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    平成二十八年四月二十三日(土)
     芦花公園から成城へ

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2016.05.03

     熊本を中心に、十四日にマグニチュード六・二(熊本県益城町で最大震度七)、十六日未明にはマグニチュード七・三(熊本地方で最大震度六強)の大地震が発生した。十六日の地震の大きさは阪神淡路大地震に匹敵し、十四日の地震は「前震」ということに決まった。これだけ大きな「前震」というのは聞いたことがない。
     阿蘇大橋は巨大な土砂崩れで消滅した。宇土市役所の庁舎は四階部分の梁が壊れて潰れた。国重文指定の阿蘇神社の楼門が倒壊し、熊本城の櫓も倒れた。東海大学の学生寮は一階部分が潰れて二階が落ち込み、学生二人が圧死した。その他民家の倒壊、土砂崩れが凄まじい。震源の範囲は広がっているが、川内原発は稼働を止めようともしない。
     運良く救出された人も、救出されるまでの恐怖はいかばかりだったか。道路が寸断されたので救援物資の補給もままならない。(その後二十七日には死者は四十九人となった。避難者は四万人に上り、エコノミークラス症候群を発症した人も多い。車中泊は危険だと分っていても、建物の倒壊の方がはるかに怖いのである。)
     地震とは関係なく全く自分の責任によるのだが、私も酷い災難に遭った。十六日の朝、空になった木製本棚を少し移動しようとして持ち上げた時、背骨がバキッと大きな音を立てた。一瞬息が止まるかと思った。呼吸はすぐに復活したが、痛みが酷い。「畳も変えるんだから、引き摺れば良かったじゃないの。」妻は常に正しい。
     念のために整形外科でレントゲンを撮り、骨には異常なく筋肉の問題だろうと診断された。背筋が衰えているのである。筋が切れたのかも知れない。処方は湿布と痛み止めだけで、後は時間が経つのを待つしかない。お蔭で不快な痛みが続き、今日もまだ痛い。コリのような鈍痛に、擦りむいた皮膚を無理矢理擦られるよう痛みが続く。
     旧暦三月十七日。「穀雨」の初候「葭始生(あしはじめてしょうず)」。後二週間で立夏だから、晩春と言うよりもう初夏と言って良いか。このところ昼は上着が要らないほどの気温になるのだが、夜は結構冷え込むので、念のために薄手のジャンバーをリュックに放り込んだ。

    時は暮れゆく春よりぞ
    また短きはなかるらむ(島崎藤村「晩春の別離」より)

     集合場所の芦花公園駅は大正二年(一九一三)に京王電気軌道の上高井戸駅として開業した。駅舎は世田谷区にあるが、東にすぐ杉並区上高井戸が隣接しているためだ。千歳村烏山よりは、甲州街道の宿場としての上高井戸の方が名が通っていたのだろう。現在の駅名に変更したのは昭和十二年(一九三七)九月のことで、前年に蘆花の恒春園が夫人によって東京市に寄付され、公園として整備されていた。
     今回はあんみつ姫の企画である。私はこの辺を歩くのは初めてだが、スナフキンは営業時代にかなり回っていたと言う。北烏山に住んでいた碁聖だったら、颯爽とマウンテンバイクを乗り回していただろう。
     今日の参加者は、あんみつ姫、カズチャン、ハイジ、マリー、隊長、オクチャン夫妻、千意さん、スナフキン、ヤマチャン、宗匠、ロダン、桃太郎、蜻蛉の十四人だ。桃太郎はストック二本を収納した随分大きなリュックを背負っている。「どこに行くの?」「新宿十四時発のあずさに乗るんですよ。」松本に行くのだが、午前中だけ参加すると言う。「五時頃には松本に着きたいからね。」
     今回は案内資料が届いていなかったが、姫は忙しいから仕方がないなんて思っていた。「おかしいですね、マリーも届いてないって言うし。ちゃんと全員メールで送ったんですけどね。他の人はみんな持ってますよ」と姫が首を捻りながらコピーをくれた。(帰宅後確認すると、三月二十八日に確かに受信していた。そのうちプリントしようと思って忘れていたのである。申し訳ない。)
     南口に出て、桃太郎が弁当を買っている間にサミットストアの角で待つ。ここはツツジが真っ盛りだ。赤白ピンク、赤も様々なグラデーションをなしている。「少し早過ぎないかい?」「こんなもんでしょう。」鶴ヶ島や坂戸界隈ではまだこんなに咲いていない。
     URの団地の間を抜けて西に少し歩けば烏山神社がある。世田谷区南烏山二丁目二十一番地一。拝殿の屋根は寄棟造りだと思うのだが、左右前後に千鳥破風、更に正面には唐破風を設けているのが珍しいのではないだろうか。正面からだと、唐破風の上に千鳥破風が載っているように見える。
     白山比咩(シラヤマヒメ)大神を主神として、御嶽大神・天照皇大神・倉稲魂命(稲荷)・菅原道真(天満宮)を合祀する。元々は白山神社で烏山村の総鎮守である。
     白山比咩は勿論、加賀白山の神である。倉稲魂命に「うかのみたま」とルビを振っているのがロダンは不思議らしい。これは『日本書紀』の表記で、『古事記』では宇迦之御魂神と書く。ウカ、ウケは穀物、食物を意味する。伏見稲荷の主神であるが、トヨウケとなれば伊勢神宮外宮の神にもなる。
     「菅原道真も祀ってるんだね。」「明治時代の神社合祀によるんでしょう」と千意さんが言い、私もそうだろうと思った。明治三十九年(一九〇六)の勅令によって進められた神社合祀は、一町村一社を基準にして、全国に二十万社あった神社のうち約七万社を取り壊した。特に酷かったのは三重県で、県内神社の九割が廃された。これに真っ向から反対したのが南方熊楠だったことは知られているだろう。しかし実はこの合祀は戦後のことであった。

     祭神は白山比咩大神をはじめとする五柱。創立の由来はあきらかではないが境内の手水鉢には元文元年(一七三六)の紀年がある。
     白山御嶽神社ととなえていたが、昭和三十七年町内の天神社、神明社、稲荷社を合祀し、烏山神社と改称したものである。(世田谷区教育委員会の掲示)

     昭和三十七年のことなら、団地の開発と関係していないだろうか。ちょうどその頃から世田谷区内には東京都住宅供給公社や住宅公団の団地が建設されている。その再開発のために小さな神社を潰したのではないか。
     板塀のものと、コンクリートブロックを積み上げて壁にしたものと、どちらも切妻屋根をかけた簡素な祠が並び、紫の垂れ幕の中には青面金剛が祀られていた。合掌型一面六臂、邪鬼を踏みつけているのはブロック壁に鎮座する一基で、板壁の方には邪鬼はいない。
     神社を出ると住宅地だ。八重の赤い変った形の花一輪を見つけて、オクチャンはシャクナゲの種ではないかと鑑定する。私には到底シャクナゲとは思えないが、外来種なのだろう。私が知っている外来種はアメリカシャクナゲ(カルミア)しかないが、それとも違う形だ。
     腕を上げて肩をゆっくり大きく回すと痛みが減るような気がする。「もう若くないんだから、無理しちゃダメだよ。」「後期高齢者ですか」なんてヤマチャンが笑う。前期高齢者である。そう言うヤマちゃんだって、来年は同じ身分になるのだ。スナフキンも時々躓いているから注意しなければならない。
     「社長には挨拶に行ったのか?」「明後日、月曜日に予約してあるんだ。」今月末で会社は退職となるので、その挨拶に行かなければならないのだ。但し一年契約で同じ仕事を継続することは決まっている。それにしても会社員生活丸四十二年の区切りだと思えば茫洋とする。新入社員の頃には落ち零れだった私が、同じ会社でこんなに長く働くとは思ってもいなかった。

     団地のフェンスからはシャガの白い花が出ている。五六分で世田谷文学館の前に来た。世田谷区南烏山一丁目十番地十。全面ガラス張の建物だ。しかし姫は入らないと言う。「入館料が六百円もするんですよ。」昨夜ネットで見て、一般二百円、六十五歳以上が百円だと思っていた。初めて高齢者割引が利用できるかと、実は少し楽しみにしていたのである。オクチャンも百円だと思っていたようだ。「企画展がある時は高くなるんです。」
     今日から始まる企画展は「上橋菜穂子と〈精霊の守り人〉展」である。「蜻蛉は綾瀬はるかチャンが目的なんでしょ」と姫が笑う。NHKドラマの主演がはるかチャンだとは知っていたが、そういう積りはなかった。ただ文化人類学の博士号を取得して、ファンタジーを書き続けている上橋菜穂子には興味がない訳ではない。元々ファンタジーは嫌いではなく、C・S・ルイスの『ナルニア国』シリーズは英語の勉強の積りで読んだし、エンデも読んでいる。
     しかし『ハリー・ポッター』が狂ったように売れた時からは興味を失った。ベストセラーは読まないことに決めている。ところで秋には『ハリー・ポッター』の新作が出るらしい。また以前のような馬鹿騒ぎになるのだろうか。
     むしろ興味があったのは、同時に開催されている中野重治を中心にした「作家たちの戦中・戦後」というコレクション展だ。「中野重治と世田谷って、関係あるのか?」豪徳寺の辺りに住んでいた。「あの辺は歩いたことがあるよな。」「この辺りはプロレタリア作家が多かったんだよ。」徳永直、青野季吉、壺井繁治・栄夫妻、黒島伝治等である。太子堂には無名時代の林芙美子や平林たい子も住んでいて、墓地のすぐ脇の長屋跡には随分前に行ったことがある。
     また姫の案内で向島を歩いた時、佐多稲子の旧居跡にも行ったが、稲子に小説を書くよう勧めたのが中野重治であり、それが『キャラメル工場から』となって結実した。二人の交流は中野が死ぬまで続き、中野の臨終を見守った佐多は『夏の栞-中野重治を送る』を書いた。死を間近にした中野を挟み、妻の原泉と稲子の、それぞれの言葉が相手の神経を微妙に刺激する。稲子と中野の間には戦友愛、同志愛の他に、もっと微妙な感情があったのは明らかであり、原泉がそれに過敏に反応するのは仕方がない。しかし原泉が最終的に最も頼りにするのは稲子であることも間違いない。

     千歳通りを南に下ると、千歳烏山駅から南東に下ってきた道と合流し、その手前の東西に走る道とが作る三角地に粕谷地蔵尊がある。世田谷区粕谷三丁目三十三番地。地蔵尊の祠を守るように、大きな水車を半分に切ったような半円の掲示板が建っている。一つには界隈の地図、一つには二十四節季を説明する三角のパネルが嵌め込まれたものだ。なかなか洒落ている。設計コンペによって造られたもののようで、ここはバス停も兼ねている。
     地蔵尊とはいうものの、堂宇には後列に左から如意輪観音(元禄四年)、地蔵(宝永七年、これが主役の地蔵)、青面金剛が並び、前列には賽銭箱を挟んで左に青面金剛、右に地蔵が並んでいる。地蔵の他は他所から持ってきたものだろう。昭和三十五年(一九六〇)にこの地蔵堂を建てたのは地主だったと思われる田中粂之助・ノブ夫妻で、その黒御影石の碑が建っている。

     元禄時代 このあたりの難病及び飢饉厄難に苦しめられた善男善女の多くの人々が飢えに耐え苦難を逃れんとして当地にこの石仏を建て それぞれ願い事を託し心身の安らぎを祈願したというものである。(以下略)

     ここから東に向かう。マンションの脇に立つ木を、オクチャンが立ち止って観察している。「センペルセコイア」の札が掛けられていた。隊長も観察して「ラクウショウとは違うけど、ちょっと似ている」と言う。私が鑑定できる筈がなく、ウィキペディアによれば、セコイア属はヒノキ科あるいはスギ科の一属一種である。

     高さ一〇〇メートル近くにもなる世界有数の大高木。アメリカ合衆国西海岸の海岸山脈に自生する。
     セコイアスギ、センペルセコイア、レッドウッド、アメリカスギなどとも呼ばれる。セコイアデンドロンとの対比からセコイアメスギとも、葉の形が似ている事からイチイモドキとも呼ばれる。(ウィキペディア「セコイア」より)

     これなら、わざわざセンペルと名乗らなくても、単にセコイアで良いのではないかと素人は思ってしまう。メタセコイアというのは違うのだろうかと調べれば、こちらはメタセコイア属である。またラクウショウもスギ科(あるいはヒノキ科)ヌマスギ属であった。
     「トキワツユクサだ。」私は初めて見るが、白くて小さな三菱のような形である。南アメリカ原産の帰化植物で、昭和初期に園芸種として齎されたものらしい。
     そして蘆花公園「恒春園」に到着した。世田谷区粕谷一丁目二十番地。蘆花徳冨健次郎が明治四十年(一九〇七)から昭和二年(一九二七)年に数え六十歳で死去するまで二十年間住んでいた家と宅地の跡である。当時の住所表示は北多摩郡千歳村字粕谷だ。昭和十一年(一九三六)、夫人によって旧宅耕地一切が東京市に寄付され公園となったのである。当時の広さは約四千坪、それが拡張され現在では二万四千坪を越える公園となった。そう言えば蘇峰、蘆花兄弟は肥後国水俣の生まれであるが、姫は熊本地震を予知してこのコースを企画したのではない。
     疎らな林の中で、紋付き袴の男性と花嫁衣裳の女性を女性カメラマンが撮っている。「結婚式かな?」「撮影じゃないですか?」「この頃は女性カメラマンが増えたね。」結婚式なら臨席者もいなければならないが、見渡す限りこの二人しかいない。何かの宣伝用の撮影ではあるまいか。しかし宗匠のように素直に考えた方が楽しい。

    恒春園門出二人のもゆる春   閑舟
    草も木も 穏やかなりし 芦花の森  千意

     明治末期のこの近辺はまさに武蔵野の真っ只中である。蘆花『みみずのたはごと』や『自然と人生』を読むと当時の情景が分る。取り敢えず、この地に住むことになった発端部分を引用しておこう。

     明治三十九年の十一月中旬、彼等夫妻は住家を探すべく東京から玉川の方へ出かけた。
     彼は其年の春千八百何年前に死んだ耶蘇の旧跡と、まだ生きて居たトルストイの村居にぶらりと順礼に出かけて、其八月にぶらりと帰つて来た。帰つて何を為るのか分からぬが、兎に角田舎住居をしやうと思つて帰つて来た。(中略)
     ・・・・・千歳村の石山氏は無闇と乗地になつて、幸ひ三つばかり売地があると知らしてよこした。あまり進みもしなかつたが、兎に角往つて見た。
     一は上祖師ヶ谷で青山街道に近く、一は品川へ行く灌漑用水の流れに傍ふて居た。此等は彼が懐よりも些と反別が広過ぎた。最後に見たのが粕谷の地所で、一反五畝余。小高く、一寸見晴らしがよかつた。風に吹飛ばされぬやうはりがねで白樫の木にしばりつけた土間共十五坪の汚ない草葺の家が附いて居る。家の前は右の樫の一列から直ぐ麦畑になつて、家の後は小杉林から三角形の櫟林になって居る。地面は石山氏外一人の所有で、家は隣字の大工の有であった。其大工の妾とやらが子供と棲んで居た。此れで我慢するかな、彼は斯く思ひつゝ帰った。(『みみずのたはごと』)

     武蔵野の雑木林の美を発見したのは明治三十一年(一八九八)の国木田独歩『武蔵野』で、それ以来多くの文人が武蔵野の自然(と言っても江戸時代に農民によって丹精込めて作り上げられたもの)を愛好するようになっていた。

    東京の西郊、多摩の流に到るまでの間には、幾箇の丘あり、谷あり、幾筋の往還は此谷に下り、此丘に上り、うねうねとして行く。谷は田にして、概ね小川の流あり、流には稀に水車あり。丘は拓れて、畑となれるが多きも、其処此処には角に画られたる多くの雑木林ありて残れり。余は斯の雑木林を愛す。
    木は楢、櫟、榛、櫨など、猶多かるべし。大木稀にして、多くは切株より族生せる若木なり。下ばへは大抵奇麗に払ひあり。稀に赤松黒松の挺然林より秀でて翆蓋を碧空に翳すあり。
    霜落ちて、大根ひく頃は、一林の黄葉錦してまた楓林を羨まず。(徳冨蘆花「雑木林」『自然と人生』より)

     独歩の『武蔵野』と比べてみようか。独歩の自然はロマン主義に染められたものだから、トルストイの影響を受けた蘆花とは肌合いが違う。

     九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌きらめく、――」
     これが今の武蔵野の秋の初めである。林はまだ夏の緑のそのままでありながら空模様が夏とまったく変わってきて雨雲あまぐもの南風につれて武蔵野の空低くしきりに雨を送るその晴間には日の光水気を帯びてかなたの林に落ちこなたの杜もりにかがやく。自分はしばしば思った、こんな日に武蔵野を大観することができたらいかに美しいことだろうかと。二日置いて九日の日記にも「風強く秋声野にみつ、浮雲変幻たり」とある。ちょうどこのころはこんな天気が続いて大空と野との景色が間断なく変化して日の光は夏らしく雲の色風の音は秋らしくきわめて趣味深く自分は感じた。(国木田独歩『武蔵野』)

     独歩なら今でも読めるが、蘆花の文章を今読んでも余り面白くない。どうも蘆花には文体というものへの意識が薄いのではあるまいか。ついでに独歩が強く影響を受けた二葉亭の冒頭も引いておこうか。勿論、二葉亭のものはロシアの白樺林の光景で、三人三様である。

     秋九月中旬といふころ、一日自分がさる樺の林の中に座してゐたことが有ツた。今朝から小雨が降りそゝぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖かな日かげも射して、まことに氣まぐれな空ら合ひ。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思ふと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、無理に押し分けたやうな雲間から澄みて怜悧し氣に見える人の眼の如くに朗かに晴れた蒼空がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けてゐた。木の葉が頭上で幽かに戰いだが、その音を聞たばかりでも季節は知られた。(二葉亭四迷『あひびき』)

     「記念館は後で行きます。」そこを過ぎると秋水書院、梅香書屋、母屋と建物が続き、地蔵が一体置かれている。「茅葺屋根のメンテナンスは大変だよな。」この母屋が「土間共十五坪の汚ない草葺の家」である。玄関を入ると本当に質素な部屋だ。「畳にヘリがないのね。」

     ・・・・・投げやり普請のあとが、大工のくせに一切手を入れなかったので、壁は落ち放題、床の下は吹通し、雨戸は反って、屋根藁は半腐り、些真剣に降ると黄色い雨が漏る。
     越してきたのは去年の此頃雲雀は鳴いて居たが、寒かったね。日が落ちると、一軒の茅屋目がけて、四方から押寄せてくる武蔵野の春寒、中々春寒料峭位の話じゃない。(「国木田哲夫兄に与えて僕の近況を報ずる書」)

     秋水書院と梅香書屋は後で建て増ししたのだが、母屋と高低差があって、それをつなぐ渡り廊下は狭くて勾配がある。秋水書院には大きなベッドが設えてあり、その隣の部屋にはソファも置かれている。応接間兼寝室というのも珍しい。
     「このテーブルが大正三年に三十五円だってさ、今ならどの程度なのかな。」「明治四十五年に死んだ啄木の月給が二十円だった筈だよ。」「それじゃざっと三十五万円ってとこかな。」梅香書屋の和室に入れば、その畳にはちゃんと縁がついている。「来客用なんだな。」
     トイレが面白い。ちょうど腰かけられる高さに、奥行二尺程の板が壁際まで作り付けになっていて、その真ん中に小さな蓋がしてある。蓋を除けると尻より少し小さい穴が開いている。「ここに座ったんじゃないか?」「ロシア帰りだから洋式にしたのかしら。」
     「蘆花の号の由来はなんでしょうか?」オクチャンに訊かれて困ってしまった。確か白いだけで何の取り柄もないということから来ていたのではなかったか。典拠を探してみるとこうであった。

     「蘆の花は見所とてもなく」と清少納言は書きぬ。然も其見所なきを余は却つて愛するなり。東京近郊にては、洲崎より中川尻江戸川尻のあたりかけて、一帯の葦洲なり。秋の頃品川新橋間の汽車の窓より眺むれば、洲崎而東海に沿ふて茫々たる色は即ち蘆花の雪なり。(『自然と人生』)

     私が持っている岩波文庫の『枕草子』には、「蘆の花は見所とてもなく」なんて文は出てこない。調べてみると『枕草子』にはいくつかの伝本があって、この文が出てくるのは能因本だというので探してみた。第七十段である。この章は「草の花は」で始まるので、他の本では第六十四段あるいは六十五段に相当する。

     葦の花。更に見所なけれど、御幣など言はれたる、心ばへあらむと思ふに、ただならず。文字も薄には劣らねど、水の面にてをかしうこそあらめと覚ゆ。

     伊香保温泉の蘆花記念文学館には随分前に行ったことがある。蘆花が何度も逗留し、最後に息を引き取る直前に蘇峰と和解した場所である。そして『不如帰』は伊香保における浪子の描写から始まる。

     上州伊香保千明の三階の障子開きて、夕景色をながむる婦人。年は十八九。品よき丸髷に結いて、草色の紐つけし小紋縮緬の被布を着たり。
     色白の細面、眉の間ややせまりて、頬のあたりの肉寒げなるが、疵といわば疵なれど、瘠形のすらりとしおらしき人品。これや北風に一輪勁きを誇る梅花にあらず、また霞の春に蝴蝶と化けて飛ぶ桜の花にもあらで、夏の夕やみにほのかににおう月見草、と品定めもしつべき婦人。(徳冨蘆花『不如帰』)

     二葉亭四迷『浮雲』が明治二十年(一八八七)で、それから十年経ってまだ口語文体は普及していない。『不如帰』は三十一年(一八九八)に発表されて以来大ベストセラーになり、四十二年には第百版(刷?)を数えるのだが、このことで大山捨松は大迷惑を蒙った。世間は捨松を鬼のような継母だと信じ込み、誹謗中傷する匿名の投書が何通も大山家に届けられた。こういう連中は今でもいるが、モデルは大山家で、あたかも事実そのままであるかのように書いた蘆花の責任である。
     こんな数え歌(手毬歌)を見つけた。子供の手毬歌に歌われるほど『不如帰』は流行したという証明だろう。もちろん歌詞にいくつかのバリエーションはある。『一かけ二かけて三かけて』と似たような感じで歌われたのではないだろうか。

     一番はじめは一の宮
     二は日光東照宮
     三は讃岐の金比羅さん
     四は信濃の善光寺
     五つ出雲の大社
     六つ村々鎮守様
     七つ成田の不動様
     八つ八幡の八幡宮
     九つ高野の弘法さん
     十は東京招魂社
     これだけ心願かけたなら
     浪子の病も治るだろう
     ごうごうごうと鳴る汽車は
     武男と浪子の別列車
     二度と逢えない汽車の窓
     鳴いて血を吐くホトトギス

     実際には、浪子(本名は信子)の結核発症を知って一方的に離縁状を突きつけたのは、三島彌太郎の母親である。捨松の盟友津田梅子がこれに激怒して、三島家に抗議に出かけたこともよく知られている。幼くして渡米し、アメリカで大学を卒業した捨松は日本語が不自由だったが、大山巌の先妻の子との折り合いも良く、家庭は円満だった。

     しかし蘆花からこの件に関して公に謝罪があったのは、『不如帰』上梓から十九年を経た大正八年(一九一九年)、捨松が急逝する直前のことだった。雑誌『婦人世界』で盧花は「『不如歸』の小說は姑と繼母を惡者にしなければ、人の淚をそゝることが出來ぬから誇張して書いてある」と認めた上で、捨松に対しては「お氣の毒にたえない」と遅きに失した詫びを入れている。(ウィキペディア「大山捨松」より)

     蘆花の父敬一は横井小南門下、兄は言うまでもなく蘇峰である。明治元年の生まれだから、漱石や子規の一つ下になる。兄と同じく同志社英学校に学んだ。蘇峰は早々とキリスト教を捨てたが、蘆花は生涯信仰を持ち続けた。ただそのキリスト教信仰がどの程度の深さだったか、私は詳しくない。
     日露戦争の翌明治三十九年(一九〇六)、ヤースナヤ・ポリヤーナにトルストイを訪ね、その家に五泊した。ここに移転してきたのは、トルストイに倣って半農生活を送ろうと志したからである。
     「トルストイってあんまり面白くないよな。」実は私もスナフキンと同じように感じている。日本でトルストイを持てはやしたのは主に白樺派だが、世代は違っても蘆花だって白樺派と精神的には近いと言ってよいだろう。蘆花から羞恥とコンプレックスを抜き去れば実篤になるのではないか。二十世紀後半はドストエフスキーの時代だったし、トルストイは古い、メロドラマだというのが、若い頃の私の感覚だった。
     今の時代に蘆花で読むべきものは多くないが、明治四十四年(一九一一)一月に幸徳秋水等が処刑されて一週間後、第一高等学校で講演した『謀叛論』だけは日本近代史に屹立している。秋水書院もその名は幸徳秋水に因むのである。
     「この講演で影響を受けた学生が多かったんですよね。森戸辰男が書いてたんじゃないかな。」森戸辰男の名を出してくるなんてオクチャンは随分詳しい。蘆花に講演を依頼した学生は弁論部の河上丈太郎(戦後の社会党委員長)と鈴木憲三(後、弁護士)だと分っている。まだ京王線は開通しておらず、河上と鈴木は新宿から千歳村粕谷まで、前夜降り積もった雪の中を歩いて行った。
     当時の弁論部には河合栄次郎も所属していて、蘆花の講演に強く感銘を受けた。当時一年生だった芥川龍之介はこの講演を聴いたかどうか、全く残していないので分らない。主催者が森戸辰男(戦後、文部大臣)だったというのは本人が語っていることらしいが、よく確認できない。

    ・・・・・・幸徳らの死に関しては、我々五千万人斉しくその責を負わねばならぬ。しかしもっとも責むべきは当局者である。総じて幸徳らに対する政府の遣口は、最初から蛇の蛙を狙う様で、随分陰険冷酷を極めたものである。網を張っておいて、鳥を追立て、引っかかるが最期網をしめる、陥穽を掘っておいて、その方にじりじり追いやって、落ちるとすぐ蓋をする。彼らは国家のためにするつもりかも知れぬが、天の眼からは正しく謀殺――謀殺だ。(中略)
    ・・・・・・生かしておきたかった。彼らは乱臣賊子の名をうけても、ただの賊ではない、志士である。ただの賊でも死刑はいけぬ。まして彼らは有為の志士である。自由平等の新天新地を夢み、身を献げて人類のために尽さんとする志士である。その行為はたとえ狂に近いとも、その志は憐れむべきではないか。彼らはもと社会主義者であった。富の分配の不平等に社会の欠陥を見て、生産機関の公有を主張した、社会主義が何が恐こわい?世界のどこにでもある。しかるに狭量神経質の政府は、ひどく気にさえ出して、ことに社会主義者が日露戦争に非戦論を唱うるとにわかに圧迫を強くし、足尾騒動から赤旗事件となって、官権と社会主義者はとうとう犬猿の間となってしまった。(中略)
     諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。(徳冨蘆花『謀叛論』)

     社会主義者以外に、こんなにもはっきりと言明した言論人は他にいない。そして蘆花は幸徳らの助命嘆願書さえ書こうとしていたのである。他には大石誠之助を悼んで、与謝野鉄幹が「誠之助の死」を『三田文学』に、佐藤春夫が「愚者の死」を『スバル』に発表した程度だろう。啄木は弁護士の平出修(『スバル』同人)から膨大な裁判資料を借り出して読み、社会主義への傾斜を強めていく。そして荷風はこれ以後韜晦して生きていくことに決めた。

     小説家ゾラはドレフュース事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。しかしわたしは世の文学者とともに何もいわなかった。わたしは何となく良心の苦痛はたえられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事についてはなはだしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。(永井荷風『花火』)

     墓は後回しにして記念館に入る。蘆花の描いた絵が展示されている。ロシアやエルサレムを旅した時の旅行鞄もある。ビデオから流されているのは新島襄・八重夫妻の話のようだから、『黒い目と茶色の目』事件に関しているのだろう。同志社の学生時代、山本覚馬の妾(後妻)の娘久栄との恋と別れについて書かれた自伝的小説で、蘆花は大反対した新島襄や八重を恨んでいた節がある。久栄への手紙を検閲されていたらしいのだ。この原稿を読まされた愛子は、二十年も経ってまだ蘆花は死んだ久栄を想い続けているのかと、強い衝撃を受けた。
     蘆花は感情の振幅が大きく、生涯蘇峰にコンプレックスと反感を抱き続けた。自信がない癖に狷介で自己主張が激しい。癇癪持ちであった。「正直」ということに異常に拘り、自分が正直であるためには人を傷つけて何も感じなかった。
     集合時刻だ。隣接する公園で少し休憩して、もう一度戻って蘆花・愛子夫妻の墓石を見る。大きな自然石に蘇峰の文字で「徳冨蘆花夫妻之墓」と刻まれている。蘇峰が石板に認めた墓誌(原文は漢文)はこの墓に埋められていて、それを訓読みしたものが掲示されている。

    徳富健次郎墓誌
    (この墓に眠る人は、徳冨健次郎といい号を蘆花と称した)
    一八六八年十二月八日(明治元年十月二十五日)熊本県水俣市で生れ、父は徳富一敬、号淇水、母は久子、矢島氏の出である。兄に徳富猪一郎がいる。蘆花の幼時はひ弱であったが、少年時代から青年時代にかけて、父や兄から訓育を受け教導されて、その性格が形づくられた。中年以降はすぐれた文人として自立し、その著作は、広く世間に読まれ多くの読者に好まれた。
    芦花の妻は愛子、原田氏の出である。夫妻は互いに相たすけ、常に離れることがなかった。しかし、ついに子供には恵まれなかった。伊香保の療養先で、最期に臨んで、兄に後事を頼み、心静かに永眠した。数え六十歳である。ときに一九二七(昭和二)年九月十八日のことであった。蘆花は生まれつき真面目で意志強く妥協を排し、世間の動きに左右されることがなかった。
    また、与えることが多く、愛情をもって人々に接した。文章をつくるにあたっては、さまざまな思いが泉のように湧き出て、次々と言葉が流れ出るようであった。蘆花の生涯は、終始自らを偽らず、思うままに行動し、ひたすら真善美を追及することに努めた人生であった。遺骸は粕谷恒春園の林の中に持ちかえり埋葬された。これは自身の生前からの願いであり、また粕谷の村人たちの希望するところであった。

    兄徳富蘇峰六十五歳 涙をぬぐいつつ書く

     「さまざまな思いが泉のように湧き出て、次々と言葉が流れ出るってスゴイですね。」夫人が感激したようにオクチャンに話しかけている。世間からは賢兄愚弟と評され、長く絶縁状態にあった兄弟は、蘆花臨終の直前に十五年ぶりに再会して和解したのである。それにしても蘇峰の書き方は甘過ぎるのではないか。若い頃の蘆花は愛子に対してDVとも言える暴力を振るった。
     ところで蘇峰は「徳富」と書き、蘆花は「徳冨」と書いた。兄弟で使う文字が違ったのは何故なのか。本姓は「徳富」である。
     ここは粕谷村二十六戸の共同墓地であり、日本基督組合協会千歳教会堂の下曽根信守牧師の墓もある。しかし、蘆花について長々と書き過ぎた。そんなに蘆花が好きな訳ではないのだ。墓を出た所にミズキの白い花が咲いている。

     都道一一八号(調布経堂停車場線)を西に向かい千歳通りを越えると、右に都立芦花高校、左に千歳中学が向かい合っている。「蘆花の名前を付けてるのかよ。」芦花高校は千歳高校(旧府立十二中)と明正高校を統合して、千歳高校の場所に新しくできた学校だった。
     「中学校にラグビー部ってあるのかな?」千歳中学の校舎の壁に、「祝ラグビー部東日本大会出場」の垂れ幕が下がっているのだ。「あんまりないから、直ぐに出場できるんじゃないか」とスナフキンが笑う。
     調べてみるとラグビー部を持つ中学校は意外に多い。東京都の共学校では私立が二十四、公立の中高一貫校で六、私立男子校では十五ある。千歳中学(東京第三位)は昨年の東日本大会に出場したが、第一回戦で茗溪学園中学校(茨城・千葉第一位)に敗れている。
     そして驚いたことに、この大会では國學院久我山中学校を破って、秋田市立将軍野中学校が優勝しているのであった。秋田工業高校が全国大会出場六十五回、優勝十五回と最多を誇る伝統があるから、秋田で盛んなことは分るが、中学ラグビー自体が驚くべきことだったし、将軍野中学の名も知らなかった。調べてみると高清水中学校の全部と土崎中学校の一部を併合してできた学校である。クラリネット吹きのケンちゃんの母校・高清水中学校はなくなっていた。
     街路樹のハナミズキも盛りを過ぎて、多少萎れかかっているようだ。「これ何かしら?」幹にはヒメイチゴノキと名札がつけられ、径一・五センチほどの緑の実がなっている。「初めて見たわ。」ハイジが初めてなら、私だって初めてだ。「イチゴっていうから赤いかと思ってたよ。」どんな実でも未熟なうちは赤くない。
     イチゴノキはバラ科ではなくツツジ科イチゴノキ属であり、ヒメイチゴノキはその矮性だということだ。

     日本においてイチゴノキをはじめとするイチゴノキ属の樹木はごく最近まで馴染のない樹木であったが、近年は小型の園芸品種を中心に園芸店にも出回っている。多くのツツジ科樹木と違い、イチゴノキは石灰質土壌でよく成長する。花期が遅いことにより、温室ではよく植えられる。庭木として成長させるときは、潅木状にするよりむしろ、主幹になる枝を一つ選択して他の萌芽を剪定し続けることが重要である。イチゴノキは水捌けのよい土壌と適度な水量を好む。(ウィキペディア「イチゴノキ」)

     五叉路の榎交差点から先は急に狭くなり歩道もなくなった。狭い道をバスやトラックが行き違うために動きが止まっている。祖師谷公園まで五百メートル程なのだが、バスが道路端いっぱいに寄ると、人間はとても通ることはできない。この道はなかなか勇気がいる。しかしその間を自転車で抜けて行く人、自転車に分乗した子供を連れた夫婦も通っていく。
     「そこです。お腹が空きましたか?」確かに腹が減った。もう十二時だ。祖師谷公園は旧東京教育大学農場跡地を中心に作られた公園で、上祖師谷三、四丁目・祖師谷六丁目・成城九丁目に跨っている。
     平成十二年(二〇〇〇)の大晦日に、この近くで世田谷一家四人殺人事件が起きている。本来なら用地買収が済んで公園に吸収されていなければならないのだが、事件が未解決のため、それができないでいるらしい。
     藤棚のそばでは若い衆がスケートボードをしているから、ここで飯を食うのは嫌だな。スケートパークという一画らしいのだが、すぐそばに藤棚があり薄紫のフジの房が垂れ下がっている。ゆっくりフジの花を見たい人はいるだろうし、場所の設定がおかしいのではあるまいか。「それじゃ少し先の山の方に行きましょう。」
     テニスコートの横を通ると、この辺のハナミズキは今が盛りのようだ。右手には仙川が流れている。そして小高い森の裾に広がる原っぱに出た。小さな子供連れの家族が多い。「ここがいいよ。」女性陣はベンチに座り込んだが、男性陣は原っぱの真ん中にビニールシートを広げる。「なんで皆同じ方向を向いてるんだ?」「ちょっと坂になってるからだよ。」
     飯を食い終わった頃、マリーが煎餅などの袋を大量に運んできた。千意さんは「女の子優先に」と自家栽培の蕗を取り出した。「女の子って言うかな?」同年代の女性をどう呼べば良いかは実に難しい問題である。「このフキはアク抜きしなくていいの?」「大丈夫。私にはアクがないから。」「どうやって食べるんだい?」隊長はフキを貰ったものの料理の仕方が分らない。「普通に茹でればいいです。」新宿まで行かなければならない桃太郎はここで別れて行く。
     「それじゃ集まって下さい。」十二時四十分。「ここで隊長からお話があります。」隊長はリュックから何やら紙の束を取り出した。もしかしたら里山ワンダリングの会も百回になったのだろうかと考えたが、しかし違った。隊長に代わってリーダーを務めてくれる人、過去にやってくれた人に、隊長から表彰状が贈られたのである。千意さん、あんみつ姫、ヤマチャン、ロダン、スナフキン。全て手書きで、名前の色をそれぞれ変えてある。「十冊買ったんだけど、そんなに使わないから」と、副賞には手帳がつけられた。今まで隊長にばかり負担をかけてきたのだから、彼らの働きは本当に有難い。私はできないから精一杯拍手するだけである。

     リーダ補佐の表彰とや春の風  閑舟

     仙川沿いの遊歩道にはコデマリの白い花がきれいに咲いている。「サギだ。」「水もきれいね。」「カモもいる。」「カルガモだろう。」翼の間から青い羽根が見える。右岸は崖線になっている。鳥の啼き声が聞こえてきた。シュピーシュピーか。「シジュウカラだ。」「私のお財布です。」「ン?」「始終、空。」
     川を離れて住宅地に入ると住所表示が成城になってきた。細い道が整然と交差する静かな住宅地で、同じような光景が続いている。「ムベだよ。」私が花弁だと思っていた厚ぼったい六弁はガクであった。「アケビじゃないの?」ムベとアケビでは花の形が随分違うと思うのだが、ムベもアケビ科であった。「むべなるかな。」「むべ山風を嵐と言ふらむ。」

     成城の午後静かなり郁子の花  蜻蛉

     「曲がり角が分らなくなっちゃう。」同じような家が並んでいて、目印になるような建物がないのだ。姫は適当なところを右に曲がる。スナフキンがスマホで検索を始めた。「住所は?」「成城五丁目です。」ここは六丁目だからもうすぐか。成城の中でも特にこの辺りは高級住宅地だということになっている。
     「これをまっすぐ行けばいいんだよ。」「あっ、あそこです。」左に曲がると大きな生垣が続く中に、土壁に瓦屋根を載せた立派な門があった。猪俣庭園に着いたのだ。世田谷区成城五丁目十二番地十九。「猪俣って猪俣公章かな?」「それは違うだろう。」猪俣公章は初期の森進一の曲の多くを作った。酒と借金に塗れていた水原弘を復活させるために『君こそわが命』を作ったのも猪俣である。話はズレてしまうが、水原はヤクザ、高利貸し、興行師たちによって酒漬けにされた挙句、莫大な借金のために生活そのものまでヤクザの管理下に置かれた。その悲惨な生活と死については、竹中労が怒りを込めて詳しく書いていた(今、その本を想い出せない)。

     旧猪股邸は、(財)労務行政研究所の理事長を務めた故・猪股猛氏ご夫妻の邸宅として建てられたものです。
     主屋は、文化勲章を受章した建築家・吉田五十八氏の設計によるもので、武家屋敷風の趣がある数寄屋造りの建物です。内部は、伝統的な和風建築に見られる柱や長押、天井の回り縁といった部材をできる限り取り除き、すっきりとした吉田流と言われる近代数奇屋の特徴が随所に見られます。
     また、邸内には、アカマツやウメ、モミジをはじめとする多くの樹木や、庭に面した一帯にスギゴケを植え、一部に水路を配し、その廻りに園路を巡らせた回遊式の日本庭園となっています。「世田谷トラストまちづくり」http://www.setagayatm.or.jp/trust/map/pcp/

     昭和四十二年(一九六七)の建築で、昭和五十七年に増築された。木造平屋建て、一部RC造、敷地は五百六十四坪、延床面積百十二坪。猪俣氏夫妻の死後、子息によって世田谷区に寄贈されたのである。「相続税がスゴイからね。」そして現在は無料で開放してくれている。
     引き戸は開け放たれていて、硯石を敷き詰めた玄関から入る。姫はボランティアのガイドを頼んでいた。ちょうど定期的に開かれるお茶会とかち合ったので、邸内には人が多い。案内してくれる人は八十歳ほどの男性で、声が大きく、吉田五十八がいかに素晴らしい建築家であったかを力説する。数寄屋建築を近代化した功労者だと言うのである。
     エアコンは細い竹で隠され、床の間の幅木部分に空気の抜け道を作ってある。夫人用の洋間と主人用の和室の境はウォーキングクローゼットになっている。障子はすべて雪見障子だ。
     室内が素晴らしいことは言うまでもないが、開口部が広く、どこからでも広い庭が見渡せるようになっている。客はそこに座って茶を飲むのだ。庭は三つの区画に分かれており、一つは実のなる樹木を植えたもの、一つは冬になれば雪囲いが見られるもの、そこから光琳垣で仕切られた枯山水になっている。

     風薫る数寄屋造りの茶室かな  蜻蛉

     茶室を二つ作るほどだから、猪俣猛氏は茶道には造詣があった。というより、平戸松浦藩に伝わる鎮信流の教師の免状を持っていたと言う。要所々々にはさりげなく花が活けられている。
     吉田五十八が設計した邸宅は多い。政治家では大磯の吉田茂邸、御殿場の岸信介邸、芸術文芸分野では鏑木清方邸、川合玉堂邸、梅原龍三郎邸、熱海の岩波重雄別邸(惜櫟荘)ほか枚挙に暇がない。
     「素敵だったわね。」「それにしても金がなくちゃ造れないよな。」労務行政研究所の理事長というのがどの程度のステイタスなのか分らない。一般財団法人だが、普通には『労政時報』の出版社と言って良いだろう。現在の会長が猪俣靖、理事長が猪俣宏だから同族企業である。
     「こういう所を無料で開放してるんだからいいね。」「世田谷は金があるんだよ。」「また来たいわね。」後で地図を確認すると、成城学園前駅北口から桜並木の道を北に向い、駅入口交差点を左に曲がる。成城六丁目の信号を越えて二つ目の角を右に曲がればよい。「駅から近いんですよ。」
     「成蹊の辺りにも似てるね。」成城はかつて砧村大字喜多見だったが、実質的に小原國芳が成城学園を作った(理事長は澤柳政太郎)ことから開発された町である。学園街としては似たような感じになるだろう。大正自由教育運動の拠点であるが、大学を創ると同時に宅地開発もして利益を生み出すのが小原の手法であった。
     ただ三菱によって開発された成蹊の辺りや澁澤栄一等によって開発された田園調布とは違い、ここには財閥の手は入っていない。古くから成城に住む住人の間は成城憲章という協定を作った。塀はコンクリートではなく生垣にすること、地下室は作らないこと等、その協定で町の景観を維持してきたのである。しかし時代はいつまでもそれが存続することを許さないだろう。
     小原國芳について私は間違えていて、玉川学園を追われて成城を作ったと言ってしまったが、事実は違っている。小原は成城学園の経営と並行して新しく玉川学園を創設したのだが、建学理念の異なる学園二つを運営するのは明らかに無理だった。これが成城の学園内に猛反対を生み、学内を二分した。これを成城事件と呼び、要するに小原は追放されたのである。またこの時に成城を離れた教職員によって和光学園が作られた。

     明治の末ごろまでは北多摩郡砧村大字喜多見と呼ばれ、武蔵野の雑木林と原野が広がっていた。
     調査により、この地に小田急線が開通することを突き止めた小原國芳の尽力で、学園建設資金捻出のため、周辺の土地二万坪を購入し、区画整理をして売り出す。当時、この土地をみた小原は、「雑木林、家一軒もない、この百二十丁歩の高台、地価は安く、家はなし、いい高台で、西に富士の秀峰、足下は玉川の清流、全く不思議な土地でした」と述べている。小原は、さらに、中央鉄道(現在の小田急電鉄)と交渉して学園前駅の開設の約束を取り付けた。学園用地二万四〇〇〇坪のうち一万坪は地元の大地主の鈴木久弥の寄付によるものであり、小原は鈴木から現金一万円(当時、公務員の給与は七十五円)の寄付をも受けている。
     ちなみに、玉川学園はこの成城学園都市建設を主導した小原國芳がその手法を応用して開設した学園都市である。
     なお、成城学園が手がけて売り出したものは駅北側で、駅南側(現:成城一丁目から成城三丁目)は鈴木久弥によるものである。成城一丁目(東京都市大付属中・高校、区立砧中、科学技術学園高等学校、などの所在地)はかつての御料林であり、学習院の移転話も持ち上がっていた。
     当初は、柳田國男、野上弥生子、後に、大江健三郎、大岡昇平、川上宗薫、中河与一、水上勉、横溝正史らが移住し、文士村の様相を呈していた。
     一九三二年に東宝撮影所ができてからは、黒澤明、市川崑、本多猪四郎、志村喬、三船敏郎、加東大介、加山雄三、石原裕次郎、宇津井健、有島一郎、藤田進、司葉子、深作欣二、大林宣彦らが居住するようになった。また、映画産業と関係が深い芥川也寸志や松村禎三、小澤征爾のような音楽家も住むようになった。(ウィキペディア「成城」より)

     大岡昇平は旧制成城高校の卒業生である。『成城だより』には、大江健三郎が時々訪ねてきたり、野上弥生子と花見をした記事が見える。「高峰秀子も住んでたんだよ。」スナフキンは少し前に『わたしの渡世日記』を読んでいたから、記憶は確かだろう。
     成城学園に突き当たって右に折れ、駅前から更に成城通りを南に下る。腕を回していると、「鍼がいいんじゃないか。そこに鍼灸院がある」とスナフキンが笑う。体にハリを入れるなんて、そんな恐ろしいことはできない。「俺は一度だけやったけど、あっという間に痛みが取れたよ。」そんなものか。
     「蜻蛉の好きな花ですね」と姫が笑うのは、ビヨウヤナギではなくモッコウバラである。ビヨウヤナギにはまだ少し季節が早い。モッコウバラはさっきから目についていて、白い花もあった。「この頃増えてきたね。」「そうですね。」

     道はかなり急な下り坂になった。世田谷通りを越え喜多見大橋を渡る。下を流れるのは野川だ。「ここから十分程ですよ。」そう言っているうち、すぐに次大夫堀公園民家園に着いた。世田谷区喜多見五丁目二十七番地十四。
     次大夫堀とは六郷用水のことである。慶長二年(一九五七)から十六年にかけ、小泉次大夫が多摩郡和泉村(狛江市元和泉)の多摩川から世田谷領と六郷領に至る用水路を掘削した。 延長は二十三キロメートル、四十九ケ村千五百ヘクタールを潤した。昭和三十年代以降の宅地化によって現在では殆どが消滅したが、その用水の一部を復元し、古民家を移設したのがこの公園である。
     用水はこの辺では入間川(現野川)の流路をそのまま利用していたらしい。野川の流路はかつてと少し変わってしまったようなので、野川から水を引いて現在地に復元したと言う。
     「時間は三十分、自由に散策して、ここに戻って来て下さい。」長屋門を潜る。元々は納屋と穀倉と別々に建っていたものをつないで長屋門にしたものらしい。
     小さな鍛冶屋に立ち寄ると男四人が働いている。一人は鎌の刃を叩いて焼き入れしている。一人は真っ赤に焼けた地金に鋼を載せて叩いている。これを鍛接、鋼付けと言う。
     「あの暇そうにしているのは、フイゴを操作してる。」説明してくれる人が、笑いながらフイゴの模型を取り出す。何もせずにただ座り込んでいる人は何だろう。
     「これはタタラって言うんじゃないの?」隊長が質問すると「タタラ(鑪)は製鉄、鍛冶屋が使うのはフイゴです」と答えが返ってくる。但し、タタラは踏鞴とも書き、これは足踏みの鞴(フイゴ)の意味である。たぶん大型の分だけ高温が得られるのではないか。砂鉄から玉鋼を作り出す。
     フイゴの原理は水鉄砲のようなものだが、筒の途中に二つの排気口があって、ピストンを押す時と引く時の両方で風が送られるのが工夫だ。これを操作することで温度の調節ができる。「大体千二百度になりますね。」
     鉄に鋼を貼り付けるのは何故か。鉄は炭素含有量が少なく(〇~〇・〇四パーセント)、焼き入れしても充分な硬度が得られない。鋼(炭素〇・〇四~二・一パーセント)は焼き入れすると硬度が増し切れ味がよくなる。それなら刃物は鋼だけで作った方が簡単だが、鋼は高価なので刃の部分だけに使うのである。今作っているのは切り出しだから、片側だけに鋼を貼り付ける。

     民家園の小鍛冶の語り老いの春 閑舟
     鍛冶の音空に響くや鯉幟  蜻蛉

     ここで大分時間を食ってしまったが、小鍛冶の現場を見るのは初めてなので面白かった。
     林のそばでは丸太の皮を剥ぐ作業をしている人たちがいる。水を張った田の上には鯉幟がはためいている。
     オクチャンが小さなスケッチブックを取り出して見せてくれる。「懐かしいな。」ロダンが感激するのは、スケッチブックの表紙なので、私にしても昔懐かしいものだ。「これがあると便利なんですよ。」絵が描ける人は羨ましい。私は高校の選択科目で美術を選んだが、全く描けなかった。
     大急ぎで田んぼや民家二軒を走るように回り旧安藤家住宅に近づくと、「ここですよ」と、土間でジュースを飲んでいる姫が声をかけてきた。「みかんのサイダーですよ。」私はそんなものは飲まない。座敷には五月人形が飾られている。ロダンとスナフキンは、上り框の板の間の上に仰向けに寝てしまう。
     「ジュースは座敷では飲まないで下さいね。」親子連れがジュースをもって座敷に座り込んだのだ。「寝ちゃいけないって言われるのかと思った」とスナフキンが笑う。家族は慌てて縁側に退避したが、案の定、畳にジュースをこぼした跡がある。「そこ濡れてますよ。」余計なことだが注意すると、父親が慌てて拭きに戻った。

     三時だ。「それでは出発しましょう。」さっきの道を戻る。「あの坂道がきついですよね。」しかし実際に歩けばそれほどきついわけでもなく、あっという間に成城学園前駅に着いた。三時半、一万七千歩である。

     「どこにしましょうか?」新宿まで行ってしまうと、姫の帰途が不便になる。この辺で飲める店はないか。スナフキンがスマホで検索したが、「店はあるけど、やってるかどうか分らない」と言う。取り敢えず歩いてみるか。
     「そこの笑笑はやってないかな?」「見て来るよ。」パレ・ブラン成城ビルの三階まで上がると、「笑笑」はやっていないが芹生(せりう)と言う店の明かりがついている。「やってますか?」中に入っても人影がない。何度か声を掛けるとやっと女性が出て来た。「大丈夫ですよ、何人様ですか?」「九人。」
     エレベーターで下に降りて全員を集めてもう一度店に入る。隊長、あんみつ姫、カズチャン、千意さん、スナフキン、ヤマチャン、宗匠、ロダン、蜻蛉。個室に六人掛けの掘り炬燵式テーブルが二つ置いてある。九人一緒には座れないので、千意さん、ヤマチャン、宗匠がもう一つのテーブルに着いた。
     看板では寿司がメインの店のように見えたが、メニューを見れば普通の居酒屋である。「値段もリーズナブルですよ」とロダンが言う。メニューには成城大学生お薦めの一品なんていうものも記されている。「学生が来るんだよ。」
     「板場の職人がまだ来てないので、お刺身なんかは時間がかかります。」それでも良い。まずビールで乾杯し、今日のリーダーの健闘を讃える。なかなか良いコースだったではないか。焼酎は何にするか。壁に「白水」のポスターが貼ってある。「南阿蘇の酒だから震災に思いを馳せようよ。」ポスターを点検していたスナフキンが言う。一升瓶で三千五百六十円なら、四合瓶二本より割安だ。「そんなに飲めるかな?」「いつも四合瓶を二本飲むんだぜ。大丈夫だよ。」
     注文すると「一升瓶ですよ」と驚かれたが、承知の上で注文している。「白水」なんて誰も知らなくて、スナフキンとヤマチャンは日本酒だと思ったらしい。「セットは何になさいますか?」セットとは、お湯割りか水割りかということであり、つまり白水は八代不知火蔵の麦焼酎であった。後で調べると、「白川水源の水で仕上げました。 やさしい麦の香りとやわらかくまろやかな味わいが特長の本格むぎ焼酎」である。
     白川は南阿蘇村白水地区から有明海まで流れる川である。流域中には広範囲に湧水が見られ、中でも白水地区の吉見神社境内にある水源が全湧水中最大規模であると言う。しかしこの地震でどうなったか。

     「若い頃は焼酎なんかなかったですよね」とロダンが話し出したので、話題は若い時分の酒の事情になっていく。私が初めて口にしたのは、九州出身者が故郷から持ってきた球磨焼酎だったが、臭くてきつくて、とても飲めるようなものではなかった。「お店でも出さなかったでしょう。」ホッピーを飲ませる店はあっただろうが、私は足を踏み入れたことがない。それにホッピーで割るのなら甲類ではなかったか。
     「安い日本酒はやたらに甘くてさ、テーブルに銚子を置くとべったりくっついたりした。」一級二級の区別があって(特級もあるが勿論私の世界には入ってこなかった)、一合百円の無名の二級酒は飲めば必ず悪酔いして吐いた。それが分っていて何故飲むのか。他に楽しみがなかったのである。麻雀と酒しかなかったのだから、実に非生産的な生活だった。
     ウィスキーはどうだったか。「レッドは不味い酒だったな。」サントリー・レッドが不味いのは常識で、私は同じ値段ならハイニッカを飲んだ。「寿司屋でもウィスキーのボトルキープがあった。」山口瞳や柳原良平がサントリーの宣伝を担当していた時代である。ウィスキーは今よりももっと普及していた。
     「ダルマはブルジョアの酒でしたよね。」スナックで少し上の世代がサントリー・オールドを飲んでいるのを見ると、コノヤローと思った。当時の売価で、レッドやハイニッカは四百円か五百円、ホワイトが八百円、角瓶が千四百五十円、オールドが千九百円。これをボトルで入れればおよそ二倍と言うところだろう。
     「私の時代にはホワイトホースでした。」姫とは酒の飲み方も随分違う。男と女の違いに加え、飲み始めた年代の差は大きい。輸入酒に対する関税が引き下げられ、更に為替レートの変動で今ではスコッチも安くなった。しかしジョニー・ウォーカーの黒ラベルが一万円を超えた時代(赤でも五千円か)である。輸入のスコッチ・ウィスキーを飲もうなんて料簡はハナからなかった。
     阿佐ヶ谷の「クール」ではホワイトが千五百円でキープできた。ジュークボックスでママ(私たちはお姐さんと呼んでいた)と一緒に松尾和子の『再会』を歌った。夜行列車で秋田に帰る時には、お握りを作ってくれた。酔ってバカなことをすると叱られた。
     代々木上原にはトリスバーの名残のような小さなスタンドバーがあって、百円でトリスのシングル一杯にピーナツ三四粒をつけてくれた。その頃にウィスキーの水割りを飲んだ記憶がない。ストレートかオン・ザ・ロックス(オン・ザ・ロックとはおかしいと言うのが山口瞳の説)だったと思う。水割りばかりになるのは社会人になってからではなかったか。
     このバーには喫茶店「シャドー」のマスターが連れて行ってくれたのだ。マスターには寿司屋やクラブにも連れて行って貰った。「シャドー」の常連の早苗さんは新宿の「クインビー」の売れっ子で、そこに連れて行ってくれたのはタクシー運転手のTさんだった。「シャドー」にはみっちゃんがいた。
     「ジンが流行った時もあった。」カクテルを飲ませるバーではジンが基本だった。「ジンフィーズとかジンライム。」ジンをストレートで飲むとかなり酔う。池袋のマンモスバー「パブ・エリート」でYとMと三人で飲むと一番弱いのが私で、「あんまり無理しちゃダメよ」といつもMに諭されていた。バーテンダーのOさんは、私とMのために知らないカクテルを作ってくれた。
     これらの店に、新宿区役所裏の「吉田」(奈々子がいた)、店の名は忘れたが歌舞伎町のキャバレーのリリーを加えれば、ゴーリキー風に(あるいは五木寛之『風に吹かれて』風に)、私とYにとっての「私の大学」だったと言っても良い。
     先月、池袋で飲んでいて、「お姐さんに電話しよう」と言い出したのはYである。Yの妻が電話番号を知っていたのだ。三十数年振りで耳にするお姐さんの声は、ちっとも変っていなかった。坂戸に住んでいるというからそのうち会えるだろう。どうも気分が懐古的になってくる。これも晩春の故だろうか。
     一升の焼酎が空になって、一人三千円なり。

     「カラオケに行きたいな。」姫の言葉に「行きますよ」と千意さんがすぐ応じる。「私は明日仕事なんですよ。」「俺だってそうだよ。」ロダンを無理やり拉致して(これはどうもロダンの戦略ではなかろうか。ルーチンになっている)、隊長、スナフキンと合わせて六人。チェーンのカラオケ店ではないから私が持っているカードは役に立たないが、ロダンがうまく交渉した。
     今日の私はかなり懐古的になっているので、田端義夫の『帰り船』(清水みのる作詞・倉若晴生作曲)と三橋美智也の『おさげと花と地蔵さんと』(東条寿三郎作詞・細川潤一作曲)を歌った。自分でも選曲の理由が分らない。「オヤジの歌だね。」
     『帰り船』(昭和二十一年)は復員船の歌である。『おさげと花と地蔵さんと』(昭和三十二年)は、歌詞には一言も出てこないが明らかに集団就職の歌である。中学を卒業して東京に行く主人公を、「黙ってみんな泣いて」見送っていたのである。春日八郎『別れの一本杉』(昭和三十年)も、少し時代は遡るが岡本敦郎『白い花の咲く頃』(昭和二十五年)も、泣いて見送ってくれるのはお下げ髪の少女であった。(『別れの一本杉』にはそんなことは書いていないけれど。)
     千意さんは会う度に上手くなっている。ちあきなおみ版の『黄昏のビギン』(永六輔作詞・中村八大作曲)は、私は歌えない。水原弘の原曲と違って、ちあきなおみはアクセントを極端に抑えて淡々とスローで歌うので難しいのだ。
     隊長の『中之島ブルース』も久し振りに聴いた。姫、ロダン、スナフキンもかなり歌って、二時間で一人八百六十円は安い。アルコールを飲まずに、ソフトドリンクのドリンクバーにしたお蔭である。
     「酔いが完全に醒めてしまった。もう一軒行こうか?」「俺は背中が痛いから、今日はもう無理だな。」「それじゃしょうがない。」スナフキンは物足りなさそうな顔をしながら下北沢で降りて行った。姫は代々木上原で降り、他の皆とは新宿駅で別れ、私は一人で山手線に乗る。

    蜻蛉