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    平成二十八年十一月二十六日(土)
    柏(柏の葉・吉田家住宅・布施弁天・あけぼの山公園)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2016.12.05

     二十二日(火)朝は福島沖を震源とする地震で、テレビ各局はどこも、津波注意のお知らせばかりを延々とやっていた。東日本大震災の余震だと言うのだが、五年も経ってまだ余震が発生するのか。
     二十四日(木)には雪が降った。東京で十一月の降雪は五十四年振り、積雪は観測史上初だと言う。鶴ヶ島・坂戸辺では朝八時頃に雨から雪に変わって午後三時頃まで降り続き、五センチ程積った。それでも帰宅時刻には道路の雪も殆ど消えて通勤には余り影響はなかった。翌日こころの家に行くと駐車場に雪だるまが作ってあったが、車を奥まで入れる都合上、轢いて潰してしまった。
     今日は旧暦十月二十七日、小雪の初候「虹蔵不見」が今日まで、明日からは「朔風払葉」となる。もう本格的な冬だ。

     里山ワンダリングへの参加は五月の鶴見以来になる。久し振りに妻に弁当を頼むと、「私も仕事だから忙しいんだけど」と言いながらいつもより少し早めに起きて、自分の弁当も作った。
     今回はあんみつ姫の企画だ。集合は柏の葉キャンパス駅で、私には初めての駅である。東上線朝霞台駅で降り、JR北朝霞駅から武蔵野線に乗り換える。南流山まで三十六分、つくばエクスプレスに乗って柏の葉キャンパスは六分で着く。つくばエクスプレスも初めて乗る。ここから二十分程でつくばまで行くのだから案外近い。大抵この電車に乗っているだろうと辺りを見回したものの仲間の姿は見えない。こういう時、間違えたかと一瞬不安になる。九時四十五分着。改札口には既に大勢集まっていた。
     あんみつ姫、小町、チロリン、シノッチ、ハイジ、マリー、オクチャン夫妻、ダンディ、スナフキン、ヤマチャン、宗匠、桃太郎、蜻蛉の十四人だ。小町の顔を見るのも久し振りだ。七時過ぎには家を出てきたらしい。「ロダンは?」「欠席の連絡をもらってます。」
     駅構内ではつくばエクスプレスが主催するウォーキング大会の受付をやっている。私たちと同じコースならイヤだな。「埼玉高速鉄道でもやってたわ」とマリーが言う。埼玉高速鉄道はサッカー以外の客を呼び込むのに必死なのだが、つくばエクスプレスもそうなのだろうか。
     駅東口から出発すると、マンションばかりが目につき空き地も多い。「交通の便がいいから住むんでしょうけど、郷土愛なんかは生まれにくいでしょうね。」「駅名がキャンパスって、どこの大学があるのかしら?」「東大だよ。」「あら、そう。千葉大かと思ってたわ。」「千葉大は松戸に園芸学部があるんだよ。」私は東大だけだと思っていたが、念のためにウィキペディアその他を参照するとハイジの情報が正しく、実は東大も千葉大も両方あった。
     高等教育機関としては、東大柏キャンパス(新領域創成科学研究科・物性研究所・宇宙線研究所)、柏Ⅱキャンパス(生涯スポーツ健康科学研究センター)、千葉大柏キャンパス(環境健康フィールド科学センター)、国土交通大学校などがある。つくばが近いことが理由だろうか。「東大はどこにあるのかしら。」「駅の反対側だと思います。」
     柏の葉は一丁目から六丁目まであり、全域が米軍柏通信所の跡地である。江戸時代には東葛飾郡田中村の一部で、小金牧の一部である高田牧が広がっていた。下総国舟戸藩(本多氏)が置かれ、享保十五年(一七三〇)に本多氏が駿河国田中藩に転封された後も、その飛び領地として残された。田中村の名称はそこに由来する。
     牧の周辺は農民に与えられて開墾されたが、馬はすぐに土手を超えて畑を荒らした。広大な牧は明治維新後、戊辰戦争の戦費を賄った三井やその他の政商に払い下げられ、旧幕士族の窮民救済事業として畑地が開墾された。
     小金牧、佐倉牧を含めて開墾村が出来た順番に、初富(鎌ヶ谷市)・二和(船橋市)・三咲(同)・豊四季(松戸市)・五香(同)・六実(同)・七栄(富里市)・八街(八街市)・九美上(香取市)・十倉(富里市)・十余一(白井市)・十余二(柏市)・十余三(成田市)と名付けられた。昔から数字のつく地名が多いなとは思っていたが、初めて理由が分った。
     戦争中、十余二の一部の畑を潰して陸軍柏飛行場が作られ、戦後は米軍に接収された。朝鮮戦争勃発を機に、米軍の通信所が作られ、全面返還されたのは昭和五十四年(一九七九)のことである。それから再開発計画が始まった。これが柏の葉地区で、平成になるまでの地名は柏市中十余二であった。要するに新開地である。

     所々にウォーキングの案内人が立っている。「そこの市場で折り返してください。」そんな風に声を掛けられても私たちは関係ない。「市場があるのか?」国道十六号線を渡り、ウォーキングの連中は市場で折り返していった。流山、柏、安孫子の住民を対象にした公設市場である。
     調べてみると彼等のコースは、柏の葉キャンパス駅・柏市場・柏の葉T―SITE(蔦屋を中核とした複合施設)・こんぶくろ池自然博物公園・千葉県立柏の葉公園・旧陸軍東部第百五部隊営門高田原交番前・千葉大学環境健康フィールド科学センター・柏の葉キャンパス駅と通る十キロであった。蔦屋がウォーキングのコースになるとは思わなかった。旧陸軍東部第百五部隊とは陸軍第四航空教育隊である。
     県道七号線(安孫子・関宿線)に入り花野井木戸交差点を過ぎる。花野井木戸は高田台牧と花野井村との境界である。そこからすぐ、駅からは三十分程で花野井香取神社に着いた。柏市花野井一〇〇〇番地。一の鳥居(稲荷鳥居)の両側にはかなり大きなイチョウが立っている。完全な黄色になるにはもう少しかかりそうだ。今年は全体に紅葉が遅い。「見事ですね。」てっぺんを見上げようとすると目が眩しい。
     二の鳥居は両部鳥居の形式だ。神社は文明年間(一四六九~一四八六)創建と伝えられる。文明は応仁の乱の後、戦国の始まりの時代である。北方には古河公方足利成氏、西には扇谷上杉氏と太田道灌、上州には山内上杉氏が割拠していた。そして千葉氏の内紛の後、下総を追われて赤塚城に拠っていた千葉自胤が復権して、北総・上総のほぼ全域を掌握した短い期間とほぼ重なる。
     香取神社は下総国香取神宮を総本社として、経津主神(フツヌシ)を祭神とする。利根川(江戸湾に注いでいた)、大日川(江戸川)流域の低湿地の開拓地に分布し、氷川神社(荒川沿い)、久伊豆神社(元荒川沿い)と混在することは殆どない。
     フツヌシは鹿島神宮の祭神・武甕槌命(タケミカヅチ)と共に、出雲を征服した武神として朝廷に崇敬され、延喜式神明帳では伊勢神宮と並び、香取神宮、鹿島神宮共に神宮の称を許された。香取、鹿島は香取の海の入り口に位置し、河川を通じて上州や奥羽、江戸方面への軍事上交通上の要衝であり、ヤマト王権の東国計略の拠点となったから大事にされた。香取の海について今更言うことはないだろう。かつて北関東に広がっていた内海で、霞ヶ浦、手賀沼、印旛沼はその残滓である。
     社殿は寄棟造り平入り。渡り廊下で続く覆堂は二階建ての木造家屋みたいだ。「面白い鞘堂ですね」とオクチャン夫人が呟いている。私は覆堂の呼び方しか知らなかったが、オクチャン夫妻が言っているので初めて鞘堂とも呼ぶのを知った。ガラスが汚れているので、中の本殿の彫刻がよく見えない。ガラスにレンズを押し当てるようにして撮ると辛うじて写っている。奥に置かれているのは大太鼓だろうか、鏡だろうか。
     境内には妙見、稲荷、猿田彦、三峯、浅間、住吉、愛宕、天満宮、秋葉の各社の小さな祠が並んでいる。案内板には柏市内唯一の算額(明治七年)があるとされているが、見ることはできない。
     ここでは妙見神社とされているが、本来は妙見菩薩だから仏教であり、北斗信仰に関係づけられる。神仏習合して天之御中主神(アメノミナカヌシ)を祭神とするようだ。妙見神社、妙見社、天之宮等の名で千葉県に多く存在するのは、平良文を祖とする千葉氏が信仰したためだ。妙見菩薩は北辰(北極星)と見做され、千葉周作の北辰一刀流の名称もこれに由来する。

     「大通りは車が多いので裏から回ります。」神社の裏を行けば左手に柏レイソルのグランドがあった。練習しているのは小学生だろうか。「野球をやる奴が減ってるんだ。ボールを投げることから教えなくちゃいけない。」スナフキンは少年野球の監督だった。
     道なりに直角に曲がったところが、広大な屋敷地の裏門だった。同じ名字の三軒分の表札がかかっている。道路に沿って回り込んでいくと、広い駐車場の奥の生け垣の向こうに茅葺屋根に二本の煙突を持つ洋風な建物も見える。屋敷の中の樹木がグラデーションを作って、眺めが良い。やがて芝生の広場の正面に長屋門が見えた。「ここです。」吉田家住宅である。国の重要文化財に指定され、旧吉田家住宅歴史公園として整備されているのだ。柏市花野井九七四番地一。長屋門の所ではガイド数人が手ぐすね引いて待ち構えている。

     旧吉田家住宅は、名主であった吉田家の豪農ぶりが分かる江戸時代末期築造の国指定重要文化財です。
     二十五メートルにもおよぶ長大な長屋門から屋敷内に入ると、茅葺屋根の重厚な作りの主屋、格調の高い書院、コケに覆われた趣のある庭園や屋敷林があり、外の喧騒と一線を画した、時間が止まったようなやすらぎを味わうことができます。また、屋敷全面に広大な芝生広場もあり、文化と自然をゆったり満喫できる公園です。
     敷地面積六、五一八坪(二一、五一一平米)という広大な土地に、建築面積三三〇坪(一、一七八平米)の邸宅が建つ。
     平成十六年、屋敷地と屋敷地前面の芝生地、斜面緑地の約二・二ヘクタールが吉田家から柏市に寄贈され、その後、建造物調査を経て修復、補強などの整備事業が行なわれています。
    (公式ホームページhttp://former-yoshida.jp/)

     入場料は一般二百円、六十歳以上百円なり。「以前は無料だったんですよ。」シノッチとチロリンは以前来たことがあるらしい。入場料を取るようになったのは昨年からだ。国の重要指定文化財だから、維持費も相当かかるだろうが、百円や二百円の入場料でどれ程賄えるものか。今日は全員が半額に該当し、姫がまとめて支払いをする。私は小銭がなかったので桃太郎に九十円借りた。
     ガイドは余程暇なのか、三つのグループに分かれて案内してくれることになった。「団体の予約が入っていた筈なんですけど、時間がずれたんでしょうかね。それでガイドの手が空いたんでしょう」と姫が推測する。
     スナフキン、桃太郎、オクチャン夫人、ヤマチャン、私のグループを案内してくれるのは佐藤氏である。オクチャンは最初のグループに入り、夫人がそこに入りそびれてしまった。「ご主人と一緒に行きなさい」と、小町がオクチャン夫人に頻りに促すが、「いいんですよ」と小さい声で答えていた。
     「そこにいる背の高い方が。」佐藤氏が声を潜めて教えてくれるは、三四人で長いストックを二本突いている中の一人が当主の吉田氏であるということだ。ウォーキングの人かと思っていた。「当主は四十三代目になります。」千年以上も続いていると言うのだが、それなら平安末期に始まることになる。地理的には桓武平氏の流れとしか考えられないが、簡単には信用できない。
     案の定、佐藤氏は高望王に始まる桓武平氏の話を始める。「平将門もいます。相馬氏も将門の一族です。」相馬氏が将門の裔であると言う伝説はあることはある。ただ相馬氏を直接将門に結び付けるのは無理がある。
     高望王の子に国香、良将、良文などがいる。国香の流れは伊勢平氏となって清盛を出した。良将の子が将門、良文の流れからは千葉氏、秩父氏等多くの武士が出て鎌倉幕府の有力御家人になる。相馬氏は千葉常胤の次男師常に始まる家である。佐藤氏は、吉田家がこの相馬氏と関係があると言うのだ。
     当主の令室はテニスの沢松和子さんである。「オーッ。」沢松和子は一九七五年のウィンブルドン女子ダブルスで、アン清村とペアを組んで優勝した。シングルスでは全豪ベスト四の成績がある。あの当時は白のシャツに白のスコートが決まりで、今の選手のカラフルな姿とはまるで違っていた。
     結婚して吉田姓となり、現在はこの敷地にある吉田記念テニス研修センターを夫婦で運営しているそうだ。「沢松家も大金持ちだったのかな。」「そうだと思うよ。金持ち同士のネットワークがあるんだよ。」蘆屋のテニスコート付きの豪邸で育ったのだからやはり大金持ちの部類であろう。和子の姉の順子の娘が沢松奈生子(最高ランキングは十四位)だ。最近、テレビのコメンテーターとして見かけることが多い。
     「国枝慎吾選手も、ここで練習したんです。」「オーッ。」国枝は小学六年生の時、この研修センターで車椅子テニスを始めたのだ。「リオじゃ負けちゃったけどね。」それでも大変な選手であることは間違いない。九歳で脊椎腫瘍のために下半身麻痺となったのだが、私だったら陰々滅々と世の中を呪いながら生きてきただろう。
     敷地の非公開の部分に三つの家があり、さっき駐車場の向こうに見たのが当主の家、裏門に近い端がその息子家族、当主の家の右に立つのが当主の姉の家だという。こういう広大な屋敷に住むのは大変だろう。
     二十五メートルもの長さの長屋門なんて初めて見る。入口の両側は米蔵として使われていたもので、その西側は洒落たカフェに改造してある。門を潜って屋根を振り返る。「吉田家の家紋の剣片喰です。」鬼瓦と棟瓦に紋が彫られているのだ。「普通の紋と違って、家の紋ですから特別です。」ちょっとした家なら、瓦に自分の家の紋を彫るのはそんなに珍しいことではない。
     右手は新蔵だ。こちらの瓦は火除けの巴紋である。道具類の保管倉庫で、今日は写真展をやっていた。「長屋門の向こうが向蔵。宝物蔵ですが、中に何が入っているか、まだ調査していません。」「お宝が眠ってるんだろうね。」「金の延べ棒がザクザク出てくるんじゃないか。」
     釘隠しは鶴と柏の葉。「柏は、新しい葉が出るまで古い葉が落ちない。子孫繁栄を表すんですよ。」「柏市の地名はそこから来たのかな?」柏の由来は「河岸場(かしば)」説が有力らしい。江戸時代の東葛地方は水運の便の良い松戸、野田、流山が栄えており、柏村は水戸街道に沿いながら宿駅ですらない寒村だった。
     もうひとつ、「純金だと思います」という豪華な釘隠しもある。「今、座敷にあるのはイミテーションです。」「盗まれちゃうからか。」
     吉田家は江戸時代末期から醤油の醸造も行っていて、その当時の醤油樽を復元したものが三つ置かれている。亀甲千代(上等)、ジガミ華之井(並)、カギ加(下等)。「そこに醤油醸造業者の番付があります。」嘉永六年(一八五三)の番付で、大関は野田の茂木勇衛門と市川の釜屋彌七、関脇に銚子の廣屋重次郎と田中玄蕃、西の前頭筆頭に亀甲千代の吉田官蔵がいる。立行事は野田の高梨兵左衛門。茂木佐平次は勧進元の位置にあって別格扱いになる。

    明治の中頃になると最上物を販売する野田や銚子の大醸造家に押されるようになり、吉田家は競合を避けるため上物から並物の「ジガミ華之井」へと移行していきました。その後、一時期は持ち直しましたが、明治末期になると市場は品質のより高いものを好むようになり、吉田家は東京から地方市場に活路を見出していきます。
    (柏市「花野井醤油モノがたり」http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/280400/p022092.html)

     「関東大震災で醤油蔵が倒壊して、それ以後、醸造はやめました。」しかし製造をやめたのはその一年前だから被害は少なかった。野田醤油(キッコーマン)に経営権を売却したのである。もはや小さな醸造元が独自でやっていける時代ではなくなった。その醸造所の跡地が、現在三家族が住む家の敷地になっている。
     醤油醸造廃業後は、柏駅前通商店街柏劇場を作り、現在の豊四季台団地に競馬場とゴルフ場を作った。その頃から主に不動産業が事業の柱になっていったようだ。

     柏市花野井の富豪、吉田甚左衛門は、日本中が昭和の経済不況に向かう中、柏町の将来に危機感を抱き、町長浜島秀保らとさまざまなまちおこし事業を展開します。
     彼が参考にしたのが阪急グループ・宝塚歌劇団の創始者である小林一三です。吉田家の資料には、宝塚劇場の食堂の定価などを調べたメモが残っています。
     彼は、東京に近く、布施弁天・曙山・手賀沼などの風光明媚な場所も多い柏になんとか人を呼び込もうと、一大レジャーランドをつくり、柏を「関東の宝塚にする」ことを考えました。
     その中核となったのが当時東洋一と言われた「柏競馬場」です。吉田は、千葉県畜産組合が椿森競馬場の代替地を捜しているという情報をいち早く掴み、誘致に動きました。そして昭和三年(一九二八年)、現在の豊四季台団地に競馬場がオープンします。(中略)
     競馬場は、当時の法律では春に三日、秋に三日のあわせて六日間しか開催することができませんでした。ですが、それではせっかくの競馬場が三六五日のうち三五九日間は休場になってしまいます。そこで、妙案を出したのが我孫子に住んでいた杉村楚人冠です。彼の案で、競馬場の内馬場にゴルフ場を作ることになりました。昭和四年二月にゴルフ場がオープンします。日曜日には人手が足りず、近くの小中学生がキャディーとして雇われていました。(柏市「歴史発見『かしわ・その時』 第一回」)
    http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/280400/p008817.html

     柏を「関東の宝塚に」とは随分大風呂敷を広げたものである。結局この夢は実現せず、競馬場は日本住宅公団の団地になった。敷石の向こうには表玄関の式台が見える。吉田家は小金牧の牧士に任ぜられた家である。小金牧については平成二十五年(二〇一三)四月、やはり姫の企画で松戸を歩いた時に調べている。享保以降、小金牧は五つに構成とされ、十余二(現在の十余二、高田、西原、柏の葉周辺)は高田台牧である。
     牧士を私はボクシと読むのだと思っていたが、佐藤氏はモクシと発音する。念のために調べると、モクシが正しい。これを知っただけでもここに来た甲斐がある。

     牧を管理した現地役人は牧士(もくし)と呼ばれ、苗字帯刀等武士の格式を持ち、鞍を置いての乗馬、野犬等から馬を守るための鉄砲の所持携行も認められた。牧士は文武天皇の代に設けられた職制・身分で、呉音訓である事も古い起源を裏付ける。当地域での任命は北条氏政の弘治年間]で牧の成立も同時期である事を示す。初期は主に千葉氏・高城氏の旧臣、後には地元の名主等が牧士に任命された。
     一六一九(元和五)年には小金牧の牧士が存在したが、牧の仕事に限っての苗字帯刀御免の特権も当初はなかった事が大谷貞夫らによって示されている。
     世襲の牧士頭、享保年間以降の野馬奉行も小金の綿貫家が任命された。名は初代が重右衛門でその後は夏右衛門とした場合が多い。綿貫氏は千葉氏一族で、相馬氏ともつながり、小金城主高城氏の姻戚である。(ウィキペディア「小金牧」より)

     享保以降の牧士は、野馬奉行の下にあって、現地の有力な豪農が任命された。牧士に任命される程の豪農なら、戦国時代には武士、土豪であった可能性が高いから、あながち、千葉氏の裔、あるいは相馬氏との関係を自称してもおかしくはないか。江戸時代には流れの系図書き職人が存在し、そういう系図を作ったかも知れない。
     吉田甚左衛門(世襲の名)が牧士に任命されたのは文政九年(一八二六)からである。その役職だから、野馬奉行が来訪することもある。また花野井村の名主も務めていたから、代官や役人も来たことだろう。式台付きの玄関はそれを迎え入れるためのもので、通常は閉ざされている筈だ。江戸時代中期からは質屋や穀物商も兼ねていた。「触って見てください。雨曝しなのにツルツルしてるでしょう。」確かにそうだ。高価な木材を使っているからだというのが説明である。
     「そこの軒先の茅葺を見てください。筑波流という作り方です。」萱を何層にも重ね、間に笹竹を入れてある。建物内部に用いられている木材も大層なものだが、一々説明できない。とにかく立派としか言いようがない。
     玄関に隣接して三畳の小部屋があるのは帳場座敷である。表からではガラスが波打って、主人がいるかどうか分らない。会いたくない相手が来たらそこを出て隠れるんですよ。」おそらく明治以降になって作られた小部屋だろう。帳場があるのは商売をしていたからである。茶室風の床の間の柱は孟宗竹と棕櫚である。その左は農家風の土間だ。
     土間から屋敷に上がり込む。数年前までおばあちゃんが生活していたとのことで、ガラスはサッシに替えられている。この広い家で住むのは大変だったろう。
     納戸からすぐ上がったところは茶の間、表に面して店、玄関の裏が納戸。茶の間には新しく囲炉裏が作られ、一日に一度を火を燃やすという。「茅葺屋根は煙でいぶさないと虫が湧くんですよ。」この場所にはおばあちゃんの冷蔵庫が置かれていたらしい。柏市に寄贈されてから、それを撤去して囲炉裏を新設したのである。
     玄関の左に廊下を渡って書院がある。ここは役人を接待し、また宿泊もさせる区域になる。床の間なしの部屋と床の間付きの部屋を仕切る欄間の花菱組子が見事だ。警護の者が宿泊する小座敷も付随している。納戸から奥には家族が生活した新座敷。「普通は見せないんですが」と佐藤氏は襖のストッパーを外して三分の一程開けて当主の寝室をちらっと見せる。
     明治二十七年当時の屋敷の全景の銅版画の複製も掲示されている。千葉県下総国東葛飾郡田中村花野井醤油醸造吉田甚左衛門邸宅。
     窓の外を見ると、手水鉢の向こうに、江戸城にあったものだという青銅のシャチホコが置かれている。「徳川と関係が深かったんですよ。」この辺になると良く分らない。
     「『JIN-仁』でも使われました。」綾瀬はるかちゃんが一番可愛かったドラマである。「野田の茂木邸は、吉永小百合を撮影したって言ってたね。」宗匠に確認すると「そうだね」と答えてくれた。
     「百年名家でも撮影されました。」BS朝日で、そういう番組をやっているらしい。調べてみると、平成二十七年(二〇一五)二月八日、「四三代続く豪農『旧吉田家住宅』 ~三つの顔を持つ歴史の館~」というタイトルで放映されている。バックナンバーの解説を見ると、そこに登場する名家の中で、私たちは野田の茂木佐平次邸、横浜の三溪園、川口の旧田中家、谷中の朝倉彫塑館、足利学校、新宿区落合の林芙美子記念館、深谷の澁澤栄一生家、比企郡川島町の遠山邸等を訪れている。その中でもこの屋敷は最高ランクに位置するだろう。

     「ちょうど四十分でした。あの二人は遅いけど、私は時間厳守です。」「有難うございました。」トイレは長屋門の中にしかない。昼飯後にまた戻ってくるときは、声を掛けてくれれば良いとのことだ。表に出て煙草を吸おうとすると、「私も行きます」と佐藤氏もついてきた。喫煙所はないので、通りに面したところまで出るのである。
     「この芝生は茶畑でした。」今も、その周囲の垣は茶が植えられていて、白い小さな花が少し見える。「どうしてお茶かと言えば、静岡の本多家の飛び領地だったからです。」「なるほど、静岡のお茶ね。」
     やがて残りのグループもやってきて、芝生にシートを敷いて弁当を広げる。風もなく背中に陽があたって少しポカポカしてきた。妻が作った今日のおにぎりは少し大きい。
     「棕櫚の柱って初めて見ましたよ。棕櫚は嫌われるんですけどね。」姫に言われるまで、私は気にもせず、棕櫚は普通には撞木に使うよなと思っただけだった。「ダンディが大黒柱を触って怒られたんですよ。糠袋で拭いてくれって。」重要文化財を軽々しく触ってはまずいだろう。「俺たちは訊いてから触ったよ。」「そうですよね。」
     「ガイドは給料をもらうのかな?」「ボランティアだと、交通費程度でしょうかね。」柏市のホームページを見ると、この家のガイドになるためには五回の講座を受ける必要がある。受講費は三千円だ。

     弁当を芝に広げて日向ぼこ  蜻蛉

     腹がいっぱいになったところへ、煎餅やらなにやらさまざまな差し入れが届く。オクチャンからは自宅の庭で採れたという柿が配られた。甘くて美味い。「近所の畑の柿が誰も収穫しないまま残ってるんですよ。」桃太郎は、誰も採らない柿ならば貰いたいのだが、どこに訊けば良いか分らなくて悩んでいる。
     「神父があるからには神母もいるのかな?」桃太郎が不思議なことを言い出した。牧士からプロテスタントの牧師を連想し、更にカトリックに及んだのである。カトリックでは女性は聖職者になれないのではないかな。「プロテスタントには女性の牧師もいますよ。」牧師と神父とでは根本思想が異なる。神父は人の上に立つ者であり、ピラミッド型の階層を持つのに対し、牧師は信徒一般と同じレベルだと考える。
     神父と呼ぶが、職名は司祭である。新約聖書の『テモテへの手紙一』に、「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。」という言葉があって、それが女性聖職者を認めない根拠となっている。

     一時三十五分に出発する。「アレッ、宗匠がいない。」「ちょっと待って。」桃太郎もいなかった。姫は四十分に出発すると言っていたのだ。桃太郎は醤油の小瓶を買っていた。宗匠は、洞になった木の中からタケノコが生えているのを見ていたのである。
     道端にはピラカンサ、センリョウなど赤い実が盛りだ。そう言えば、先日こころが、「あーかいとりことり、あーかいみをたべた」と上手く回らない口で歌っていた。「センリョウの隣はマンリョウかい?」「実が一つしかないから一両。」「せめて十両にしてやってくれよ。」
     オクチャンが近寄って観察しているのは何だろう。「ヤマボウシでしょうか。」オクチャンは言うが、赤い実は確かにヤマボウシに似ていても葉の形が違うのではないだろうか。勿論私の言うことだから当てにはならない。スナフキンがスマホで検索した画面を参照しながら、オクチャンは「やっぱりヤマボウシだと思います」と結論付けた。「葉脈が同じですね。」私は葉脈なんて観察したこともなかったし、葉がこんなに真っ赤になるまで実をつけているのは見たことがなかった。
     「まだ着かないかな。」ひたすら三十分以上も歩いていると腰が張ってくる。チロリンは「疲れちゃったよ」と言い始めた。足が遅くなっている。小町もかなりバテ気味だ。「あと三分の一だってさ。」
     布施弁天の看板が出ている。東日本有数の弁天だと書いてある。「ホントかな?」無学な私は聞いたことがなかった。住所表示が富勢になった。布施の当て字かと思ったら、とみせ幼稚園があった。それならトミセと読むのであろう。
     明治二十二年(一八八九)南相馬郡の根戸村、宿連寺村、布施村、久寺家村と、印旛郡の呼塚新田、根戸村新田、松ヶ崎村新田、柏堀ノ内新田、水神前が合併して南相馬郡富勢村ができた。明治三十年には南相馬郡が東葛飾郡に統合された。戦後になって、柏と我孫子と、どちらに合併するかという問題が起こり、結局、分割して編入されたから、柏市と我孫子市に布施や根戸の地名があると言う。
     「あれが教会か?」普通の二階建ての住宅の切妻に十字架が付けられているのは福音シオン柏キリスト教会だった。シオンでまず連想するのはシオンの丘という地名であり、そこからシオニズム運動が起こりイスラエル建国につながることは知っていた。しかしシオンにはもう一つ、「心の清い者」という意味があった。
     福音シオンというのは知らなかったが、戦前の日本ホーリネス教会の流れを組む日本ホーリネス教団に属しているらしい。プロテスタントではあるが、戦前、プロテスタントが合同して組織した日本基督教団に属し、弾圧されて日本聖教会ときよめ教会とに分裂した。戦後、日本聖教会のグループが日本ホーリネス教団を組織した。プロテスタント各派の教義は複雑で私にはチンプンカンプンであるが、「救い」「潔め」「癒し」「再臨」という四重の福音がその中心にあると言う。
     姫は布施弁天の矢印とは逆に向かう。畑の中にいちご園、ミカン園のビニールハウスが出現してきた。「見えてきましたよ。」あけぼの山農業公園である。柏市布施二〇〇五番地二。入り口前に大きな柏の木が立っている。
     下りスロープを降りていくと小さな滝があり、ベンチが設置してある。「水の音を聞くとトイレに行きたくなっちゃうわ。」そんなものか。トイレに行く人はすぐ先の売店を利用するが、私は腰を休めるためにも休憩が必要だ。「この滝は循環だろう?」たぶんそうなのだろう。少しすると姫から、そろそろ出発すると電話があり腰を上げる。
     売店を出ると目の前には芝生が広がり、遠くに風車が見える。手前の花壇は花を交換している最中らしい。農業公園というから、田んぼや畑の実習をする場所かと思ったが、どうやら違ったようだ。小さな子供連れの家族が芝生にシートを敷いて寛いでいる。

     姫が向かったのが布施弁天だった。看板には「千二百年の歴史をもつ 嵯峨天皇の祈願所」と書かれていた。鳥居はあるが、竜宮門形式の楼門の正面からは少しずれている。それにしても、弁天は仏教の天部なのに、鳥居があるのは何の意味だろうか。正式には紅龍山布施弁天東海寺。真言宗豊山派である。柏市布施一七三八番地。寛永寺弁天堂(不忍池)、江島神社と並んで関東の三大弁天だと自慢する。

     大同二年(八〇七年)七月七日、大雷雨とともに赤い龍が現れ手にもった土塊を捧げて島を造り、その時から島の東の山麗から夜な夜な不思議な光が射しました。
     ある時、天女が村人の夢に現れて、「我は、但馬の国朝来郡筒江の郷(現 兵庫県朝来郡和田山町)から参った、我を探し祭りなさい」と告げました。
     夢から覚めた村人が光をたどっていくとそこに三寸(約九センチメートル)ほどの尊い御像があったので、藁葺きの小祠を建てておまつりしました。(縁起より)

     但馬国朝来郡筒江からやって来た天女は弁天であった。但馬国に残る伝説では、弘仁四年(八一三)の頃に、空海が筒江の香林庵で彫った弁財天が雷鳴と共に龍に連れられ東の空へ昇るという事件があった。地元では龍が昇ったあとの池に水神を祀り、その後に弁財天の鎮座する宮山に厳島神社を構えたと言う。
     こういう話は信じなくても良いが、但馬で東の空に上った弁財天がここまでやって来たのである。川や湖沼の近くに弁天信仰が生まれるのは自然で、古代、この辺りは縄文海進によって香取の海が広がっていたことは先にも書いた。そして高台には縄文遺跡が数多く残っている。やがて海が後退しても潟や湖沼が多く残る湿地帯であった。だから村人は船を出して湖の中の小島で弁天像を発見した。
     やがて空海がこの地を訪れ、本尊は自身が彫った像であることを確信し、帰京後、嵯峨天皇に言上したところ、嵯峨天皇が感激して勅願所にしたというのである。江戸時代に領主の本多氏が崇敬し、享保二年(一七一七)に現在の本堂を建立した。
     三十段程の階段を上ったところにある楼門の一階では、色鮮やかな四天王が睥睨している。右に広目天と増長天、左に多聞天と持国天。階上には釈迦三尊があるらしい。更に石段を少し上る。
     本堂に上がってきちんと拝んでいるのはヤマチャン、桃太郎、スナフキンたちだ。境内は広い。三重の塔の近くには白いツバキ(サザンカだろうか?)が咲いている。ツバキかサザンカか、私は地面に落ちているのが花弁か花かで区別することしか知らない。「大川栄策だね」とヤマチャンは即座に断定する。ぴんころ地蔵、布施観音なんていう新しいものもある。小さな大師堂は勿論空海を祀ってある。
     鐘楼が実に珍しい形をしている。多宝塔様式なのだが、八角形の石の基壇の上に円形の回廊が巡らされている。説明が難しいので、寺の説明をそのまま引用する。

     鐘楼は、棟札によると文化十五年(一八一八)の建立です。八角形(一辺十一・四尺)の石積基壇(基礎)の上に、十二角形に柱を建て、周囲に円形の縁を巡らし、その中央に鐘を吊り下げています。
     屋根は銅板葺きの入母屋造で、軒下には十二支などの彫刻が配置されています。下から八角形の基壇、円形の縁、十二角形に配置された柱という組み合わせとなっており、非常に独創的な形の建造物となっています。装飾に多くの彫刻が使われている点とあわせて、近世の寺社建築の多様なあり方を示しています。
     設計にあたったのは、矢田部(現茨城県つくば市)の名主 飯塚伊賀七、大工棟梁は今関嶺蔵です。伊賀七は「からくり伊賀」といわれるように、当時としては奇抜な木製和時計や五角堂など数々の品々を発明し、この鐘楼の設計図も手がけています。

     「からくり伊賀」あるいは「からくり伊賀七」の名前は初めて目にした。設計者の飯塚伊賀七は蘭学、和算、暦学を学んだ発明家であった。名主としては天保の大飢饉に際して苦労しただろう。谷田部藩が藩政改革のために二宮尊徳を招いた時には伊賀七の家に逗留した。
     発明品には懐中時計、家の斜向かいの酒屋に酒を買いに行く人形、木製自転車、時計と連動して動く扉、回転式距離測定器「拾間輪」(一回転半間、二十回転十間で音が鳴る)などがあるらしい。
     久留米のからくり儀衛門・田中久重、備前岡山の備前屋幸吉の例もあり、幕末には日本各地に新技術を追い求める先覚者が輩出した。日本の近代化は明治維新によって突然始まったのではなく、既に幕末に用意されていたのである。飛行機についてはウィキペディアから引用してみる。

     伝説によると、伊賀七は大きな鳥のような翼を作り、それを身に付けて屋根から飛び降りて試行錯誤を重ね、更には筑波山から谷田部までの約二十キロを飛ぼうとして「飛行願」なるものを藩主に提出したという。しかし「人心を惑わす」、「殿様の頭上を飛ぶなどもってのほか」という理由で許可は下りず、実現することはなかった。それどころか、伊賀七は藩に捕らえられ、献上したからくり人形も破壊されてしまった、という話まで存在している。
     天明五年(一七八五年)に備前国岡山では浮田幸吉が飛行実験を行ない、オランダ経由でヨーロッパの熱気球による飛行の成功のニュースが日本にも伝わっていたことから、それらに刺激されて伊賀七が飛行実験を行なったものと考えられる。飛行計画はたとえ上記のような理由がなくとも、筑波山が江戸の鬼門鎮護の地として神聖視されていたことや、筑波山から谷田部までの間には天領や旗本領、大名領が複雑に入り組んでおり、外様大名の谷田部藩主が許可を出すことは実質不可能だった。
     伊賀七の飛行機は羽を数枚重ねたもので、ペダルを足で踏むと羽ばたいて飛ぶことができたようである。この構造を活かして木製の自転車を作り、乗り回したという。五角堂内で羽を見たという証言もあったが、現存していない。

     本堂から降りてきたヤマチャンが、「なんだか稚拙な絵があった」と言うので、本堂に入ってみた。稚拙だというのは、外陣天井鏡板の龍と弁天を描いた絵であるが、それほど稚拙とは思えない。「天女の顔がなんだかおかしい。」そうかなア。龍の咥える宝珠を取るために天女が近づいているのだが、その姿が画面の下に横たわるようになっているのが、ヤマチャンにはデッサンが狂っているように見えるらしい。天空を泳いでいる姿であろう。
     正面の龍は狩野探舟だとあるが、ネットで検索しても探せない。おそらく探船のことではないかと考える人がいる。それならば奥絵師四家の一つ、鍛冶橋狩野家の享保の頃の当主である。
     「そこからの眺めが良いですよ。」姫の言葉で境内の端に立って北を眺める。「あの川は何だろう?」「利根川です。」それでは、向こうは取手になるのだね。「あの川は何ですか?」「利根川。」「あの川は?」来る人来る人、同じことを訊く。筑波山も見えるらしい。

     東海寺を出て、今度は鳥居を潜ってみる。「なんだか変ですね。」この鳥居は駐車場の入口を示しているとは考えられないか。道路の向こうには小さな塚があり、その頂上に妙見を祀る小さな祠が見える。「古墳みたいだね。」「行きますか?」「行かなくていいよ。」縄文海進の際の陸地が、今では小高い丘になっているのかも知れない。柏市の調査では、布施弁天は古墳らしい。
     日本庭園に入ると淡いピンク色のツツジが咲いていた。「返り花でしょうか?」常緑樹も、黄色くあるいは赤く色づいた樹もそれぞれ美しい。池の周りを一回りして外に出る。地面には赤い紅葉が敷き詰められている。
     今度はあけぼの山公園(さくら山)に入る。階段を上ると広い平地だ。「ここから見ると、きれいに揃っている」とオクチャンが言うように、桜は真っ直ぐになるよう植えたものだ。地形が城跡のように見える。
     「一茶の句碑がある筈なんだ」と言ったのはヤマチャンだったか。よく調べているものだ。「だけど実際に来た訳じゃないんでしょう?」「いや、一茶はこの辺りに来たことあるよ。」これは松戸を歩いた時に調べた筈だ。
     一茶は放浪の詩人であり、特に下総には頻繁に訪れた。若い頃、利根川町布川出身の今日庵森田元夢に師事したことから、下総(特に流山、馬橋、安孫子、布川)の俳人や旦那衆と親しく交わった。つまり下総には一茶のパトロンが多かった。そのため、流山には一茶双樹記念館がある。双樹とは流山のみりん醸造業者、秋元三左衛門の俳号である。句碑は見つけられなかったが、ネットで調べてみた。文化九年(一八一二)二月十二日に双樹等と共に、布施弁天に訪れた時のことである。

     布施東海寺に詣けるに、鶏どもの迹をしたひぬることの不便さに、門前の家によりて、米一合ばかり買ひて、菫蒲公のほとりにちらしけるを、やがて仲間喧嘩をいく所にも始たり。其のうち木末より鳩雀ばらばらとび来たりて、心しづかにくらひつつ、鶏の来る時、小ばやくもとの梢へ逃さりぬ。鳩雀は蹴合の長かれかしとや思ふらん。士農工商其外さまざまの稼ひ、みなかくの通り。
         米蒔も罪ぞよ鶏がけ合ぞよ

     再び農業公園に戻って広場を歩く。「吉田家もこの公園も、一日のんびりしたい場所だね。」小町がしみじみと感想を述べる。「ああ、これですよ、この黄色の花。」黄色い花には「アンデスの乙女」と名付けられている。オクチャンはさっきから、これの和名を思い出そうとしていたのだ。調べてみると花旃那(ハナセンナ)である。
     「それではバス停に向かいます。次のバスまで十五分程です。」「間に合うかな?」「急ぎましょう。」途中で民家の垣根からアンデスの乙女が伸びているのを見つけた。結局バス停には十分で着いた。「農業公園入口なんだから、もっと近くに作れば良いじゃないか。」誰でもそう思う。本日の歩数はスナフキンの一万七千歩を採用した。十キロである。訪問した場所は少なかったが、なかなか良いものを見た一日であった。次回一月はオクチャンが久喜を案内してくれる。
     バスは安孫子駅まで十五分程で百七十円。常磐線各駅停車に乗り、姫、マリー、スナフキン、ヤマチャン、宗匠、蜻蛉の七人は新松戸で降りる。武蔵野線の乗換駅なので都合が良いのだ。「店はあるのかい?」「あるよ。」スナフキンの知らない町はないのではないか。「だけどこの時間にやってるかどうか分らない。」四時である。
     しかし心配することもなく、改札を出れば「目利きの銀次」、和民、がんばや水産、いちげん等、居酒屋探しに苦労しない店である。「良い街だね。」飲み屋が多ければ多いほど良い街である。一番近い「銀次」はやや高めだろうか。横断歩道でない場所で道を渡り、がんばやに行ってみると「支度中」の札が掛かっている。しかしスナフキンとヤマチャンが交渉すると大丈夫、入って良いと言う。
     突出しは味噌煮のブリ大根。キウリ、茄子の一本漬け、塩キャベツ。先日と同じく野菜ばっかりである。タンパク質も少し欲しいので、イカのポッポ焼きも注文した。焼酎は一刻者の赤である。赤というのは初めて知ったが、「赤のほうが良いんだよ」と言うスナフキンに従った。最後に焼きそばを注文し、焼酎二本を空けて三千円也。

     里山とは関係ない話題だが、一月のヤマチャン企画の江戸歩きが神保町をスタートにするので、関連情報として記しておく。
     岩波ブックセンター信山社が破産した。岩波ブックセンターは元々岩波書店の直営だったが、平成十三年(二〇〇一)から、神保町の顔とも言うべき柴田信の信山社が引き継いでいた。岩波の他にも筑摩、平凡社、みすず等の人文社会科学関係書籍を置き、社風に合わないものはどんなベストセラーでも売らないという姿勢は、柴田の顔と信用があったからこそ辛うじて保っていただろう。「本の街・神保町を元気にする会」の事務局長であり、「神保町ブックフェスティバル」の中心人物であった。十月に柴田が八十六歳で急逝して一挙に破綻した。負債総額は一億二千七百万円である。岩波の書籍は委託ではなく買い切りだから返品もできない。
     十月には神田村の小取次・東邦書籍、ドイツ書のゲーテ書房(負債総額二億二千万円)が破産しており、創文社(『ハイデッガー全集』、トマス・アクィナス『神学大全』等)も四年後には解散すると発表した。業界の危機は留まる気配がない。人文社会科学書は売れないのである。このままでは将来この国から人文社会科学の書籍は消滅してしまうのではないか。人文学の消滅は国の文化の消滅に等しい。

    蜻蛉