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    平成二十八年二月二十七日(土)
     比企郡吉見町

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2016.03.08

     二月二十六日(金)、書店の芳林堂が自己破産を申告し破産手続きを開始した(というのを二十八日に知った)。都内では有力な書店の一つであった。旗艦店だった池袋本店は既に平成十五年(二〇〇三)に閉店していたが、学生時代の思い出もあって、聊か感傷的になってくる。『ドストエフスキー全集』(河出書房新社)、埴谷雄高『死霊』を含む作品集(河出書房新社)、埴谷『不合理ゆえに吾信ず』(現代思想社)、『講座日本歴史』(東大出版会)、高橋和巳の作品の大半は池袋の芳林堂で買ったのだ。
     太洋社(取次第五位)が先月自主廃業を発表した煽りで、この日までに十社程の書店が倒産や廃業に追い込まれた。昨年の栗田書店(取次第四位)倒産の際には、大阪屋(取次第三位で前年には自身が危機に陥っていた)が救済のために吸収したこともあって書店への連鎖はほとんどなかった。今回はこれまでにないケースである。尤も芳林堂は平成元年の売上七十億円をピークに、昨年は三十五憶円と半減し、負債は二十億円と報道されているから、既に商売としては成り立っていなかった。
     発表によれば、そもそも太洋社の経営悪化は、取引先である有力書店の支払い遅延による資金繰りの悪化が大きな原因である。そしてその「有力書店」の代表が芳林堂だったのは間違いない。芳林堂の負債総額は二十億円とされ、そのうちどれ程が太洋社に対するものなのか分らないが、いずれにしろ帳合(取次口座)変更するためには保証金を入れなければならず、それができる体力は残されていなかった。池袋駅前、高田馬場駅前と立地的には申し分はなかったが、学生が本を買わなくなればその立地も全く関係なくなってしまう。
     アベノミクスは、マイナス金利などという奇手を捻り出した。予想通り破綻に向かっていると見做して良いだろう。「不倫」で衆議院議員を辞職するアホな男が出現したが、そもそもこんな男の立候補を認めた政党が愚劣なのである。その前には同じく不倫で活動を停止したタレントもいるが、政治家のスキャンダルとは違う全くの私的行為であり、世間が騒ぎすぎた。アメリカ大統領選ではトランプと言うならず者が共和党員の圧倒的な支持を集めている。アメリカに蔓延する反知性主義が齎したもので、想像するだけだが一九五〇年代のマッカーシー旋風の時にも似ているのではないだろうか。世界全体が閉塞状況に陥っていて、資本主義に未来がないのは明らかになった。
     世界は暗く、愚かしいことばかり満ちている。こういう時は明るい話題に転換したいが、私にとって明るい話題と言えば、孫が漸く泣かなくなったことである。先週の金曜日は暖かかったので近所の公園で午前中に一時間ほど遊んだ。昼飯の後家まで送りがてらスーパーに寄ると、ニンジンを指さし「ニンジンサン」と叫ぶ。ニンジンが好きなのである。ピーマンは「マン」、ネギは「ンギ」と言う。少しづつ知恵がついている。私はジイジと呼ばれ、妻は「ケイコ」と呼ばれた。

     朝晩は寒いが、昼間は風がなければ暖かくて過ごしやすい気候になってきた。キャンパスにはミモザアカシアの黄色い花が大きな房を作って来た。赤い椿も咲き始めている。こういう季節は着るものの選択(選択できる程ないのだけれど)が難しい。
     妻に弁当を作って貰うのは久し振りだが、今日は東松山駅集合だから少しゆっくりできる。九時三十五分に鶴ヶ島を出て五十分に東松山に着くと、会費を集めているのはマリーだった。「ロダンは?」「資料をコピーに行ってるの。」ロダンはすっかりコピー担当になってしまったが、それはご苦労なことである。
     東松山駅は大正十二年(一九二三)に武蔵松山駅として開業した。先行して伊予鉄道に松山駅があったためで、昭和二十九年(一九五四)に東松山市が発足して現在の名称に変った。一日の乗降客は平成六年(一九九四)の四万人をピークに、現在では三万人を割っている。
     やがて続々と人が集まり、隊長、あんみつ姫、伯爵夫人、イッチャン、カズチャン、マリー、お園さん、若旦那、ハコサン、ドラエモン、スナフキン、ロダン、蜻蛉の十三人になった。伯爵夫人は随分久し振りだ。コーラスが忙しかったんではなかったろうか。
     「次の電車まで待ってるから、先に停留所まで行っててよ。」隊長の言葉で東口に降りると、駅前は昔の印象とは随分違っている。平成二十年(二〇〇八)に完成した駅舎は深谷駅に似た感じの、赤レンガを使った建物だ。「大きな鳥居がありましたよね。」若旦那の言葉に、「あれは西口じゃないですか」と言ったのは私の全くの勘違いだった。昭和三十四年(一九五九)に建てられた箭弓稲荷の大鳥居は、駅舎完成と東口広場の整備に伴って撤去されていたのである。ということは、私は十年以上こちら側に降りたことがなかったことになる。
     ただ、撤去された大鳥居は箭弓稲荷とは直接の関係がなかったとは知らなかった。市の観光協会が建てたものだったらしい。箭弓稲荷は、その読みが野球に通じるので野球関係者(特に西武球団)がよく参詣すると言う。
     今日は吉見町を巡るコースだ。現在は比企郡に属しているが、かつては武蔵国横見郡であった。明治二十九年(一八九六)に横見郡が廃止となって比企郡に統合された。町の西部には比企丘陵に連なる吉見丘陵が広がり、ほぼ全体は荒川低地の田園地帯である。西は東松山市と市野川で区切られ、北は熊谷市、東は荒川を挟んで鴻巣市、南は川島町と接している。今日のコースはその吉見丘陵を歩くのである。
     町内人口約二万人。県内有数のイチゴ産地である(と初めて知った)。過去、東松山市と比企郡諸町を含めた合併、東松山市との単独合併などの動きがあったが、いずれも上手くいかなかった。町内に鉄道は走っていないから、鉄道を利用したければバスで東武東上線東松山駅か高崎線鴻巣駅に行くしかない。

     歩いても二十分程の距離だが、十時十三分発の鴻巣免許センター行(川越観光自動車)に乗って武蔵丘短大前まで行くことになっている。隊長は今朝、足に痺れの症状が出たそうで大事を取っているのだ。「それに、そこまで何もないからね。」
     「免許の更新は必ず鴻巣に行くのか?大宮とか川越にはないのか。」埼玉県に免許センターは一ヶ所しかない筈だが、私はゴールド免許だから一番近い川越西警察署に行く。スナフキンは、教習所に行かずに免許センターで一発合格したのが自慢である。
     「免許証を無くしたことがあって、再発行すると番号の末尾が2になるんですよ。」無くすとはどういうことか。「単に酔っぱらってただけですけどね。」私は更新時期をうっかりしていて、一か月遅れて再発行して貰ったことがあるが、確認してみると末尾はゼロだった。紛失と更新遅れとは違うらしい。「更新が遅れると、取得年月日がその日に変っちゃうんだよ。」スナフキンも私と同じとをやっていたらしい。
     ところで、改めて免許証を確認してみると、私たちは中型免許で八トン車を運転できるのである。「ウソだろう。」ウソではなく、ちゃんと記してある。勿論私は三トン車しか経験がなくて、八トン車なんか運転できるとは思えない。これはおかしいのではあるまいか。
     実はこれは非常に分かり難い規定で、車両重量ではなく荷物を積んだ総重量が八トンという規定なのである。具体的には4トントラック及びマイクロバスを言う。調子に乗って八トントラックを運転すると、すぐに捕まってしまう。
     「ドラエモンはこのバスに乗ってきたんじゃないの?」「そうですよ。」鴻巣の人はこのバスで東松山まで来たのだったが、もう一度バスで戻るのはおかしな気分だろう。国道407号を超えると、市野川沿いに岩室観音脇の巌窟ホテルの穴が見えた。そして武蔵丘短大前に着いた。乗車時間は五六分で百八十円なり。比企郡吉見町南吉見一一一番地一。
     バスを降りて短大の入り口前で全員が集合すると、「伯爵夫人はここでお別れです」と隊長が報告する。「なに?」「エーッ?」参加できないが皆さんに挨拶したいと、ここまで来たのだそうだ。それは御苦労なことであるが、それならバスに乗らなくても駅前で良かったのではないか。実に独特な感性をお持ちのひとだ。
     「分りましたよ、池袋に専門学校があるんですね。」短大の看板を見て、池袋で生まれ育った若旦那が納得した。武蔵丘短大は栄養系だと思っていたが、改めて調べると正確には健康生活学科で、健康栄養専攻・健康スポーツ専攻・健康マネジメント専攻の三つの専攻を持つ。
     法人は後藤学園、昭和二十二年(一九四七)、板橋区大山に武蔵野ドレスメーカー女子学院(現・武蔵野服飾美術専門学校)を創立したのが最初で、次いで調理師専門学校、栄養専門学校を設立し、平成三年(一九九一)に短大を作った。女子サッカーは全日本大学女子サッカー選手権で準優勝の経験があり、女子バレーボールの強豪でもあると言う。

     最初は松山城址(短大隣の丘)に登るのだが、六十メートル程の丘なので膝の悪い姫には難しい。吉見百穴で合流することにして、姫は別れて行った。「一人で行かせていいの?」マリーの言葉に、「ロダンの出番だね」と声をかける。「そうですね、美女を一人で行かせる訳には行かない。」すぐにロダンが後を追った。「大丈夫かな、二人きりで変なことにならないだろうか。」「ロダンだったら大丈夫だよ。」メンバーの中で最も信頼の厚い人である。
     この近辺は以前に数回歩いているのに、松山城は初めてだ。短大入口から数メートル戻った所に上り口がある。最初の石段はすぐ途切れて、獣道のような狭い道が急斜面に続いている。息が上がるが、それでもスナフキンと一緒に最後の石段を上がって先頭で広場に出た。次いでカズチャンが「この頃歩いてないからキツイ」と言いながら追いついた。口で言う割に元気だ。
     この広場が本曲輪跡らしい。隅には大きな墓石が根元から割れて地面に落ちている。「あの碑は何かな?」立ち入り禁止のロープで囲まれた小さな塚の上にあるのは、松山城址の碑であった。手入れがされていないのである。
     松山城は応永六年(一三九九)、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家臣・上田友直によって本格的に築城されたとされる。市野川を天然の要害とした平山城で、ほぼ旧鎌倉街道上道に沿っているから関東の要衝である。戦国時代前期には下総古河の足利氏(古河公方)、上州の山内(やまのうち)上杉氏(関東管領本家筋)の南下を防ぐために、扇谷上杉氏によって経営された。
     そして松山城は畠山重忠の菅谷館(嵐山町)、杉山城(嵐山町、築城者不明)、小倉城(都幾川、築城者に、北条氏と松山城主上田氏と二説あり)とともに、比企城館群跡として国指定の史跡となった。これに太田道灌の河越城、江戸城、岩槻城を加えると、北方からの防衛拠点が完成する。後に北条氏が武蔵国に進出してくると、古河公方と両上杉氏は共同戦線を張り、これらの城郭群は対北条防衛ラインとなる。
     隊長が案内板を見ながら逐次説明するように、ここは扇谷上杉氏と北条氏との間で「風流合戦」が繰り広げられた地である(私は知らなかった)。天文六年(一五三七)、河越城を落として勢いに乗った北条氏綱が攻め上って来たが、河越城を失った上杉氏は踏ん張ってなんとか城を確保し、十三歳の当主扇谷朝定は松山城を本拠とする。この戦いの際に、上杉方の難波田憲重と北条方の山中主膳との間で和歌のやり取りがあったというのが「風流合戦」である。

     あしからじよかれとてこそ 戦はめ なにか難波田の浦崩れ行く  山中主膳
     君おきてあだし心を我もたば 末の松山波もこえなん  難波田憲重

     城外で戦い城に戻る途中に、山中に声をかけられ咄嗟に堪えたのだが、大した問答ではない。難波田の歌は古今集東歌(読み人知らず)の引用である。主君に仇心を抱いて寝返りするわけにはいかないという趣旨だ。末の松山とは現在の宮城県多賀城だと言われており、末の松山だけは津波が来ないとされていた。三・一一を連想させてしまう。
     しかし源義家の「衣のたてはほころびにけり」の呼びかけに、安倍貞任が「年を経し糸の乱れの苦しさに」と返した床しさに及ばない。
     この戦いはなんとか凌いだ上杉勢だが、天文十五年(一五四六)、山内憲政・扇谷朝定・足利晴氏(古河公方)の連合がなって河越城奪還を目指したものの、北条氏康の奇襲で失敗し、扇谷朝定と難波田憲重が敗死して扇谷上杉氏は滅びる。この戦いが河越夜戦であり、これ以後、北条氏が武蔵国をほぼ完全に掌握することになる。逃れた山内憲政も一挙に力を失い、長尾景虎の庇護を求める。そして長尾景虎は関東管領上杉氏の名跡を継承するのである。
     松山城は北条氏康の手に渡り、一時的には難波田の婿であった太田資正が奪還したことはあったものの、元亀年間(一五七〇~一五七三)以後は北条氏のものとなる。太田資正はその名の通り、太田道灌の縁者である。道灌は主君である扇谷定正に謀殺され、子の資康は山内上杉氏に走った。しかし道灌の甥の資家は扇谷上杉に臣従したまま岩槻城を根拠としていた。その子が資頼、孫が資正である。江戸時代に大名になった太田氏は、資康の流れと称しているが、本当かどうか良く分らない。
     難波田氏は、入間郡難波田郷(富士見市南畑地区付近)を本拠にし、太田道灌没後、扇谷上杉氏の重臣となった。なお難波田憲重は河越城の戦いで、古井戸に落ちて死んだと伝えられる。あまり格好の良い死に方ではない。
     「空堀跡があるから行きましょう。」隊長の言葉で歩きにくい道を下りる。兵糧倉の表示はあるが、そんなものが残っている筈がない。平地に出て更に行くと、惣曲輪の跡だと思える場所に白菜畑が出現した。その先は仕切りもなくて農家の庭だ。史跡との境界がどうなっているのかよく分らない。雑木林との間には先日の雪がまだ消えずに残っている。白梅が咲いている。「このまま行くと農家の敷地に入ってしまう。」戻りかけたところで漸く若旦那とカズチャンが追いついてきた。若旦那はストックを突いている。

     駆け抜けて獣の道に梅薫る  蜻蛉

     途中、右手の崖を降りる細い道があり、岩室観音の門の裏に降りられるようだ。「行けそうかな?」隊長とハコサンが先に立って降り始めたが、「だめだ、泥濘があって行けない」と隊長は戻ってくる。しかしハコサンはそのまま頑張って降りて行った。いずれにしても、ストックを持った若旦那ではこの急な崖は無理だろう。ここは切通しの遺構のようだ。

     元の道を戻って出発点まで降りた。皆が降りてくるまでの間に、隣にある小さな妙法山当選寺を一人で見てみた。比企郡吉見町南吉見五番地。石段を上がると虚空蔵菩薩堂、その脇から更に上に行くと六角堂があった。「尊神堂」とあるが、本尊は承理(勝利)観世音菩薩である。承理観世音とは何のことか分らない。一時、廃寺となっていたようだが再建されたらしい。宗派も何も詳しいことは分らない。本尊を「尊神」と称するのはかなり胡散臭い。
     そこから丘陵に沿って曲がりこむと、「巌窟ホテル高壮館」跡の辺りでハコサンが向こうからやって来た。巌窟ホテルとは、山の斜面の岩を刳り貫いて部屋にしたものである。「ホテルって電気水道も引いたのかな?」スナフキンが素直に疑問を持つ。しかしホテルとして使われたことはないらしい。高橋峰吉(安政五年生まれ)が明治三十七年から大正十四年までの間に、鑿とツルハシだけを使っていくつかの部屋を掘った(彫った)ものだという。かつては一般公開されていたが、安全上の理由で閉鎖された。「巌窟掘ってる」と近隣住民が口にしたのが訛って「巌窟ホテル」になったという冗談のような説がある。
     穴の前には格子枠が取り付けられている。「花瓶の形に彫り残したものなんかもあったよ。」ドラエモンや若旦那はその頃に実際に見たらしい。
     しかしこの崖面は本丸跡の直下になるわけで、私有地ではないだろう。権利関係はどうなっているのか。道の向かい側には高橋峰吉の子孫が経営する巌窟売店がある。半生を穴掘りに掛けるとは、実に不思議な情熱である。
     岩室観音は前を過ぎるだけだ。内部は二度ほど見ているからね。観音堂は松山城落城の際の戦火で焼失し、寛文年間(一六六一~一六七三)に、龍性院第三世堯音が再建したと伝えられる。二階建ての楼門のように見えるが、観音と石仏を安置した懸造りの堂であり、この様式は珍しい。四国八十八カ所に因んで石仏が八十八体納められている。「願い事の道」の幟が立っている。ここから吉見観音まで、約三・五キロの道が「願い事の道」と名付けられているのだ。
     左の道に逸れると、吉見百穴の前で姫とロダンと合流する。ロダンは岩室観音の上まで上ったと言う。吉見百穴の中には入らないが、私は平成二十二年(二〇一〇)の東松山スリーデーマーチで三十キロ歩いた時入った。スリーデーマーチ参加者は無料だったのである。
     「ヒャクアナっていうのは変じゃないか。」スナフキンの言う通り、普通の語感では「ヒャッケツ」の方が言いやすい。「文化庁じゃヒャッケツ、地元じゃヒャクアナっていうみたいだよ。」念のために確認すると、こんなことである。

    ・ 「ひゃくあな」「ひゃっけつ」という二種類の読み方があり、歴史辞典、考古学辞典等にも両様の読み方がある。地元では「ひゃくあな」と呼ばれており、史跡管理者である吉見町のウェブサイトでも「吉見百穴(よしみひゃくあな)」と読みを付けている。
    ・ 吉見百穴は、国の史跡に指定されているが、文化庁のウェブサイトにある「国指定文化財等データベース」では「吉見百穴(よしみひゃっけつ)」と読みを付けているが、ヒカリゴケ自生地天然記念物の登録(吉見百穴ヒカリゴケ発生地)での読みは「よしみひゃくあな」であり、混在している。(ウィキペディア「吉見百穴」より)

     百穴とは言いながら、穴の数は二百九十一確認できるそうだ。「そうか、百はたくさんって言う意味だね。」古墳時代後期(六世紀~七世紀)の横穴墓群である。山は凝塊岩で掘りやすいのだろう。大化二年(六四六)の薄葬令が出た頃を中心に、古墳の築造が急激になくなった時代でもある。
     解説板の前でハコサンがカレンダーの裏に書いてきた説明を広げて解説する。「五メートル以内に近づいてくれれば見えると思います。」説明は、百穴が戦時中には中島飛行機の軍需工場になったこと、坪井正五郎が、この穴をコロボックルの住居跡だと考えたことなどである。
     私がコロボックルを初めて知ったのが、佐藤さとる『だれも知らない小さな国』(昭和三十四年)だから、小学校の二三年の頃である。「蕗の葉の下の人ですよね。」姫も多分これを読んだだろう。ハコサンはコロボックルか、コロポックルかと厳密に考えているが、アイヌ語ではb音とp音の区別がほとんどないらしいので、どちらの表記でも差支えないのではないか。私は佐藤さとるで覚えたために「ボ」の方が馴染みやすい。
     坪井はアイヌ以前の日本列島先住民をコロボックルだと考えたのだが、当然これは後に完全に否定される。しかし坪井自身は偉大な存在だった。ほとんど独力で、日本の人類学、考古学、民族学、民俗学の基礎を築いた。文久三年(一八六三)の生まれだから、森鷗外の一つ下になる。
     明治十九年(一八八六)帝国大学理科大学動物学科卒業する前に本郷弥生町で、有坂鉊蔵、白井光太郎とともに土器を発見して報告した。帝国大学大学院で人類学を専攻、修了後の明治二十一年(一八八八)帝国大学理科大学助手となる。翌年から三年間イギリスに留学し、明治二十五年(一八九二)十月に帰国して帝国大学理科大学教授となった。数えで三十歳である。「大学院と言っても全体で数人しかいないんですよ」とハコサンが笑う。
     その坪井が蘭学者坪井信道の孫だったなんて知らなかった。平成二十五年三月に深川を歩いた時、冬木の深川小学校に坪井信道「日習堂」跡の碑を見たことがあった。あの時の参加者は覚えているだろうか。信道の弟子には緒方洪庵や川本幸民がいる。
     明治三十六年(一九〇三)大阪・天王寺で開かれた第五回内国勧業博覧会の「学術人類館」で、人間動物園ともいうべき蛮行を計画したのは坪井にとっての汚点である。アイヌ・台湾高砂族(生蕃)・沖縄・朝鮮・支那・インド・ジャワ・ベンガル・トルコ・アフリカなど合計三十二人を、その民族衣装とともに展示したのだ。帝国主義時代の博覧会は植民地帝国を誇示するものであり、支配地域の人間を展示するのはその一環である。この時、沖縄県では、アイヌや生蕃と同一視するものだと、強硬な批判を行った。現代ならこの言説もまた批判すべき対象となるだろう。
     しかし坪井は様々なネットワークの中で奇想ともいうべき発想を思いついた。玩具の発明もそのひとつだし、何よりも人の面倒見が良かった。高等小学校中退の鳥居龍蔵は坪井によって人類学教室の標本係として採用され、研究者として育てられた。これも坪井の業績と言って良いだろう。小学校中退でありながら大学者になったと言う点で、鳥居は植物学の牧野富太郎と並ぶだろう。
     「中島飛行機は大きかったんですね。」「ICUの隣の富士重工もそうですよね。」「武蔵野市のNTTもそうだった。」当時は東洋最大の航空機メーカーだった。

     太平洋戦争の末期、米軍の大規模な空襲によって日本の航空機製造工場の生産能力は壊滅的な打撃を受けた。当時、東京都武蔵野市の中島飛行機工場は、空襲から逃れるために地下に移転する計画があったが間に合わず、昭和十九年十一月と十二月の二度の空襲によって生産能力が十分の一に落ち込んだと言われている。そのため、現在のさいたま市にあった中島飛行機工場の移転の必要性が急速に高まり、生活物資の調達に便利で、掘削に適した場所である吉見百穴地域に軍需工場が造られることになった。吉見百穴にある地下軍需工場跡は、こうした空襲を避けながら航空機の部品を製造する目的で造られたのである。本来、市ノ川は湾曲しながら百穴の裾の付近を流れていたが、地下軍需工場の前面に平地を確保するため川を西に移動させ、湾曲した川を直線に改修し現在のようになったと言われていることから、この工事が大規模なものであったことが理解できる。
     (吉見町役場「吉見百穴」http://www.town.yoshimi.saitama.jp/guide_hyakuana.html)

     「ここで働いたのは主に動員された学生だったんだ。」昭和十三年(一九三八)六月、文部省の「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」によって夏季冬季など休業中の中学生以上の勤労動員が始まった。しかしそれだけでは追い付かない。昭和十八年(一九四三)十月、「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が決定され、勤労動員は「教育実践ノ一環」と位置付けられ、「在学期間中一年ニ付概ネ三分ノ一相当期間」に拡大した。
     更に昭和十九年(一九四四)七月、「航空機緊急増産ニ関スル非常措置ノ件」が閣議決定され、文部省は「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」によって、中等学校低学年生徒の動員を指示し、中等学校三年以上の男子及び女学生にも深夜営業を課した。しかし熟練工を戦争に駆り出し、中学生、女学生を無理やり動員しても、成果が上がる筈がなかった。
     父も召集初日に結核が見つかり、即日帰郷の上、太田の中島飛行機に徴用された。結核で、おまけに技術的なことには全く不向きだった人が、どれだけ作業に貢献できたか分らない。
     「熊谷に住んでた頃、来た記憶があるんだけど」とマリーが言いだした。「遠足じゃないか?」「違うわ。」私はてっきり小学校の遠足かと思い込んでいたが、もしかしたら家族で来たのだったか。昭和三十七年(一九六二)一月、父の結核の要観察状態が解けたのを機に、秋田から熊谷に転勤したのである。近所の電気屋(I氏)のオバサンがなにかと面倒見が良く(田舎者が苦労していると思ったに違いない)、私たちの一家をあちこちに連れて行ってくれたから、それかも知れない。それならば鴻巣まで出てバスで来ただろうか。記憶がはっきりしない。
     トイレの壁にはヒカリゴケの写真が貼られている。「トイレとは思えませんよね。中に男女のマークが見えたからやっと分った」とロダンが笑う。トイレの壁に写真を貼られても余り面白くはないね。
     ヒカリゴケの自生は関東では珍しく、国の天然記念物に指定されている。薄暗い穴を格子越しに除くと微かに光るコケを見ることができるが、今日は入場料を払っていないのだから、もちろん見ることはできない。ヒカリゴケは自ら発光するのではなく、外の光線を反射して光るのだと、ハコサンが説明する。
     「立山にもあるよ」とスナフキンが言う。姫は「立川崖線の辺りでも見ませんでしたか?」と首を捻る。そう言われれば見たことがあるかも知れないが、思い出せない。
     ヒカリゴケといえば武田泰淳『ひかりごけ』を連想するだろう。昭和十九年(一九四四)北海道羅臼で発見された事件をモチーフとして描かれた。徴用船が極寒の地で難破して、船長が残りの船員の死体を食って生き延びたという事件である。裁判では、船長は遺体を食べたことは認めたが殺人については断固として否認し、死体損壊の罪で懲役一年の刑が執行された。「食人」については刑法上の規定がないのである。小説は、限界状況の中で食人は裁けるのかという問いであった。

     金網の上辺に、ゴツゴツした、所々に根っこがあるような太い枝が這わせてあり、そこから延びる細い枝には毛に包まれた蕾が膨らんでいる。十一時半、腹が減ってきた。「私も朝早かったのでお腹がすきました。」
     「もう坂はありませんか?」若旦那はさっきの松山城で相当疲れたようだ。「もう一週間分歩いたみたい。」「これからはずっと平地です。」隊長の言葉を姫も信じたが、百穴に沿って行く狭い道は早速上り坂になる。ここは丘陵地帯だから、アップダウンがあるのは当たり前だ。「そうですよね、でも信じてみたかった。」
     「ふるさと歩道コース」の標柱が立っている。私たちの里山ワンダリングの会は、今は消滅した「ふるさと歩道自然散策会」から生まれた団体(!)である。昼食は吉見観音で採る予定だったが、昼までにはそこに着けないだろう。「お昼は手前の八坂神社にします。」登り道が終わって自動車道路に出た。
     「花が一つ咲いてます。」殆どはまだ産毛のような蕾の状態だが、小さい花がひとつだけ開いている。コブシだ。龍性院には寄らない。吉見町北吉見四五九番地。真言宗智山派で、さっきの岩室観音堂を管理している。用水を渡って左(北)に曲がる。
     両側に田んぼが広がる道路脇に、駒形の合掌型青面金剛が立っていた。宝暦七年(一七五七)の銘が確認できた。「踏んでますね。」姫の言葉で金剛の足元を見ると、金剛が踏んでいるのは邪鬼ではない。烏帽子を被った顔が押しつぶされたように横を向き、右手で何かを抱え、左手に仏具か武器のようなもの握って立っている小さな人物だ。これは何者なのか。庚申塔はかなり見てきたつもりだが、まだ分らないものがある。「これは珍しいですね、私も初めて見ました。」小さな人物の左右には鶏がいるが、三猿はいない。左下隅には、「講中女□□」とある。
     (有)毛野考古学研究所埼玉支所の看板が見えた。建物には「土地・建物売買即金買取仲介無料査定」の張り紙もある。これは何だろう。

    毛野考古学研究所は、埋蔵文化財(遺跡)調査のサポートを中心に、文化財の記録・広報活動に関する支援業務をひろく承っております。発掘調査員の派遣から遺跡調査報告書の作成まで、各種のニーズに誠心誠意お応えいたします。
    http://homepage2.nifty.com/keno_kokogaku/

     この宣伝文句と不動産売買との関係がよく分らない。この地域は古墳も多く、また中世遺跡も埋もれている可能性があるので、開発の際には必ず遺跡調査が必要になってくるのだろうか。毛野の名の通り、群馬県に本社がある会社だ。
     右手には後藤学園のグランドが広がっている。四五百メートル程で道は突き当り、手前の左の角に北向き地蔵があった。四五段の石段の上に切妻屋根の小さな祠があって、その中に地蔵が鎮座している。「北向きって珍しいのか?」時々見かけるが、「北向き」の他には方角を冠した地蔵は見たことがないから、珍しいのだろう。吉見町観光ガイドによれば、こうである。

    北向地蔵は、今から二百二十年前に建立されたお地蔵さまです。
    その名の通り、北向に立っていることからその名が付けられました。日本国内には二万体以上のお地蔵様が有ると言われていますが、北向に建立されているものは珍しく、全国で千体程度といわれており、このお地蔵様もその一つです。

     「イボが取れて肌がきれいになるんだってさ。」「あら、それじゃ拝まなくちゃ。」女性陣は必ず拝まなければダメである。私も年齢とともに実に肌が汚くなってきたが、特に拝む気持ちにはならない。
     信号を渡って正面が八坂神社だ。比企郡吉見町北吉見一六四〇番地。八坂神社だからもちろん祭神はスサノオである。おそらく江戸時代には牛頭天王社だったろう。牛頭天皇社は明治の神仏分離で、八坂神社とか須賀神社を名乗るようになる。
     狭い境内で腰を下ろす場所もないが、石段や拝殿の階段に腰かけて弁当を広げたところに、一人の女性がお参りにやってきた。「済みません」と私はなんとなく謝り、階段に広げたシートの端を持ち上げると、女性はその隙間から階段をのぼり、賽銭をあげてゆっくり拝んで出ていった。
     階段には封を切っていないワンカップの酒が置かれているが、この女性が持ってきたわけではなく、最初から置いてあった。「神社にお酒って何かな?」「お神酒だからね。」「ああ、そうか。」若旦那が、奥様手作りの竹輪とほうれん草の煮物を分けてくれる。隊長に分けてくれというのが若女将の伝言だったらしいが、隊長に分けてもまだ多いからと言うのである。若女将は足の指先に肉刺ができてしまって、歩くのが辛いということだ。
     境内には教育勅語四十週年記念碑が立っている。これは「四十周年」と書くべきだろう。「週」は少し恥ずかしい。それにしても教育勅語の記念碑なんて初めて見る。明治二十三年(一八九〇)に発布されたのだから、講釈師がいれば、「朕オモウに」なんて暗唱したかも知れない。若旦那の世代は学校で叩き込まれただろう。
     境内を出ようとしたとき、石段の脇の土手に赤い花が地面にへばりつくように咲いているのにスナフキンが気付いた。「何かな。」姫を呼ぶとボケだと言う。「カンボケじゃないですか。」確かに花の色や形はボケだが、こんなに地面にへばりつくものなのか。「クサボケでしょう」と鑑定するのはドラエモンである。「でも、枝についてるし。」
     地面から短い枝が生え、そこに花が咲いているのだ。ただその周辺に枝(茎か?)を地面から三四センチほどで刈り取った跡が見える。本来ならもう少し高くなるものかも知れない。スナフキンがスマホを検索してみた。クサボケで検索した画面の写真は確かにこの花に似ている。しかし私には違いが分らない。実は落葉低木のボケも、クサボケもバラ科ボケ属である。

     木瓜の花こぼれし如く低う咲く   大谷句仏

     正にこの句のように、地面にこぼれたように咲いているのだ。但し木瓜の花の季語は晩春であり、今の季節なら「寒木瓜」と言わなければならないか。句仏は、東本願寺第二十三代法主彰如の俳号である。

     木瓜咲くや漱石拙を守るべく   漱石

     漱石が子規に宛てた手紙の中にある句だ。これは『草枕』の中の下の文章を参照しないと、なんだか分らないだろう。

     木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲つた事がない。そんなら真直かと云ふと、決して真直でもない。只真直な短かい枝に真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、斜に構へつつ全体が出来上つて居る。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔らかい葉さへちらちらつける。評して見ると木瓜は花の中で愚にして悟ったものであろう。世間には拙を守ると云ふ人がある。この人が来世に生まれ変わると、きっと、木瓜になる。余も木瓜になりたい。(夏目漱石『草枕』)

     「拙を守る」とは、言うべくしてなかなか実行し難いことである。
     ここから吉見観音(安楽寺)までは一キロ程度か。県道271号(今泉東松山)線を東に向かう。農家のシキミの生垣の向こうには、広い前庭に紅白の梅、マンサク、サンシュユが咲き開き、華やかな雰囲気になっている。マンサクもサンシュユも今年初めて見た。

     色とりどりに里山の春開きけり  蜻蛉

     脇道に逸れると少し上り坂になる。「あそこの家は見晴らしが良さそうだ」と下から眺めていたのは、坂道の頂上にある無人の家だった。一階は黒板壁でおおわれ、二階は白壁に格子のガラス障子を嵌め込んである。「くれないかしら。」姫の言い方がおかしい。マンホールの蓋の模様は、吉見百穴の前に立つ男女と馬の埴輪だ。姫はマンホールが好きである。
     そして安楽寺(吉見観音)に着いた。比企郡吉見町御所三七四番地。御所の地名は源範頼の館(御所)があったという伝説による。真言宗智山派、正式には岩殿山光明院安楽寺である。行基が聖観音像を安置したのに始まり、坂上田村麻呂が堂宇を建立したと伝えられるが、これは信じてよいかどうか。ただ近辺には田村麻呂に関わる伝説が多いのも事実で、上州や信州に向かう重要なルートであっただろう。非常に立派な寺で、スリーデーマーチの時にはここで最初の休憩をとったので私も懐かしい。
     元禄十年(一六九七)再建の仁王門は三棟造り八脚門と言う造りである。仁王自体はそれほど感心するようなものではない。本堂に上る石段の右手には丈六仏が鎮座する。寛文元年(一六六一)に再建されたと言う本堂は立派だ。クリスチャンの姫と、全く信仰心のない私の他は、みなさんきちんと賽銭と上げて拝んでいる。
     中を覗くと左甚五郎作と伝える「野荒らしの虎」がある。しかし左甚五郎作と伝えられる彫刻は全国に百もあって、そもそも甚五郎の実在自体が疑わしい。紀の川市粉河にある粉河寺本堂にも同じ「野荒らしの虎」があるそうだ。彫刻の虎が余りにも真に迫っていて、夜中に抜け出して野を荒らすという。
     本堂の右裏手の三重塔も見応えがある。朱の塗は褪色しているが構造自体は立派なものだ。説明では範頼が最初に建立したが、天文年間の松山城落城に伴う兵火で焼失した。再建されたのは寛永年間である。
     何かの鳥がいるようで、イッチャンとカズチャンが一所懸命双眼鏡を見つめているが、なかなか目的が探せないでいると、姫が操作方法を教えている。

     八丁湖に着いた。ここは灌漑用に谷津を塞いで作った人造湖であり、大沼、和名沼、天神沼など吉見町にはこれが多い。ウィペディアによれば、「八丁八反」の面積があるのではなく、「八」が末広がりで、かつ「八」を重ねると語呂がよいことに起因し、戦後になって「八丁湖」と呼ばれるようになった。
     カモが泳いでいる。「バンかな?」バンはいないと思うが、何の種類かはさっぱり分らない。「カイツブリの声です。」姫が教えてくれるが、鳴き声なんて初めて聞いた。キッキという声だろうか。
     「顔が緑できれいなのはマガモかな。」「そうだと思います。でも私が初めてマガモを見た時、あれはアヒルだ、簡単に判断しちゃいけないって叱られました。」そもそもアヒルはマガモの家禽化したもので、もともと同じ種だから判別が難しいものもいるらしい。アヒルと言えば白いものだとばかり私は思っていた。
     この先に黒岩横穴墓群があるのだが、今日は行かない。これも吉見百穴と同じく凝灰岩の山肌に穴をあけたものだが、調査がほとんど進んでいないため詳細が不明だ。但し規模は吉見百穴より大きく、五百以上あるのではないかと言われている。私たちは以前、三鷹の出山横穴墓群にも行ったことがある。関東ではこの吉見町と、野川沿いの国分寺崖線上が有名だ。

    横穴墓は単独で存在することは稀で、おおむね複数からなる横穴墓群を構成する。また線刻画をともなうこともある。九州および関東から東北地方南部の太平洋沿岸では、彩色が施された例もいくつかみられる。これらは装飾古墳にも位置づけられる。
    五世紀後半の九州北部の豊前地域に淵源を持つと考えられている。おもに六世紀中葉に山陰・山陽近畿・東海まで盛行した。七世紀初頭までには北陸・関東・東北南部まで分布した。薄葬令前後から爆発的に増加した。一部では八世紀中頃までに終焉。(ウィキペディア「横穴墓」

     ここから南に下ると、右の林の中に朱塗りの両部鳥居が建っているのが見えた。伊波比神社だ。比企郡吉見町黒岩三四六番地。丘陵の斜面に階段が設けられ、鳥居の奥に社殿が見える。「なんだか中途半端な位置だな。」それほど大きな神社ではなさそうだが、延喜式内社とある。「見たい人は行ってもいいですよ。」特に見なくても良さそうだ。
     畑の道路脇に姫が紫色の花を見つけた。園芸種であろうが、「サフランかしら」と姫が口にすると、「クロッカスですよ」とドラエモンが教えてくれる。鳥も花も実に詳しいひとである。「クロッカスなら黄色だとばかり思ってました。」私は無学だから何も思っていなかった。サフランはアヤメ科クロッカス属で、同じ属のクロッカスは花サフランとも呼ばれるらしいので、似ているのだろう。
     「こっちにもありますよ。」黄色と白も咲いている。「クロッカス?かおるちゃん?」ロダンがわざと顔を顰めて聞いてきた。喜んでいるのである。私も今それを連想したところだった。美樹克彦『花は遅かった』(星野哲郎作詞、米山正夫作曲、昭和四十二年)であるが今の人に話は通じないだろう。理由は全く明かされないが、かおるちゃんは死んだ。主人公は彼女の好きなクロッカスの花をもって見舞おうと思っていたのだが、間に合わなかったのである。
     『回転禁止の青春さ』(星野哲郎作詞、北原じゅん作曲、昭和四十一年)の後、美樹克彦には暫くヒットがなかったように記憶していたが、一年ちょっとしか開いていなかった。
     畑の角には「坂東・西国・秩父供養塔」、「石橋供養塔」地蔵が三体。それに壊れた石碑がひとつ。おそらく田圃の区画整理で集められたものだろう。それでも破壊されずに、こうして集められているのは良いことである。
     右に曲がると横見神社だ。比企郡吉見町御所一番地。寄らないのではないかと思ったが、隊長はここで立ち止まる。「横見じゃなかったんだね。」延喜式内社である。式内社とは言うまでもなく、延長五年(九二七)の「延喜式」の神名帳に記載された神社であり、由緒が古いということである。さっきの伊波比神社も式内社だった。ここは源範頼の館跡の候補の一つになっている。範頼については後で行く息障院で調べてみたい。
     横見はかつて「横渟」と書かれ、「日本書紀」安閑天皇元年(五三四年)十二月の条に、武蔵国に設置された四か所の屯倉の一つとして、横渟屯倉が記されている。その横見を名乗る神社だから、この辺りの中心であったと考えられる。
     六世紀のことを「日本書紀」がどれだけ正しく伝えているか、かなり疑問があるが、古くから重要な地だと見做されていたのだろう。武蔵国造の地位をめぐる争いに大王権力が介入して、屯倉の設置に至ったというのが日本書紀の記事であり、この時期、全国に屯倉を拡大したとも伝えている。
     実は安閑が本当に即位したかどうか、疑問をもつ説もある。『日本書紀』で悪逆無道な王とされる武烈が子を持たずに死去した後、ヤマトの豪族連合は越国(越前)を地盤にしていた継体を応神の五世の孫として大王位に迎え入れた。ここで仁徳に始まる血統は絶え、新しい王朝(と言っても、豪族連合に擁立された程度だとの説が有力だ)が始まった。しかし継体が大和に定住できるのは即位後十九年(あるいは二十年)の後であり、継体に対する反対勢力はかなり大きかった。北九州で磐井が反乱を起こしたのも、ヤマトの雰囲気と呼応したのではないか。あるいは古田武彦によればこれは「反乱」ではなく、九州王権と大和王権との決定的な戦いだったということになる筈だ。
     継体の死後、安閑、宣化、欽明と続くのだが、ある説によれば、継体を直接継いだのは欽明であって、安閑と宣化は即位していないという。史料は『日本書紀』と『古事記』しかないのだから何とも言えないが、この頃から蘇我氏の力が大きくなってきていることは間違いなく、蘇我稲目が最高権力掌握に向かって邁進中だった(大王になったと考える説もある)から、屯倉を中心に全国の人民を直接支配下に置くのは蘇我氏の権力拡大に適ったものだった。
     拝殿の正面はサッシの格子ガラスで閉ざされていて、賽銭口の矢印があるのは、頭の辺りの高さのガラスの端を三角に切り取った部分だ。「もう少し下にあればいいのに。」「でも、そうすると鍵穴の近くになって、こじ開けられちゃうんじゃないでしょうか?」
     「ずれちゃってるよ。」鳥居に結んだ注連縄が下がって、ちょうど頭の辺りまで降りてしまっているのだ。

     墓地には記念碑が立っているのでちょっと入ってみる。源範頼の御所のことが書いてあるので、てっきりここがそうかと勘違いしそうだが、墓地の由緒を記念したものである。
     文化九年(一八一一二)、十八世帯が初めてこの墓地を使用した。昭和二十七年に墓域を拡大し、「近在まれにみる美化を誇る墓地」であった。しかし昨今の環境変化にあって、行政の補助を得て改修整備したというのである。
     そしてその墓地を回り込めば息障院だ。岩殿山息障院光明寺、真言宗智山派。比企郡吉見町御所一四六番地。ここもまた行基の開創、坂上田村麻呂開基の由緒を伝えている。それよりも源範頼御所と伝えられていることの方が面白い。
     範頼は遠江国蒲御厨で生まれたので、蒲冠者、蒲御曹司と呼ばれる。『平家物語』での登場場面は少なく、宇治川の戦いのときに大手の大将軍「蒲御曹司範頼」として、搦め手の大将軍九郎御曹司義経と並んで記されている。範頼は義経の陰に隠れてあまり活躍していないように見えるが、それは『源平盛衰記』や『平家物語』が義経の活躍を強調しすぎたためであろう。
     「範頼は比企一族に養われたんですね」とドラエモンが言う。平治の乱の後、範頼は比企氏に匿われてここに住んでいたと言うのだが、文献的には確認できるものはない。吉見と範頼の関係には三つの説があるようだ。
     一つは、今書いたばかりだが平治の乱(一一五九)後、比企氏に匿われたというものである。しかし一般的には範頼を養育したのは藤原範季だと言う。九条兼実の家司を務めながら後白河院の院司も兼ねた人物だというから、行政的な手腕があったと思われる。後には頼朝に追われた義経をも庇護した。
     二つ目は、平家滅亡後に吉見に住んだというものである。しかし範頼は三河守に任ぜられており、わざわざ比企氏の所領に居候の形で住む理由は考えられない。
     三つ目が、頼朝に反逆した疑いを掛けられ修善寺で幽閉されたものの、そこから吉見に逃れて来たというものである。越前に逃れたと言う伝説もある。これについては何ともいえない。義経が大陸に渡ってチンギスハンになるのとはスケールが大分違う。逃れて来たならひっそり隠れている筈で、御所なんて呼ばれるような館に住むとは思えない。いずれにしろ三つとも余り信用できそうな気がしないが、吉見氏は範頼の裔を名乗っている。
     「頼朝は冷血で、兄弟全て殺してしまったんですよ。」ドラエモンの感想はごく普通の意見だろう。『曽我物語』によれば、工藤祐経が曾我兄弟に討たれた際、頼朝死すとの誤報が鎌倉に伝わった。その時、範頼は政子に向かって「範頼左て候へば御代は何事か候べき」安心してくれとと言った。それが謀反の証拠だと思われたのである。しかしこれはフィクションとしての『曽我物語』だから信頼はできない。鎌倉将軍家の一大イベントである富士の巻狩りに、範頼が参加せずに鎌倉にいたとすること自体が怪しい。
     「河内源氏だね。」河内源氏なんて口にするハコサンはよほど詳しい。「河内ですか」と驚くロダンの方が普通だろう。源頼信が河内国古市郡壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)を本拠としたので河内源氏と呼ばれる。その子の頼義、義家と続いて武門の棟梁の位置を獲得した。清盛の平氏が伊勢平氏と呼ばれるのと同じようなことだ。
     しかし河内源氏の系統は血に塗れた。保元の乱では、義朝は父の為義、兄の為朝を滅ぼした。平治の乱では義朝は死に、長男の悪源太義平は処刑され、次男の朝長は負傷して死んだ。頼朝は三男で幸運にも伊豆に流された。四男の義門は夭折または平治の乱で戦死した。五男の希義は土佐に流され、頼朝の挙兵に応じようとしたがすぐに捕まって死んだ。六男が範頼、七男は阿野全成(幼名今若。二代将軍頼家と対立し誅殺)、八男は義円(幼名乙若。墨俣川の戦いで戦死)、九男が義経である。
     二代将軍頼家は暗殺され、三代将軍実朝も頼家の子の公暁に殺され、その公暁も直後に打ち取られた。これによって河内源氏の本流は完全に消滅する。
     静かで落ち着いた境内はきれいに清掃されている。マンサクが咲いている。黒い袴腰の上に朱塗りの二階を載せた鐘楼の形は珍しい。「階段がないんだよ。」周囲を回ってきたスナフキンが教えてくれるが、ロダンと一緒に行ってみると、袴腰の一部が戸になっている。「ここから入るんですね。」
     「横から入って来たんですね。」皆の讃嘆の声が上がるのは山門の透かし彫りである。「ここにカメが首を出してるんです。」この彫刻の美しさをきちんと説明できる知識がないのが悔しい。
     山門から見る参道は、両側には白梅の花が咲いていて気持ちが良い。「素敵ですね。」
     石門の文字が読めない。一瞬「花三昧」だろうかと思ったが、最初の文字は「花」ではなく、キヘンだということだけ分る。古文書事典を買わなければいけないかも知れない(学生時代は持っていたのだけれど)
     寺を出て南に向かうと、道端には地蔵(座像と立像)が立っている。この辺りは用水が縦横に走っている。田圃の中の道を歩いていると、用水の脇でドラエモン、イッチャン、カズチャンが立ち止っている。鳥を見ているのだろうか。追いついてきたドラエモンに訊くとキセキレイがいたそうだ。「そうなんですか、見たかった」と姫は言うし、隊長も「ホント?」と声を出す。珍しいものなのだろうか。
     「あそこに天文台があるよ。」「学校かな。」左手に見えるのは吉見町立吉見中学校であった。そして屋上のドームはプラネタリウムだったらしい。
     「そこにクサシギがいますよ。」クサシギとは初めて聞いた。眼を凝らすと水面に止っているようだ。茶色で用水の泥と紛らわしい。「アッ、飛んだ。」田圃の中を通る道を歩くのは疲れる。「何もないんだよ。」「店というものがないね。」この辺に住んでいる人は車がなければ生活できないのではないか。年寄りになれば車の運転も難しい。「一日三便ですね。」循環バスの時刻表を見て姫が驚く。「さっきの道は四便だったのに。」
     風が強くなってくると寒い。和名沼の表示が出てきたが今日は寄らない。「これは鳩の羽根ですね。オオタカです。」ドラエモンによれば、これはオオタカが鳩を食った跡である。「この辺りはオオタカの営巣地ですよ。」ツグミが背筋を伸ばして歩いている。
     何もない道をかなり長く歩いて漸く土手が見えた。「あれじゃないか。」土手をあがってみると確かに天神沼である。これも農業灌漑用の人造湖だ。何か碑が立っているので土手を降りてみると、「亀の甲馬頭観音」の説明だった。「亀の甲」は地名で、馬頭観音は文字だけの石碑である。慶応元年(一八六五)造立。道標になっているのだが、文字は摩耗して読めない。説明によれば、裏面は「北かうのすへ二リ」、右側面は「東おけ川へ三リ」、左側面に「西まつ山へ一リ」とあるらしい。
     「あれは何?」「トンビ。」ホントに、鳥に詳しい人の眼はどういう具合になっているのだろう。今日のドラエモンは双眼鏡も使っていないのだ。
     ちょうど三時四分のバスが行ってしまった後で、次のバスまでは三十分ほど待たなければならない。「そこのコンビニで休憩しましょう。」デイリーヤマザキである。今日初めて見たコンビニではないか。
     「姫は知ってるでしょう?目の前の田圃が、以前はタゲリ(田鳧)の有数の生息地だったんですよ。」「知りませんでした。」ドラエモンの話では、田んぼの整備が進んでタゲリが生息できなくなったと言う。
     少し早目に亀の甲のバス亭に行く。ドラエモンは逆方向に向かうので一分違いの筈だが姿が見えなくなった。「歩いて行ったんじゃないかな。」「まさか歩かないだろう。」やがて東松山駅行き三時三十九分のバスが来たので乗り込む。一万七千歩。今日はかなりゆっくり歩いたので歩幅は短い。九キロ弱ではないだろうか。
     東松山でやってきた電車は快速急行である。東上線に縁のない人は快速、快速急行、急行のどれが速いのか分らない。快速急行が最も速いのだが、それと快速は鶴ヶ島と霞が関には止まらないのだから困るのだ。以前はこれがなかったのに、このおかげで急行(川越市駅から西は各駅停車)の本数が減ってしまって不便極まりない。
     反省会は川越に決めたから私たちは問題ないが、霞が関の若旦那は次の急行を待つ。「すごいですね、初めてですよ。」ロマンスシート(と言うのは古いだろうか)方式の座席に姫が喜ぶ。朝霞台で降りたいイッチャンには、志木で乗り換えるように念を押す。
     「どこにしようか。」ロダンが駅近くの店を知っていると歩き出したが、まだ五時前では開いていないかもしれない。「あそこは掘り炬燵形式じゃなかった」とロダンが思い出したので、掘り炬燵形式の座視のあるさくら水産に、久しぶりに入った。酒を飲まないお園さんも参加して、最近では珍しく九人という大人数の反省会になった。
     相変わらずタッチパネル方式の注文機は分りにくい。焼酎のグラスはいくつ必要か。これは以前にも失敗しているのだが、試しに数を入れるとやはりボトルの本数になってしまう。プログラムのバグであろう。結局店員を呼んで注文する方が早い。
     以前には中国人女性の店員が目立っていたように覚えているが、今日は日本人男性ばかりのようだ。黒霧島を二本空けてお開きにする。
     「カラオケに行きましょうよ。」珍しくロダンのテンションが上がっている。姫、マリー、お園さん、蜻蛉がカラオケ館に入った。「カラオケは、碁聖が亡くなってから初めてですね。」相変わらずロダンは熱唱する。スナフキンは、ちあきなおみ『紅とんぼ』を練習する。来月の職場の懇親旅行で歌うのだそうだ。「五年有難うって歌詞があるからさ。」今の職場が六十歳から勤めてちょうど五年ということだ。姫は碁聖とデュエットしたこともある『とうだいもり』を歌う。ロダンの好きな「オイラ岬の灯台守は」(『喜びも悲しみも幾年月』木下忠司作詞作曲)ではない。正統的なコーラスが好きだった碁聖を偲んで歌詞を挙げておこう。

     凍れる月影 空に冴えて
     真冬の荒波 寄するおじま
     思えよ 灯台守る人の
     尊き やさしき 愛のこころ(勝承夫作詞、イギリス民謡)

    蜻蛉