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    平成二十八年五月二十八日(土)  鶴見

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2016.06.15

     旧暦四月二十二日、小満の次候「紅花栄」。小満とは、「万物盈満すれば草木枝葉繁る」謂である。こころは先週の金曜日に満二歳になったので、小さなバースディケーキを買ってささやかに祝った。ジイジもパパ(私は絶対にパパママなんて呼ばせなかったが)も、飲むことが目的である。まだ口は上手く回らないが、こちらの言うことは大体理解できるようになってきた。
     集合場所は大倉山駅だが、それって札幌かと思った程で私は全く何も知らない。ネットで調べて、東横線の武蔵小杉の先、菊名の手前であると分かる。鶴ヶ島からなら、以前は池袋から渋谷に出て東横線に乗り換えなければならず、乗り換えも面倒で時間もかかった。しかし森林公園駅発の元町・中華街行の直通電車が出来たお蔭で、この方面は随分便利になった。
     鶴ヶ島発八時二十八分の電車に乗る。東武東上線は和光市から副都心線に入り、渋谷からはそのまま東横線の特急になる。途中で改札を通ることもなく、武蔵小杉で各駅停車に乗り換えるだけだから面倒がない。その乗換の時にスナフキンと一緒になった。案の定、昨夜の飲み過ぎで目が窪んでいる。九時五十分大倉山着。所要時間は一時間二十二分、八百九十円である。普通に池袋・渋谷で乗り換えるコースだと、乗り換え時間を含めて一時間四十分はかかるだろう。料金も九百四十円になる。
     首都圏の私鉄と地下鉄とは複雑怪奇に乗り入れていて、その都度ちゃんと調べないと効率的に動けない。「便利になった代わり、とんでもない場所の事故が影響するんだよ。」ホントに、川崎辺りの事故で東上線が遅れてしまうことが良くあるのだ。
     今日は千意さんの企画で、鶴見区北西部の丘陵地帯から南端の海に及ぶコースだ。千意さんが以前企画した鎌倉も山から海までのコースだったから、こういう起伏の多い土地が好きな人である。鶴見なんて殆ど縁がなかった。鶴見区は横浜市の最東端に位置し、北は川崎市川崎区・幸区と、西は横浜市港北区・神奈川区と接している。
     山あり谷あり、総行程は十五キロになると案内されているから、女性陣の参加は少ないだろう。隊長の姿も見えないのは、やはり腰の調子を考えて大事をとったのではないか。桃太郎は温泉に四回も入って最後に湯船から出る時にギックリ腰になったというから、今日は無理だ。それに坂道の多いコースではあんみつ姫も難しい。
     定刻のちょっと前に千意さんの電話が鳴った。隊長からの連絡で、菊名にいるから十分程遅れると言う。上りの電車は少し遅れているようだったが、問題なく十時十分頃には隊長も姿を見せた。「降りたらさ、飯能行なんてあるから驚いたよ。」西武線も小竹向原で副都心線に接続するのだが、隊長は横浜線を使って来たらしい。国分寺、八王子を経由したのだろうが、これは時間もかかるし料金は一番高い。
     駅の所在は横浜市港北区大倉山一丁目一番一。大正十五年(一九二六)に開業した当時は太尾町で、駅名も太尾駅だった。そして昭和七年(一九三二)に大倉山駅に改称する。名称は大倉邦彦が設立した大倉精神文化研究所(大倉山公園内)に由来するのだが、この名前を知らなかった私は無学である。私は勝手に大倉喜八郎に由来するのかと思っていた。

     明治十五年(一八八二)四月九日、素封家江原貞晴の次男として、佐賀県神埼郡に生まれる。昭和四十六年(一九七一)七月二十五日、八九歳で没する。号は、三空居士。
     明治三十九年(一九○六)、上海の東亜同文書院商務科を卒業後、大倉洋紙店に入社。明治四十五年(一九一二)、社長大倉文二の婿養子となり、大正九年(一九二○)に社長に就任した。
     わが国の教育界・思想界の乱れを憂えた邦彦は、私財を投入して東京の目黒に富士見幼稚園を開いたり、郷里の佐賀に農村工芸学院を開設したほか、昭和七年(一九三二)に大倉精神文化研究所を開設した(昭和十一年に文部省所管の財団法人として認可される)。邦彦は、所長として研究所の運営・指導にあたり、各分野の研究者を集めて学術研究を進めるとともに、精神文化に関する内外の図書を収集して附属図書館も開設した。また、昭和十二年(一九三七)、東洋大学学長に就任し、在任は二期六年にわたった。
     昭和二十年(一九四五)、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘禁されたが、昭和二十二年に嫌疑がはれて釈放され、二十七年に研究所理事長兼所長に復帰した。
     昭和三十三年(一九五八)、タゴール記念会の理事長に就任し、昭和三十六年には大倉洋紙店会長となり、三十七年の皇學館大學の創立に際して学事顧問となった。三十九年から開催された大倉山座禅会では、その指導にあたった。(大倉精神文化研究所「創立者大倉邦彦」http://www.okuraken.or.jp/zaidan/ookura_k/)

     集まったのは千意さん、サクラさん、イッチャン、ハイジ、隊長、ダンディ、スナフキン、ヤマチャン、宗匠、ロダン、蜻蛉の十三人である。「精々五六人かと思っていましたが、大勢集まっていただき、有難うございます。」サクラさんは久し振り、イッチャンは江戸歩きも含めてこの所ほぼ毎回参加している。
     天気予報では終日薄曇りで気温もそれ程上がらない筈だ。千意さんのリュックからは、ニラのような細い葉が沢山出ている。また何かをくれる積りだな。豪農と友達になると良いことがいっぱいある。「やっぱり横浜は、埼玉とは空気が違うわね。」ハイジやイッチャンは横浜という地名に幻惑されているのではないか。そんなに埼玉を卑下することはないだろう。私には首都圏近郊の普通の駅前のように見える。
     「埼玉を自虐ネタにしたマンガがあるのよ。昔のマンガだけど。」ハイジが言うのは私も知っている。魔夜峰央『翔んで埼玉』が最近評判になっているらしいのだ。魔夜峰央は『パタリロ!』で知っている人がいるかも知れない。耽美的なボーイズ・ラブを主として、その独特な絵柄とギャクのセンスには一定の読者はいるだろう。三十年も前に発表したものが、最近復刊されて五十五万部も売れている。
     「東京の隣に埼玉県というところがあります。聞いたことがない?無理もありません。なにしろ埼玉というのはたいへんな田舎なのです。」これが始まりである。「生まれも育ちも埼玉だなんて、おお、おぞましい。」
     埼玉県民は一生に一度は東京に行きたいと願っているが、通行手形がないと東京に入れない。死を間近にした老人は床の中で「死、死ぬ前に一度、山手線に乗ってみたかった」と呟く。隠れ埼玉県民を見つけるために、サイタマ狩りが行われ埼玉県知事の写真を踏絵にする。小型春日部蚊が媒介するサイタマラリヤは埼玉特有の風土病だ。埼玉県民が病気になっても、医者には「その辺の草でも食わせておけ」とあしらわれてしまう。「あたしたちは牛じゃない。」虐げられ続けた埼玉県民はついにレジスタンスに立ち上がるのである。
     笑われるのは埼玉だけだとロダンも安心してはいられない。「茨城?茨城っていうと埼玉のさらに奥地にあるといわれる、あの日本の僻地?」「茨城では納豆しか産出しないのです。」茨城の原住民は一日一回、水と納豆だけの食事をするが、一生に一度でいいから白い飯に醤油をかけて食ってみたいという「壮大な夢」を持つ少年もいる。「茨城へ行く方法は一つしかありません。埼玉のどんづまり奥秩父から常磐線とよばれるローカル線に乗って無人の荒野を三日三晩走ります。」もう無茶苦茶であるが、埼玉県知事は「悪名は無名に勝る」と発言し、その他自治体でも割に好意的に迎えられているようだ。

     最初からおかしな話題になってしまった。大倉山公園とは逆に東の方に向かい、住宅地を抜け綱島街道を渡る。師岡熊野神社のちょうど向かいにある池の前でリーダーは立ち止まった。「いの池」だ。かつて「い」「の」「ち」と三つの池があって、合わせて「いのちの池」と呼ばれたようだが、今は「ち」がない。掲示板によれば、神社南側の丘陵は沖積低地が広がり、古くから水田が開けていた。その灌漑用の溜池である。
     無理矢理こじつけて「い」の字のような形だと言うのである。「アッ、アオサギがいる。」すぐ近くにアオサギが殆ど動かずに浮いている。時折首を伸ばすから生きているのは間違いない。「こんなに近くで見るのは珍しいわね。」脇には弁天(市杵嶋姫命)の小さな祠があり、舟形光背の弁天像が鎮座している。
     そして道を渡って熊野神社に入る。横浜市港北区師岡町一一三七番地。関東の熊野信仰の拠点だと言う。「筒粥だって。」宗匠の言葉で掲示板を見ると、一月十四日にはその年の豊凶を占って「筒粥」という神事が行われる。天暦三年(九四九)から続くというから相当古い。粥占は全国各地の神社で行われているらしいが、その一種である。

     熊野山縁起によると  「我は熊野権現也 来る十四日の晩氏子集りて 営む所の耕作の品 二十七本の筒に印して 我が神木なる梛木の本に釜を据へ 筒と米と梛木の葉と相雑て 暫く煮て筒を破りて 其年の吉凶をかんがえよ 又当百八郷の総社と現はる氏子に 如意吉祥を施す事専一とする也」とあります。
     神事は古式に則り、境内に大釜を据え、午前四時に御神木の梛の木の五つ葉と二十七本の葭の筒とお米一升をいれます。そして、御本殿裏の「の」の池の御神水を加えて粥を炊きます。
       午後二時、粥が炊き上がると、神事が開始され、宮司が大釜の前にて大祓詞を奏上し、九字を切って釜の中から葭が引き上げられ社殿に運びます。そして、氏子総代立会いのもと、引き上げられた葭の筒を一本ずつ割って、その中に粥がどの位入っているかで吉凶を占います。(師岡熊野神社http://www.kumanojinja.or.jp/P2%20tutugayu/tutugayu.html)

     寛政十年(一七九八)造の石造鳥居には「関東随一大霊験所熊埜宮」の額が掲げられている。石段は三十段程だ。広い境内は鬱蒼とした森林に囲まれ、「師岡熊野神社の社叢林」として神奈川県の天然記念物に指定されている。拝殿は明治十七年(一八八四)、覆殿は平成十七年の大修理で一新したと言う。権現造りの本殿は正徳二年(一七一二)の建造だ。「菊のご紋がありますね。」ロダンが目敏く見つけた。なかなか格式の高い神社である。

     この神社は聖武天皇神亀元甲子年(七二四)に全寿仙人によって開かれ熊野山の中腹に鎮祭し和歌山県熊野三社の祭神と御一体であります。
     仁和元年(八八五)七月には光孝天皇の勅使六条中納言藤原有房卿が此地に下向され「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜わりそれ以来宇多、醍醐、朱雀、村上天皇の勅願所として社僧十七坊が附せられた。(師岡熊野神社「由緒記」より)

     「六条中納言藤原有房卿」がちょっと引っ掛かったので調べてみた。六条家は村上源氏久我氏の庶流で、十三世紀後半に発生した家である。その二代目の六条有房が権中納言に任官するのは乾元二年(一三〇三)のことだから、時代が違いすぎて光孝天皇の勅使になれる筈がない。それに六条中納言なら源でなければならず、藤原というのも不思議だ。
     別に藤原北家の庶流にも六条家があるが、これも十一世紀初頭に始まる家である。また十三世紀の絵師に藤原有房と言う人物もいる。また源有房なら周防中将と伯大夫と二人いるが、これも違うだろう。ネットをいくつか検索してみたが、これについて疑問を感じているものはひとつもない。
     隣の熊野山全寿院法華寺の縁起の方が整理されていて、こちらには六条中納言も「関東随一大霊験所熊埜宮」も出てこない。師岡熊野神社の別当である。

     当山は熊野山全寿院法華寺と号す。
     伝承として記せし貞治三年の縁起によれば、神亀元年、全寿と云う僧何処より来たりて当山に居住し、専ら法華経を読誦、年かさね、ある晩、夢の中に熊野証誠権現の告をうけ、阿弥陀の像を大和春日明神より負い、当所に小祠を造り安置したこの尊像が当山のご本尊なり。
     その後仁和元年、光孝天皇の御后妃御願成就に依って創草せらると云われる。
     歴史的には熊野詣に顕われた阿弥陀信仰が熊野修験者により勧請されたものと思われる。

     神亀元年(七二四)では余りにも早過ぎる。熊野信仰に阿弥陀信仰が習合するのは平安末期のことではないだろうか。私の浅薄な知識では、阿弥陀信仰つまり浄土信仰が盛んになるのは「末法」の観念が普及してからのことで、それならせいぜい十世紀を遡ることはない。仁和元年(八八五)なら辛うじて納得できるだろうか。
     これだから、神社仏閣、あるいは各地に教育委員会が設置している掲示板を簡単には信用できないのである。私のような素人にも納得できるような説明がほしい。
     「さざれ石があるよ。」結構あちこちで見かけるもので、ウィキペディアによれば、「長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって、一つの大きな岩の塊に変化したもの」である。
     本殿の裏の崖際には小さな「の」の池があった。「の」と言うよりただの半円形の小さな池で、左右をコンクリートブロック塀で保護してある。この水を筒粥に使うのである。「甘いけど」と言いながらハイジが黒砂糖の飴をくれた。「飴は甘くても大丈夫なのね。」
     その左には地神塔、青面金剛、三面六臂の馬頭観音が並んでいる。右には天満宮、石神、山王、白山が並び、神輿のように作った木造の祠がコンクリートの台の上に置かれ、稲荷、御嶽、浅間、水神は昔ながらの古い石の礎石の上の石祠そのままとなっている。

     神社を出ると、左手は熊野神社の森、右手は住宅地の上り坂だ。やがて森に入る階段が現れ、その手前の斜面にコンクリートブロックを積み上げて高くした塀際にビヨウヤナギが咲いていた。「蜻蛉の好きな花だね。」その筈だった。もう随分前のことだが、初めて石神井川で見た時はその繊細な姿に感動したものだ。それなのに、今見ているのも含めて最近見かけるものは余り感動的でない。種類が違うような気がする。
     もしかしたら、同じオトギリソウ属の園芸種でヒペリカムと呼ばれるものだろうか。ビヨウヤナギは雄蕊がもっと細くて柔らかく繊細に揺れていてほしい。最近見るのは雄蕊が固くて余り揺れないのだ。
     木製の階段は、中の土が流れて窪んでいるので登りにくい。昨日の雨で地面は少し濡れているが滑る程ではない。ここは熊野神社市民の森である。途中にバイクが一台捨ててあった。こんなところまで捨てに来るだけでも面倒だったのではあるまいか。私たちの他には人影はなく、時折ウグイスの鳴き声が聞こえてくる。「長閑だね。」夏のウグイスは老鶯と呼んで良いだろうか。

     老鶯の響き渡るや尾根の道  蜻蛉

     「町からすぐに、こんな森があるのは良いね。」「土が足に優しいよ。」今日は薄曇りでそんなに暑くない。鶯を聴き、林の緑を楽しみながら階段を降り、また長い階段を上る。やがて草の生い茂る広場に出た。ベンチに男が寝ころび、そばの草むらにシャツやリュックを広げている。ここは天神平広場というらしい。
     かなり段差のある階段を下りると、樽町杉山神社の裏手に出た。港北区樽町四丁目十番四十一。「何ていう字かな?」「杦山宮」の文字に皆が戸惑っているのだ。「ヒイラギだろう」と言う人もいるが、ヒイラギ(柊)なら、旁は「冬」でなければならない。「久」に見える旁は「彡」の書き癖なのだ。「彦」の「彡」を「久」のように書くのを見たことはないだろうか。つまり「杦」は「杉」の異体字である。
     樽町は熊野神社の祭礼に御神酒を司る町内で、熊野神社と密接に結びついている。鰐口に応永十八年(一四一一)の銘があったので、創建はそれより遡ると考えられている。
     ところで杉山神社は全国的には珍しく、主に鶴見川や帷子川流域とその周辺に集中している。『編武蔵風土記稿』には、橘樹郡・都筑郡・久良岐郡・南多摩郡、つまり横浜市・川崎市を中心に町田市・稲城市などで杉山神社七十三社が記載されていると言う。埼玉県では一か所だけ(どこだったかすっかり忘れた)訪れたことがある。この神社が珍しいとは、確か古道マニアが教えてくれたのではなかっただろうか。謎の多い神社で由来ははっきり分っていない。この神社はヤマトタケルを祭神としているが、実は五十猛命との縁が深い。

     名称の由来については、杉山に祀られていたという説や樹木の神である五十猛命と杉林に因むという説、船舶材として使用されていた杉の木に因むという説など諸説ある。また当社の由緒についても不明な点が多いが、出雲民族の末裔(五十猛命)が紀州熊野より海人族を引き連れて伊豆半島や三浦半島に辿り着き、後者を経由して鶴見川水系に住み着いた一族の頭領が杉山神社を創建したという説がある。(ウィキペディア「杉山神社」

     五十猛命(イソタケル・イタケル)は紀伊国の神で、元は樹木の神であり、やがて航海の神ともされた。日本書紀によればスサノオの息子で、高天原を追放されたスサノオと共に新羅に渡って層尸茂梨(ソシモリ)に鎮座した。やがてその地に飽きたスサノオと共に日本に帰ってきたのだが、持っていた多くの樹木の種は新羅には植えず、日本に帰ってから全国に植えた。だから新羅には樹木がなく日本だけが森林に恵まれているという結論になるらしいのだが、それなら、それまで日本は樹木のない、葦の生い茂る沼沢地ばかりで、山はなかったことになる。つまり豊葦原、葦原中国である。天孫族は低湿地に住み、山には登らなかったのだろう。
     環状二号線の師岡交差点から南へ狭い路地を入る。車一台しか通れないのに、国道から曲がりこもうとする車と、国道に出ようとする車が睨み合ってなかなか動かない。「ちょっと戻ってやればいいじゃないか。」暫くして、国道に出ようとした車が少しづつ後退し始めた。
     玄関先の内庭で婦人が草木の手入れをしている。ハイジが挨拶して通り過ぎる。通り過ぎた後、「ウォーキングの人たち?」と呟いていたようだ。後続が遅れているので少し先で待っていると、やがて追いついて来た。「これを戴いたの。」さっきの婦人に貰ったという赤いグミの実をサクラさんが分けてくれる。「春グミと秋グミとあるんだよ。」この時期に実が生るのは春グミ、秋に実が生るのは秋グミと言うそうだ。
     外壁が蔦で覆われた酒屋を過ぎる。「祭りの練習でしょうかね。」確かに右前方から太鼓の音が聞こえてくるが、祭り太鼓のようではないな。「そこじゃないか。」獅子ケ谷横溝屋敷である。横浜市鶴見区獅子ケ谷三丁目十番二。ここは谷戸の入口の最も恵まれた場所で、御園と呼ばれた地区である。昭和六十一年に横浜市が寄贈を受け、屋敷の前の教育水田も合わせて「横浜市のみその公園」として公開している。
     弘化四年(一八四七)建造の長屋門を潜ると正面の母屋の縁側の前で、十人程の老若男女が腰にぶら下げた小太鼓や据え付けの太鼓を叩いていた。こういう場所なら和太鼓が似合うと思うが、すべて洋太鼓である。リズムが乱れていて煩い。やがてそれにエレクトーンのメロディが被さってようやく分った。『オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ』である。リーダーは鉢巻を撒いた西洋人の男だ。ウクレレのようなものを弾くオジサンもいる。ただ胴にあるべきサウンドホールがないので別の楽器かもしれない。師岡音楽祭と名付けられているが、子供も交えた素人楽団である。
     「ここで適当に食事をして十二時に出発します。」今は十一時十五分。それならまず屋敷内の見学をしておこう。ここは獅子ケ谷村の草切(開発)名主、横溝氏の屋敷である。草切名主なら、北条遺臣だっただろうか。初代は横溝五郎兵衛、現在の当主は十七代目と言う。驚くのは屋敷の大きさだ。茅葺の二階建ては珍しい。「庄屋の屋敷だからね。」庄屋は関西から西の呼称で、関東では名主と呼ぶ。
     広い土間から上がると、広間(十畳)、仏間(七・五畳)、奥座敷(十畳)が庭に向かう縁に沿い、茶の間(十五畳)、部屋(六畳)、納戸(六畳)がある。段飾りの雛人形が飾られている。
     「左大臣は向かって右だよね?」左大臣が逆に配置されたのを見て、余計なことだが指摘したと言う。宗匠は正しい。天子は南面するので、その左手は東に当たる。西より東が上位になるから左大臣は東(向かって右)にいるのが正しい。宗匠の孫はこころより半年遅れの女の子で、そのお雛様は段飾りの立派なものらしいが、こころのお雛様は内裏雛だけだから左大臣は関係ない。

     大臣の左右逆なる雛飾り古民家で響くアメリカンバンド   閑舟

     二階の蚕室が展示室になっている。「天井が高いね」と言うと、ロダンは「むしろ低い。天井が張っていない方が普通でしょう」と言う。私たちがイメージしていた蚕室は、平屋の屋根裏部分にあって天井を張らず、明り取りの小さな窓があるようなもので、ロダンも私も実は同じことを言っているのだ。ここは天井も張ってあり、普通に生活できる高さである。熊野神社に奉納したと思われる獅子舞の頭、鼓、太鼓、おかめとひょっとこの面、羽子板などが並んでいる。地域のジオラマ、屋敷の模型、書籍なども飾られる。
     地元の人らしい男性が「この辺は米が採れなかった。ヒエやアワだよ」とヤマチャンに説明している。しかし横溝屋敷のHPによれば、この辺は豊かな水田地帯だった。

     『新編武蔵風土記稿』によれば、獅子ヶ谷は古くは師岡郷といい、師岡村から分かれたとされています。地名の由来は当地が熊野権現の所領で、獅子舞を受け持ったことによると伝承されています。
     獅子ヶ谷村の石高は、正保時代(十七世紀中頃)に二百四十四石余、元禄、天保、明治元年ではともに三百九石余という記録が残っています。また、家数と人口は文政十年(一八二七)で、三十八軒と二百二十六人、安政二年(一八五五)には三十九軒と二百四十四人、明治三年(一八七〇)では四十二軒と二百七十八人となっています。(横浜市農村生活館みその公園「横溝屋敷」http://www.yokomizoyashiki.net/yokomizo.html)

     地元の人の言葉だからと言って簡単に信じてはいけないのは、フィールドワークの基本である。一通り内部を見て、屋敷に向かって右手のベンチで昼にする。私たちと似たような格好の六七人も弁当を広げている。「今日は愛妻弁当じゃないんですか?」今日は妻が弁当を作ってくれなかったので、コンビニ弁当を買ってきた。リュックの中に縦に入れていたので中身が偏っている。
     それにしても太鼓が煩い。『オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ』を何度も繰り返して漸く曲は変わったが、何という曲なのか分らない。いつものロダンなら「伴天連の歌だ」と言いそうだが今日は何も言わない。イッチャンから漬物が回ってきた。ロダンからは煎餅が配られ、塩飴も配られる。
     千意さんが自家栽培のエシャロットを分けてくれた。リュックから生えていた草の正体がこれだった。以前にも貰ったことがあるが、味噌を付けると酒のつまみにちょうど良いのである。全員に配り終えて少し余ったので、私は二袋貰った。一つの袋に十五粒ほど入っている。「ラッキョウの子供。」千意さんの言葉に、ロダンもヤマチャンも驚く。「初めて知ったよ。」ヤマチャンは大袈裟だ。
     実はエシャロットではなく、ラッキョウの子供はエシャレットと言うのが正しい。エシャロットは玉葱の仲間で、ラッキョウではない。

     日本では、生食用に軟白栽培されたラッキョウ (Allium chinense)が、「エシャレット」の商品名で販売されていることが多い。この一年物の早獲りラッキョウに「エシャレット」という商品名を命名したのは東京築地の青果卸業者・川井彦二であり、その理由として「『根ラッキョウ』の商品名では売れないと思ったのでお洒落な商品名を付けた」と語っている。(ウィキペディア「エシャロット」より)

     その当時、エシャロットはまだ日本に入っていなかった。「日本のラッキョウは三年物だ」とスナフキンが薀蓄を披露する。調べてみると、やはり通常は三年物がラッキョウ、一年物がエシャレットとして売られるらしい。私はエシャレットなんて意味が分らない名前より、根ラッキョウの方が好きだ。(貰ったエシャレットは、日月の二日間、旨いつまみになった。)

     古民家で配給受けし根辣韭  蜻蛉

     敷地内には蚕小屋(母屋と同じ明治二十九年)、文庫蔵(安政四年)、穀蔵(天保十二年)もある。トイレの脇に白いガクアジサイが咲いていた。

     獅子ケ谷ドラム響くや額の花  蜻蛉

     やがてその演奏が終わった。彼らは弁当にするらしい。そしてソプラノの童謡が始まった。「最初からこれにしてくれたら良かったよ。」これなら耐えられる。やがて歌が『川の流れのように』に変わった。同じ歌を繰り返しているところで門を出る。十一時五十分。
     屋敷の前の道を過ぎ左に曲がって五分程行くと、車地蔵の堂がある。横浜市鶴見区獅子ヶ谷三丁目十九番二。上り坂の途中のコンクリートで護岸した崖を背にしている。享保三年(一七一八)建立の地蔵堂は唐破風で、左の柱に木製の車が取り付けられていて、手で回せるようになっているのだ。これが車地蔵の由来である。
     「これが車?」「お百度参りの時に回す円盤があるよね。あれと同じじゃないか?」ここは鶴見と師岡・獅子ケ谷を結ぶ唯一の峠道で、昔からこの道を通る人は必ずこの車を回す習慣があったと言う。車地蔵は各地に存在していて、車を回しながら念仏を唱えると極楽往生すると伝えられる。特殊なものとしては、六角形の車輪で、六面に南無阿弥陀仏の六字名号を記した念仏車というものもある。一回回すと経巻一巻分を読んだことになる。
     その隣のコンクリートブロックに挟まれ、幅三十センチもない空間に窮屈そうに立っているのは十一面観音だ。頭上の正面の大きなものが欠けているので、私は馬頭観音かなんて言ってしまったが、写真を確認すると十一面観音で間違いなさそうだ。崖の地層が露出している部分があって、千意さんがロダンに注意を促す。

     ここから上り坂になる。右の崖下には住宅が並んでいる。薄曇りで暑くはないと言ったが、やはり汗が出てくる。坂の曲がり角の三角地に「売地」の看板が立てられている。「二千五百万だってさ。」「誰が買うんだ、こんな所。」更に行けば重機で掘り起こしている所があった。ここに家を建てるのだろう。しかし地滑りなんかしないのだろうか。私はこんなところに家を建てたくはない。
     そして獅子ケ谷市民の森に入った。面積は十八・四ヘクタールで、昭和五十年に横浜市が地権者約四十名の協力を得て開設した森だ。常緑樹、落葉樹、植栽の針葉樹、樹齢百年以上のヤマザクラ、竹林などがある。

     初夏の風 鶴見の山に 汗が引く  千意

     「今日はホントの里山だね。最近は里里が多かったよ」とヤマチャンが感動したような声を上げる。アジサイがきれいだ。「うちの方じゃまだこんなに咲いてないな」とロダンが言う。我が家の辺りでもまだ見ない。この辺りは早いのだろう。山道を上り、かなり高い所まで来た。「土の地面がいいですよね。」上れば必ず下りがあって、やがてまた急な下りになる。ここでもウグイスの声が聞こえる。
     少し日が照って来た。山から下りると、神明社の長い参道手前には、おそらく砂岩で作った駒形の青面金剛の祠があった。神明社は横浜市鶴見区獅子ヶ谷二丁目三十二番一。貞治元年(一三六二)の創建で、獅子ケ谷村の鎮守であった。しかしここには寄らない。「サクラさん、リュックから草が生えてます。」エシャレットの長い葉が出ているのだ。
     県道一一一号に出れば二つ池だ。「こっちの池には葦やマコモが生い茂っています。」その言葉通り殆ど水面が見えない。葦とマコモの区別なんて私にはつかないが、連想するのは三橋美智也『女船頭歌』である。どうも私は通俗的で、私の感受性を育てた最大のものは歌謡曲である。

     嬉しがらせて泣かせて消えた
     にくいあの夜の 旅の風
     思い出すさえざんざら真菰 
     鳴るなうつろなこの胸に(藤間哲郎作詞・山口俊郎作曲)

     「こういうところにはヨシキリがいるのかな?」真菰から利根川を連想すると、三波春夫の「利根の利根の川風ヨシキリの」(『大利根無情』猪又作詞・長津義司作曲)なんてフレーズが浮かんできたのだ。「そうね、オオヨシキリがいるかも知れないわ。ギョウギョウシね。」
     二つ池の交差点を右に曲がると、池を隔てる金網に見覚えのあるカズラが咲いている。淡い黄色と白の花で、たぶんスイカズラではないかと思ったが、念のために訊いてみた。「スイカズラよ。」やはりそうだった。「甘い香りがするわね。」忍冬、金銀花とも呼ぶ。
     もう一つの大きい方の池は釣りが出来る。但し横浜市が定めたルールでは、釣った魚は必ず放流しなければならず、撒き餌も禁止されている。岸には散策用のデッキが作られ、その片隅で釣りに夢中になっている母親がいる。その傍らでは幼稚園児ほどの子供が詰まらなそうに、デッキに腹ばいになって指で何か書いている。母親は何を考えているのだろうか。
     「私もね、お母さんが釣りなんて珍しいと思ったのよ。」ハイジの言葉に、「今は女がしないことなんかないですよ、マラソンだって昔はしなかった」とロダンが古いことを言う。ボストン・マラソンで女子の参加が公式に認められたのは昭和四十七年(一九七二)のことである。

     女性が選手として初めて五輪に参加できるようになったのは、一九〇〇年に行われた第二回近代オリンピックでした。第一回近代オリンピックは、古代オリンピック同様に女子禁制の大会でした。
     IOC(国際オリンピック委員会)の見解では、第二回近代オリンピックでは十九ヵ国から千六十六人の選手が参加しましたが、女性アスリートは十二人だったといいます。種目はゴルフとテニスの二つのみでした。第三回 セントルイス大会ではアーチェリー、第四回ロンドン大会ではアーチェリー、フィギアスケート、テニス、第五回ストックホルム大会ではダイビング、水泳、テ ニスが女性のオリンピック種目となりました。女性が参加できる種目は、大会を運営する男性が「女性らしいスポーツ」とみなした競技が、女性のオリンピック 種目として認められていたのです。(順天堂大学女性スポーツ研究センター「女性とスポーツの歴史」http://www.juntendo.ac.jp/athletes/history/birth.html)

     体育の授業も私の時代には男女別々のメニューだったが、平成元年(一九八九)の学習指導要領改訂によって、男女同じ授業を受けるようになったらしい。男女雇用機会均等法が施行されたのが昭和六十一年(一九八六)であり、時代は確実に変わってきたのである。先日、買い替えた食器棚の搬入に来た運送業者が男女のペアで、若い女性がこんな仕事もやるのだと驚いた。女性にできないことはなく、却って、男にできないことの方が多いのではないか。
     それはともあれ、この池は慶長年間(一五九六~一六一四)に造られた農業用の溜池で、それなら獅子ケ谷名主の初代横溝五郎兵衛も加わっていた筈だ。宝永四年(一七〇七)に二つに分けた。伝説では竜によって分断されたと言うのだが、獅子ケ谷村と駒岡村との水争いを防ぐためではなかったろうか。
     住宅地に入るとかなり急な坂道になる。この辺に住むのはかなり大変だ。しかし後ろに子供を乗せた自転車がすいすい上っていく。電動アシスト付きでなければ無理だろう。V字を書くようなカーブもある。その角の家の駐車場に大きな車が駐車している。「入れるのも大変だよね。」
     そして着いたのが三ツ池公園だ。午後一時。駐車スペースのゲートは閉じられているが、その脇から人間は入れるようになっている。総面積は二十九・七ヘクタールと広大だ。ビワが生っている。千意さんは、中の池の西端から南側を行こうとして工事のために通行止めだと分った。「それじゃ、こっちを行きましょう。」北側を池に沿って歩き始める。
     「桜の名所なんだ。」池の周りには七十八品種、およそ千六百本の桜が植えられている。
     天保十四年(一八四三)に作られたという歌碑がある。石碑の文字は読めないから掲示板を参照するが、万葉仮名だから普通の文字に書き直してみる。

     千町田に引くとも尽きじ君が代の恵みも深き三ツ池の水  藤原増貤

     この三ツ池は天明七年(一七八七)に造られた農業用の溜池である。これだけの規模の溜池を必要としたのなら、水田も相当な広さだったのではないだろうか。藤原増貤を調べてみると、本名は奥村増貤(喜三郎)、デジタル版日本人名大辞典によればこういう人物である。

     江戸の人で増上寺御霊屋領代官。蘭学を高野長英に、和算を丸山良玄、本多利明に、測量を伊能忠敬にまなぶ。天保九年(一八三八)経緯機の使用法を解説した「経緯儀用法図説」をあらわす。名は増貤(ますのぶ)。字(あざな)は伯保。号は城山。

     左手の山側には遊具を備えた公園も広がっていて、子供連れの家族の姿多い。ベンチで休憩を取る。「昔、この近くに県立の短大があったんだ。教科書販売で来たよ。」この辺はスナフキンのかつての営業エリアである。
     二十年以上前のことしか知らないが、教科書販売は大変だった。大量の段ボールを大学内に運び、私を含めてこれで腰を痛めた社員は多い。臨時の販売会場を作って学生に売る。自分が何を買えば良いのか分らない学生もいるし、選択科目では部数の見込みが完全に狂って大量に返品や品切れが出る。今はレジスターの使用が義務付けされたが、昔はそんなものは使わないので、売上金は必ず合わないことに決まっていた。
     「だけど女子学生が多いんだろう?いいじゃないか。」話は変な方にずれていく。「女子高って女子ばっかりなんだよ。」「ヤマチャン、それは当たり前過ぎるじゃないの。」「今の女子高に赴任した時は慣れなくてさ、おかしな気分だったんだ。」隊長も塾の教師をしていた頃の思い出を話し始める。「合宿があってね、お化けが出るから一緒の部屋に寝てくれって女生徒が言うんだよ。だけど、そんなこと出来る訳ないだろう?」隊長も顔がクチャクチャになっている。余程楽しい思い出だったのだろうが、何故こんな話になるのだろうか。
     同じ道を戻ると、コリアン庭園があったので入ってみる。何故こんなところに韓国庭園があるのか。

     一九九〇年、神奈川県と韓国・京畿道との友好提携を記念して作られた庭園で、広さは面積約五千平方メートル、李朝期(一三九三年から一九一〇年)の地方貴族の山荘庭園をイメージした庭園です。

     入り口には対の将軍標(チャングンピョ)が立っている。天下大将軍、地下女将軍。但しここでは長栍(チャンスン)と言っている。狛犬のようなものはヘテと言う(と初めて知った)。中国大陸の伝説上の神獣に獬豸(カイチ)があり、これが朝鮮半島ではヘテとなったらしい。但しカイチは一角獣であるが、ヘテには角がない。日本の狛犬も本来は角を持ち、角のない獅子と区別されていたのだが、今では角のないものが大半になった。
     石を埋め込んだ背の低い塀や、屋根の反りがいかにも韓国風だ。「韓国と同じだね。」ヤマチャンは韓国旅行をしたことがあるらしい。「板門店まで行ったよ。」妻はもう何度行ったか分らない。韓流ドラマが好きなのである。
     「ここにキンシバイがあるわ」とハイジが声を弾ませる。「ビヨウヤナギに似た花の名前をどうしても思い出せなかったのよ。これですよ。」「そんなに似てるかな?ビヨウヤナギは雄蕊が長くて揺れるのが特徴だろう?」塀の奥にはそのビヨウヤナギも咲いていた。ドラマ『チャングム』でみた甕が並べてある。
     味噌や醤油やキムチなどが入っているのだが、日本ではこんな風に外に置くのは考えられない。パンフレットによれば、この場所はチャントッテと呼ばれ、台所に近い後庭に造られる。別堂に入るには靴を脱がなければいけないので、私は不精してやめた。来客を迎える建物である。

     コリア堂の展示のひとつ竹夫人   閑舟

     展示品の中に竹夫人があったらしい。「それって何?」「抱いて寝ると涼しいの。」細長い竹製の抱き枕で、夏の季語になっている。ただ名前がいささかエロティックで、現に英語ではDutch wifeと言う。ただ私は初めて知ったのだが、Dutch wifeに本来性的な意味はない。性的(いわゆるsex doll)な意味にした「ダッチワイフ」は和製英語であった。
     小さな池にはスイレンが咲いている。「ハスじゃないの?」「スイレンは葉に切れ込みがあるから沈む。ハスの葉は切れ込みがないから沈まない。」「あら、そうだったの。」ハイジに驚かれてしまうとは意外だった。それになんと言っても花の中心部にハチスがあるかどうかでも分るだろう。日本原産はヒツジグサ(未草)と言う。
     「やってみよう!トゥホノリ」別堂の外壁にこんなポスターが置かれている。庭にはプラスチック製の矢が何本か置いてあり、少し先に壺が据えてある。これを投げて壺にうまく入れば良い。真ん中の壺に入れば一番点数が高い。輪投げのようなものなのだが、実際にやってみるとなかなか難しい。壺に入れるためには放物線を描く必要があるが、その距離感と角度が難しいのだ。ロダンは矢を何本ももって一度に投げた。ハイジは上手く真ん中の壺に入れた。私は全然ダメだった。トゥホノリを漢字で書くと「投壺」となるようで、正式にはこういうものだ。

     『投壺新格』によると、投壺に使用する壺は高さ一尺、口の口径三寸で、その両側に二つの「耳」と呼ばれる口径一寸の穴がある。長さ二尺四寸の矢(箭)が十二本あり、それを矢の長さの二・五倍(六尺)離れた所から投げる。十二本全部が成功するとその場で勝ちになる。それ以外の場合は、矢のはいり方により得点があり、得点の合計が先に百二十点に達した側の勝ちとなる。(ウィキペディア「投壺」より)

     「投扇興みたいなもんですね。」ロダンは鋭い。ウィキペディアによれば、投扇は投壺の影響によって考案されたものらしい。ただ日本の場合はお座敷遊びの一種になった。一時五十分に出発する。
     末吉中学校入口から白鵬女子高(鶴見区北寺尾四丁目)の前を通る。それにしても坂の多い街だ。「あそこにもビヨウヤナギが咲いてるよ。」今日はあちこちで見る。この辺からかなり角度のキツイ下り坂になる。
     第二京浜を渡って住宅地に入ると、朱塗りの小さな祠をもつ池があった。弁天だろうか。池にはスイレンが咲いている。千意さんが、池のそばに座り込んでいた若い男に話しかけている。「道を訊いているみたいだな。」男が立ち上がって指差したので出発する。この辺の住所は鶴見区寺谷一丁目。寺尾や寺谷の地名を見れば、かつてかなり大きな寺があったのではないかと想像される。
     上り坂の大通りに入ると後続がだいぶ遅れてきた。隊長の腰は大丈夫だろうか、暫く歩くと門があった。鉄の扉が閉ざされているが人間は通れる。入ってすぐに女子学生がやって来た。「ここから入っていいですか?」千意さんが声をかけると、笑いながら「いいですよ」と答えてくれる。「入っちゃってから、いいですかって訊いてもどうかな?」「単に女学生に声を掛けたかったんじゃないの?」千意さんが苦笑いする。総持寺の三門ではなく、脇から入ったのである。
     ここで後続を待つ。そして隊長も到着した。「どうしたのよ、みんなの視線が刺さる。」隊長の体を心配していたのである。イッチャンもサクラさんも疲れ気味だ。

     隊長を待つ坂上や若葉風   閑舟

     コンクリートの建物が続く。「そこが図書館じゃないか?」しかし違った帝国ホテル鶴見寮の看板が出ていた。左側は總持寺の敷地ではないのだ。それならさっきの門は何だろう。暫く歩いて境内に入る。曹洞宗大本山も總持寺である。横浜市鶴見区鶴見二丁目一番一。広い境内だ。「曹洞宗って道元の他に有名な人がいたよね?」ヤマチャンに訊かれても分らない。道元の弟子はいくらでもいるだろう。「栄西っているわよね。」「それかな?」栄西なら臨済禅である。
     開山は曹洞宗四世の瑩山紹瑾。ヤマチャンが言うのはこれだろうか。しかし一般に有名とは言えないだろう。「うちは曹洞宗だからさ。」それで知っているのかも知れない。曹洞宗内部では道元を高祖、全国に広めた瑩山を太祖と呼ぶ。永平寺と並んで曹洞宗大本山であるが、曹洞宗寺院の八割は總持寺の系統らしい。元々能登国櫛比庄(石川県輪島)にあったが、明治四十四年(一九一一)にここに移転した。

     瑩山禅師によって開創された大本山總持寺は、一万三千余ヶ寺の法系寺院を擁し宗門興隆と正法教化につとめ、能登に於いて五百七十余年の歩みを進めてまいりました。
     しかし、明治三十一年(一八九八)四月十三日夜、本堂の一部より出火、フェーン現象の余波を受け瞬時にして猛火は全山に拡がり、慈雲閣・伝燈院を残し、伽藍の多くを焼失してしまいました。
     明治三十八年五月、本山貫首となられた石川素童禅師は焼失した伽藍の復興のみでなく、本山存立の意義と宗門の現代的使命の自覚にもとづいて、大決断をもって明治四十年三月に官許を得、明治四十四年(一九一一)に寺基を現在の地に移されたのであります。(總持寺「總持寺の概要」http://sojiji.jp/honzan/gaiyou.html)

     向唐門を入り、中雀門を抜ける。左右に伸びる渡り廊下は黒光りしている。太祖堂に入ると皆はパイプ椅子に腰かけた。何があるのか分らないので、私はすぐに出てきた。しばらくして出てきたハイジが、「女子学生がいっぱい来たのよ」と教えてくれる。「女子高生じゃないの?」「高校生のような初々しさはなかったわ。」今どきの女子高生に初々しさを求めて良いのだろうか。大学か短大の女子学生だろう。
     「鶴見大学って總持寺なの?」その通り、学校法人総持寺学園である。「歯学部と文学部があるけど、上手く行ってないんだよ。」ここはスナフキンのかつての顧客だ。歯医者は多過ぎるから、もうそんなに要らないのではないか。文学部だって難しい。
     学部とは別に図書館学講座を開講していて、ここで司書資格を得る人も多い。昨年、紀伊國屋書店と共同で、現職の図書館員と図書館員志望者を対象とした「図書館員リカレント教育推進寄附講座」を開設した。教授二人は紀伊國屋のOBで、現役社員も講師になっている。
     「裕次郎のお墓を見たい人は?」ハイジが見たがっているのである。「お墓に行かない人は緑の屋根の門で待っていてください。」ダンディとサクラさんが門に向かい、それ以外は墓参りをした。大きな墓ばかりだ。手書きの立札には「裕ちゃん(石原裕次郎)お墓」と書かれ、矢印が示される。一度来ているが、大きな五輪塔を中心に据えた立派な墓所である。
     「若くて死んだのよね。五十歳くらいでしょう?」裕次郎は昭和九年(一九三四)生まれ、昭和六十二年(一九八七)に五十二歳で亡くなった。昭和九年なら画伯と同い年ではないか。昭和五十六年(一九八一)に解離性大動脈瘤の手術を受けたが死因はそれではない。肝臓癌である。
     ロダンとヤマチャンが北原三枝(石原まき子)の詩碑を一所懸命読んでいるので、書き写しておこう。

    美しきものに微笑みを、淋しきものに優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢覚めることなく。

     「美空ひばりも同じくらいだったでしょう?」美空ひばりは平成元年にやはり五十二歳で亡くなっている。「慎太郎の息子たちも来てるのかな?」「お盆とかお彼岸には来てるんじゃないかな。」裕次郎には子がなかった。
     千意さんの案内には裕次郎の歌の一節「♪ヨコハマで出逢った恋の物語-」が書かれていた。「空からこの歌が降ってくるんですよ。」「それで吹き出しが上を向いてるのか?」「蜻蛉は知ってるでしょう?」残念ながら知らなかった。ここは横浜、裕次郎が横浜を歌った歌は、『サヨナラ横浜』(なかにし礼作詞・ユズリハ・シロー作曲)と『ヨコハマ物語』(なかにし礼作詞・浜圭介作曲)と二つある。私は『ヨコハマ物語』を知らないので、今回は『サヨナラ横浜』にしておこう。

    別れの夜の残り火を
    恋の炎で飾ろうか
    サヨナラ横浜霧の街
    もえる想いを込めて
    強く抱きしめあおう
    他人同士になる前に

     寺を出て跨線橋を渡り、京急本線のガード下に沿って南に歩くと、やがて鶴見線の高架が現れた。「なんだか見覚えがあるよ、前に来たんじゃないの?」ヤマチャンは記憶力が良い。高架下が長屋のような住宅になっているのを見て、サクラさんが不思議がる。高架にぴったりと合うように、モルタル塗りの二階家が並んでいるのだ。
     「向こう側がお店なのかしら。」自転車が置いてあったり、すだれを垂らした窓もあるので、今でも人が住んでいるのだろうか。第一京浜に出て裏を見ても雑草が生い茂っているだけで何もない。「やっぱり住居なのね。」国道を渡れば鶴見線国道駅だ。第一京浜に接しているので国道と名付けられた無人駅である。
     スナフキンが計画した第五十二回「生麦事件・東海道神奈川宿編」(平成二十六年五月)の出発地はここだった。ガード下の薄暗い構内は旧東海道に出る通路となっていて、昭和五年(一九三〇)の開業以来、全く改装されていないという。おそらく昔は両側に店が並んでいたのだろう。今は営業していない飲み屋の看板も残っている。終戦直後の焼け跡闇市の雰囲気を残し、フィルム・ノワールの舞台になりそうな異様な雰囲気の駅である。「不動産屋の看板がレトロね。」この看板の上の壁には米軍の機銃掃射の弾痕が残されている。黒澤明監督『野良犬』にこの駅が登場した。
     あの時ハイジは、国道駅の時集合時間より早めに来て、一人で海芝浦まで来ていたのである。海を眺めると若い日の恋を思い出すのであろうか。
     鶴見線は鶴見から扇町まで七キロを本線として、浅野駅から海芝浦駅まで殆ど東芝敷地内を走る海芝浦支線(一・七キロ)、武蔵白石駅から大川駅までの大川支線(一キロ)が走っている。浅野駅は浅野總一郎、武蔵白石は日本鋼管創業者の白石元治郎(浅野總一郎の娘婿)、大川駅は製紙王の大川平三郎に因んだ駅名である。このほか安田善次郎に因む安善駅もある。要するに主に浅野總一郎によって開発された地域である。

     一八九六年(明治二十九年)には欧米視察に赴き、イギリス、ドイツ、アメリカなどの港湾開発の発展ぶりを目の当たりにする。横浜港に戻るとその旧態依然とした港の様子に衝撃を受け、浅野は港湾を近代化し、工場を一体化した日本初の臨海工業地帯を東京市から横浜市にかけての海岸部に政府の支援を受けずに独力で建設することを計画する。この大規模計画に神奈川県は当初、二の足を踏むが、浅野の計画の価値を認めた安田善次郎が支援に乗り出したことで動き出す。浅野が浅野セメントを合資会社にする際に安田が出資に協力して以来、安田は渋沢同様に浅野の理解者であった。また安田と浅野は同じ富山県の出身でもあり、安田の事業家精神に浅野は心酔していく。
     埋め立て工事は、大正から昭和の初めにかけて約十五年間に及ぶ年月をかけて完成、浅野は、浅野造船所(後の日本鋼管、現JFEエンジニアリング)など多数の会社を設立した。(ウィキペディア「浅野総一郎」より)

     車両に乗り込むと、若い女性が一人座っているのに気が付いた。「あそこ、一人だぜ。」「俺も気になってたよ。」この時間にこの電車に乗るのは海を見に行くものだけである。若い女性が一人でこの電車に乗るには、それなりの理由がなければならない。何か辛いことがあったのだろうか。
     浅野駅からは京浜運河につながる細い旭運河に沿って走る。右手はJFEエンジニアリングと東芝の敷地だ。そして終点の海芝浦に着いた。改札の外は既に東芝の敷地だからその関係者しか外には出られない。ホームから京浜運河を眺めると、対岸には湾岸線(鶴見つばさ橋)が見える。横浜方面にはヘかすかにベイブリッジも見える。鶴見つばさ橋を見るためにやってくる人も多いのだそうだ。

     鶴見つばさ橋は、神奈川県横浜市鶴見区にある橋。首都高速湾岸線の扇島と大黒埠頭とを結んでいる。横浜ベイブリッジと並び、横浜を代表する橋。
     中央径間長(五一〇メートル)は多々羅大橋、名港中央大橋に次いで斜張橋として日本国内三位、また全長(一〇二〇メートル)は一面吊りの斜張橋としては世界一の長さである。(ウィキペディア「鶴見つばさ橋」より)

     「向こうにちょっとした公園がありますよ。」ホームの延長上に、東芝が作った小さな公園があるのだ。発車時刻まで十五分程ある。「カードをタッチして出て下さい。」公園に出るためには入退場のチェックが必要なのだ。「別にいいだろう?」「そんなセコイことしちゃ、俺たちも舛添になってしまうよ。」心正しき我々はちゃんとカードをタッチして公園に出る。ここまで乗ってきた乗客十数人も同じようにする。勿論さっきの若い女性もいる。「今は季節がいいけど、冬は寒いよね。」「魚が跳ねてるよ。」「ホントだ。」「ボラだね。」

     女ひとり初夏の運河は薄曇り  蜻蛉

     今日はなかなか面白いコースだった。千意さんは土地勘があるのかと思ったが、地図で探したんだと言う。「海芝浦から始めて山の方を探したの。」下見も大変だったろう。
     発車時刻が近づいたので入場ボタンにタッチして電車に乗る。この間にスナフキンは汗に濡れたシャツを着替えて来た。電車の中でスナフキンは大欠伸を連発している。
     解散は鶴見駅だ。鶴見線から改札を抜けてもまだJRの中である。鶴見線だってJRなのだが、なぜか仲間外れにされているらしい。二万歩、十二キロ。宗匠とヤマチャンは飲まずに帰っていったが、サクラさんが初めて付き合ってくれる。「今日は近いから。」
     改札を抜けて外に出る。今は四時。開いている店はあるだろうか。「あそこにさくら水産があります。」しかしさくら水産はやめよう。先日の江戸歩きで入ったばかりだ。
     入ったのは大庄水産京急鶴見店である。「庄やグループなんだね。」「マグロの解体ショーもやるみたいだ。」そんなショーは我々には関係ない。サクラさんは焼きおにぎりが食べたかったようだが、おにぎりは焼いてないものがあるだけだったので止めた。
     「あんみつ姫がいないけど、漬物は注文しますか?」水茄子の漬物があるではないか。それにしよう。ビールの後は黒霧島にする。ただ隊長とダンディはビールなので、焼酎は殆どスナフキン、ロダン、蜻蛉の三人で飲むのだから、二本目は四分の一程残してしまった。三千五百円なり。
     店を出てもまだ明るい。スナフキン、ロダンに誘われてもう一軒行く。「ここでいいだろう。」飲み放題が九百九十九円、全品一律三百円というのが良い。中華居酒屋台屋。中国人女性が笑顔で迎えてくれる。ビールはもういらないので酎ハイにする。
     「Where are you from?」ロダンが英語を使った。ここでは中国語を喋った方が恰好良かったな。「シャンハイです。」ロダンの英語はここまでであった。タバコは外で吸うように言われたのに、テーブルに灰皿が置かれているのがおかしい。酎ハイを三杯飲んだところでお開きにする。二千円なり。
     帰り、ロダンは小用のために途中下車し、私は山手線に乗り換えるべきところを寝てしまって、南浦和まで行ってしまった。

    蜻蛉