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    平成二十八年十二月十七日(土) 久喜

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2016.12.25

     安倍政権はやりたい放題である。言うべきことは山程あるが今回はカジノ解禁に絞る。現在ギャンブル依存症患者は推定五百六十万人に上ると言われる。日本の人口の四パーセントを超える数値だ。
     これを承知しながらカジノ解禁を推し進めるのは、既に犯罪行為であろう。依存症とは博奕に負け続ける者である。例えば貴闘力の場合、オーストラリア巡業でカジノに行ったことがきっかけだった。五万円の掛け金で八千万円儲けたことからギャンブルにのめり込み、その後は負け続け五億円を失った。そしてあれほど好きだった相撲界から追放され、大鵬の娘婿の地位も失うことになる。
     今でさえ膨大な依存症患者はカジノ解禁によって更に増え、それに連れて借金塗れで生活が破綻する者も膨れ上がる。依存症患者には家族もいるのだから、日本人の一割以上に影響を与える。カジノ法は確実に国民生活を破綻させる。
     旧暦十一月十九日、大雪の末候「鱖魚群(さけのうおむらがる)」。昨日は風が冷たくひどく寒い日だったが今日は比較的穏やかな一日になりそうだ。
     今回はオクチャンが地元の久喜を案内してくれる。隊長からは野鳥観察をメインにするよう依頼されていて、午後にはそのコースが用意されている。「久喜には県内屈指の野鳥観察地があるのでコースを決めました。」昨日の下見の際には猛烈な風で、コースを変えようと思った程だったそうだ。

     久喜駅にはオクチャン、あんみつ姫、ハイジ、マリー、宗匠、ハコさん、ドラエモン、ロダン、スナフキン、ダンディ、ドクトル、ヤマチャン、蜻蛉の十三人が集まった。千意さんは近いのにどうしたのだろう。ドラエモンは久し振りだ。「いつ以来ですかね?」「確か吉見を歩いた時かな。」それなら二月以来ということになる。ドクトルも三月の江戸歩き以来だ。
     久喜は乗り換えで経由することはあっても降りたことがなかった。西口に出て、まず三人の女性ブロンズ像を見る。齋藤馨「風の見える街」である。「久喜には何もありません。それでも空が広く、眺望が良いのが自慢です。関東平野の真ん中ですから。」
     次が中島敦の案内板だ。「私たちが建てました。」オクチャンが久喜・中島敦の会をやっているのは、去年の三月に白岡で、中島撫山の「柴山伏越改造之碑」を説明して貰った時に聞いていた。それまで私は中島撫山の名前さえ知らなかった。

     久喜市ゆかりの作家 中島敦
     中島敦は、明治四十二(一九〇九)年、東京四谷に生まれ、幼少時、この久喜の地に五年余り過ごしました。
     多くの門人を育て当地の教育の基礎となった学塾・幸魂教舎(さきたま教舎とも訓む)を開いた漢学者の祖父・中島撫山や父・田人をはじめ中島家の家学・漢学と歴史の豊かな素養に支えられた敦の小説は、格調高く趣き深い文体を特徴としています。作品に「山月記」「弟子」「名人伝」「李陵」をはじめ「光と風と夢」「かめれおん日記」「斗南先生」などがあり、いずれもこの作家の幅広い学識が紡ぎ出したものです。
     森鴎外の再来・第二の芥川龍之介と評されながら作家活動は短く、持病の喘息によって昭和十七年(一九四二年)十二月四日、三十三歳の短い生涯を終えました。

     オクチャンは丁寧に音読してくれる。敦の享年三十三歳は満年齢である。別の場所で三十四歳という記載も見かけたので念のために書いておく。私は文庫本になったものの他には青空文庫でいくつかを読んだだけで、中島敦の熱心な読者という訳ではない。『李陵』の雄渾で悲壮感を増す文体は好きで、高校時代に何度も読んだ。漢文体は悲劇によく似合い、学生時代に高橋和巳の文体に惹かれたのはそのせいだったかも知れない。
     但し中島敦の文体は不思議なことにユーモアにも似合って、それは『悟浄出世』と『悟浄歎異』によく表れている。悟浄の自意識が齎す嘆きは知識人一般の悲哀であるが、無意識過剰(小林信彦が小林旭を評した言い方)の天才、孫悟空に出会った衝撃を、自嘲にユーモアをまぶして語る文体は独特である。しかし自意識の呪縛を無意識は救うことができるか。
     「そこに蔵が見えます。寒梅酒造です。」久喜市久喜中央二丁目九番二十七号。創業は文政四年(一八二一)。マンション脇から駐車場を通り抜けると、かつての蔵元の広大な敷地が見渡せる。このマンションもかつては酒蔵だったらしい。オクチャンは寒梅酒造所の銅版画や、吉田酒造の酒蔵の様子を描いた絵馬の写真を用意していた。吉田酒造は、慶応三年(一八六七)に日野屋喜右衛門(現寒梅酒造)に譲渡して廃業する。
     日野屋の屋号は、近江国蒲生郡日野の出身ということから来ているようだ。「近江商人だね。」ウィキペディアの「近江商人」によれば、日野商人は日野椀や医薬品の行商に始まり、後に醸造業を営む者も多く出た。特に北関東に小型店を多数出店したと言う。「新潟に越乃寒梅がありますが、こっちは修飾語がつかない本物の寒梅だって、社長が自慢していますよ。」
     北側の道路に出ると黒板塀の古い二階家と、その斜向かいの漆喰の塀に黒い土蔵のある家(分家)に注目する。「榎本家です。」久喜の豪商である。オクチャンの先輩に当たる人がいて、しょっちゅう遊びに来ていたと言う。「撫山の経済的な支援者でもありました。」

     榎本家は、土地経営のほか醤油醸造業・酒造業・質屋などを営み「久喜の榎善」として近郷近在まで知られた豪商であり、また、郷学遷善館の世話役として、その運営にも貢献しました。
     近代になってからは、戸長・町長・市長を勤め、日本鉄道会社の久喜駅誘致、郵便事業への参画、久喜銀行の設立などのほか、久喜小学校・高等小学校等の敷地や言揚学舎の援助など教育の発展にも尽力していました。(久喜市「榎本家文書」)
    https://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/bunkazai/komonjo/enomoto.html

     「土地経営」というのは、大地主であったということだろう。「駅まで他人の地所を通らずに行けたそうです。」自分の土地を提供して駅舎を建てたのだろう。「また市長を務めた善兵衛さんの奥さんがまた立派な人で、与謝野晶子の最後の弟子、浜梨花枝(はま・りかえ)さんです。歌誌『青遠』を主宰して、埼玉新聞の歌壇の選もやってました。」私は現代歌壇に疎いので初めて知る名前だ。東京家政学院で池田亀鑑に学び、その紹介で与謝野晶子の門に入ったらしい。
     「アレッ。」オクチャンが説明している時に千意さんが現れた。今日は四時頃に用事があるから早退する、車で来たと言う。「蜻蛉に電話したんだけど。」「来てないよ。」「番号間違えちゃったかな。」この時、私のガラケーは壊れていたのである。夜、電話しようとして気が付いた。受信も発信もメールもできなくなっていた。(しかし実は故障でもなんでもなかった。会社支給の電話だから翌日会社に連絡すると、カードを抜き差ししてみろと言う。カードなんて私は今まで全然関係していないから、どこを開ければ良いのか分らない。図書館のスタッフに頼んで蓋を開けて貰うと、埃が充満していた。それを掃除し、バッテリーとカードを抜き差しして簡単に復活した。全く情けない。)
     街燈には「新二商店会」の看板が取り付けられている。「新」というから新しい通りなのだ。榎本家母屋の並びに二三軒おいて榎本歯科、榎本陶苑がある。「一族だろうね。」
     少し歩くと、あけぼの薬局久喜2号店に着く。久喜市久喜中央二丁目六番地二十六号。ここが撫山の幸魂(こうこん又はさきたま)教舎の跡であり、敦が幼年期を過ごした家である。駅前に立っていたものと同じ案内板が立っている。「予算が少し余ったので、このポールも建てました。」幸魂教舎は明治二年に本町に作られたが、鉄道敷設の区画整理のため、この土地に移転したのである。
     薬局の脇にはエンジュ(槐)が立っている。「エンジュは三公を表します。」周の時代には太師、太傅、太保が三公と呼ばれ最高位の官職を占めていた。宮廷の庭には槐の木が植えられ、三公は槐に向かって座す決まりで、三公を三槐とも呼ぶ。「同時に、エンジュの読みが延寿につながるめでたい木ですね。」
     空き地の隣家との境に大きな「撫山中島先生終焉之地」碑が建っていた。六男の田人の撰文による。とても読めないから、久喜市のアーカイブ(http://archive.fo/uBCV)を参照してみる。

    先君諱慶字伯章號撫山以文政十二年四月二日於生江戸亀戸年甫十四
    初執贅於亀田先生之門師事綾瀬鶯谷両先生学既成開塾於両国矢倉號
    演孔堂後移居神田阿玉池明治維新之際去都下寓於武之埼玉郡鹿室無
    向ト居同郡久喜開幸魂教舎教授郷黨子弟爾来四十餘年及門者千数百
    人明治四十四年六月二十四日歿於家壽八十三先君之講學也以皇道為
    主助之以六經仁義之教曰皇國惟神之大道獨漢土聖人所傳六經仁義之
    名教克協之是先君之學之所以與他所謂漢學者流大有逕庭也今也先君
    即世三十年於是矣而門人諸生景慕之念不滅昔日於是相謀建石於家之一
    隅刻曰撫山中島先生終焉之地欲以永傳諸後昆鳴呼師道不振之日諸生
    之於先君其志可謂洵美且異矣
       昭和十六年十一月        男田人謹誌
                       小沢鉄三郎彫

     オクチャンは予め、隣家との間の塀に米津(よねきつ)氏・早川代官・郷学遷善館・中島撫山幸魂教舎・明倫館と書かれた紙を貼ってくれていた。米津氏は久喜藩の藩主であったが、教育には不熱心だったそうだ。その藩政時代にも郷学設立の要望があったらしいが実現しない。出羽国長瀞に転封された後、久喜は幕府直轄領になり早川氏が代官を務めた。享和三年(一八〇三)その早川八郎左衛門(名は正紀)によって郷学遷善館が設けられた。

     一七六九年(明和六年)勘定奉行所勘定役に出世し、一七八一年(天明元年)まで在職。その間、主に関東諸国の河川工事に功労が多く、一七七五年(安永四年)には幕府から報奨を賜っている。
     一七八一年(天明元年)に初めて代官に任命され、出羽国尾花沢(山形県尾花沢市)、美作国久世(岡山県真庭市、備中国笠岡(岡山県笠岡市)、武蔵国久喜(埼玉県久喜市)の代官を歴任し数々の善政を施した。
     美作国久世、備中国笠岡の代官在任中は、管内農村を親しく巡回して経済的精神的に荒廃した状況の復興のため倹約の奨励・赤子間引き禁止を説き、「久世条教」を出版して庶民の教育に努めた。また、吉岡銅山の再興・弁柄生産の保護・虎斑竹の保存など地域産業の振興にも努めた。 武蔵国久喜に転任する際には、領民から代官への留任願が四回も起こったほど名代官として広く民衆に慕われたと言う。(ウィキペディア「早川正紀」より)

     郷学は藩学と寺子屋の中間に位置し、主に農民を対象にした教育機関である。早川はそこに教授として亀田鵬斎を招いた。これが久喜の教育の始まりであるが、遷善館は文政三年(一八二〇)には閉鎖されたようだ。時の代官は吉岡治郎右衛門。吉岡についてはこんな記事を見つけた。

     文化十四年(一八一七)、 代官吉岡次郎右衛門支配下の天領、生板村など八か村(現在の河内町・龍ケ崎市・水海道市・石下町にわたる)農民四百三十余名は、打ち続く凶作にもかかわらずかえって重い年貢を課した代官の非法を江戸の代官邸に門訴、万平らはさらに勘定奉行所に訴え出て犠牲となった。しかし四年後、代官は解任され年貢は軽減された。(茨城県稲敷郡河内町「生板の三義人供養(町指定文化財)と阿弥陀如来坐像(県指定文化財)」http://www.town.ibaraki-kawachi.lg.jp/syoukai/rekishi/annai/bunkazai/001.html

     吉岡はその前の文化八年(一八一一)に、越谷内八ケ村でも過酷な年貢増収を命じている(「広報越谷」昭和四十七年八月一日号「市史編さんだより」)。絵に描いたような苛斂誅求の代官であり、教育なんてことはハナから頭にない人物だったろう。解任されて久喜に移って来たのだろうか。
     「鵬斎と言えば当時一流ですね。」「酒井抱一、谷文晁と交わりました。」鵬斎は井上金峨の弟子だから、学統は折衷学になるだろう。寛政異学の禁で「異学五鬼」と認定され、門弟のほとんどを失った。酒井抱一、谷文晁と酒や遊興に耽溺したのはその鬱憤でもあっただろう。
     中島撫山(慶太郎)の生家は亀戸にあって、諸大名に駕籠を納入する豪商であった。「そういう商売だとどうしても賄賂とかいろいろありますね。それが嫌だったんでしょう。」出井貞順、鵬斎の子の亀田綾瀬、及びその養子の鶯谷に学び、両国矢ノ倉に私塾「演孔堂」を開いた。
     維新後の明治二年(一八六九)江戸の喧騒を離れ、鵬斎に所縁の久喜に移転して来たと言われる。しかしその時には既に鵬斎(文政九年没)も綾瀬(嘉永六年没)も亡く、遷善館もない。
     撫山に始まる家系図も張り出してある。以下、一族の人についてはオクチャンの説明を手掛かりに、ネットから情報を得た。オクチャンが記したと推定される記事も含めて、久喜市の情報は充実している。たぶん、村山吉広『評伝中島敦――家学からの視点』(中央公論新社)が一番詳しいのだろうが、あいにく図書館にも所蔵がなく参照できない。
     撫山の最初の妻紀玖からは靖(綽軒)が生まれた。栃木市に漢学塾「明誼学舎」を開いたことだけが分る。「綽軒の息子の甲臣(さきおみ)さんは北海道大学の名誉教授です。以前会いに行きました。」中島甲臣をネットで検索すると、CiNii Articles(国立情報学研究所)で中島敦に関する論文をいくつか読むことができる。
     後妻キクとの間には六男三女が生まれた。長女はフミ、敦からは河野の伯母と呼ばれた。次男が端蔵(斗南)で、宮内翁助と共に明倫館を創設して初代館長となる。

     明倫館は、明治二十六年(一八九三)十二月四日、埼玉県知事から私立学校設置許可があたえられ、本科四年課程、研究科三年課程で地域青年の為の中等教育機関として、宮内翁助、中島端蔵によって開設されました。
     昭和十年(一九三五)四月に廃校になるまでの四十三年間、在籍者は四千五百名(内卒業生七百名余)にも達し、地域の中堅者を養成したことは高く評価されています。(久喜市「私立学校明倫館関係資料」より)
    http://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/bunkazai/komonjo/meirinkan.html

     中島敦が『斗南先生』を書いた。斗南の遺稿集『斗南存稿』(中島竦編)を東京帝大の図書館に寄贈するよう命じられた敦は、聊か躊躇いながら生前の斗南の風貌を思い浮かべる。ここには斗南の狷介固陋で熱狂的なアジア主義者の顔、「髯の伯父」の学究的態度が対照的に描かれる。文中の「三造」は敦である。因みに『斗南存稿』は国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができるが、私の学力では全く読めない。

     ・・・・狷介にして善く罵り、人をゆるすことを知らなかった伯父(斗南先生)の姿が鮮やかに浮かんで来るのである。羅振玉氏の序文にはまたいう。
     「聞ク、君潔癖アリ。終身婦人ヲ近ヅケズ。遺命ニ、吾レ死スルノ後、速ヤカニ火化ヲ行ヒ骨灰ヲ太平洋ニ散ゼヨ。マサニ鬼雄トナツテ、異日兵ヲ以テ吾ガ国ニ臨ムモノアラバ、神風トナツテ之ヲ禦ふせグベシト。家人謹シンデ、ソノ言ニ遵フ。…………」
     これは凡すべて事実であった。・・・・
     伯父は幼時から非常な秀才であったという。六歳にして書を読み、十三歳にして漢詩漢文を能よくしたというから儒学的な俊才であったには違いない。・・・・
     親戚の多くが、三造の気質を伯父に似ているといった。殊に年上の従姉の一人は、彼が年をとって伯父のようにならなければいいが、と、口癖のようにいっていた。その言葉が部分的には当っていることを、三造も認めないわけには行かなかった。そして、それだけ、彼には、伯父の落著のない性行が――それが自分に最も多く伝わっているらしい所の――苦々しく思われるのであった。その伯父のすぐ下の弟――つまり三造にとっては斉しく伯父であるが――の、極端に何も求むる所のない、落著いた学究的態度の方が、彼には遥かに好もしくうつった。その二番目の伯父は、そのようにして古代文字などを研究しながら、別にその研究の結果を世に問おうとするでもなく、東京の真中にいながら、髪を牛若丸のように結い、二尺近くも白髯を貯えて隠者のように暮していた。・・・・
     伯父は、いってみれば、昔風の漢学者気質と、狂熱的な国士気質との混淆した精神――東洋からも次第にその影を消して行こうとするこういう型の、彼の知る限りではその最も純粋な最後の人たちの一人なのであった。

     三男がここに出てくる「二尺近くも白髯を貯え」た竦(しょう、玉振)である。「竦については白川静が最も評価しています。」そうなのか。私は日本の漢字学において白川静を最も尊敬している。と言っても持っているのは四冊しかないのだからたかが知れている。日本の漢字学は、白川を全否定した藤堂明保の系統が多いので、学界では主流とは言えない。
     しかし漢字の成り立ちを究めることは古代人の発想の根源を探ることである。それには呪的なもの、霊的なものへの直観力が必要になるだろう。藤堂にはこれが分っていない。白川静は、国文学における折口信夫に匹敵する位置にあるのではないか。ともあれ、中島辣のことである。

     若い時から儒学だけではなく神典(記紀以来の神道文献)の研究を行い、国学や国語について先人の説を踏襲せず、好んで史籍を渉猟した。中国に渡ってからモンゴルと女真に関わる知識を深めた。その方法は主に清代の文献を比較考証することにより、地理・歴史・制度・外交・風土・習俗・物産・貿易について確実にわかることを剔抉するというものだった。
     帰国してからは中国の古代文字である篆文と籀文の研究に傾倒し、許慎の『説文』ではなく甲骨に書かれた文字を根拠としている点で羅振玉とも着眼を同じくし、郭沫若はその著『卜辞通纂』に辣のことを「日本有数の漢学家」と呼ぶ。白川静は辣の業績について「当時利用することのできた甲骨文・金文資料を網羅し、…ときに創獲のところがある」と評する。
     東洋史学者の増井経夫に頼まれて、劉知幾の『史通』を初見で講じたことがあり、「古人が座右に一冊の参考書をおくこともなく、よく著述し、注釈し、解説することのできる生きた姿をそこに見た」と感銘を与えている。(ウィキペディア「中島竦」より)

     「創獲」はオリジナルに獲得した成果という意味だろう。ここに登場する羅振玉も郭沫若も甲骨文の研究者である。『説文解字』を盲信せず、甲骨文・金文に拠るのは白川学の基本であり、日本でそれを始めたのが中島辣ということになる。中島家の家学を最もよく継いで発展させたのはこの人であろう。

     中国ならびに日本に於いて前人未到の学問的業績をあげながら、名利には一切かかわらぬ樸学をもって自ら任じた玉振中島竦。世事に通じ、人情を解した寧静寡欲の人品・風格が、歿後七十二年、簡明な評伝と新発見の詩歌で明かされる。(村山吉廣・關根茂世『玉振道人詩存』商品説明)

     上州玉村の玉振学舎時代の教え子に羽鳥千尋がいる。羽鳥千尋自身は何をした訳でもない、二十六歳で死んだ若者だが、鷗外は千尋の書簡を材料にして『羽鳥千尋』を書いた。しかし鷗外が再構成した千尋の書簡は、本人の原文より冷たくて、人の感情移入を拒否するところがある。
     川島浪速の北京警務学堂で翻訳に携わっていた時には、二葉亭四迷が提調(事務長)として勤務していた。中島辣もまた、一個のアジア主義者であったろうか。警務学堂は粛親王が作った警察官養成学校であり、教員は全て日本人だった。粛親王の娘が川島の養女になって「東洋のマタハリ」川島芳子になる。
     四男・関若之助(翊)は、中島家では異例なことに日本聖公会の司祭となった。五男・山本開蔵は戦艦「長門」の基本設計を担当した海軍造船中将、次女志津、六男・田人は敦の父親である。
     田人は運の悪い教師だった。撫山、敦の関係がなければ語られることもない人であろう。最初の妻チヨとの間に敦を生んだもののすぐに妻に逃げられ、二度目の妻は澄子を生んだ直後に死亡、三度目の妻は三つ子を生んだが早世した。朝鮮を含めて勤務先を八校も変え、生涯を地方の一国漢教師として過ごした。敦もその転任に合わせて、奈良、静岡、京城などの学校を転々とした。敦の異母妹・澄子は折原家に嫁し、その子にミステリー作家・折原一がいる。(私は読んだことがない)。
     七男・比多吉(ひたき)はアジア主義者のひとつの典型であろうか。満州国建国の際に石原莞爾とともに暗躍したとされる。愛新覚羅溥儀『わが半生』には、板垣征四郎が溥儀に「満州国」の建国方針を通告する際の関東軍通訳官として登場する。面白いのは段祺瑞との囲碁交流で、明治四十二(一九〇九)に高部道平が訪中した際には、比多吉経由、段祺瑞の紹介で当時の中国最強棋士と手合せして、二子の手合いに打ち込んだ。ウィキペディア「高部道平」では「在留していた棋士中島比多吉初段」としているが、もちろん素人初段であろう。若き日の呉清源も段祺瑞の援助を受け、天才少年として鳴り響いていた。最後は三女うら。
     敦の子は桓(たけし)、正子(生後三日で死)、格(のぼる)。「なんだ、子供がいるじゃないか。」さっきスナフキンと話していて、子供はなかったのではないかと言ってしまったのだ。よくよく記憶を辿れば、パラオから子供たちに宛てた手紙を見たことがあるようだ。敦が三十三歳で死んだ後、妻子もこの家に住んだ。
     敦は私立横浜高等女学校教師を辞職後、日本語教科書の編纂のため、昭和十六年(一九四一)にパラオに赴任した。しかしそこで見た植民地の小学校教育の実情はこんな風であった。

     午前中公学校。(中略)校長及訓導の酷烈なる生徒取扱に驚く。オウクニヌシノミコトの発音をよくせざる生徒数名、何時迄も立たされて練習しつつあり。桃色のシャツを着け、短き鞭を手にせる小さき少年(級長なるべし)こましゃくれた顔付にて彼等を叱りつつあり。一般に級長は授業中も室内を歩き廻り、怠ける生徒を鞭打つべく命ぜられるもののごとし。帽子を脱ぐにも1、2、と号令を掛けしむるは、如何なる趣味にや。」(橋本正志「旧南洋群島における国語読本第5次編纂の諸問題」より、昭和十六年十一月二十八日付中島敦日記を引用)http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/594PDF/hasimoto.pdf

     オクチャンが地面に広げた大量の資料の中には、しょっちゅう遊びに来ていたオクチャンの記憶に基づいた間取りや庭の配置図がある。今はなくなってしまった建物の水彩画もある。解説が終わるとオクチャンは向かいの家の門を開け、資料をその脇に置いた。「ご自宅なんですか?」違ったようだ。この界隈の人は全て知り合いなのだろう。

     たうたうと中島敦かたりをり石碑あふげば久喜の大空  閑舟

     電柱には昭和二十二年のカスリーン台風による浸水の高さを、赤いテープで示している。一・二メートル。決壊したのは、北埼玉郡東村(現在の埼玉県加須市)の利根川堤防である。オクチャンも小学生時代に経験した。

     九月十六日早朝、鷲宮へ浸入した濁流は、昼近くになって北方より久喜市域めがけて津波のように押し寄せてきました。濁流は葛西用水に沿うもの、青毛堀に沿って流れるもの、中落堀川に沿って流れ下るもの、新川用水左岸仏供田落し沿いに流下するものの四本の流れになって浸入し、午後2時ごろまでに太田村の大部分を水没させ、四時ごろまでに久喜町の大半と江面村の下早見、太田袋方面をのみこみ、やがて四本の流れは合流して古利根川沿いに南下していきました。(久喜市公文書館第二十一回企画展「カスリーン台風から六十年――個人記録にみる大水害」)

     石造鳥居を潜ると御嶽神社だ。久喜市南一丁目四五七番。神社と言っても公園の一画に塚が築かれているだけだ。「富士塚ですか?」「御嶽塚です。」御嶽塚は何度か見たことはあるが、富士塚ほど多くはない。字面だけでは、木曾御嶽(おんたけ、祭神は国常立尊・大己貴命・少彦名命)なのか、武州御嶽(みたけ、祭神は櫛真智命)なのか、実はややこしい。ここは木曽の系統である。明治二十七年(一八九四)本町の御嶽神社から分祀したものである。
     頂上には、中央に御嶽神社、右に大己貴大神(オオナムチ、大国主)、左に少彦名大神の石碑が建っている。「裏に回りましょう。」オクチャンの言葉で狭い頂上で右往左往する。「中島佐致麻呂拝書」とあり、この「佐致麻呂」が撫山の号の一つだった。漢学者らしくない号だが、撫山には国学者の面もあったのである。そしてこれが撫山の碑であることも、久喜・中島敦の会が発見した。寄進者の中にオクチャンの先祖の名前があったらしい。
     公園の脇には新二会館という集会所がある。その出口に対の石が置かれている。「なんだか分りますか?」堰の水門だったらしい。「このくぼみに板を挟んだのです。」

     川を渡ると、右手に県立久喜図書館と市役所が並んでいる。埼玉の県立図書館は、浦和、川越、熊谷の三館だと思い込んでいたが、久喜を含めて四館あったのである。しかし川越図書館は平成十五年(二〇〇三)に廃止、浦和図書館も平成二十七年(二〇一五)に廃止されていた。「神奈川だって二館なんだから、四館は多すぎるよ。」
     浦和の県立文書館の一階に熊谷図書館の浦和分室が設置されたようだが、資料がある訳でもなんでもない。県庁所在地に県立図書館がないというのはいかがなものだろう。県立図書館には市町村立図書館とは違う大きな役割がある筈なのだが、こんなものは今の日本政府には無用のことであろうか。
     その向かいの久喜総合文化会館でトイレ休憩をとる。久喜市下早見一四〇番地.プラネタリウムを設置した立派な施設である。プラネタリウムとホールをつなぐ回廊の柱はエンタシスを模したものだ。広場に立つ女性像は「そよ風」。久喜市は「風」が好きなのだろうか。これも駅前と同じ斎藤馨の作品であった。「彩の国の景観賞を受賞しました。」それが昭和六十三年のことで、平成四年には公共建築賞(財団法人公共建築協会)の優秀賞を受賞した。
     ピアニカ(ヤマハの登録商標。鍵盤式ハーモニカと言わなければならないか)を手にして並んでいるのは幼稚園の生徒だろうか、トイレの朝顔の前には、子供のために木の台が置かれている。「タオル忘れちゃった」と言う子供に、ハコさんがトイレットペーパーで拭くように教える。やがてホールの方から、きらびやかな衣装の子供たちが走ってきた。それと交代してピアニカ子供たちはホールに向かう。「頑張って」と何人かが声をかけた。
     「アレッ、ドクトルがリュックを背負ってない。」「どこかで忘れたんじゃないだろうな。」しかし最初からリュックは背負っていなかったのである。「弁当は?」「コンビニで買うから。」それじゃそこのコンビニで買って下さい。」
     車で移動している千意さんとは、総合運動公園で落ち合うことになった。市役所通りから少し逸れて新川用水に沿って行くと、こんもりした林が見えてきた。武井家屋敷林である。これが屋敷林だとすれば相当な広さの屋敷だ。久喜市の自然環境保全地区の第一号として、平成二十三年(二〇一一)に指定された。ここは屋敷の裏側で、回り込んで正門までの距離が長い。道路から奥にある門までも、樹木に囲まれたトンネルのようだ。面積は二三三〇平方メートル。
     天然温泉森のせせらぎ・なごみの湯。一五七四番地一。「随分人気があるんですよ、駐車場がもう一杯でしょう。」確かに左手の広い駐車場は午前中だというのにほぼ満杯に近い。「東鷲宮にもありますね。関東地方はどこでも千五百メートルも掘れば温泉は出るんです。」
     東鷲宮の温泉に入ったのは何年前だろう。「もう十年以上じゃないですか?」姫はよく覚えているものだ。里山ワンダリングが始まる以前だから、そういうことになるだろう。当時は生態系保護協会が主催するふるさとの道自然散策会(ふるさと歩道だったか)に入っていて、芦野宮散策の帰途に寄ったのだった。
     総合運動公園で千意さんと合流したが、ここで昼食ではない。公園の南西部に森ができている。「ふるさと創生事業で一億円の補助があった時、森を作ろうっていうことになったんです。そのために五億円を集めようと。市民の寄付などもあって四億八千万円まで溜まったとき、突然議会はその計画を取りやめ、一般会計に移してしまったんです。結局この森は二千万円で作りました。」設計は宮脇昭だと言う。私は知らなかったが、密集して植え、自然淘汰によって生き残った木が森を形成する、その後は管理不要という思想であるらしい。姫はその思想に不満を感じているようだ。

     宮脇氏が提唱する「ふるさとの木によるふるさとの森づくり」は、要約すると、事前の植生調査によってその土地本来の主役の樹種類(潜在自然植生)を把握してその種子を採取し、幼苗を育てて従たる多種の幼苗とともに「混植・密植」する。苗木たちは、三年程度の草抜きなどの管理を経て、競り合い効果により数年から十数年で樹高十メートル以上の「土地本来のふるさとの森」に育つ、というものです。(NPO法人国際ふるさとの森づくり協会「宮原昭プロフィル」)http://renafo.com/?page_id=9

     まだ十一時五分だ。千意さんは再び車に乗って行った。目的地は久喜菖蒲公園である。「途中で寄り道しますから、四十五分位には着きたいと思います。」
     ネズミモチノキの実が赤い。何のためにあるか分らない、人が通れないガードレールの車道側を歩く。「何をガードしてるのかな。」そして久伊豆神社だ。久喜市江面一三四五番地。畑の中のようなだだっ広い中に石造の一の鳥居、朱塗りの二の鳥居があり、その奥に古びた社殿があった。「騎西の玉敷神社、越谷の久伊豆、岩槻の久伊豆神社と並んで四大久伊豆神社と言っています。」しかし他の三つと比べて外見はかなりみすぼらしい。祭神はオオナムチ(オオクニヌシ)である。
     久伊豆神社が中川・元荒川流域にほぼ限定されているというのは、オクチャンが言う通りで、ついさっき、鳥居を潜るところでドラエモンと話していたばかりだ。「総社はどこかって訊いたんですが、なかなか教えない。やっと騎西の玉敷神社だろうって答えが返ってきましたよ。」
     「元々はなんでしょうか?」ドラエモンの質問に、「たぶん私市(きさい)党が持ち込んだじゃないかと思います」と答えた。学問的に正確かどうかは実は自信がない。「私市党って、武蔵七党ですか?」「そうです。」但し私市党は騎西とは関係がないようだ。
     「玉敷神社は延喜式の神名帳にもでてきますよね。」ドラエモンも随分詳しい。社伝では東山道鎮撫使・多次比(多治比)真人三宅磨の創建とされる。多治比氏は宣化天皇の三世孫多治比古王(河内国多比郡を根拠)を祖とする。丹治比とも書き、武蔵七党の丹党はこの裔を称している。しかし丹党の根拠は熊谷・児玉だから、これも騎西郡とはあまり関係がなさそうだ。
     備前前堀川、備前堀川の二つの用水が並行して流れていて、それを渡る。「備前って岡山じゃないかな。」この「備前」が地名ではなく伊奈備前守忠次に因むことは、この会では既にお馴染みの筈だ。茨城県水戸市や猿島町にも同じ名の用水がある。コンクリートの護岸がなく、自然が残された川である。

     埼玉県加須市の新川用水排水路の備前堀古笊田落と備前堀大英寺落の合流点を起点とし、久喜市北中曽根の西端で備前堀八ヶ村落を併せ、さらに清久町(清久工業団地)の南側からは備前前堀川と平行して流れる。その後同市河原井町東側で備前前堀川と離れ白岡市・南埼玉郡宮代町を流れ、大落古利根川に合流する。(ウィキペディア「備前堀川」)

     湿地帯に田を作るための悪水路である。掘った土で盛り上げた土で作った田圃を「ほっつけ」(堀り上げ田)と呼ぶというのは、宮代町を歩いていてオクチャンが教えてくれたことだった。この近辺では、河原井沼、大浦沼、小林沼、栢間沼などが開拓された。

     主に江戸時代、湖沼であった場所を新田開発し生み出された水田である。開発の手順としては、湖沼である場所において土を盛る場所、土を取るために掘り下げる場所を交互に設ける。こうして土を盛り高くした場所を水田などにして利用し、低くなった場所を悪水路または用悪水路(用水路兼排水路)として利用する。このように水田と水路を交互に設ける特性上、おのずと掘り上げ田は細い長方形、または短冊形になりやすい。また掘り上げ田で作業をする際の移動手段として舟なども用いられた。(ウィキペディア「堀り上げ田」より)

     日記をひっくり返して確認していると、宮代でも御嶽塚を見ていた。南埼玉郡は御嶽講が盛んな地域だったろう。南埼玉郡は宮代町、越谷市、蓮田市、八潮市、白岡市、岩槻区の全域に、春日部市(大落古利根川以西)、草加市(綾瀬川以東)、久喜市の一部を含む地域である。
     そして意外に早く、久喜菖蒲公園に着いたのは十二時半を少し過ぎたところだ。正面の池から噴水が上がり、日に照らされて光っている。半数は水面に近いデッキのベンチに席をとる。若者は一段高いデッキにビニールシートを敷く。
     随分暖かくなってきて、ジャンバーを脱ぐ。「音楽が喧しいな。」やがて千意さんが段ボールを抱えて現れた。出てきたのは柚子と生姜で、予めビニール袋で人数分に小分けしてある。有り難い。「冬至はいつでしたか?」「二十一日。だけど別に冬至じゃなくてもいいよ。」小分けしたものとは別に、少しふにゃふにゃしたものが袋にいっぱいある。「これは柚子湯用に。」「そんなに要らない。」結局マリーが貰っていったようだ。
     飯を食い終わると、ドラエモンとハコさんは望遠鏡を据え付けて水面の観察を始める。二人とも三脚を持参していたのだ。
     一時十分頃に出発する。池の周りを歩きながら、所々でオクチャンが立ち止る。観察ポイントなのだ。ハジロカイツブリ(これは相当珍しいものらしい)、カンムリカイツブリ、オオバン、オナガガモ、マガモ。「あれはアヒルですよ。」ドラエモンの声がした。「マガモかと思ったよ。」「尾っぽがくるりと回っているのがアヒルです」と姫も言う。「交雑してるんですね。」それをアイガモと呼ぶのではないだろうか。カワセミが左から右に飛んで行った。
     スナフキンが野鳥の図鑑を広げた。「エーッ、そんなの持ってるの?」宗匠が驚いたような声を出す。「年に何回かバードウォッチングに行くんだ。」しかも双眼鏡まで持参している。鳥にまで手を出し始めたら大変なことになるので、私はできるだけ近づかないようにしている。セグロセキレイ、シジュウカラ等もいる。
     「菖蒲は咲くんですか?」久喜菖蒲公園の「菖蒲」は植物ではなく地名である。「向こうの半分が菖蒲、こちら半分が久喜なんです。」菖蒲町は、栗橋町、鷲宮町と共に、平成二十二年(二〇一〇)に久喜市に合併した。公園ができたのは昭和五十二だから、その時には行政区域が二つに分かれていたのである。
     「菖蒲は本多静六の生まれた所です。」本多静六生誕地記念園というものあるらしい。「日比谷公園とか明治神宮も本多静六の設計ですよね。」日本の主な公園はほとんど本多によるのではないか。「公園の父」と呼ばれる。
     「水深はどのくらいですか?」「九メートル。もっとも最初に掘り下げた時がそうですから、今は少し浅くなっているかも知れません。」工業団地造成の際に調整池及び工業用水の溜池として作られたものである。「工場立地法で決まっているんですよ。緑地の面積もそうですよ。」そういうことはロダンが詳しい。工業団地だけでなく、住宅団地開発でも同じことだと思う。

     この地域は、河原井沼、昭和沼といわれていたクリークの多い湿田地帯でしたが、工業団地を造成に合せ、その中心に、クリークを集約した三十一・三ヘクタールの巨大な池を掘り、池を含めてその周辺を緑豊かな公園として整備しました。公園の中心施設となるこの池は、現在も工業用水源として、子供からお年寄りまで、池を取り囲む樹林の中でのジョギングやサイクリング。広大な水面を利用した魚釣り、ボート遊びなどを楽しみながら、心身のリフレッシュができる憩い場を創造すこと目的してます。(公園のHPより)

     「アッ、ゴイサギがいます。」ヨシの間から姿を現した。「飛んだ。」二羽、いや三羽いる。「巣があるんでしょうね。」ゴイサギを三羽も同時に見たのは初めだてだ。「ゴイサギってどういう意味?」「天皇が五位の位を与えたんだよ。」「天皇に面会できるのは何位以上だったかね。」これはハコサンの質問である。「昇殿を許されるのは五位以上。殿上人と呼ぶんです。」但し、四位、五位の場合は全員が昇殿できるわけではない。
     「あの中洲は人工的に作ったんです。」カワウとコサギが見えるようだ。「以前はもっと広かったんですが、随分小さくなってしまって。整備するように市に掛け合ってるんですが、なかなか予算がつかない。」オクチャンは色々なところで行政と掛け合っているようだ。
     釣人が多い。「何が釣れるんだろう?」「フナじゃないか。」釣ったフナは甘露煮にでもするのだろうか。そういえば最近フナの甘露煮なんてあまり見かけない。「日光街道で講釈師が買ってたじゃないか。」そう言えばそんなことがあった。あれは古河だったか。
     遊歩道には、前にハコを付けた二人乗り自転車を漕いでいる人が通る。前のハコには女性や老人、子供が乗る。二人乗りだが一人で漕ぐ人は大変だね。

     池の周りを五分の四程回ったろうか。公園を離れて東洋製缶の脇を通り、今度は備前前堀川の土手を行く。オクチャンは、備前前堀川と備前堀川の間の土手を行くつもりだったが、歩きにくそうなので、備前前堀川の方にしたのだ。
     川岸にはヨシ(だと思う)が生えている。ダイサギが悠々と飛ぶ。「タヌキの糞です。」土手の真ん中に一塊の糞がある。まだ新しいのではないか。「タヌキは一か所にする習性があります。」それならタヌキはなかなか清潔好きである。狸の溜め糞と言うらしい。
     狸というと私はいつでも太宰の『お伽草子』中の「カチカチ山」を思い出す。美少女ウサギに恋してしまった中年タヌキの悲劇である。タヌキはウサギに残酷に弄られ続け、最後には泥舟に乗せられ死んでいく。その最後の「惚れたが悪いか」という言葉が哀切である。タヌキが沈み切った時、ウサギは汗を拭き「おお、ひどい汗」と言う。

     曰く、惚れたが悪いか。  古来、世界中の文芸の哀話の主題は、一にここにかかつてゐると言つても過言ではあるまい。女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでゐるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかつてあがいてゐる。作者の、それこそ三十何年来の、頗る不振の経歴に徴して見ても、それは明々白々であつた。おそらくは、また、君に於いても。後略。

     今度はカラスの大群が現れた。「俺はカラスが嫌いなんだ。殺しちゃえばいいのに。」ヤマチャンが物騒なことを口走る。「何も絶滅させろって言うんじゃないんだよ。増えすぎちゃってるから、調整が必要じゃないかって思うんですよ。」難しい問題で、鳥獣保護法の規定がある。
     カラスは古代には吉兆を表す鳥であり、太陽の使者であった。神武東征を先導した八咫烏がそれである。また『夕焼小焼』、『七つの子』、『からすの赤ちゃん』なんていう童謡もあったように、人間とカラスは共存していた筈だ。カラスだけではなく、動物たちは住処であった森林を滅ぼされ、都市に出てこざるを得なくなった。結局、諸悪の根源は人間と現代文明である。
     コクマルガラスがいると、ドラエモンが教えてくれる。初めて聞く名前だが、小型のカラスだ。私たちが普段目にするのは留鳥のハシブトガラスとハシボソガラスである。渡り鳥にワタリガラス、ミヤマガラス、コクマルガラスというものが存在する。
     ガードレールを跨いで車道へ出る。女性は大丈夫だろうか。「こうして、この足をこうして。」姫もなんとか跨ぎ越した。ダイソーの流通センターがある。「工場かな?」「日本で作ったらコストが合わないだろう。流通センターじゃないか。」久喜市には東北自動車道と圏央道が通っているから、物流には便利な場所なのだ。
     左には清久大池(これも工業団地造成に伴う人口池)が見える。「釣り場として人気が高かったんですが、今年三月で終わりになりました。桟橋なんかが傷んで、久喜市がその修理費を出さないというんです。」「なんでも金か。」
     資生堂久喜工場正門前からバスに乗る。オクチャンの事前の案内では二百三十円の筈が、運転手は「本町六丁目だと二百六十円になりますね」と言う。「釣り客がなくなってバスの利用者も減ったでしょう?」「そうなんですよ。みなさん、いいスコープを持ってますね。」話し好きな運転手だ。
     「そこが東京理科大学です。」オクチャンの話では久喜市は四十億円も出して誘致したのに、逃げられてしまったと嘆く。大学への補助金が三十億円、周辺道路の整備費が十億円である。理科大学が初めて社会科学系の学部として経営学部を作ったのだが、今年三月に完全に神楽坂に移転して閉鎖された。
     跡地の六割は物流企業に売却、残りの四割は久喜市に無償譲渡される。「市民は、物流拠点なんて考えてもいなかったんですよ。」市は譲渡された部分に、教育委員会事務局、児童館・子育て支援センター、市民ラウンジ・ギャラリー、子ども図書館、シルバー人材センター、生涯学習センター、学校給食センター等を整備することに決めた。
     学生を当てにしてアパートを建ててしまった連中は大損するだろう。飲食店にも打撃を与える筈だ。減り続ける十八歳人口と、それにも関わらず増え過ぎた大学との相関関係で、受験生を確保することが最大の目的になるのである。田舎では学生が集まらず、各大学の都心回帰は続いている。
     本町六丁目で降りると二百三十円だった。ドラエモンとマリーはそのまま駅まで乗って行く。マリーは相当疲れたようだ。三時二十分。

     最初に向かったのは千勝神社だ。久喜市本町六丁目十六番。石造神明鳥居が建っている。元は本町一丁目にあったが、道路拡幅のために平成十一年(一九九九)現在地に移転した。愛宕神社・天神社・八幡神社・稲荷神社・熊野神社・三島神社が合祀されている。「本来は近津でした。」
     「川湊があったんですか?「古利根川、元荒川がありますから。」近津ならば、茨城県久慈郡太子町に近津上宮、近津下宮、近津中宮の近津三社がある。それが源流だろうか。祭神は面足尊(オモダル)・惶根尊(アヤカシコネ)・級長津彦命(シナツヒコ)で、あまり馴染みがない名前だ。オモダル(男神)とアヤカシコネ(女神)は第六天魔王の垂迹で、シナツヒコは風の神であると言う。
     しかし、この千勝神社の祭神は天手力雄命であり系統が違うか。タヂカラオを祀る神社も、埼玉ではあまりお目にかかったことがない。久喜市内には他に吉羽(祭神は大己貴神オオナムチ)、伊坂(都都古別ツツコワケとも言う)にある。都々古別神社なら陸奥国白河にあって陸奥国一之宮になっている。福島から茨城にかけて久慈川に沿って祀られる川の神であるらしい。祭神は味粗高彦根命アジスキタカヒコネである。中妻(大己貴尊、味粗高彦根命)、早見にもあるが早見の方は調べがつかなかった。
     また茨城県牛久に千勝神社があり、こちらは猿田彦を祀っている。千葉県安孫子の千勝神社は日本武尊・水速比売神を祭神とする。どうも正体のはっきりしない神である。そして見つけたのが次の記事だった。

     千勝神社又は近津神社は関東地方を中心に分布する神社で、埼玉県の東部に六社あり、北部の同名神社を含めると十二社になります。これらの神社の御祭神は大きく二つに分類され、一つは、東国開拓の神である関八州の一宮の神や、古代の国造の祖神(赤城神、秩父神)であり、もう一つは、興玉命、猿田彦神、手力男神などの道案内の神、護衛の神なのです。(「神社探訪・千勝神社久喜市伊坂」http://komainu.org/jinjya/chikatsu_a.htmlより)

     遠回りしてここまで辿り着いたが、実は解説板をきちんと読むべきであった。奥州白河の都々古別神社(旧称近津宮)を本宮とすると書いてある。結城氏の勢力圏に分布し、県内では中世の太田荘だけに存在すると言う。千勝・近津のそれぞれの祭神が違う理由はよく分らない。

     甘棠院(臨済宗円覚寺派)。久喜市本町七丁目二番八号。総門両脇の、大石の上に載せられた角石の二ツ引両が足利氏の紋である。二代古河公方足利政氏が隠居後、永正十六年(一五一九)その居館に子の貞巖を開山として開いた。好んで隠居した訳ではない。山内上杉氏の後継問題で嫡子高基、次男義明(高基と対立して小弓公方として独立)と対立した挙句、永正九年(一五一二)高基に敗れて古河城を失った。最初は小山氏の庇護を受けたが、それも難しくなって久喜に逃れてきたのである。
     古河公方、山内上杉氏、扇谷上杉氏の対立に京都の将軍の意向が絡み、戦国前期の北関東の情勢は錯綜を極めていた。在地の武士団は勝ち馬を探して合従連衡を繰り返す。その中で、扇谷上杉氏は太田道灌を謀殺するという致命的な愚を犯し、やがて山内の下風に立つようになる。三つ巴の一角が崩れれば古河公方の影響力も薄れていき、既に往時の権威はない。そして北条氏の足音が近づいてくる。そんな時代であった。
     オクチャンは、山門脇の堀、西側の堀を案内してくれる。「空堀と言われますが、水が張ってあったようです。」久喜市のホームページを見ると、堀の規模は、院の東西に百メートル、南北に二百五十メートル、北側には土塁も築かれている。土塁の向こうには大浦沼の湿地帯が広がっていたから、平地ではあっても館としては充分に機能しただろう。
     「江戸時代には百石の寺領が与えられました。」「それはスゴイ。」政氏の墓は塀で囲まれていて入ることはできないが、外から眺めることができる。古色を帯びた五輪塔で、「享禄四年七月十八日甘棠院殿吉山長公大禅定門」とあるそうだ。北側の土塁は竹やその他の林になっている。
     次は瑠璃山光明寺。久喜市本町一丁目九番五十六号。「久喜学校開校の碑」が建っている。学制が明治五年八月、久喜学校の開校が明治六年だから、かなり早い方になる。先週青梅街道を歩いて、杉並区の小学校は明治八年というのを知ったばかりだ。

     久喜学校は一八三七年(明治六年)一月、久喜本町・久喜新町・古久喜村の組合学校として設立された。同年五月十七日に久喜学校内に事務局が開設された。この事務局では埼玉県の学校改正局との連絡業務を地域の学校の取りまとめとして行い、吉羽学校・鷲宮学校・豊明学校・下清久学校・篠津学校・江面学校・下早見学校の七校の監督業務も行っていた。
     初期に用いられていた教科書としては「単語篇」「知恵の糸口」「ういまなび」「学問のススメ」「西洋事情」「窮理図鑑」「世界国尽」「児蒙教草」などである。(ウィキペディア「光明寺(久喜市)」より

     明治二十五年(一八九二)久喜町立久喜尋常小学校となる。現在の久喜小学校の前身である。
     本堂の前には弘法大師と興教大師覚鑁の像が立っている。「この人は誰?」「真言宗の改革者。金剛峰寺を追われて根来寺に拠って、新義真言を始めた。豊山派と智山派の祖だよ。」
     向背の柱には、寺院には珍しく注連縄が張られている。「どら縄と言います。」毎年一月五日に檀家信徒が集まって縄を綯うと言う。その際に息を合わせるため、大勢の僧侶が銅鑼を鳴らしたことに因ると言われている。
     墓地には中島家の墓がある。撫山中島先生之墓。「神道式です」とオクチャンは丁寧に二礼二拍手して頭を下げる。「花入れに線香があげられていますが、本来は榊を立てるものです。」その周囲に中島家の妻子や兄弟の墓が並んでいる。
     撫山先生配亀田氏。杉陰中島先生とあるのは撫山の異母弟榮之甫で、谷文晁の孫弟子に当たる絵師である。うた刀自(撫山の妹)、綽軒中嶋先生、麻須刀自(綽軒の先妻)綽軒先生配小林氏(後妻美津)、やへ長兒(綽軒の長女八重)、關雄(綽軒の長男関雄)、中島敬・敏両兒(田人の子二人)。
     「狭くなったので、多磨霊園に新しく墓地を買いました。田人と敦の墓はそちらにあります。」外に出ると薬師堂(金堂)があった。
     天王院(曹洞宗)の中には入らない。久喜市本町一丁目二番六十号。大銀杏の上の枝が無残に選定されている。「ここまで伐らなくてもいいのに。」「落ち葉が嫌われるんですよね。」山門脇の小さな建物を見るだけだ。これが八雲神社である「神仏混淆の時の天王様です。京都の八坂と同じですね。」牛頭天王社は明治の神仏分離で、八坂、祇園、須賀、八雲などの名称に変えて生き延びた。
     この神社の祭礼が天王様の提燈祭りで、盛大に行われるものだと言う。天明三年(一七八三)の浅間山大噴火を機に始まった。ウィキペディアから引用する。

     七町内から七台の山車が繰り出される。廻り舞台形式の屋台形山車で、各町内ともほぼ同様な形態である。昼間は伝説・歴史上の人物の人形を山車の上に飾り立て町内を曳き廻す。夜間は、人形を取りはずし、山車の四面に四百数十個の提灯を飾りつけた提灯山車となる。その山車の様子は関東一とも言われる。この祭りは喧嘩祭りとしての側面もあり、かつては勇ましく山車同士をぶつけ合い各町内の繁栄を競い合っていた。現在でも山車を急接近させたり、ぶつけたりする。なお、提灯の光源には現在でもろうそくを使用している。

     この時間になると少し寒くなってきた。駅に向かう歩道は広い。車道には色分けした自転車道も設置されているのに、歩道を行く自転車があるのは不審である。関東一・久喜の提燈祭り」の置き看板が立っていた。「竿灯祭りみたいなものか?」「全然違うよ。関東は竿を支えるんだよ。」「これは屋台だ。」
     駅はすぐだ。今日は風もなく良い天気だった。歴史あり、文学あり、自然あり、なかなか良い町ではないか。一万八千歩、十キロのコースであった。
     「久喜の地名の由来について、さっき質問を受けました。」オクチャンは丁寧に説明してくれたのだが、あいにくメモを取らなかったので、久喜市公文書館第四回企画展「公文書館所蔵資料のご案内」から引用してみる。

    地名としての「久喜」の由来について、『久喜市史 民俗編』二三九~二四〇ページでは、①「薪・柴等の燃料採取地を意味する地名」、②「山、岡、自然堤防などの小高い所」、③「久木の当て字であり薪山の意」などの説をあげていますが、現在の主流としては、自然堤防などの小高いところをさすという説が有力だと結んでいます。
    一方、中島撫山は、「久喜は漢字にすれば岫で、岫の意味は岡の中のくぼみのことをいい、万葉集・東歌(あずまうた)の『步蔵野の 小岫(おぐき)が雉(きぎし) 立ち別れ 去(い)にし宵より 背(せ)ろに逢はなふよ』の「小岫(おぐき)」も同一の意味であろう」と生前弟子に語っていたという逸話も伝えられていて、この説によれば、むしろ窪みという正反対の考え方になります。
    https://www.city.kuki.lg.jp/shisei/kokai/kobunshokan/tenji2.files/zuroku04kikakuten.pdf

     また『地名由来辞典』(http://www.nihonjiten.com/data/114865.html)では、これ以外に、「古利根川の流域、低地では稲作が盛んな農耕地帯。『茎(くき)』の意か。北埼玉郡騎西町に鴻茎・芋茎の地名がある」という説を紹介している。オクチャンは納豆が関係しているようなことも言った。それはこのことだろう。

    中島竦之助は、『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』という室町時代に書かれた史料のなかに「唐豉」や「久喜」と呼ばれる献上品や贈不品があることに注目し、「唐豉」とは中国の製法によって作られた納豆を指して特に近江の金剛寺(こんごうじ)・京都の寶福寺(ほうふくじ)で作られていたものが恒例として毎年将軍に献上されていたことや、「久喜」とはわが国在来の製法によって作られた納豆を指して特に宇治の名産であったこと、などを論じています。
    また、「唐豉」が春の終わりから夏の初めまでと秋から冬までに多く利用され、湿気が少ないので折箱に入れて保管していたのに対し、「久喜」は正月に多く利用され、湿気があるため桶にいれて保管していたことなども指摘しています。(同)

     姫が次回の案内をしたところでいったん解散し、オクチャンが今朝言っていた焼き鳥屋「かごや」に向かう。しかし予約満席で入れない。「残念ですが、又の機会と言うことで。」
     若者は大宮で降りる。あんみつ姫、スナフキン、宗匠、ヤマチャン、ロダン、蜻蛉の六人だ。南銀通りは相変わらず客引きの若い衆が多いが、その声を無視して甘太郎に入る。

     年の瀬や客引きの声喧し  蜻蛉

     若い女店員は「イッコモン」を知らない。謎の笑みを浮かべて首を傾げる。日本人だとは思うが日本語がなかなか通じない。「女子高生じゃないか。」そうかも知れない。「一刻者だよ。ボトルとお湯割りのセット。グラスは五つ。」やがて空のグラス五つと、お湯を満たしたグラスが一つ運ばれてきた。「違うよ、これじゃ。」お湯のポットに代えてもらう。
     今日は、四月以降のこの会の体制について検討するのが主な目的だ。姫が数回はできると言い、昼飯の時に千意さんも二回はやると言ってくれた。このメンバーに桃太郎を加えれば何とかなるか。「オクチャンにも一回は頼みましょう。」やりたい場所があると言っていたからね。場の雰囲気で私もやらざるを得なくなった。次回までに、各自コース案を持ち合ってスケジュール調整を行うことになった。
     途中でタッチパネルの注文機は故障したが、却って面倒がなくて良い。焼酎二本を開けてここはお開き。
     「カラオケに行きましょうよ。」無理やり誘った宗匠が最初に歌ったのが『惜別の歌』である。なんだ、歌うじゃないか。宗匠はその他にも数曲歌った。今までどうして頑なに断っていたのだろう。ヤマチャンは『別れの一本杉』を歌う。私の持ち歌が取られてしまったので、仕方がないから前回に続いて久保浩の『霧の中の少女』を歌う。ロダンが好きな歌である。

     年忘れ儚き恋の歌ばかり  蜻蛉

     ロダンがいつもの、あおい輝彦『三人家族』を歌って「栗原小巻良かったなア」と言うと、姫が「竹脇無我も」と答える。「ロダンがいつも歌うから、覚えちゃいましたよ。」私はその番組を知らなかった。「秋田じゃやってなかったんじゃないか?」そうかな。学生時代のことかと調べてみると、昭和四十三年から四十四年だから高校時代であった。それならやはり秋田では放映されていなかったのか。あるいは、その頃はテレビドラマを見る習慣がなくなっていたから知らなかっただけだろうか。スナフキンが歌った『二人の世界』も、同じシリーズだったらしい。『二人の世界』なんて、私は裕次郎の歌しか知らなかった。
     二時間でお開き。今日も飲み過ぎた。

    蜻蛉