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    平成二十九年一月二十八日(土)上尾

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.02.04

     旧暦正月元日。大寒の次候「水沢腹堅(さわみずこおりつめる)」。本来は最も寒い時期だが、昨日は暖かかった。今日もかなり温度が上がりそうで、暖かいのは有難いが何を着れば良いのか迷ってしまう。
     高崎線上尾駅の改札口にはロダンだけがいた。「何人か来てますよ。日当たりの良い方で待ってて下さい。」西口のデッキに出ると、久し振りのオカチャンが見知らぬご夫婦と話をしている。「あれを見てたんです。」「ここが絶好のポイントなんですよ」と女性も口を添える。エイブルとみずほ銀行の間から、まっすぐに富士山が見えるのだ。真っ青な空に白く、くっきりとした姿が浮かんでいる。富士山を見ると嬉しくなるのはどうしてだろう。ここは禁煙なので、下に降りて人気の少ないところでタバコを吸う。
     改札に戻るとロダンと一緒にスナフキンがいた。「早すぎたから大宮でコーヒー飲もうと思ったけど高いんだよ。」マスクを着けて不安そうにこちらの方を見ている女性と目があった。「アッ、椿姫。」「やっぱり、どうも蜻蛉じゃないかと思ってたのよ。」「風邪ですか?」「十月から治らないのよ。」「年寄は回復が遅いから。」ロダンが大胆なことを言う。
     定刻までに集まったのはリーダーのあんみつ姫、チロリン、シノッチ、ハイジ、椿姫、オクチャン、オカチャン、ダンディ、ロダン、スナフキン、本当に久し振りの中将、蜻蛉の十二人である。中将の犬の世話は、今日は小町が担当しているのだろう。今日は弁当不要と二週間前に決まっていたが、オクチャン、シノッチ、チロリンが弁当を持ってきた。突然の変更はなかなか連絡が難しい。
     オクチャンは約束通り、久喜・中島敦の会編刊『中島敦と私』を持ってきてくれた。中島敦生誕百年を記念して出されたもので、先月久喜を歩いた時に教えてもらい、スナフキンと一緒に頼んでいたのである。千円なり。普通に考えれば千円で作れる本ではなく、巻末掲載の地元商店の広告で経費を賄ったにしても安いと言って良い。
     「上尾って何もないだろう?初めてだよ。」私も上尾を歩くのは初めてだ。中山道上尾宿は江戸から九里(十里の説もあり)、日本橋から数えて五番目の宿場である。天保十四年(一八四三)の『中山道宿村大概帳』によれば、上尾宿の街並みは十町十間。家数百八十二軒で、男三百七十二人、女四百二十一人が住んだ。本陣一軒(林八郎右衛門家)、脇本陣三軒(白石長左衛門家、井上五郎右衛門家、細井弥一郎家)、問屋場一軒、旅籠四十一軒。それに人足五十人、馬五十頭が常備されていた。旅籠の中には飯盛女を置く店もあり、川越や岩槻からの遊客もあった。
     但し江戸時代には荒川舟運の方が物資輸送の中心であった。川田谷(桶川)、畦吉、平方に河岸と渡船場があり、特に平方河岸が最も繁盛していた。旧中山道は鉄道の東側で、今回歩くコースは西側になるので、宿場の面影は殆どないだろう。予習をしていないので荒川河岸の方に行くかどうかは分らない。
     「そう言えば上尾事件ってあったよな。上尾はそれで覚えてるんだ。」それは何だったか。記憶がありそうで思い出せない。スナフキンは早速スマホで検索する。「これだよ。昭和四十八年(一九七三)の。」そうか、あの時代のことだったか。私が大学四年の時である。当時「遵法闘争」(当時は順法と表記した)という名の国鉄のストライキが頻発していた。三月十三日にはストによるダイヤの大幅な乱れによって、上尾駅の乗客が暴動を起こしたのである。
     更に翌四月二十四日に起こった暴動は、首都圏国電暴動事件と呼ばれる。赤羽駅に始まって首都圏各駅に波及し、上野、新宿、渋谷、秋葉原、有楽町等の各駅で破壊、投石、放火が広まった。今では考えられないことだが、日本人も暴動を起こすのであった。
     当時でも私は、国労はなんてアホなやり方をするのかと思っていた。完全に運行されないと分っていれば休むしかないが、なまじ動いていているから出勤しなければならない。混み合うホームで延々と待ち続け、身動きできない車内に無理矢理押し込まれる利用者に、国労への感情的反感が生まれるのは分りきった話である。運行調整ではなく改札ストをやれば良いのだとは、当時誰もが思っていただろう。調べてみると近鉄が集改札ストを実施していたようだ。
     昭和五十年のことだったか、翌日が国電のストで朝から電車は動かないとの情報で、新宿の安旅館に泊らせられたことがあった。今調べてみると昭和五十年十一月の国労のスト権奪還ストの時だったようだ。夜は暇だから当然遅くまで飲む。私は別で飲んでいたので後で知ったのだが、その時ヤクザと喧嘩して片目失明寸前になった男がいた。喧嘩の場に一緒にいた上司は三ヶ月間の禁酒を命ぜられたのに、その後もいつも通り毎晩飲み歩いていた。しかしそれもはるか昔のことで、先週のOB会では二人とも三次会まで飲んでいた。鉄道ストとか国労なんて言っても、今どきの連中は何のことか分らないだろう。
     それにしても上尾事件だけでは上尾市が可愛そうなので、少し調べてみた。上尾市は北から西にかけて桶川市・川越市、東は蓮田市、南はさいたま市と接している。今では工業団地や住宅団地もできたが、基本的には農村地帯である。近世の農業生産物は以下の通りだ。

     大宮台地に立地している江戸時代の上尾市域の農業は、畑作中心の農業で水田の割合は少ない。江戸初期の各村々の田畑高をみると、水田が畑より多い村は瓦葺村・戸崎村・上野本郷村の三か村で、他の村々は畑の多い村となっている。江戸時代の農業では米が最大の商品作物であるが、水田の少ない上尾市域の村々は、畑の生産物を主な収入源としていたことになる(『上尾市史第三巻』)。
     正徳六(一七一六)年の南村明細帳では、畑方作物として麦、粟、稗、大豆、小豆、大角豆、芋を記している。ここでは穀物と芋類が畑作の中心作物であるが、目ぼしい商品作物は見当たらない。ところが享保六(一七二一)年の上瓦葺村明細帳では、畑方作物として麦、粟、稗、大豆、小豆、綿(木綿)、大角豆、油もろこし、大根、牛蒡、長芋をあげている。南村に比して多彩な作物群であるが、綿と長芋が作られていることが特に注目される(前掲書)。 
       綿は、絹と並んで江戸時代最大の衣料原料である。関西地方では早くから栽培されているが、関東で生産が盛んになるのは江戸時代中期以降である。関東の有名な綿産地としては真岡(栃木県)、八日市場(千葉県)地方があるが、「岩槻木綿」も名の知られた産地銘柄である。「岩槻木綿」は、現埼玉県域東部地方で生産されたものであるが、上瓦葺村でもこの時代になると生産されていたことになる。「長芋」は、足立郡南部で盛んに栽培され、江戸市場でも「南部長芋」として知られていた商品作物である。「南部」は現さいたま市の東部地方の地域名であるが、隣接している上瓦葺村でも栽培している。この村では綿(木綿)と長芋が注目されることになるが、江戸時代も中期以降になると、上尾市域の村でも商品作物栽培が盛んになってきたことの例証でもある(『新編埼玉県史通史編4』)。
     (「上尾歴史散歩・古文書に見る宿場と村の生活5~農業生産と商品作物~ 」
     https://www.city.ageo.lg.jp/page/0130112072701.htmlより)

     駅前から大通りを南西方面に行くと、すぐに柏座春日神社に着いた。上尾市柏座二丁目十四番二号。

     郡村誌柏座村の神社の項に、「春日社、村社々地竪三十間横九間八分面積二百九十四坪村の北方にあり天児屋根命を祭る祭日一月一日。芝宮平社々地竪二十間横十間八分五厘面積二百十七坪村の南方にあり大山祇命を祭る祭日五月一日」と載せる。
     明治四十年(一九〇七)八月柏座春日社、境内社、諏訪社、大六天社及び翌四十一年五月、大字谷津氷川社を合祀、春日社と改称村社とせられた。(「上尾の神社・寺院」より)

     道路脇に石塔が三基並んでいる。左端は駒形で「青面金剛庚申塔」の文字の下に三猿を浮き彫りにしたもので、上部には日月が見える。真ん中はやはり駒形で正徳二年銘の合掌型六臂(上方手に矛と宝輪、下方手に弓と矢)の青面金剛像、邪鬼の顔は磨滅しているが日月と鶏は見える。右端は小さな屋根つきの石祠に納まっているのだが全く正体がつかめない。大きく欠損したようなものだ。
     「文字だけのと、像のあるのとは何か違いがあるんですか?」「文字だけの方が安くできるんだよ。」「なるほど、これだけの像を彫るのは確かに手間がかかりますね。」時代が下ると文字だけのものが多くなる。「石は砂岩でしょうかね。」こういうことはロダンに鑑定してもらわなければならないが、薄く緑がかっているのは苔のせいだろうか。
     「正徳っていつ頃ですか?」「新井白石の時代だから元禄の後、十七世紀の最後じゃないかな。」私はいい加減なことを言う。私を信じないスナフキンがスマホを検索すると、元禄十七年の後に宝永が八年まであって、正徳はその次である。そして正徳二年は一七一二年だから十八世紀初めと言わなければならない。昔から年号を覚えるのは苦手だった。
     それにしても宝永の年号を忘れるのは問題だった。宝永四年(一七〇七)十月に南海トラフを震源とする大地震が起きているので、重要な年代なのである。記録に残る最大級の地震で被害は五畿七道に及び、死者は二万、倒壊家屋は六万、津波による流失家屋二万とも言われる。この地震に連動して十一月には富士山が噴火した。火山灰は関東一円に降り注ぎ、農作物に甚大な被害を与えた。
     鳥居は石造神明鳥居だ。拝殿はコンクリートの蔵のようで、背後に木造の流造の本殿がつながっている。
     祭神は天児屋根命、素戔嗚命、大山祇命、建御名方命。素戔嗚以下は明治の合祀によるもので、春日神社の本来の祭神は天児屋根命(アメノコヤネ)である。スサノオは氷川、オオヤマツミは芝宮、タケミナカタは諏訪の神だ。
     「アメノコヤネノミコト?口が回らないわ。」椿姫が解説板の天児屋根命の読みに苦戦している。「アメノコヤネは藤原氏の祖なんだ。だから春日神社は藤原氏の氏神。」正確には中臣氏の祖と言った方が良いか。アマテラスが岩戸に隠れた際には祝詞を唱え、ウズメの舞に岩戸を少し開けたアマテラスに鏡を渡した。つまり卜占、祭祀を司る神である。ニニギ降臨の際には布刀玉命(フトダマ)、天宇受売命(アメノウズメ)、伊斯許理度売命(イシコリドメ)、玉祖命(タマノオヤ)と共に随伴した。
     「アメノコヤネなんて初めて聞きますよ。私は薬の名前と神様仏様の名前は全然覚えられないの。」「その組み合わせがおかしいわね。」
     他の祭神についても言っておこう。スサノオはお馴染みだろう。氷川神社の神であるが、中世には牛頭天王と習合して祇園、八坂、八雲、須賀などの祭神になったことも何度か話している。大山祇(オオヤマツミ)は伊豆一宮の三嶋大社、伊予の大山祇(大三島)神社、相模の大山阿夫利神社などの祭神である。要するに大いなる山の神であり、その娘が木花之開耶姫(コノハナサクヤビメ)でニニギの妻になる。
     ついでに言えば、コノハナサクヤは火照命(ホデリ・海幸彦)、火遠理命(ホオリ・山幸彦)等を産む。ホオリは豊玉姫と一緒になり鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)を産み、ウガヤフキアエズは玉依姫との間に神武を産むことになる。
     建御名方(タケミナカタ)はオオクニヌシの息子で、出雲の国譲りでタケミカヅチに敗北し信州諏訪に逃走して降伏したことになっているが、おそらく出雲とは関係ない。地主神の洩矢(モレヤ、モリヤ)を破って諏訪に勢力を築いた神であるが、ニニギ以前に降臨したニギハヤヒの一党だった可能性はないだろうか。当り前のことだが大陸からの渡来は何波にも及んでおり、神武の系統だけがやって来た訳ではない。また諏訪神社については、本来はミシャグチを祀っていたのではないかという説もある。柳田國男はミシャグチを石神(塞の神)ではないかと考えた。

     通りを渡って狭い道に入って少し行くと、上尾市コミュニティセンターだ。上尾市柏座四丁目二番三号。ここで少し休憩し、十分経って出発しようとしたがスナフキンが出てこない。様子を見に行くと、来月の市川コースの資料をコピーしていた。メールを持っていないシノッチ、チロリンに今日渡しておきたいのだ。いつものように大量な資料を作っているので、コピーも手間がかかる。
     道を横断して、弁財商栄会という通りに入っていく。「弁天があるのかな。」この辺りは、かつての弁財村である。『新編武蔵風土記稿』に、「弁財天社村ノ鎮守ニシテ稲荷・白山神社ヲ合祀ス、昌福寺ノ持ナリ」とある。恐らくこれが村の名の由来で、これから行く筈の昌福寺がその元になっているらしい。
     「何ですかね。地蔵かな?」ブロック塀をそこだけ奥に引っ込ませて、小さな祠を作ってあるが、何を祀ってあるのか分らない。地蔵でないことだけは間違いない。下の段には白っぽい砂岩を大雑把に彫ったような、それぞれ高さ十五センチ程の三匹の動物が座っている。左は合掌するタヌキか犬か、真ん中がイワザル、右はクマだろうか。手前にはペン皿のようなものが置かれ、一円玉が二三十枚、と五円玉が数枚供えられている。一段上の棚の中心に鎮座しているのは、摩耗しすぎて顔の形も分らないが、首から交通安全の札を掛けている。その後ろに三番叟を踊っているような猿らしき絵が三枚置かれているのだ。
     「こういうのも町内で管理しているんでしょうね。」「区長とかがやってるんでしょうね。そうしないと続かないですからね。」折角管理しているなら、この正体が何者なのか分るようにしておいた方が良いのではないだろうか。
     少し先の交差点の左には弁財自警消防団大石第十分団があり、プレハブのような建物の上に半鐘が見える。そして突き当れば広い道路の向こうが昌福寺の正面だ。皆はきちんと横断歩道を渡ったが、私は少し遅れたのでその手前で渡ってしまい、ロダンから警告を受ける。「年寄りはちゃんと横断歩道を歩かなくちゃ。」
     門の両側には瓦屋根の漆喰塀が長く続いている。中に入ると静かな空間で、山門前右の植え込みに「不許葷酒入山門」の戒壇石が立っているから禅宗である。私は全く予習してこなかったので、姫の案内に曹洞宗と書かれていることなんか、後で知る始末だ。大谷山昌福寺。上尾市弁財二丁目十一番二号。
     庚申塔は笠付の立派なものだ。合掌型六臂で上方手に矛と宝輪、下方手に弓と矢を持っているのは、さっき見たものと同じ形である。上方の日月、邪鬼の表情もはっきりしている。側面には「武州足立郡大谷領弁財村二十五人」とある。年紀は分らない。石自体が変形してしまった馬頭観音像もある。
     無学だから山門の扁額の文字が読めないのが悔しい。三文字で真ん中が福だから昌福寺と読むのだろうと思いながら、両端の文字がどうしてもそのようには見えないのだ。山門を潜ると、右手の植え込みで仕切られた一角には、七福神の新しい石像を巡らせている。「アッ、全部あるんですね。気づかなかった。」
     岩の上に棒状に伸びた不思議な花があった。すぐそばには、肉厚で尖った葉が密集しているものもある。「何かしら。」ハイジ、シノッチ、姫が知らなければ誰も分らない。これを調べたのは私の手柄ではあるまいか。ベンケイソウ科イワレンゲ属ツメレンゲというものらしい。

     葉は常緑性、多肉質で披針形をしており、先端は針状になる。野生種は緑色だが園芸品種には斑入りや白っぽくなったり、紅色を帯びるものがある。
     株は根出葉が密生してロゼット状にまとまり、その径は最大十二センチほど。季節により変化し、冬には若干小さくなる。根元からは盛んに腋芽を出し、群落を形成する。
     十~十一月に伸長したロゼットの中央軸が伸び上がって高さ十~三十センチの花穂を塔状に立て、多数の花を円錐状に群生させる。花弁五枚では披針形で白色、葯は赤く、花弁に映える。短日性で、花序の下方から順に咲き上がる。種子は微小で軽く、風によって散布される。(ウィキペディア「ツメレンゲ」より)

     「あれは、アトリかしら。」シノッチは双眼鏡を取り出して樹上を確認している。「そうです、アトリですね」とオクチャンが断定した。「嬉しい、生で見るのは初めてです。」姫は喜ぶ。木の上に数羽とまっているようだが、アトリなんて初めて聞く名前だ。スズメ科アトリ属アトリ目と知っても何のことか分らない。アトリは「集まる鳥(あつとり)」の意で、シベリアから大群で渡来するらしい。写真を撮ったがぼやけてしまって良く分らないのでウィキペディアを引いておく。

     全長十六センチ。黄褐色を基調に黒、白を加えた羽色をもち、特に胸部の羽毛は橙褐色で目立つ。オスの夏羽は頭部が黒い。メスおよびオスの冬羽の頭部は褐色であり、メスはオスより色が薄い。(ウィキペディア「アトリ」より)

     「アトリって、どんな字なんだろう?」「カタカナです。」学問的にはそうであろう。漢字では獦子鳥、花鶏の表記があるらしい。「獦」はこの文字サイズでは分かり難いが、ケモノヘンに「葛」を書く。『字源』では、異体字に「猟」がある。そのことから、「獦子鳥」の表記は、この鳥の大群の様子が獲物を追いたてる勢子に見えることによるという説が出てくる。また「花鶏」の表記は鮮やかなオレンジ色が目立つ体色が花の咲いたように見えることが由来だと言う。
     後日のあんみつ姫からの報告では、見沼田んぼに群れが見られ、東伏見の辺りでも数羽を見かけたそうだ。
     寺を出ると三十坪程の畑の奥に、ぼろぼろに枯れ果てた、高さ四五メートル程の木か草か分らないものが隙間もなく数十本も立っている。「バナナです。」こんなところにバナナ畑があるものだろうか。それにあんまり密集し過ぎていて、これでは生育に悪いのではないか。このぼろぼろになったものが葉なのだが、襤褸を纏った幽鬼が並んでいるようで、私は敗兵を連想してしまった。バナナも芭蕉もどちらもバショウ科バショウ属だから、もしかしたら芭蕉か。

     枯芭蕉襤褸敗軍の兵のごと  蜻蛉

     「実が生らないのが芭蕉だよ」と私はいい加減なことをスナフキンに教えてしまった。時々知ったかぶりで間違ったことを口走るのが私の欠点である。芭蕉は実は生るが食用にならないというのが本当である。逆に言えばバショウ属の内、実が食用になるものをバナナと呼ぶ。
     鴨川に出た。桶川市鴨川一丁目付近に発し、上尾市で暗渠から開渠となって、さいたま市西部を南に流れて朝霞市上内間木で荒川に合流する。川の名は、さいたま市宮原の加茂神社に由来すると言う。神社から加茂宮村の名が生まれ、吉野原村と合併して宮原の地名となったのだ。川の中程まで枯れた葦が群生している。
     「カワセミだ。」中将の声が聞こえた。新弁財橋の袂から土手を見ると、鮮やかな水色の鳥が枯れた草むらに止まっている。いつもは、ぱっと飛び去っていくので、こんなにじっくり見たことはない。「飛んだ。」しかしすぐに近くに止まる。「私たちのために見せてくれてるんですよ。」漢字で書けば翡翠だが、姫によればヒスイの色は深緑色だそうだ。それでは鳥の色とは違うのではないか。

     「翡翠」は中国では元々カワセミを指す言葉であったが、時代が下ると翡翠が宝石の玉も指すようになった。その経緯は分かっていないが以下の説がある。翡翠のうち白地に緑色と緋色が混じる石はとりわけ美しく、カワセミの羽の色に例えられ翡翠玉と名づけられたという。この「翡翠玉」がいつしか「玉」全体をさす名前になったのではないかと考えられている。
     参考までに、古代日本では玉は「たま」、カワセミは「しょうびん」と呼ばれていて、同じ名前が付けられていた記録はない。したがって「翡翠」の語は比較的最近の時代に中国から輸入されたと推察できる。(ウィキペディア「ヒスイ」より)

     私は宝玉のヒスイが原義で、それが鳥の名に転用されたとばかり思っていたが、全く逆であった。ヒスイには硬玉(ジェダイト)と軟玉(ネフライト)とあるそうで、中国で玉と呼ばれて珍重されたのはネフライトであると言う。中国に硬玉は産出しなかった。
     また玉を磨いて中央部を空けたレコード盤のような形にしたものを璧と言う。「和氏(かし)の璧」で有名だが、その故事から「完璧」の言葉が生まれた。
     川を渡ったところで姫が立ち止まった。徳樹庵の前である。姫は最初サイゼリガアを考えていたのだが、下見の時に閉店になっているのが分かった。この先には食べるところがないらしい。取り敢えず席があるかどうか、姫が偵察に入った。まだ十一時十五分だ。この通りは、はなみずき通りと名付けられている。
     「徳樹庵って知らないな。チェーン店かい?」我が家から車で十分の所にもあるし、県内では時々見かける。「靴を脱がなくちゃいけないのよね、個室じゃなかったかしら」とシノッチも知っている。多摩地区にはないのだろうか。「昔の女学生みたいに、制服が着物に袴なんだ。馬車道と似ている。」私は団地の忘年会で二度程入ったことがある。「十人集まると送迎バスを出してくれる。」
     「埼玉県限定じゃないか。」調べてみると、馬車道グループで本部は熊谷であるが、東京を含む関東一円に四十五店舗を抱えているようだ。グループ内の分類では「ファミリー料亭ダイニング」と言っている。しかし「ダメでした」と姫が戻ってきた。予約が入って満席だったらしい。「入ったことがないから、行ってみたかったな。」
     「星乃珈琲にしましょうか。」ランチがあるようだが、私が食えるメニューはあるだろうか。「少し先に華屋与兵衛がありますよ。」椿姫はこの辺りに詳しそうだ。「下見の時の通り道にはなかったんですけど。」今日のコースからは少し離れるようだが、それならそこに行ってみよう。
     サボテンの間に、さっきの枯れたバナナのようなものを植えている庭がある。サクラソウを咲かせている家もある。少し先には、民家のブロック塀に土を盛ったところに黄色のフクジュソウが咲いている。「自然に咲いたのかな。」「育ててるんですよ。」「ここだけ水をやった跡がある。」植えた当人には鑑賞できない場所で、外を歩く人のためだろうか。
     元治元年創業の梅林堂がある。「武蔵浦和にもありますよ。」ロダンガ知っていた。「マーレの中だね。」「大宮にも。」和菓子屋だと必ず入りたがる姫が見向きもしないから、珍しくない店なのだろう。勿論私は知らない。本社は熊谷で、和菓子もあるが洋菓子を中心にしているようだ。
     「元治っていつごろだい?」「十八世紀かな。」またまた私の知識はいい加減だ。スナフキンが調べると慶応の直前だと分る。しかも私はガンジと読むとばかり思っていたのに、正しくはゲンジである。元治元年は一八六四年、翌年には慶応に改元している。「短いから目立たないんだな。」
     サイゼリアの跡は焼き肉屋「くいどん」になっていた。焼肉はちょっと重すぎるだろうね。念のためにグーグルマップを検索してみると、この場所は今でもサイゼリアのままになっている。開店してもう一年以上経過しているようだから、グーグルマップを見るときは余程慎重でなければならない。ヤオヒロ。ヤオコーと丸広を合わせたようなネーミングがおかしい。
     かなり歩いたような気がする。「ここが三井住宅でしょう。ここを右に曲がるんです。」逆の角には星乃珈琲があった。姫のコースは真っ直ぐに行くのだから、発見できなかったのも無理はない。「見えましたね。」三百メートル程先に看板が見えた。なんだか疲れてしまった。

     華屋与兵衛に着いたのは十一時四十分だ。上尾市中分一丁目十六番十三号。姫が店員に「十二人」と声をかけて席を作ってもらったが、オクチャン、シノッチ、チロリンは適当なところで弁当を使うと言う。「何時に集合しましょうか。」「十二時二十分にお願いします。」席は若者組五人と高齢者組四人とに分れ、真ん中がぽかっと空いた。オカチャンを高齢者に数えては申し訳ないか。
     かなり気温が高くなっているので、セーターを脱いでリュックにしまった。「前回、食いすぎちゃったからな。」「そうだったわね。」ハイジがトンカツを頼んでいるのを見て心が動いたが、自重して天重にした(自重したことにならないか)。本体価七百八十円。スナフキンも、今日はビールのことを口にしない。
     スナフキンが『中島敦と私』を取り出し、ハイジがそれを熱心に見ている。「オクチャンも書いてるのよね。」「二十三ページにある。」そして料理は五人分が一緒に配膳される。「とんでん」も同じ方式をとっているから、和食系ファミリー・レストランの基本なのかも知れない。
     天重は天ぷらが多すぎて、ご飯に辿り着くのが容易でない。しかも鶏の天ぷらが入っているのは珍しい。タレが私にはちょっと濃すぎた。「お蕎麦の香りがしないんです」と姫がぼやいている。「こういう所で期待しちゃいけない。」以前、オサムがやはり(どこだったろうか)蕎麦を食って、蕎麦湯が出て来ないとぼやいていたのを思い出す。ハイジは健啖家だった。きっちりとトンカツ定食を平らげる。
     「お待たせしました。」ちょうど十二時二十分にオクチャンたちが現れた。時間厳守の人である。私たちはテーブルで勘定をまとめたが、高齢者グループは、それぞれ一万円札を出して一人づつ支払っている。

     枯れた柏の木を見る。この辺の木は、枯れた葉が襤褸切れのようについたままになっているのだ。東武バスの車庫前で姫が立ち止る。「時刻表を確認しただけなんです。」やがて広く新しい道路に出た。「上尾道路です。」「上尾バイパスね。」十七号のバイパスらしい。ここから北は中央部分が工事中で片側一車線しかないが、車の通行量は多くない。
     民家の庭に白梅が咲いている。「二週間前に神田明神でも梅が咲いてましたね。」「紅梅と白梅とね。」すぐに畦吉諏訪神社に着いた。上尾市畦吉八三五番地。鳥居の前に大山石灯籠が立っている。竿部には「大山石尊大権現」、背面に元治元年子歳六月吉日(一八六四)。解説によれば、上尾市内の大山灯篭は殆ど木組みで作られており、石灯籠は、ここと領家の二か所にしかない、珍しいものである。木組みの場合は、大山の山開きの間だけ組み立て、点灯する。石造の場合の点灯方式は分らない。
     「大山道って言うけど、ずいぶん離れてますよね。」解説を読んでいたロダンがおかしなことを言う。私たちが歩いたのは江戸から相州大山までの大山街道だが、関東各地から雨降山の石尊権現に向かう道(大山道)は沢山あった。ここからなら恐らく中山道浦和宿に出て、府中通り大山道(春日部から府中経由大山)を行く道筋だったと思われる。荒川を渡り、宗岡(志木)、清瀬、府中を通って、関戸の渡しで多摩川を越える道だ。「こんな遠くからも大山詣でをしたんですよね。エライですね。」
     石造鳥居は弘化二年(一八四五)、「畔吉村氏子中」と刻された幟立は天保九年(一八三八)建立である。
     天正十八年(一五九〇)に土着して畔吉村の名主を勤めた井原政家が、石戸領川田谷村の総鎮守諏訪神社を勧請したのが始まりと言う。井原土佐守政家は岩附(岩槻)の太田氏房(北条氏政の四男)に仕え、秀吉の小田原攻めによる落城によって、この地に土着したらしい。
     石戸領とは、畔吉村、小敷谷村、藤波村、小泉村(以上 現上尾市)、日出谷村、川田谷村(現桶川市)、石戸宿(現北本市)、馬室村(現鴻巣市)に及ぶ範囲である。畔吉は中世には畦牛と書かれていたようだ。
     「ささら獅子舞が有名なんですよ。蓮田もこの系統のようです。」「久喜もそうですよ。」オカチャンもオクチャンも地元の人だから詳しい。一般名称では「三匹獅子舞」とも言う。関東から東北・北海道の東日本に残る行事だと言うが、秋田市内では見たことがない。しかし私が無知なだけで調べてみると秋田県内各地にあった。角館のささら獅子、雄和町の獅子舞、琴丘町のささら獅子舞、田代町の蛭沢獅子舞、中仙人町の長野獅子舞、仁賀保町の獅子舞、由利町の前郷獅子コ踊り。こんなにあった。

     埼玉県内の各地では、一人立ち三匹獅子の獅子舞をみることができます。「ささら獅子舞」という名前は、獅子とともに出る四人の「花笠」がささらを演奏することからきています。獅子舞の内容は三匹の獅子によるもので、舞は「十二切」と呼ばれる二時間に及ぶものです。ただし、現在は一時間四十分ほどに短縮されています。
     獅子舞の行われる日は、本来、畔吉の鎮守・諏訪神社の例祭日である十月十五日ですが、現在は近い日曜日に行われています。例年前夜祭(宵祭り)があり、このときにも獅子舞が舞われます。当日は、諏訪神社に参拝し、獅子舞の一行は行列を成して午前九時半頃から徳星寺に向って出発します。午前十時半頃、徳星寺に到着して獅子舞を奉納し、休憩後、諏訪神社に向います。二回目の獅子舞は諏訪神社で午後三時ころ、三回目は午後七時ころに舞います。
     獅子は、牝獅子一人、中獅子一人、王獅子一人の合計三人で舞います。牝獅子の腰の後に女獅子は赤色、中獅子は黄色、王獅子は紫色の御幣を挿します。行列は先頭に若頭一人、拍子木一人、ダシと呼ばれる万灯・幟四基、貝吹一人、金棒二人、花笠四人、笛二十人ほど、牝獅子、中獅子、王獅子、歌十人ほどという順序です。

     「ささらって、あの、こういう形のものですか?」椿姫の手は丸く南京玉簾のような恰好を描く。「あれは大道芸でしょう」とおかちゃんが笑う。ささらは竹の先を細かく裂いて束ねたもので、すだれ(簾)を変形させるものとは違うだろう。
     獅子舞には伎楽系(舞楽系)と風流(ふりゅう)系と二つの系統があるそうだ。伎楽系では一人か二人が胴体に入り、手で獅子頭を操作する。一般に獅子舞と言うと私はこれを思い浮かべる。起源は古代に遡る。
     一方獅子頭を頭にかぶる一人立ちが風流系で、中世の風流踊りを源流とするらしい。ウィキペディアによれば、「華やかな衣装で着飾り、または仮装を身につけて、鉦や太鼓、笛などで囃し、歌い、おもに集団で踊る踊り」が風流であった。三匹獅子舞の他、南部や仙台の鹿踊り、更に鬼剣舞も同系統であろう。
     「畦吉の万作踊り」の解説もある。万作踊りとは、江戸末期に始まり関東に流行した手踊り芝居である。

     「畔吉の万作踊り」は、大正時代には既に行われており、昭和五五(一九八〇)年頃からは、畔吉の鎮守である諏訪神社の春季例祭(四月の第一日曜日)に奉納されている。演目は、下妻踊り・手拭い踊り・銭輪踊り・伊勢音頭・口説きの五種類である。このうち基本となる演目は下妻踊りであり、採りものを持たずに踊る。銭輪踊りは、踊りの三番叟と呼ばれ、最初に踊るのはこの演目である。下妻踊り、手拭い踊り、銭輪踊りは、ほぼ同じ系統の歌で踊るが、伊勢音頭は、全国的に広く分布する伊勢音頭の歌で踊る。(上尾市教育委員会掲示より)

     拝殿は地味だが裏に回って本殿を見ると、覆屋は屋根だけで壁がなく骨組みがむき出しだから中の本殿が良く見える。彫刻は立派だ。「屋根があるだけでも保護になるんですよね。」
     歩き出してすぐ、諏訪神社西の交差点で姫が悩みだした。「下見の時、迷ったんですよ。」後続がかなり遅れているので、信号を渡ったところで待つ間、姫は前方に偵察に行く。スナフキンの地図ではここを右に曲がるのが近そうだが、やがて姫からそのまま真っ直ぐ向かうよう指示が出る。
     周囲は農村風景になってきた。竹林を巡らした屋敷もある。「そこに上尾市酪農協会があります。珍しいですよね。」埼玉県のホームページを見ると、「桶川市、さいたま市、上尾市周辺を中心として酪農、肉用牛、養豚、養鶏が行われています。 朝霞市、和光市、新座市などの都市地域でも畜産が行われています。」とある。上尾は埼玉県酪農の拠点であった。
     道路を外れて細い道を降りると、原っぱに「県指定天然記念物 徳星寺・大榧の木」の石柱が立ち、向こうの山門まで左から回り込むように参道が続いている。寺の周囲は雑木林になっているようだ。
     参道周辺の道端にはホトケノザやオオイヌノフグリが顔を出している。「これ見ると、春だなって思うね。」「そうね、早いわね。」「ハイジは最近、俳句を作ってくれないね。何か作ってよ。」「NHKの番組は見てるのよ。」なんだか、はぐらかされてしまった。それにしても暑くなった。大寒とは思えない。コートが邪魔くさいが、脱ぐと更に邪魔になるから我慢する。チロリンやシノッチはコートを腰に巻いている。
     山門に入る少し前には、両脇に古い地蔵が立っている。東高野山遍明院徳星寺(とくしょうじ)。上尾市畔吉七五一番地。山門の柱に吊るされている提灯には「南無三世諸佛」とある。三世諸佛とは、過去・現在・未来に出現する仏である。
     東高野山の山号で分かるように、元は空海によって開かれたと称する真言宗の寺であった。それが永禄六年(一五六三)に天台宗に改宗した。江戸時代には幕府の宗教政策の都合によって宗派を変えさせることはあったが、この時代に改宗した理由は分らない。

     上尾市最古の文書は、天正十七(一五八九)年八月、岩付の太田氏房が井原土佐守に出した印判状で、徳星寺門前の諸役を免除し、みだりに寺に侵入することを禁じている。井原土佐守は、この地域を支配する土豪である。また江戸時代には、寺領三石を将軍から与えられているが、天正十九(一五九一)年十一月の徳川家康の朱印状は市内唯一のものである。寺領朱印状は十二点所蔵され、太田氏房印判状とともに市指定の文化財になっている(『新編埼玉県史 資料編6』「上尾の指定文化財」)

     由緒正しい寺である。向背頭貫上部の、正面を向いた龍の彫刻が見事だ。「あれは木でしょうか?」銅板を打ち出して貼り付けたように見える。「そうですよね。色目が同じだから木かと思いました。玉が金属の光ですものね。」頭貫の両端の獅子が玉を咥えているのだ。
     「大カヤってあれかな?」少し高くなった林の中で他の樹木に紛れて余り目立たない。オカチャンとハイジが上りにくそうな石段を登って根元まで行く。「落ち葉で滑るから気を付けて」とオカチャンが声をかける。「こっちから見えるわよ。」先に偵察に行ったシノッチが教えてくれるので、坂を下りて、回り込むとあった。
     「スゴイ。」根元が太く大きな洞が開いている。姫やオクチャンもやって来て、見事なものだと感心している。たぶん「巨樹」と呼んで良いのだろう。幹回り五・三メートル、高さ二十一メートル、樹齢は七百年から八百年と推定されているものだ。昔は周囲の雑木がなく、このカヤが目立っていたのだろう。
     カヤは貴重な高級木材で、カヤの碁盤や将棋盤は高い。特に柾目の盤になると一千万円なんていうものもある。私が持っているのは桂の足付三寸盤で、石とセットで三万円のものだから比較にならない。
     境内に戻ると、光背型の青面金剛が見事だ。像容は今日見たものと同じ。正徳四年(一七一四)。武州足立郡石戸領畦吉村。講人数二十六人。時代の割には彫が全く摩耗していない。「今日は踏みつけられる人はいないのね」と椿姫が笑う。その隣の宝永五年(一七〇八)のものは、邪鬼の顔面が丸く摩耗してしまっている。
     「ジョウビタキだ。」スナフキンが声を上げた。この頃のスナフキンは鳥にも詳しくなっている。「今日はアトリも見たしいい日でした。」「カワセミもね。」

     寺を出ると、西側には何もない畑が広がっているばかりで、遠くに秩父の山並みが見える。「あれが武甲山ですよ。」「真ん中の三角のやつ。」「右端の三角は?」「二子山って言ってたわ。」風の強い日はこの畑の土が舞うだろう。畑の先はすぐ荒川である。おそらくこの近くに畦吉の渡船場があったのではないか。
     榎本牧場はすぐだった。上尾市畔吉七三六番地一。自転車レース用のピッチリした服(サイクル・ウェアと言うらしい)を着た連中が屯している。荒川サイクリング・ロードが通っているのだ。子供たちが遊具の三輪車や車で遊んでいる。

     牧場に子らさざめくや春隣  蜻蛉

     ここではアイスクリームを食べるのが目的らしい。しかし看板を見たスナフキンが首を傾げる。「ジェラートって何だよ。アイスなら食うけど。」スナフキンも意外に最近の事情に疎いアイスクリームと何が違うのか私には分らないが、榎本牧場のジェラートはかなり有名なものらしい。
     私はそんなものを食う気がしないから少し歩いてみる。牧場と言っても、牛舎とその脇に豚数頭のオリがあるだけで、その先は立ち入り禁止になっていた。私は牛舎の臭いが好きではない。「アレッ、椿姫はアイス食べないの?」「甘いものはちょっと苦手なの。あら、ここに灰皿があるじゃない。」彼女はバッグから煙草を取り出す。「やめたんじゃないの?」「やめようとは思ったのよ。だけどね。」「私は休憩中です。三十年ばかり」とロダンが言う。三十年も吸っていなければ、完全にやめたと言って良い。スナフキンも昔はチェーンスモーカーだったが、完全にやめている。意志が強いのである。「私たちはダメね。意志が弱いのよ。」
     店の前まで戻ると、スナフキンはもう食べ終わっていた。「どうだった?」「氷に近いな。」見た目はソフトクリームのようだが、何も知らないのは恥なので、ジェラートについてもウィキペディアを覗いておけば、フィレンツェ発祥の氷果である。それならシャーベットとは違うのか。細かい違いはあっても基本的にはイタリア語と英語の違いだけだと言う。英語よりイタリア語の方が最近の若者には受けるのであろう。更にソルベ(フランス語)とか、グラニテ(イタリア語)というものも出てきた。私には別世界の言葉である。
     「食べたら寒くなっちゃったよ。」中将はコートを着込む。「だってダブルサイズを食べたんだから。」今日は暖かいとは言え冬である。年寄りは腹を冷やしてはいけない。ベンチの前には一斗缶が置かれ、豆炭を燃やしている。
     「牛乳飲みたいな。」それなら私も飲んでも良い。「売ってますよ。」しかし店に入ると、あるのはヨーグルトばかりだ。「牛乳はないの?」「ヨーグルトとして提供しています。」言い方が回りくどい。
     「それじゃ行きましょうか。」用水の上に掛かった橋を渡れば上尾丸山公園だ。上尾市平方三三二六番地。広さは約十五ヘクタールだ。

     上尾丸山公園は「水と緑の調和」をテーマに昭和五十三年に開園した総合公園です。小動物コーナー、児童遊園地、バーベキュー場、自然学習館、大池などが訪れる人々を楽しませてくれます。(上尾市)

     池の周りに沿って南に歩く。釣りをしている人がいる。「竿を四本も垂らしてるぜ。」余程やることがない人であろうか。マガモが泳いでいる。尾が丸まっていないからアヒルではないというのは、姫に教えてもらったばかりだ。
     やがて池から離れて広場に入る。真冬とは思えない陽気で、池を見ながらベンチに座っていると眠くなってくる。ここで菓子類が大量に配られた。椿姫はキノコの山の袋を取り出し、私に配れと命令する。仕方がない。一人づつ回って「手を出して」と、三四個づつ配給した。そのほかにも甘いものが数種類(これは私を素通り)、煎餅も二種類ほどあったろうか。「こんなにどうするんだよ。」
     「それじゃ行きましょう。」途中、トイレかと思った建物は自販機を設置するものだった。自然学習館に行くには橋を渡らなければならない。「凍ってる。」薄氷の上をカモが歩いている。こんなに暖かな日の午後に氷が張っているとは思いも寄らなかった。
     自然学習館に入ってトイレを済ます。入口には小鳥の剥製が並べられている。アトリはなかった。二階にも展示室がありそうだが、私は余り興味がないので、すぐに外に出て煙草を吸う。その隣が直売所になっている。覗いみても私が欲しいものはない。
     「バスが間に合うかも知れません。」さっきの西車庫まで戻らなければならないのだ。「三時三十五分ですから、急ぎましょう。」どの位で行けるのか。さっき悩んだ交差点を過ぎて、諏訪神社を通る。上尾道路を超えればすぐだろうか。「私の腹時計では二十五分くらいですけど。」姫がおかしなことを言っている。「今は二十分。あと十分くらいかな。」「それなら充分間に合うよ。」
     車庫に着いたのは二十八分だった。椿姫の息が上がっている。始発だから慌てることはないので、椿姫は煙草を吸い出した。「来たよ。」その瞬間、待機していたバスが動き出し、私たちの目の前に停まった。
     私たちだけかと思ったら、ほかの乗客も二三人乗ってきた。「待って、スイカがどこかに行っちゃったの。」まだ三十二分だから大丈夫だ。「分った、ここにある。」コートのポケットには手袋も入っていて、なかなか取り出せないらしい。ステップにペットボトルとリュックを置き、一所懸命引っ張り出して漸くタッチした。しかしリュックだけ持って後部座席に移ろうとする。「水、水。」「あら、イヤだわ。」
     バスが動き出してすぐ、私の後ろからはロダンの鼾が聞こえてきた。十分で上尾駅に着いた。「鼾かいてたよ。」「女性の名前を呼んでたわね」とハイジが笑う。「そんな、妻に聞かれたらなんと言われるか。勘弁して下さいよ。」愛妻家をからかってはいけない。
     姫が挨拶をし、スナフキンが来月市川の予定を案内する。「弁当不要ですから、くれぐれも注意して下だい。」そして解散である。格安スマホに替えたスナフキンの万歩計は調子がおかしい。何人かの数値を参考にして今日は一万八千歩、十二キロと決めた。

     「その辺で飲もうか。」来年度の打ち合わせのためにオクチャンも参加してくれるので、姫、スナフキン、ロダン、蜻蛉の五人だ。
     「磯丸水産がある。」念のために和民の前まで行ってみたが五時開店では仕方がない。まだ四時ちょっと前だ。結局磯丸水産にした。「二十四時間営業ですからね。」「満席だったらどうしようか。」「この時間に満席だったら、この国の人間は堕落してる。」
     かなり混んでいたが、笑顔の女性が奥の席に案内してくれた。私の背後の席には子供連れの集団が居座っている。居酒屋に子供を連れてくるという感覚が私にはどうも分らない。「昔と変わりましたからね。」古老になった気分になってくる。  「まずビール五つ。」私が作った来年度スケジュール案は概ね承認された。欠席のヤマチャンと宗匠は問題ないとメールをもらった。千意さんからは実行月は問題なし、コースを少し変更との連絡が入っている。オクチャンもそれで良いと言ってくれた。細部を調整して三月には配布できる。会の名称は取り敢えず「近郊散歩の会」と決まった。
     ビールの後は何にしようか。メニューを探しても焼酎ボトルはない。「ホッピーがある。」オクチャンも「私は飲んだことがないので、飲んでみたい」と賛成したのでホッピーの黒を頼む。「蜻蛉だって、この間、初めて飲んだんだろう。」姫は焼酎が苦手なので、ビールを続ける。オクチャンはホッピーの瓶に口をつけて味を確認している。「これが焼酎ですよ」とロダンがグラスの中身を説明する。
     キウリ、セロリの漬物、シラスと海苔の入った卵焼き、ハラス焼き、炙りしめ鯖。たぶん、前に(いつ、どこだったか思い出せない)磯丸水産に入った時もこの炙りを食ったのだった。「昔はなかった。最近でしょう、何でも炙りにするのは。」秋田のYには、しめ鯖の炙りなんて邪道だと罵られたが、そんなに不味いものではない。「美味しいですよ」と皆は喜んでいる。甚平姿の若い女性店員の笑顔がとても素敵だ。応対にメリハリが効き動きも素早い。「やっぱり愛嬌ですよね。」
     刺身のツマの大根が旨い。「残りは全部ロダンが食べてね。好きでしょう?」「好きですよ。」「ツマが好き、なんちゃって。」「上手い。」
     ナカはロック・グラスで出てくる。これを二杯追加して二時間でお開き。二千百円なり。帰り掛けに「笑顔がとても素敵だった」と声を掛けると、ちょっと泣きそうな笑顔で「有難うございます」と応える。
     六時である。オクチャンとはここで別れ、残りの四人は大宮に向かう。「どうする?」「やっぱりカラオケか。」ビッグエコーに入った。
     今日のロダンは絶好調だ。あおい輝彦『三人家族』(昭和四十三年)、若山彰『喜びも悲しみも幾年月』(昭和三十二年)。「今日は泣かないね。」ロダンは夫婦愛の物語に弱いのである。坂本九『ともだち』(昭和四十年)は懐かしい歌だが、今日ロダンが歌うまで長いこと忘れていた。「三十年前ですよ」とロダンは言うが、五十年以上前である。
     園まり『何も言わないで』(昭和三十四年)。「若い時の園まりだったらいいけど、今だとちょっと色ボケに近いですよ。私は中尾ミエが好き。」姫は厳しいが、確かにああいう色っぽい歌い方を清潔に保つのは難しいのである。『小指の思い出』(昭和四十二年)。「あのとき、伊東ゆかりは二十三歳ですよ。ウチの娘がこんな歌を歌ったらドキドキしますよ」。
     園まりと伊東ゆかりが出てくる時は、ロダンはかなり酔って来た筈だ。しかし『小指の思い出』はスナフキンが歌ったのだったかも知れない。三浦洸一『踊子』(昭和三十二年)は二番から私が引き継いだ。  スナフキンは「一度しか聴いたことがないんだ」と言いながらちあきなおみの『冬隣』(昭和六十三年)に挑戦する。これは難しい歌で、私も覚えきれていない。夫の郷鍈治が死んだのが平成四年(一九九二)で、吉田旺はそれを予言するかのような歌詞を書いた。
     「さっき兄貴からメールがあったんですよ。ちあきなおみの『秘恋』が素晴らしい、お前は知らないだろうって。バカ言っちゃいけない、他にも『霧笛』とかいろいろあるって、こっちから教えてやりましたよ」とロダンが言う。これらはファド(ポルトガル民謡)であるが私はまだ完全に覚えていないので歌えない。(今、これを書きながら『秘恋』を繰り返し聴いている。)ちあきなおみの比類のない素晴らしさをどう表現すれば良いだろう。
     それからザ・ブロードサイド・フォー『星に祈りを』(昭和四十一年)。「佐々木勉いいですね、名曲ですね」とはロダンの口癖だ。私は高校時代にこの歌でギターの循環コードを覚えた。「そうですか、私はギターには縁がなかった。」二三年の違いでそんなこともある。スナフキンはサベージ、荒木一郎等、あの頃のフォークが一番得意である。今日は歌わなかったが高木麻早『ひとりぼっちの部屋』(昭和四十八年)もレパートリーに入っている。
     姫の選曲は相変わらず多彩でなかなかついていけない。ハイファイセット『スカイレストラン』(昭和五十年)。姫はユーミンが好きだ。私はユーミンにはあまり縁がなく、これも姫の歌で知った。「これって振られた女の未練タラタラじゃないの?」とロダンが茶々を入れる。「違います。断固とした決意の歌なんです。」それにしても新川二郎『東京の灯よいつまでも』(昭和三十九年)や林伊佐緒『高原の宿』(昭和三十年)なんて歌うのが奇態だ。他人のことは言えないが、実に不思議なひとである。「林伊佐緒はシンガー・ソング・ライターのハシリです。」「『ダンスパーティの夜』とかね。」
     私はちあきなおみ『紅とんぼ』(昭和六十三年)。それに久し振りに岸洋子『酔いしれて』(昭和四十三年)を歌った。「大人の歌ですよね。」私だって青春歌謡ばかりではない。ロダンにせっつかれて矢吹健『うしろ姿』(昭和四十四年)も歌う。「私は『あなたのブルース』しか知りませんでした。」姫は演歌系には弱い。アイ・ジョージ『硝子のジョニー』(昭和三十六年)も何年振りかで歌った。
     要するに私たちの趣味はほぼ五十年前を中心に固まっていることを、改めて認識したことになる。二時間歌って二千百円なり。

    蜻蛉