない。
     都立国立高校は旧制府立第十九中学校だった。国立市東四丁目二十五番地一。「学校群で立川高校と同じ群になったんだ。」「私たちの時代よね。」学校群制度が始まったのは、ハイジや私が高校に入学した年である。秋田県では県北、中央、県南の三学区になった。ただ秋田の場合は通学に要する時間の問題があって、例えば大館から秋田市内に通うのはかなり無理があり、殆ど影響はなかったのではないか。ただ流行に乗っただけだと思われる。
     私に幸いしたのは、秋田県ではこの制度に伴って受験科目が英数国の三教科になったことだ。受験科目に理科や社会があっては、私はもっと必死に勉強しなければならなった。

     東京都では、学校群制度導入の必然(学校群内各校の学力が均等になるように合格者を割り振るため)として、東大合格者数一位を記録していた日比谷をはじめ西、戸山、新宿、小石川、両国、小山台、上野などの名門都立高校の東京大学を始めとする難関大学への進学実績が低下し、特に日比谷では急速かつ極端に落ち込んだ。一方で、名門都立高校と同じ学校群を構成した青山、富士、国立などの進学実績は急速に上昇した。この制度導入以降、都立高校全体の難関大学進学実績は長期低落に向かった。(ウィキペディア「学校群制度」)

     この制度は要するに日比谷高校を潰すことに成功し、立川高校(旧制府立二中)と同じ第七十二群になった国立高校を押し上げることになったのである。しかし私立に対して凋落し続ける都立を救済しなければならず、この制度も東京では平成十五年(二〇〇三)には撤廃された。秋田県では私立の影響は殆どないが、やはり十七年には撤廃した。文部官僚が進めた教育改革は、そのほとんどが失敗したと言って良いだろう。
     ここから左に入れば山口瞳の変奇館があるらしいのだが、スナフキンは下見で発見できなかったらしい。コンクリート打ちっ放しの珍しい建物のはずで、すぐに分りそうなものだ。「そうなんだけど、分らなかった。」ということで、そこには行かない。
     若い頃の私は山口にかなりの影響を受けた。しかし山口ついては好悪半ばするのではないか。欠点を言えば、博奕打ちの癖に小心者である、被害者意識が強すぎる、気障である、酒乱である。しかし私は好きだった。酒の上での約束と博奕の金は純粋であるとは山口の逆説であるが、ある時期の私はこの言葉にシビレタ。『江分利満氏の優雅な生活』『江分利満氏の華麗な生活』は愛読書である。
     また山口の頑固は厳格主義と言い換えれば良い。オーソドクシーを知って、そのルールを厳格に守り通すというのはダンディズムであり、山口が伊丹十三を愛したのはそれである。伊丹の『ヨーロッパ退屈日記』(発表当時は伊丹一三の名義)を世に出したのは山口で、その解説の中で(今手元に見当たらないので正確ではないが)、伊丹の生活は厳格主義の悲壮な実験であると評した。それと関係があるかどうか、後に伊丹十三は自殺する。
     ただ伊丹に関して言えば、『あげまん』なんて言う映画のタイトルは、耳、音感が悪いでのはないかと思ってしまう。完全主義者伊丹にしては雑駁で、色町の隠語をそのまま使ったのは余り上品ではなかった。また関係ないことを言っている。

     富士見台団地は昭和四十年に第一次入居が始まったから、もう五十年経った団地だ。第一団地が千二百十戸、第二団地が三百五十戸、第三団地が五百八十戸、合計で二千百四十戸の大団地である。五階建てで、一番広い部屋が4DKの六十五平米だから、築三十年のわが団地に比べるとかなり狭い。URの賃貸では、その4DKの家賃が十一万四千円、共益費が二千百円である。高いと思うか安いと思うか。私は払えない。しかし、中央線国立駅と南武線谷保駅と両方使えるのは地の利が良い。そして文教地区としての環境を考えれば人気の物件だろうか。
     「エレベーターがないと老後はきついわよね。」「我が家も五階建ての三階。「うちも三階だから、エレベーターはあっても使わないわ。」だからハイジは健脚なのだ。
     正面に谷保駅が見えて来た辺りで左に逸れると谷保駅北口商店会に入る。これまでの風景と一変して、昔ながらの商店街の匂いだ。LEDの街燈の柱の下の部分には「コパン通り」と記され、漫才をやっているかのような銀色の人物像を立てている。コパン通りとは何であろう。

    「お客様にアートを感じられるまち歩きを体験してほしい」と商店会長の内藤哲文さんが言う新街路灯。四メートルほどの高さがあり、下段にアート作品を飾るスペース、中段には花が飾られています。(「国立歩記」http://kunitachiaruki.jp/?p=714)

     この人物像は「アート」なのである。コパン通りの意味は依然不明だが、どうやら一橋大学と協同した商店街作りに関係しているようだ。その他にもこの商店会では各路地に「フラネ通り」「ここたの通り」などの名称を付けている。「ここた」というのは一橋の学生が運営する店らしい。スーパーの真ん前では「五百円、五百円」と声を張り上げている八百屋がある。なんでも五百円というのは高いのか安いのか分らない。
     スナフキンは庄屋のランチを当てにしていたのだが、土曜日にランチはないことが分かった。平日には六百円で定食が食えるらしいのだが、仕方がない。これだから、下見のうち一回は土曜日にやっておかなければいけないのだ。里山の会では弁当持参が原則だが、今日は市街地で弁当を食う場所がないので、どこかの店に入ろうというのがリーダーの計画である。
     「それじゃジョナサンへ行きましょう。」少し戻って、大学通りの富士見台団地の向かいにあるジョナサンに入る。十二時を少し過ぎているが座席は空いていた。ここでオクチャンが隊長の電話を借りる。戻ってきて「合格しました」と笑顔で言う。お孫さんの合格発表の日だったらしい。「それはおめでとうございます。」
     「ランチはないのかな?」「ありません。」私と姫は若鶏の霙煮にした。小鉢はヒジキで漬物と味噌汁がついている。隊長は和風ハンバーグ、スナフキンはオムライス(!)である。オカチャンもオムライスのようだ。ツカサンはピザ、ロダンはグラタンかな。洒落たもの(私が絶対に注文しないもの)を食べている。ゆっくり一時間過ごした。

     「さらって」の短歌が好きと佳人たち京都ロマンの花咲く昼餉   閑舟

     これはどういう状況だったのだろう。残念ながらその会話が分らない。サクラさんが短歌を作るとは聞いた。それに関係する話題があったのだろうか。分らないから調べてみた。これだろうか。

     たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらって行ってはくれぬか  河野裕子

     河野裕子を私は知らなかったが、平成二十二年に六十四歳で死んでいる。中条ふみ子と同じ乳癌である。この歌は第一歌集『森のやうに獣のやうに』(一九七二年)に収録されたものだから、私の学生時代に当る。これに釣られて、私は小野茂樹を想い出した。関川夏央『現代短歌のこころみ』で知ったのだが、直接の関係は勿論ない。

     あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ  小野茂樹

     『羊雲離散』に収録。小野茂樹は昭和四十五年(一九七〇)交通事故で死んだ。三十三歳だったから夭折と言ってよいが、こういう歌を見ると短歌は「青春」のものだとつくづく思う。恋は精神の病であるが、否応なく罹患してしまう時というものはある。
     辻調理専門学校には「ガレット・デ・ロワ・コンテスト・エスポワール部門で学生が独占入賞!」と大きく宣伝しているが、私には謎の言葉である。ロワroiは英語のRoyalに関係するだろうから、王だろうか。ガレットは全く分らない。「エスポワールって何?」「フランス語だと言うことだけ分る。」私のフランス語は『枯葉』だけで終わっているが、辞書を引けばespoirは希望であった。

     大学通りの正面には谷保天満宮の鳥居が見え、その前を甲州街道が東西に走っている。「天満宮の前にちょっと寄るところがあります。狭いので一列になってください。」甲州街道の歩道を東に二三分歩くと、立っていたのは常夜灯だ。括弧書きで秋葉灯と記してある。火袋部分はコンクリートで復元したものだが、そのほかの笠から基台までは文久三年に建てたものという。
     「秋葉って何ですか?」「秋葉は火除けの神様。火の用心ってことでしょうね。」江戸で広大な火除け地を作って秋葉の神を祀ったことから、秋葉の原、秋葉ガ原と呼ばれた地が、秋葉原(アキハバラ)と読まれるようになったのは鉄道官僚の無学によるとは、もう何度か書いている。「当時の甲州街道は暗かったんだよ。」
     塀を隔てた背後の家に白壁の土蔵があり、壁面には鍵型の鋲がいくつか取り付けられている。「これは何かしら。」「修繕をするときなんかに、梯子を立て掛けるためのものです。」姫はよく知っている。
     もう一度街道を戻って谷保天満宮に入る。国立市谷保五二〇九番地。地名はヤホと読むが、天満宮はヤボである。つまりヤボテンである。「ここは鶏を放し飼いにしてるんだ。」「ほら、そこに。」全身茶色で尾だけが黒くて長い。「チャボだね」という声もある。私には判断できないが、チャボはもっと小さいのではあるまいか。シャモでもなさそうだし、名古屋コーチンに似ているか。
     神社の縁起によれば、延喜三年(九〇三)、菅原道真の三男・道武が父を祀ったのに始まるという。道真が大宰府に流されたとき、三男の道武は武蔵国(現在の谷保)に流された。父が死んだと伝えられて悲しみの余りここに祀ったというのだが、道武という人物がいたのかどうか。天満宮は、御霊信仰によって祟りを恐れた連中が道真を祀り上げたのだと言う一般的な理解と、どう関係してくるだろう。
     年代がはっきりしているのは、建治三年(一二七七)藤原経朝書「天満宮」の扁額だから、それ以前にあったことは間違いない。東日本最古の天満宮として、亀戸天神社・湯島天満宮と合わせて江戸三大天神と呼ばれるそうだ。こんなこともスナフキンの資料によって教えられる。

     神ならば出雲の国に行くべきに目白で開帳ヤボの天神  太田南畝

     この狂歌もスナフキンが紹介してくれた。資金難に苦しみ目白で開帳して金を集めようとしたのが、十月の神無月だったというのである。
     石造の明神鳥居を潜ると手水舎があり、そこから階段が下に続いている。本殿が谷底にあるのは珍しいが、ここは多摩川の浸食で形成された河岸段丘の立川崖線に当たる。甲州道中が整備される以前、古い街道はこの崖線の下を通っていたので、その当時は街道から少し上がって本殿があったことになる。奉納されている菰樽は澤乃井だった。
     「これおかしいな。」スナフキンが笑うのは交通安全祈願発祥の地の立札だ。「モータリゼーション以後のことだろう?」しかしこの神社の主張はもっと古い。

     谷保天満宮梅林の「有栖川宮威仁親王殿下台臨記念」の石碑は、明治四十一年八月一日に、宮様ご先導による「遠乗会」と称されたわが国初のドライブツアーが谷保天満宮を目的地として開催された証です。
     宮様御一行は拝殿に昇殿参拝の後、帰途に就かれ、故障や事故もなく無事に東京に戻られました。
     谷保天満宮が交通安全発祥の地たる所以です。

     有栖川宮威仁親王が自ら「ダラック号」を運転して先頭に立ち、国産ガソリン自動車「タクリー号」など十一台が隊列を組んで走ったという。それがドライブツアーの意味である。ダラック号とは有栖川が洋行した際に持ち帰った車だ。これをモデルにして作り上げられたのがタクリー号で、国産ガソリン自動車初の長距離ドライブ実験だったのだ。

     双輪商会の社長吉田信太郎が、自転車の仕入れに一九〇二年に渡米した際に、第三回のニューヨークのモーターショウを見学し、いずれは日本にも自動車時代が来るとして、ガソリン・エンジンやトランスミッションおよび前後車軸などの部品を購入して帰国する。 そして先ず手始めに オートバイと三輪乗用車の輸入販売のためにオートモビル商会を設立し、自動車の修理も始める。 一方、内山駒之助はウラジオストックで機械技術を学び、自動車の運転や修理の技を磨き、吉田信太郎の自動車修理の現場を見て協力することになる。 製作第一号車は上記部品を使い、一九〇二年に完成、第二号車は車体をバス用に設計し、広島で使われている。 有栖川宮家のダラックを手本に製作した乗用車は人気をあびて、都合十台が作られ、ガタクリ走る所からタクリー号の愛称で呼ばれた。(自動車技術会「日本の自動車技術240選」https://www.jsae.or.jp/autotech/data/1-1.html)

     新旧の撫で牛が二頭いる。「日本一かわいい御朱印帳」なんてものも売っている。神社も女子供を相手にしないと商売は成り立たない。妻も御朱印帳は数冊持っていて、旅行に行く時は必ず携帯している。
     境内の端にはロウバイが咲いている。隊長が枝をつまんでソシンロウバイだと鑑定すれば、オクチャンはマンゲツロウバイではないかと疑問を呈する。宗匠は満月ではないと思うと言うし、私もそう思う。芯まで色がほとんど同じだ。白梅も咲き始めたところだろうか。
     裏手から右に回れば厳島神社を祀る小さな社がある。「弁天様ですね。」池には赤や黒の鯉が泳いでいて、亀が一匹じっと動かない。外にさらした甲羅が乾いているので、長い間その姿勢でいるのだろうか。

     蠟梅やカメラ監視の池の鯉  閑舟

     その先には常盤の清水と名付けられた小さな池がある。「湧いてないじゃないか。」確かに湧水のようには見えない。神社の脇の溝を流れる水は透き通っている。水の中に浮かぶ、小さな球をいくつも付けたようなものは何だろう。「フキノトウだね」と隊長が言ったが、どうやらこれはヤツデの花が水に落ちたものだった。

    清水立場 甲州街道の立場にして、この辺ここかしこに清泉湧出するゆゑに、清水村の称ありといふ。この地に酒舗ありて、店前清泉湧出す。夏日には索麺をひたして行人を饗応せり。ゆゑにこの地往来の人、ここに憩ひて炎暑を避けざるはなし。(『江戸名所図会』)

     農村風景になってきた。「なんだか懐かしい光景ですよね。」国立とはえらい違いであるが、これが本来の谷保村の姿だったろう。市民菜園の脇の細い道は、かなり下を流れる用水との間に何の仕切りもない。「酔っぱらって落ちないでね。」ハイジが言う通り、これは危険な道である。
     辛夷の蕾が膨らみ、開いたもの一つ、もうじき開きそうなのを一つ見つけた。オクチャンと隊長はハクモクレンとの違いを厳密に確認しようとするが、私たち素人は、コブシで間違いないと決めてしまう。畑には一面白い雪が残っている。

     寒梅や湧き水流る里の道  蜻蛉

     雑木林の手前に「城山(じょうやま)入口」の案内があり、スナフキンはそこに入っていく。中世の城館があったと推測されているが、民有地なので発掘調査ができないとは、後で郷土文化館の若い学芸員が教えてくれたことだ。所有者は三田氏、中世には三田県主貞盛の館だったとする説(『谷保郷土史』)があり、その後裔を称しているのだろうか。しかし『江戸名所図会』では、谷保天満宮の所で登場した菅原三郎道武の城館で三郎屋敷と呼ばれたと言う説を紹介している。

     同所(谷保天満宮)二丁ばかり.南にあり。空堀、城門の跡と覚しきところも見えて、四方二町あまりの封境なり、土人、三郎殿屋敷跡と称す。相伝ふ、三郎道武この地に住し、当地の県主上平太貞盛の娘を娶り一子を得たり。その子を菅原道英と号す。それより六世の孫を津戸三郎為守と号くると(津戸為守のことは、安楽寺の条下に詳らかなり)。あるいはいふ、この地は貞盛旧館の地なりとも(道武主、貞盛の女を娶りたる等のことは、いまだ考へず)。(『江戸名所図会』)

     案内板によれば、青柳段丘の崖線で、比高八メートル。複郭式城館の特徴があるという。『新編武蔵風土記稿』では源頼朝に仕えた津戸三郎為守の居館としているらしい。いずれにしても中心部が私有地で立ち入りできないのであれば仕方がない。
     雑木林の中を行けば、畑の中に新しい木造二階家が建っている。「さとのいえ」と名付けられる。国立市泉五丁目二十一番二十号。農業体験及び農業の情報発信の拠点である。
     しかし目的はその隣にある古民家だ。スナフキンはガイドを頼んでいた。佐山氏である。この民家は青柳村にあって、江戸時代末期から昭和にかけて間取り変更を繰り返した柳澤家を移築し、江戸時代の状態に復元したものである。茅葺屋根は埼玉の職人に頼んだ。壁に使った荒木田土も埼玉産だと言う。「私たちが作ったんですね」と姫が笑う。
     本来は甲州街道に面して間口が狭く、家の後ろに畑を持つ短冊形の敷地である。移築した際、目の前の道を甲州街道に見立てたため、東西が九十度回ってしまった。防風林として植えられた木は、「関東では北西に植える」というオクチャンやロダンの言う通り、本来であれば私たちのいる場所から家を見て、その奥にあるべきものだ。「そうですね、移築したときに間違えたんでしょうか」と佐山氏も少し慌てる。短冊形の土地はこんな風になっていただろう。場所はちょっと違う。

     新田集落特有の短冊型の土地区画内には一定の土地利用パターンが見られたが、享保年間(一七一六~一七三六年)に開発された東京都小平市の小川新田を例に取ると、一軒あたりの土地区画は間口約二十メートル・奥行約五百メートルほどで、区画内の土地利用形態は道路側から宅地・用水路・屋敷林・畑・雑木林となっていた。薪炭林・肥料林としての雑木林は一番奥まった位置にあり、各戸の所有林が互いにつながって森林帯が形成され、それがまた隣の新田集落の森林帯ともつながっていた。農地と森林帯とが幾重にも複雑に入り組んでは連続して展開するという、武蔵野独特のモザイク景観はかくして生まれ、その風景美を高く評価する考え方が、近代期になると出てくる。(長沢澤利明「武蔵野の雑木林と里山環境」http://seikouminzoku.sakura.ne.jp/sub7-14.html)

     しかし佐山氏の解説はなかなか明瞭である。家の屋号は沢庵屋。江戸時代には中流の農家で、明治に入り養蚕や沢庵作りをした家である。「この畑だけで売り物にするだけの沢庵がつくれたのかな?」「他でも作っていたようです。」「豪農だから小作地も持ってたんだろう。」「農家としては中流でした。」
     座敷の縁側から続いて土間に入る入口の脇に、目隠しの壁を立て簀子を敷いた一角がある。「何だかわかりますか?」「トイレ。」真っ先に回答したのはヤマチャンだが、便所は建物の外に作るのが普通だろう。入口すぐの場所に作るはずはない。さっぱり見当がつかないでいると、「ここで水浴びをしたんですよ」と笑いながら答えてくれる。下を見れば、地面には桶が埋められている。行水の場所だったのだ。こんなものは初めて見る。「そうですね、私も他では見たことがありません。」
     「ここに積んである薪は、やっぱり雑木林で切ってくるんですか?」「今は買っています。」毎日午前中は火を炊くそうだ。茅葺屋根は燻すことで虫を殺し、また耐用性を増すと、姫も解説してくれる。なるほど。
     「それじゃ行きましょうか。」事前のスナフキンの依頼に、ここまで出張してくれたのである。ご苦労なことだ。「国立市の職員ですか?」スナフキンの質問に「いえ、指定管理をしている会社の所属になります」と応えている。ここにも指定管理か。ここからはハケの道を通る。
     「ヤクルトだ。」こんなところにヤクルトの中央研究所があるのが不思議だ。国立市泉五丁目十一番地。「国立府中のインターが近いから、便利なんだよ。」「ヤクルトの試飲をさせてくれないかな。他に何をやってるのかな?」「化粧品やってますよ。」これは女性でないと分らない。ヤクルトの建物に沿って道は登っていく。
     薄曇りの空から太陽は見えるが気温は上がらない。それでも雪の心配はなさそうだ。ハケの道もなかなか良い。「ハケって崖線の上ですか、下ですか?」サクラサンが小さな声で訊いてくる。峡とも書く筈なので、私は当然下の部分を言うのだと思っていた。

     土地の人はなぜそこが『はけ』と呼ばれるかを知らない。「はけ」の荻野長作といえば、この辺の農家に多い荻野姓の中でも、一段と古い家とされているが、人々は単にその長作の家のある高みが「はけ」なのだと思っている。
     中央線国分寺駅と小金井駅の中間、線路から平坦な畠中の道を二丁南へ行くと、道は突然下りとなる。「野川」と呼ばれる一つの小川の流域がそこに開けているが、流れの細い割に斜面の高いのは、これがかつて古い地質時代に関東山地から流出して、北は入間川、荒川、東は東京湾、南は現在の多摩川で限られた広い武蔵野台地を沈澱させた古代多摩川が、次第に西南に移って行った跡で、斜面はその途中作った最も古い段丘の一つだからである。(略)
     ・・・・茶木垣に沿い、栗林を抜けて、彼がようやくその畠中の道に倦きたころ、「はけ」の斜面を蔽う喬木の群が目に入るところまで来た。(大岡昇平『武蔵野夫人』)

     つまり「ハケ」とは崖自体のことを呼ぶと考えて良いだろう。やがてくにたち郷土文化館にやってきた。国立市谷保六二三一番地。「ちょっと建物の向こうを見てください。」建物に入る前に佐山氏が注意を促す。背後には雑木林が広がっていて、その展望を妨げない工夫をしたと言う。普通は展示室を地下にすることはまずないのだが、全面ガラス張りで湿気がこもるのを防いで地下に設置し、それに隣接する屋外は掘り下げて円形劇場のような擂鉢型にしてある。暖かい日なら、この円形劇場の芝生で弁当を広げるのも悪くない。
     水仙の花が咲いている。玄関ホールを入って地下に下りる。全面ガラス張りだから夏は四十度以上になるという。また鳥が衝突してくることもある。その中から剥製にするものもあるという。学習室では句会をやっているようだ。佐山氏が案内しようと待っているのに、皆は片隅に置かれた古いミシンに夢中になって、なかなか集まってこない。
     縄文土器が多いのは、崖線に沿って遺跡が発掘されるのである。「どういうわけか、縄文遺跡、古墳時代遺跡はあるんですが、弥生遺跡がないのです。なかったのか、未発掘なのかはまだわかりません。」武蔵国の国衙も近いし、崖線に沿って湧水も豊富だから人が集まったのは必然だ。弥生遺跡がないのが不思議だが、考古学では発掘されないからなかったとは断言できない。まだ発掘されず手つかずで残っている可能性があるからだ。
     縄文遺跡から出土した顔面把手付土器は珍しい。「上は現物から復元しましたが、下半分は想像です。」それにしてもこういうものは初めて見た。広口の土器の縁の一部を変形させて、顔面の模様をつけてあるのだ。縄文中期中葉の関東から中部にかけてみられるものらしい。
     長さ七八十センチ、太さ十センチほどの石棒が一つ展示されている。これが六本並べて出土したと言う。これも私は初めて見る。「これはシャグジに関連しますか?」石神井で発見された石剣(石棒)とはこういうものだったのではないか。「石神井の地名もそうですか?」サクラさんが訊いてくる。その通りだ。井戸を掘って石棒がでてきたので、これを石神と祀って村の名にしたのである。
     「後の時代に石神信仰に結び付いたかも知れませんが、考古学では民俗学的な風習をそのまま古代からあったと断言するには慎重です。」正しい態度である。「ただ祭祀に使われたのは間違いないと思います。」
     直ちにシャグジに結び付くものではないかも知れないが、石が古代人の信仰の重要な要素になっていたのは間違いない。考古学者は慎重でも、素人の私は古代信仰がそのまま民間信仰の中に生き延びたと考えてみたい。

     石棒はもと木製の男根形の棒(コケシの原形)を立てて先祖をまつったのが石製化されたらしいが、大型の武具としての石棒もあったことは勿論である。石棒は明治維新の「淫祠邪教の禁」で、お堅い役人が撤去しなければ、今でもたくさん見られたにちがいない。しかし、これは中世から石地蔵に置き換えられて、村境や広場に塞の神の代わりに立っている。(五来重『石の宗教』)

     しかしこんな無粋なことを考えている私と違って、宗匠はこんな句を作る。そう言えば、鋳物師(いもじ)の話も聞いていた。谷保には関・矢澤・森窪の三家の鋳物師がいた。「矢澤氏は川越の鋳物師矢澤氏と関係があるようです。」

     石棒も鋳物師も知るや水仙花  閑舟

     多摩川の河岸段丘の模型を見る。平面の縮尺に対して、段丘面を強調するため高さは二十倍にしてあるというが、お蔭で分りやすい。大きく三段に分かれているようだ。北部は国分寺崖線によって武蔵野面と立川面に分けられ、南部は立川崖線によって立川面と多摩川の沖積低地に分けられる。国分寺崖線は武蔵村山市に始まり、国分寺市・小金井市と国立市・府中市の市境に沿って東に進み、更に野川の北に沿って調布市に入って深大寺付近を通り、世田谷区の等々力渓谷玉、田園調布を経て多摩川河畔に至る。立川崖線は、青梅多摩川に沿って立川市内まで続き、立川市役所の南を通って南武線と甲州街道の間を更に東に向かう。谷保の西で甲州街道の南に入り、甲州街道のおよそ五百メートル南を東に進んで狛江市元和泉付近まで伸びる。谷保付近では青柳崖線と呼ばれる崖線もある。
     阿弥陀一尊種子板碑は下半分が欠損している。江戸時代の甲州街道の模型を見れば、街道の両側に短冊形の農家が並んでいるだけで、周りは畑と雑木林ばかりだ。谷保天満宮の祭礼の獅子頭もある。ただしこれは練習用なので、祭りの前には貸し出すらしい。三つのうち、両側の角の生えたのがオス、真ん中の角なしがメスである。
     佐山氏にお礼を言い、一階に上がって玄関脇の休憩室で休憩をとる。しかしその前にタバコを吸わなければならない。外に灰皿が設置してあるのは確認済である。トイレも済ませ戻ってくると、中では係員が一人パソコンに向かっている。ミュージアムグッズを販売するためだろう。ポストカードや手拭、ポチ袋などが置いてある。
     建物の右から回り込むと南養寺の墓地だ。スナフキンはここから入っていくが、所用のあるオクチャンはここで別れる。墓地の中はところどころ雪が残っているから気を付けて歩かなければならない。「裏口から入ったんだけどね。」「今日は文句を言う人がいないから大丈夫。」
     谷保山南養寺、臨済宗建長寺派。国立市谷保六二一八番地。梅の古木はまだ小さな蕾のままだ。正平二年(一三四七)、立川入道宗成が大檀那となって、建長寺の物外可什和尚を招いて開山したと伝えられる。立川氏は武蔵七党西氏に属し、本来は立河とも書きタテカワと読んだらしい。城館は立川市の普済寺の辺りで、鎌倉時代は御家人、後に山内上杉に従い、戦国時代には北条氏輝に従った。後北条滅亡とともに滅びたらしい。
     本堂は小田原合戦で焼失したが、文化元年(一八〇四)に再建され、その建物が今に残っている。ただし屋根は昭和五十六年の修理時に茅葺から銅葺に変えられた。庭園も広い。
     境内には笠付角柱の庚申塔が二基、笠のテッペンに赤い帽子をかぶせてある。左のものは判読が難しいが貞享三年(一六八六)か、右は享保五年(一七二〇)の文字が見える。どちらも下に三猿、上に一面六臂の青面金剛を配置し、邪鬼はいないようだ。
     梵鐘は安永六年(一七七七)下谷保村の鋳物師・関氏が鋳造したもので、戦時中の供出を免れた。大悲殿は享保三年(一七一八)、総門は安永九年(一七八〇)の建造と言われる。
     寺を出ると、ここにも常夜灯が建っていた。甲州街道を渡り少し行けば矢川駅だ。サクラさんはここで別れていった。私たちは今朝の道とは別のコースをたどって国立駅まで戻ることになる。

     住宅地に入ってきた。かなりの高級住宅地ではなかろうか。「ここが国民的有名歌手の家。」一階の前面がガレージのシャッターで閉じられ、外からは内部が覗えないようになっている。「最初、表札の苗字が違うと思ったんだけど、通り過ぎようとして気が付いた。」表札は三浦である。
     「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ」(千家和也『ひと夏の経験』)と歌われて、私たちはドキッとした。それが「小さな胸の奥にしまった大切なもの」と続けられて再び驚く。そうか、それは胸にしまってあるのだ、というのは言い古された冗談だ。
     「全く出て来ないね。」結婚と同時に全く表面に出て来なくなったのは西田佐知子もそうだ。夫に死別して以来、姿を隠したのはちあきなおみである。
     都立第五商業高校の校舎は立派だ。国立市中三丁目四番一。壁面には全国大会の成績を報じる垂れ幕がいくつも下がっている。しかし普通に見るような体育会系のものではなく、ITパスポート、珠算、簿記など資格にかかわるものが多い。
     桐朋高校の脇を通って大学通りに戻る。ここは桐朋学園の男子部門で、中高一貫に加えて小学校も設置されている。桐朋と言えば音楽と思っていた私は無学である。昭和十七年(一九四二)軍人子弟の教育のために設置され、三水中学校として発足したのが始まりである。山は陸軍、水は海軍を表すという。しかし三水会を創設したのが山下汽船の創業者である山下亀三郎だから、苗字の山と汽船から水を採用したということはないだろうか。
     戦後、GHQによって廃校の危機に陥ったとき、東京文理科大学(東京教育大、後筑波大学)の救援で新しく学校法人桐朋学園が発足し、当時の文理科大学長の務台理作が理事長を兼任した。文理科大学の校章が五三の桐で、その協力関係を意味するのである。

     「まだ飲み屋は開いてないと思うんだ。」四時半だ。時間つなぎにドトールで休憩をとることにしたが、ハイジ、ツカサン、姫は所用があるのでここで別れる。ロダンとスナフキンの万歩計で二万歩。十二キロ。
     駅前の「海鮮呑屋日本橋」に入ったのは、隊長、オカチャン、スナフキン、宗匠、ヤマチャン、ロダン、蜻蛉の七人だ。オカチャンは、久し振りに奥方の許可を貰って来たと笑っている。今日の注文担当はロダンである。冷奴を七つ注文したが、すぐに店員が戻ってきた。「五つしかありません。五つを七つに切り分けてきましょうか?」「良心的だね。五つ分の値段だろう。」「言わないで七つにしても分らないよ。」
     「久しぶりだよ」と隊長が口を開く。ひとしきり病気の話題で盛り上がるが、「もう話題を変えようぜ」とスナフキンの提案が出て、私は中学同窓会の話をしてみる。「何度目の初恋ですか?」恋は常に初めての経験である。大学の同級生と恋に陥ってそのまま結婚したロダンのようには、幸運な恋はしてこなかった。
     焼酎は黒壱(萬世酒造)のボトルが千五百円である。初めて飲む酒で、後で調べてみると売値は千百八十八円だから良心的な店だ。「焼き鳥はだめだよね。」「私はダメって言ってるだけ。皆が注文するのは構わない。」宗匠の了解が出たのでロダンは焼き鳥を注文する。焼酎が空いたところでお開き。一人千五百円は安い。
     「ちょっと物足りない。」焼酎ボトル一本を七人で分けたのだから足りないのは当たり前で、時間もまだ早い。真面目な五人はそのまま改札口に向かい、蜻蛉とスナフキンは、その向かいにある「さかなや道場」に入ってヌル燗を飲む。今日も飲み過ぎた。

    蜻蛉