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    平成二十九年二月二十五日(土)市川

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.03.04

     今回はスナフキンの案内で市川を歩く。いつものように彼は事前に膨大な資料を作ってくれた。去年の下見の際には、市川在住のハッツァンが付き合ってくれて三万歩を歩いたと言う。「もうだいぶ、忘れちゃったけどな。」そのハッツァンは飲み会に合流することになっている。
     国府台、市川真間、里見公園、野菊の墓、矢切の渡しは平成二十二年の八月にあんみつ姫の企画(江戸歩き番外編)で歩いた。猛烈に暑い日で、矢切の渡し場付近で誘惑に負けてカキ氷を食って失敗した。甘すぎて暫くの間、口の中がおかしかった。あの時初めて真間の手児奈を知ったのだが、七年も経つと細かいことは殆ど忘れている。行徳は二十七年三月に私の企画(江戸歩き第五十七回)で歩いた。市川市は広い。
     旧暦一月二十九日。雨水の次候「霞始靆 (かすみはじめてたなびく)」。雲編に逮とは難しい字だ。雲編に愛と書く文字もあり、二字熟語にして靉靆(あいたい)と書けば、雲や霞がたなびく意である。
     確実に春は近くなっているのに、ここ暫く日によって寒暖差が激しい。寒いと言っても真冬程ではないけれど、一度暖かさに慣れた体には辛い。昨日も風が冷たくて、こころは「鳥さん見たいな」とせがんだが、洟水を垂らしているので公園に連れて行くのはやめた。今日は最高気温が十二度になる予報で、風さえなければ暖かい日になるだろう。
     市川駅にはスナフキン、小町、シノッチ、ハイジ、あんみつ姫、マリー、マリオ、オカチャン、宗匠、ヤマチャン、ロダン、蜻蛉の十二人が集まった。「オクチャン夫妻が来る筈なんだ。夕べ電話があった。」しかし定刻になっても二人は現れず連絡もない。私が待機することにして、全員が歩き出した。十分位待てばいいかと思ったらすぐに宗匠が引き返して来た。オクチャンから連絡が入り、弘法寺で落ち合うことに決まったのだ。西船橋で乗り換えを間違えて逆方向に行ってしまったらしい。

     最初は南口のI-linkタウンのザ・タワーズ・ウエストに入って、四十五階建ての展望台に上るのである。エレベーターは外が見えるようになっている。「怖いわね。」最上階まで行き、そこから階段をもう一つ登れば全面の展望フロアだ。「ワッ、スゴイね。」高さ百五十メートル。目の下には右から左に江戸川が流れ、その向こうに東京スカイツリーも見える。川のこちらには国府台の和洋女子大学が見える。和洋女子大学もこの辺では高い建物で、十八階から「東京スカイツリーや富士山まで一望できます」と自慢しているが、ここには及ばないだろう。
     江戸川の河口もはっきり見える。「スカイツリーに行くより、こっちの方がいいじゃないか。」ヤマチャンの声に笑いが上がる。「無料だしね。」「ここに来ただけでも良かったよ」と、本庄から二時間も掛けてきた小町も言う。
     「それじゃ行きましょう。」駅の北側に出て、千葉街道を渡って北に向かう。八幡神社の辺りでスナフキンが気付いた。「ここじゃない、一本左だった。」「手児奈通りだからいいんじゃないの?そっちに向かうんだろう。」「違うんだ。あの辺で曲がろう。」
     さっきの道よりは狭い大門通りで、市川市は万葉の道と名付けている。民家のブロック塀に、万葉集の歌が書かれた書が掲示されているが、市川周辺に関連する歌ばかりではない。「いちいち立ち止まって見てたらキリがないよ。今日は予定が詰まっているからサクサク歩きましょう。」
     大門通りの名で分るように弘法寺への参道だが、通学路にもなっているようで、千葉商科大学や和洋女子大学の学生と思しき姿もチラホラ見える。ただ二つの大学とも、ここから歩くのは結構遠い。妻の短大時代は国府台駅から歩いたと言っていた。
     京成線の踏切を越えると真間川に出る。川は市川四丁目で江戸川から分かれて、この辺では東へ流れる。橋の名は入江橋で、この辺が万葉に言う真間の入江(勝鹿の浦とも言った)の跡だと推定されている。

     葛飾の真間の浦廻(うらみ)を漕ぐ舟の舟人騒ぐ波立つらしも(『万葉集』東歌)

     黒松の枝が川面に伸びている。「すみませんでした。」後ろから声が聞こえた。オクチャン夫妻が追いついたのである。夫人は恐縮した表情で頭を下げる。
     すぐ先の赤い欄干の小さな橋は継橋だ。下に川は流れていないし、勿論後世に作られたものだろう。万葉の頃には葦の生い茂った砂州に海が入り込み、砂州と砂州とを繋ぐ橋がいくつもあった。上総の国府から下総国府までの官道はその砂州を通っていたと言われる。上総の国府は市原市の辺りだったらしいので、東京湾岸沿いの道であろう。

     真間の継橋 弘法寺の大門石階の下、南の方の小川に架すところの、ふたつの橋の中なる小橋をさしていへり。(ある人いふ、古は、両岸より板をもて中梁にて打ちかけたるゆゑに、継ぎはしとはいふなりと。さもあるべきにや)。(『江戸名所図会』)

     幕末の頃には一帯は水田になっていたが、「土人いふ、昔は真間の崖下まで浪打ち寄せたりとなり」とも記しているので、この辺りが海岸であったことは間違いない。橋の右の袂に茶褐色の歌碑が建っている。

     足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ(『万葉集』東歌)

     「ここは入らないのかい?」手児奈霊堂は後回しにして、先に弘法寺に入る。「エーッ、この階段を上るのか?」見上げる石段は高さが均一ではないから、真ん中に手摺があっても上り難い。「二十七段目に問題の涙石がある筈なんだ。」数えながら登ったが、「ここで二十七段」「私はここだよ」と、それぞれの数え方に一二段の誤差が出る。私の勘定も二段程違っていたようだ。「これかな?」一つだけ古く磨り減って黒くなった石があった。
     伝説では、日光東照宮造営の作事奉行だった鈴木長頼が、石材を伊豆から運ぶ途中、市川の根本付近にさしかかると急に船が動かなくなった。重荷を減らそうと、積んでいた石を弘法寺の石段に使用したことが幕府に追及され、石段で切腹した。その時の無念の血と涙が染み込んでいるのだ。しかし阪井久良伎はちょっと違う説を紹介している。

     ・・・此の鈴木長頼は・・・眞間下に鈴木院を建て(後、龜が眞間の井から出たので今の龜井院に改む)眞間山弘法寺を信仰し、檜御殿を寄付し、立派な石段を寄進した。それは幕命に依つて日光三代の廟へ運搬すべき石段であつた。下野眞間田へ運搬すべきを下總の眞間に誤つたとの言ひ開きも通らず、檢視が來たるに先立ち、此の弘法寺の石段で立腹を切つた。今に泣石と云ふのがある。(阪井久良伎『真間名所』)

     下野の真間田(間々田)と下総の真間を間違えたと言うのだが、言い訳にしても余りにもお粗末で絶対に信用されない。市川市には三百以上の湧水があるので、たまたま石の一部が水脈に触れているのではないかとの説もある。
     間々山弘法寺(ぐほうじ)。市川市真間四丁目九番一。寺の伝承では、天平九年(七三七)、手児奈の物語を知った行基が、その供養のために求法寺を建てた。その後、弘仁十三年(八二二)に空海が「弘法寺」と改称した。元慶五年(八八一)に天台宗に改宗したのは理由が分らない。更に建治元年(一二七五)に日蓮宗に改宗した。「エーッ、そんなに宗派を変えていいものなの?」とハイジが驚く。「建治元年の時は、日蓮宗との宗論に負けたんだ。」
     後で行く中山法華経寺の日常が、時の住職に宗論を挑んだのである。日常は千葉氏の被官で俗名を富木常忍と称した。鎌倉を追われた日蓮を庇護して法華経寺を開いた人物である。日蓮法華宗の拠点を確保するため各地で折伏が行われたが、おそらくその最初期に当るだろう。戦後の創価学会の勢力拡大もこの折伏による。
     巨大な仁王門に立つ金剛力士像は運慶作と伝えられる。その右手前に一茶の句碑がある。

     真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉    一茶

     この寺は紅葉の名所でもあった。行徳の渡船場で船を下りた成田山参詣客は、成田街道の市川宿、八幡宿を通った。また中山法華経寺も信仰を集めたから、この界隈はかなり賑わっていた。一茶は松戸や流山を拠点にしていたから、この辺りは何度も訪れていた。
     樹齢四百年以上、伏姫桜と名付けられた枝垂れ桜は勿論まだ咲いていない。伏姫の名は勿論『南総里見八犬伝』に由来するだろう。すぐ近くの国府台に里見公園があるように、里見氏と後北条氏の二度に亘る国府台合戦で、二度とも里見氏が敗れた地である。桜の根本には富安風生句碑が建っていた。

     まさをなる空よりしだれざくらかな   風生

     可憐な句を作るハイジは富安風生を知らなかった。「役人だよ。」虚子門下で、逓信省の次官にまで上りつめ、官僚生活の傍ら句誌『若葉』を主宰した。破綻のない穏当な句風で、私には余り面白くない。
     鐘楼堂は少し小高くなった所に建ち、オカチャン、ロダン、ヤマチャンが登っている。私はそこには行かず、秋櫻子の句碑がある筈だと探しながらブラブラしてみた。しかしどうしても発見できなかった。後で調べると、参道を隔てて一茶句碑の反対側にあったようだ。

     梨咲くとかつしかの野はとのくもり   秋櫻子

     秋櫻子は産婦人科医である。山口誓子、阿波野青畝、高野素十とともに「ホトトギスの四S」と呼ばれたが、『ホトトギス』の当時の風潮が自然の模倣に過ぎないと批判し、『馬酔木』を主宰して新興俳句運動の先駆けとなった。「とのくもり」もそうだが、万葉の語彙を使った清新な抒情が特長である。初の句集が『葛飾』であり、この近辺の風土を愛した。秋櫻子の言う「葛飾」は東京都葛飾区ではなく、江戸川の両岸に広がった、かつての下総国葛飾郡のことである。
     姫は先に坂道を降りて待っていると歩いて行った。境内西の外れの真間道場(旧書院)の赤門の中を覗いてみると源平咲きの梅が美しい。あんみつ姫はこれを見なかったかも知れない。石段を降りる筈の皆もやって来たので、梅の在処を教える。
     結局全員が坂道を下った。「階段から降りて来るのかと思って見てたんですよ。」姫がびっくりしたような顔をする。さっきやり過ごした手児奈霊神堂だ。市川市真間四丁目五番二十一。「七年前よりきれいになってますね。そこの解説板も。」入口には「南無手児奈霊神」の赤い幟、本堂の両脇には白い幟が立っている。かつては手児奈明神とも呼ばれたが、弘法寺持ちであり神仏習合の姿を残している。

     葛飾の真間の井見れば 立ち平し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ  高橋虫麻呂

     「そこに、さだまさしの木があるよ。」「エーッ、さだまさし?」マリーが驚く。さだまさしが奉納したという「縁結び」の桂の木だ。中学三年の時から約二十年、市川に住んでいたらしいが、私はさだには余り縁がない。親しんだのは姫やハイジであろうか。しかし手児奈は多くの男の求愛を断って入水したのである。それと縁結びとがどう関係するのか私には分らない。
     隣接する亀井院はさっきの涙石の主人公、鈴木長頼が建てた。北原白秋は、小岩の紫烟草舎に移る直前の大正五年(一九一六)五月から一ヶ月半程、亀井院の六畳間を借りて江口章子と共に住んだ。白秋三十一歳、章子二十八歳。貧乏の極みの時期である。

     米櫃に米の幽かに音するは白玉のごと果敢かりけり      北原白秋
     真間の里手児奈の社をろがみてわれや待てるを妹の訪ひ来ぬ  吉井勇

     次にスナフキンが目指すのは郭沫若記念館だ。手児奈霊堂の裏から起伏のある住宅地に入り込んでしまうと、目印というものがないから曲がり角が分かり難い。「方角はこっちなんだよ。」手児奈堂からは北東になる。「ジンチョウゲが咲いてる。」オクチャンと夫人の声で、今年初めてのジンチョウゲを見る。「いい香ね。」

     尋ね来て香やさしき沈丁花   蜻蛉

     真っ赤なボケも咲いている。「下見の時も迷ったんだよな。こっちかな。」しかし違った。アパートから出てきた若い男女に尋ねても知らない。スナフキンはしゃがみ込んでスマホの地図を探している。昔の農道をそのままに残したようで、曲がりくねった狭い道が多いのだ。
     「すみません、郭沫若記念館をご存知でしょうか?」「この道を戻ると突き当ります。左に曲がると床屋があって、そこを右に曲がって坂道を上るとすぐ。ここからだと歩いて四分です。」庭先で洗車をしている男性に訊くとあっさりと答えてくれた。「有難うございます。」「四分、四分ですからね。」やけに四分に拘る人だが、教えられた通りに行けば本当にすぐだった。
     家の前は広い空き地になっており、芝生の所々にピンクのシバザクラが咲いている。市川市真間五丁目三番十九。昭和二年に第一次国共合作が破綻し、郭沫若は国民党の蒋介石に追われ、内山書店の内山完造の援助で日本に亡命した。そして村松梢風の紹介で市川市須和田の家を借りた。須和田六所神社の脇の道を入った辺りで、第六高等学校時代に看護婦の佐藤とみと結婚して子供もいたから、この家で家族揃って昭和十二年まで暮らした。部屋を建て増しして八畳間がひとつ、六畳間が四部屋の旧宅を移設したものである。

     四川省嘉定府楽山県生まれ。一九一四年に日本へ留学し、第一高等学校予科で日本語を学んだ後、岡山の第六高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業。在学時から文学活動に励み、一九二一年に文学団体「創造社」の設立に参加する。この設立の仲間に、郁達夫や成仿吾、張資平、鄭伯奇などがいる。この間に処女詩集『女神』を発表。
     その後国民党に参加するも、反帝国主義運動によって発生した五・三〇事件で左傾化した。北伐軍の総政治部主任となるが、一九二七年蒋介石と対立後に南昌蜂起に参加し、直後に中国共産党に加入。蒋介石に追われ、一九二八年二月日本へ亡命。千葉県市川市に居を構え、中国史の研究に没頭する。『中国古代社会研究』、『両周金文辞大系考釈』、『我的幼年』などを執筆した。一九三七年の盧溝橋事件が起こると日本人の妻らを残し帰国して国民政府に参加した。一九四二年に重慶で戯曲『屈原』を発表、大きな反響を呼ぶ。(ウィキペディア「郭沫若」より)

     「郭沫若って政治家だろう?」ヤマチャンが大きな声を出す。政治家でもあるが、本来は文学、古代史、甲骨文研究が専門だ。羅振玉、王国維、董作賓と共に甲骨四堂と呼ばれる。
     「中島竦とも親しかったんですよ。」このことはオクチャンも知らなかった。在日中に、中島竦が所蔵する甲骨二百片を調べた。中島敦の伯父の中島竦のことは、久喜を歩いて中島撫山の一族を調べた時に知った。白川静に先行する漢字学の先駆者である。羅振玉が『斗南文集』の序を書いているのは中島竦の縁によるだろう。
     周恩来、毛沢東、片山哲、田中角栄等との写真も掲示されている。掲額の「穆如春風」の読み方について、オクチャンとロダンが案内の女性に訊くと、女性は「穆」を「おだやかなること」と読んだ。「穏やかなること春風の如しか。」辞書では音で「ボク」、訓で「やわらぐ」と読む。「穆穆」と続けて書けば「やわらぎうるわしいさま。つつましく威儀のあるさま」とある。『詩経』に「穆如春風(ぼくとしてせいふうのごとし)」の句があって、「穆如春風」も成語になっているようだ。それならば、「ぼくとして春風の如し」と読みたい。
     「ノギヘンですよね。白に小、そしてサンですかね。」オクチャン夫人がこの字をメモするのを、ロダンが一緒になって読んでいる。一九六四年秋とあるので、中日友好協会名誉会長に就任した年だ。まだ文化大革命は始まっていない。「春秋多佳日」の掛軸もある。

     荷風住みし市川の里散策す郭の表する春風の気で  閑舟

     宗匠が詠んだように、今日は正に春風の気が漂っている。しかし郭沫若の生涯は「穆如春風」のようではなかった。「今はあんまり知られていないんじゃないの?」郭沫若は中国人文学の重鎮であったが、文化大革命に際しての身の処し方が後に批判を浴び、現在もその評価は定まっていないようだ。若い連中はまず知らないだろう。
     「知識人を抹殺したのは毛沢東の嫉妬じゃないか?」毛沢東自身、文人としては一流だったからそんなに簡単ではない。
     昭和三十三年(一九五八)から三十五年(一九六一)にかけて、毛沢東の大躍進政策は大失敗に終わり、三千万人とも五千万人とも言われる餓死者を出した。農業の面で言えば、ソ連農業を荒廃させた(但しその事実は隠蔽された)ルイセンコの説に基づく密植・深耕方式を強引に進め、農業は壊滅し大飢饉を招来した。そして同じ時期、北朝鮮の金日成も同じ過ちを犯している。ルイセンコの問題は似非科学と党派性とに還元されるのだが、それに触れると長くなるのでやめておく。
     三十四年(一九五九)八月、彭徳懐は政策の転換を求める上申書を提出し、毛沢東の激しい怒りをかって失脚した。毛自身も政策失敗の責任を取って、国家主席の座を劉少奇に譲らざるを得なかった。しかし文化大革命が勃発すると、彭徳懐は紅衛兵による凄まじい暴行にあって下半身不随となり、窓を全て覆い隠された監禁病室に何年も拘束され、まともな治療も受けられずに昭和四十九年(一九七四)に死ぬ。
     四十年(一九六五)十一月、姚文元「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」が、呉晗が三十五年に発表した京劇『海瑞罷官』を反革命的であると批判した。彭徳懐罷免を諷しているという理屈で、一般にこれを文化大革命の始まりとする。そして翌四十一年(一九六六)四月十日には中国共産党が下記の文書を通達した。

     全党はプロレタリア文化大革命の大旗を高く揚げ、反共産党、反社会主義のいわゆる学術権威たちの反動的なブルジョア立場を徹底的に暴露し、学術界、教育界、 マスコミ、文芸界および出版界のブルジョア反動思想を徹底的に批判せねばならない。そしてそれらの文化領域の指導権を奪還しなければならない。それを達成するには、まず共産党内部、政府、軍もしくは文化領域に紛れ込んだブルジョアジーの代表人物を批判し、粛清せねばならない。

     文化大革命は、いったん劉少奇に渡した政治的権威の奪還を目的として、毛沢東への批判を封じ込めるための知識人大弾圧運動であり、そこに無知な紅衛兵を大量に動員したため抑制が利かなくなった。郭沫若自身が「学術権威」の典型でもあり、生命の危険を感じたのも無理はない。
     そして十四日、全国人民代表大会常務委員会拡大会議の席で、「今日の基準からいえば、私が以前書いたものにはいささかの価値もない。すべて焼き尽くすべきである」と自己批判したのである。当時、郭沫若は七十四歳、常務委員会副委員長の職にあった。この自己批判が強制されたものだったか自発的なものだったか真相は分らない。翌年二月、三島由紀夫、安部公房、川端康成、石川淳の四人は共同声明を発表した。

     昨今の中国における文化大革命は、本質的には政治革命である。百家争鳴の時代から今日にいたる変遷の間に、時々刻々に変貌する政治権力の恣意によつて学問芸術の自律性が犯されたことは、隣邦にあつて文筆に携はる者として、座視するには忍ばざるものがある。
     この政治革命の現象にとらはれて、芸術家としての態度決定を故意に保留するが如きは、われわれのとるところではない。われわれは左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、支持を表明するものであ る。
     われわれは、学問芸術の原理を、いかなる形態、いかなる種類の政治権力とも異範疇のものと見なすことを、ここに改めて確認し、あらゆる「文学報国」的思想、またはこれと異形同質なるいはゆる「政治と文学」理論、すなはち、学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する。

     中学三年だった私はこんなことを全く知らなかったのだから幼すぎる。紅衛兵の掲げた「造反有理」の合言葉は、事情も分からず日本でも流行した。赤い表紙の『毛沢東語録』が翻訳出版され、それを片手に毛沢東の「名言」を語る者もいた。庄司薫『赤頭巾ちゃん気を付けて』でも、主人公のカオル君は、しばしば毛沢東語録を引用する。「政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治である」とは毛沢東の言葉だが、その政治は余りに大量の血を無残に流した。
     中国共産党の発表では文化大革命による死者は四十万人、被害者は一千万としている。しかし死者の数は一千万人以上との説もあって、実態は未だ完全には解明されていない。国家の暴虐的テロによって中国の学術芸術教育は壊滅状態に陥り、その期間に学校教育を受けた世代が、今中国の指導者層になっている。郭沫若はいち早く「自己批判」をしたお蔭で、文革のモデルとして毛沢東の庇護を受けた。命を守るための転向は簡単に批判できず、郭沫若にとってその後の人生は辛かっただろうと思うばかりだ。

     「それじゃガストに向かいます。」目の前に須和田公園が見えた。郭沫若の「別須和田の碑」が建っている筈だ。スナフキンは最初ここで弁当を使う積りだったが、雨や寒さを懸念してガストにしたのである。方角はここから真東だが、真直ぐに行く道はないらしい。「こっちから行こうか。」姫もこの辺りには朧げな記憶があるようだ。「大きな通りに出る筈です。」しかし道は曲りくねり、行き止まりになった。「おかしいな。方向はあってるんだ。」「そこの坂道が下れるんじゃないの?」少し遠回りをしたようだが漸く街道に出た。千葉県道二六四号高塚新田市川線で、片側一車線の狭い道だ。
     ガスト市川国分店。市川市国分一丁目四番十号。十一時五十分だ。十四人だと言っているのに、暫く待って作られた席は十二人分しかない。仕方がないので、スナフキンと私は皆と離れた窓側の席にした。
     私は「若鶏とごろごろ野菜の黒酢餡和膳」本体価七百九十九円にした。「俺もそれでいいや。」しかし配膳係が持ってきたのは一人前だけだった。「二つ注文したよ。」「すみません、すぐお作りします。」配膳係は低姿勢だ。注文を取った女の子が入力漏れしたのである。十分程で追加の分もできた。さっき注文を取った女の子が通りかかったので、スナフキンが声をかけたが謝りもしない。「一言、ごめんなさいっていえば好いんだよ」とスナフキンは暫く怒っていた。

     十二時四十分に店を出る。外は暖かい。県道をまっすぐ南下して、六所神社には寄らず真間川に出た。笹塚橋。桜並木の土手が続いている。「ここからが近代文学の道です。」要所々々に、市川に縁のある作家・俳人などを紹介する掲示板が掲げられているのだ。七年前にもこの道の一部を歩いた。「字がかすれてしまってますね」と姫が残念そうな声を出す。
     水木洋子の旧居は後で行くことになっている。真間川を背景にした荷風の写真は若い。市川に住んだ作家で最も有名なのが荷風であることは間違いない。正岡容、井上ひさし等、荷風に憧れて市川に移り住んだ文人は多い。

     汝が住める葛飾恋しなつかしき荷風先生住みたまふゆゑ    吉井勇

     正岡容の本の序に記されているというので、この歌にある「汝」は弟子の正岡容のことだろう。吉井勇は『スバル』編集人の一人だから、荷風を先生と呼んで不思議はない。白秋が住んでいた当時からこの辺には親しく、戦後は弟子の正岡の家にもよく遊びに来ていた。
     麻布市兵衛町の偏奇館は昭和二十年三月十日未明の空襲で焼け落ちた。荷風が持ち出せたのはいくつかの草稿と日記が入ったカバンだけで、知り合いを頼って代々木、東中野、明石、岡山を転々とした。知り合いとは菅原明朗・永井智子(永井路子の実母)夫妻である。昭和十三年(一九三八)に荷風作、菅原明朗作曲のオペラ「葛飾情話」に智子が主演して以来の付き合いだった。  九月になって、従弟の杵屋五叟(大島一雄)が借り受けていた熱海の木戸正(熱海大洋ホテル主人)の別邸(休業中の旅館)に移った。熱海市和田浜南区一三七四番地。二月十三日の日記に、木戸正が牛肉、鰤、大根、餅などを持ってきてくれたので、お礼に旧著の『腕くらべ』、『ふらんす物語』その他を贈ったとある。木戸は物のない時代に荷風に尽くしてくれた人であった。戦後の『断腸亭日乗』にも頻繁に顔を出す。
     五叟の父は、永井久一郎の弟で大島家に養子に入った大島久満次である。台湾総督府民政長官、神奈川県知事、衆議院議員を歴任した人物だ。その息子が三味線弾きになるのも不思議なことである。五叟は荷風より二十六歳も下になるが、荷風と同じく官僚の家からの落ちこぼれ同士として気が合ったようだ。
     因みに荷風の祖父永井匡威(まさたけ)には多くの子があり、長男久一郎と五男(?)久満次の間に三男(?)阪本釤之助がいる。内務官僚から福井県知事・鹿児島県知事・貴族院勅撰議員を歴任した人物で、福井県知事時代に三国を視察で訪れた際、夜伽に供された女性が高見順を生んだ。順が認知されたのは東京帝大に入学してからのことで、幼い頃から私生児と苛められた記憶は順の中に淀んだ。歓迎されないものとして生まれという意識は一生つきまとい、それが『わが胸の底のここには』等を書かせた。
     高見順が短編集『起承転々』を刊行した時、荷風は長らく不仲だった叔父釤之助についてこう記した。

     ・・・・書中私生児と題する一小編は氏の出生実歴を述べたるものにて、実父阪本翁一家の秘密はこれが為悉く余に暴露せられたりと云ふ。(中略)儒教を奉じて好んで国家教育のことを説く。されど閨門治まらず遂に私生児を挙ぐるにいたりしも恬として恥じるところなく、貴族院の議場にて常に仁義道徳を説く。余は生来潔癖ありて、斯くの如き表裏ある生活を好まざるを以て三四十年来叔姪の礼をなさず。(中略)偶然高見氏のことを聞き、叔父の迷惑を思ひ、痛快の念禁ずべか らずなり。(昭和十一年九月五日)

     しかし荷風は順が近づくのを許さなかった。血の繋がりによって狎れ親しくされるのを嫌ったと言える。順の愛人の子が高見恭子でその夫が馳浩だ。また荷風の母方の祖父鷲津毅堂の弟に鷲津蓉裳がいて、その曾孫に小鳩くるみ(鷲津名都江)がいる。
     そして五叟の次男の永光が荷風の養子になった。後に荷風は五叟とまずくなって、養子縁組を解除しようとしたが永光が断ってそのままになった。
     昭和二十一年一月十六日には、五叟の一家が移転するのに伴われて市川に来た。借家は菅野二五八番地(現菅野三丁目十七番地付近)。国府台高等女子学校(現国府台女子学院)の教員用住宅だったらしい。

     一月十六日、晴、早朝荷物をトラックに積む、五叟の妻長男娘これに乗り朝十一時過熱海を去る、余は五叟その次男及田中老人等と一時四十分熱海発臨時列車に乗る、乗客雑沓せず、夕方六時市川の駅に着す、日既に暮る、歩みて菅野二五八番地の借家に至る、トラックの来るを待てども来らず、八時過に及び五叟の細君来りトラック途中にて屡故障を生じたれば横浜より省線電車にて来れりと言ふ、長男十時過に来りトラック遂に進行しがたくなりたれば目黒の車庫に至り、運転手明朝車を修繕して後来るべしと語る、夜具も米もなければ俄にこれを隣家の人に借り哀れなる一夜を明したり。

     しかし荷風が他人と一緒に住める筈がない。まして五叟は三味線奏者である。稽古三味線の音やラジオの音が朝から聞こえてきては、それを避けて白幡神社、諏訪神社、市川駅の待合室に逃げ込んだ。正岡容が訪ねた時、荷風は耳に綿を詰めていた。病気かと尋ねるとラジオの音を遮断するためだと答えた。

     七月廿五日、隣室のラヂオと炎暑との為に読書執筆共になすこと能はず、毎日午後家を出で暮飾八幡また白幡天神境内の緑蔭に至り日の相傾くころ帰る、ラヂオの歇むは夜も十時過なり、この間の苦悩実に言ふべからず。

     どうしても耐えられなくなった時は、海神にある相磯凌霜の別宅に避難して執筆した。凌霜は文学関係ではなく商事会社勤務の後、鉄工所を経営した人である。荷風が慶應の教授を辞めた後、清元梅吉の稽古場に通っていた頃知り合った。凌霜は仕事に使えるかと清元を習っていたのである。古書のコレクターでもあって、そこからも荷風との付き合いは続いていた。
     五叟の娘(十五歳)が荷風の蔵書を売りとばした事件もあって、一年後にはバルザックやモーパッサンの翻訳者である小西茂也の家に間借りした。しかしここでも小西夫妻と衝突して、退去を通告される。部屋に七輪を置いて魚を焼き、読み終わった新聞雑誌を燃やして暖を取っていたのである。小西が驚いて火事になるといけないから止めて欲しいと頼むと、火災保険に入っているだろうと荷風は平然と答えた。こういう下宿人を置くわけにはいかない。
     結局二十三年(一九四八)十二月には菅野一一二四番地(現東菅野二丁目九番十一号)に瓦葺十八坪の古家を買って一人暮らしを始めることになる。更に昭和三十二年(一九五七)には市川市八幡町四丁目(現八幡三丁目)に転居して、三十四年(一九五九)四月二十日に満七十九歳で死ぬまで住んだ。そして半世紀後の平成二十四年(二〇一二)五月、荷風の財産を相続してその家に住み続けていた永光は、荷風と同じ七十九歳で亡くなった。

     「幸田露伴は第一回の文化勲章受章者なんですね。」掲示板を見ていたオクチャンが感心したような声を出す。露伴が受賞した昭和十二年(一九三七)には、長岡半太郎(物理学)・本多光太郎(金属物理学)・木村栄(地球物理学)・佐佐木信綱(和歌・和歌史)・岡田三郎助(洋画)・藤島武二(洋画)・竹内栖鳳(日本画)・横山大観(日本画)が受賞している。因みに荷風は昭和二十六年に受賞した。
     幸田露伴・文・玉子が市川に住んだのは露伴の最晩年のことだ。信州に疎開中、小石川の蝸牛庵は空襲で焼失した。戦争が終わり、病床にある露伴を伊東の旅館に預け、文は船橋市小栗原町に住んでいた塩谷賛(土橋利彦)の家に寄宿しながら家を探した。塩谷の知人の紹介で見つけたのは市川市菅野四丁目四番地の借家で、八畳、四畳半、二畳だけの小さな家だ。この時勢に、家族だけで暮らせる家があるだけでも有難い。昭和二十一年一月二十八日に移り住んだ。露伴七十九歳、糖尿病が悪化し外出はできなかった。既に目は殆ど見えなくなっていたが芭蕉七部集の評釈がまだ終わっていなかった。
     目の見えなくなった露伴を助け、『芭蕉七部集評釈』を完成させたのは、塩谷賛である。塩谷は甲鳥書林の編集者で、『芭蕉七部集評釈』は岩波から刊行されることになっているにも関わらず、協力したのである。資料は全て焼け参照するものもない中で、露伴の豊富過ぎる漢字語彙を口述筆記するのは並大抵ではない。『大字源』はあったので、露伴はその都度それを引くように命じた。
     死を目前にした父と娘との葛藤は厳しいが、玉を育てながらの文の行動はたくましい。岩波書店の小林勇の援助があったとは言え、並大抵ではない。翌二十二年七月三十日露伴没。文は十月には小石川の蝸牛庵跡に家を建てて移転する。文にとって、市川時代は最も辛い時期だっただろう。
     文と玉が小石川に移転した後、この家には塩谷が住んで第二次『露伴全集』の編集に従事した。全集刊行中の昭和三十五年に失明しながら、露伴の評伝を書き『幸田露伴』を中央公論社から出版した。読売文学賞受賞。

     井上ひさしの名は誰でも知っているので、掲示板の前で立ち止まる。「以前、ひょっこりひょうたん島のことを書いてましたよね。」姫は七年前の作文を思い出す。今でもあの人形劇は傑作だと信じているし、全て読んだ訳ではないが、読んだ限りでは井上ひさしの作品は良い。
     ひさしは昭和四十二年(一九六七)年十月から昭和五十年(一九七五)三月まで市川市国分町三丁目、四月から昭和六十二年(一九八七)三月まで北国分町一丁目三番二十に住んだ。
     上智大学を昭和三十五年に卒業し、翌年に内山(現西舘)好子と結婚した。牛込のすし屋の二階、小岩東映向かいの六畳間、辻堂のカツオブシ問屋の別荘の一部、赤坂氷川神社下四谷駅前新道横丁の畳屋の倉庫二階等を転々とし、建売ながらやっと一戸建ての家を持ったのである。昭和三十九年(一九六四)に始まった『ひょっこりひょうたん島』が圧倒的な人気を得て、生活も楽になった。

     父と母が最初に持った家は千葉県・市川市の下総国分寺裏の建売住宅だった。小さな道の両脇に同じような造りの家が全部で十軒、長屋のように並んで建つうちの一軒で隣りには母の姉である伯母家族が住んでいた。おそらく伯母を慕う母が、伯母夫婦に倣ってそこを当時の父と母からしたら少々背伸びをして買う気になったのだろうと思う。(井上都『パズル』)

     しかし、ひさしが人気作家となって多忙を極めると、作品の仕上がりはどんどん遅れていく。特に新作を上演するこまつ座の運営は困難を極めた。遅筆堂と冗談めかした裏には、暗く凄惨な現実があった。ネット上には様々な噂が溢れていて、全てを信用することはできないが、少なくとも現こまつ座代表で、晩年に父と和解した三女が公表した文章は引用して良いだろう。

     父は肉体的にも精神的にも追い詰められて、母に当たるしかなくなる。そんな時、編集者は「好子さん、あと二、三発殴られてください」とお願いした。(石川麻矢『激突家族』)

     妻を殴らなければ書けない。作品完成のためとは言いながら「あと二、三発」とは無茶である。そんな生易しいものではなかった。離婚した西舘好子の『修羅の棲む家』には誇張があるとしても、「肋骨と左の鎖骨にひびが入り、鼓膜は破れ、全身打撲。顔はぶよぶよのゴムまりのよう。耳と鼻から血が吹き出」る程だった。既に人格が崩壊していたと思わざるを得ない。人格と作品の出来には全く関係がない。ここに文学の恐ろしい秘密がある。
     マネージャーとして支えていた好子は不倫して離婚に至った。離婚後ひさしが引き取った娘たちの教育は放置され、家庭は崩壊した。ひさしは再婚し市川の家を出る。母に対する父親の暴力を日常的に見続けたことは、三人の娘の心にも大きな傷を与えた。ひさしに絶縁を言い渡された長女の井上都はなぜ父に嫌われたのかと自問する。

     父の遺した手帳には「人間のクズ」と書いてあった。私のことだ。
     肺癌が食道にまで浸潤したための痛みで座っていれば両脇腹が、横になれば背中が苦しく、眠れない夜を耐え忍んでいた最晩年の父親が「人間のクズ」と書かずにはいられない娘とはいったいどんな酷いことをした娘なのだろうかと他人は思うに違いない。他人の立場だったら私もそう思うだろう。いったい何があったの?何をすれば父親は娘を「人間のクズ」と書き残したりするものなのだろうかと知りたくなるだろう。そう、私自身が知りたいのだ。父の手帳に「人間のクズ」という文字をみつけたときから知りたくてたまらないのだ。
     私はいったい何をしたのだろうか。(井上都『パズル』)

     都は両親の離婚の時からこまつ座代表として、公演初日に間に合わない父の原稿のおかげで苦労してきた。私生活の乱れについては都自身も反省している。ひさしは弁護士を通じて絶縁を言い渡す時、「金や男のことは是非を問わない。自分の作品を殺そうとしたことだけは許さない」と通告してきた。
     しかし初日前日に原稿が出来ても満足な稽古ができる筈がない。客から金を戴いて見てもらう以上、状況によっては代表としての判断で初日を延期し、あるいは中止することもある。それがひさしの怒りを買った。
     次女も理由も分らず絶縁状態となって、病室への見舞も、葬儀への出席を許されず、三女の麻矢だけが、後妻とともに葬儀にでた。次女の消息は不明だ

     阪井久良伎(最初は久良岐)の名は川柳界の人でなければ親しくないだろう。誰も知らないようで、掲示板に関心も示さない。もしかしたら宗匠だけは知っていたかも知れないが、紹介しておこう。

     五月鯉四海を呑まんず志  久良伎

     阪井久良伎は昭和六年(一九三一)から二十年(一九四五)まで市川真間に住んだ。川柳を作る宗匠は別だが、殆どの人にとっては馴染みのない名前ではないか。私は田辺聖子『川柳でんでん太鼓』(これは実に名著です)で知った。

     いったい川柳は、江戸の宝暦ごろから(一七五〇年代はじめ)寛政にいたる三十数年間の秀句をあつめた『柳多留』が「本格川柳」とも「伝統川柳」ともいわれて、尊ばれている。初代の柄井川柳が選句した二十四篇である。(初篇から二十二篇までは呉陵軒可有が編集している。)
     この二十四篇の川柳がやっぱり、いちばん面白いし、句品もある。川柳は文学であるから、句格、句柄がたかくなくてはいけない。川柳の本質は、滑稽、かるみ、うがち、とはよいくいわれることだけれど、人や世間を見るその心の底に、愛と言うか、批判性というか、人生への見識がなくてはかなわない。
     ところが、二十四篇以後は(『柳多留』はみんなで百六十七篇ある)次第に低俗に堕ち、よみぶりに品がなくなってしまった。
     そうして明治にいたるまで狂句にすぎないものになってしまう。あるいは雑排とよばれたりする。(中略)
     そういう世界に革新の火の手をあげたのが、井上剣花坊と阪井久良伎、これが.明治三十六年ごろのこと。旧態依然として次元の低い雑排狂句を排して、「川柳は初代川柳の撰した柳多留の時代に帰るべきだ」と説く。特に久良伎などは、川柳はほんらい江戸のもので、だから東京をはなれて川柳はない、と思っていたようだ。(田辺聖子『川柳でんでん太鼓』)

     久良岐、剣花坊の後に続いたのが、川上三太郎、村田周魚、前田雀郎、岸本水府、麻生路郎、椙元紋太で、これを川柳六大家と呼ぶ。そもそもわが宗匠は川柳から出発した人なのに、これまで川柳を話題にしたことはなかったので、ついでだから少し紹介しておきたい。川柳と言えばサラリーマン川柳や新聞に載る時事川柳しか思い浮かべない人も多いだろう。
     剣花坊と夫人信子も含めてそれぞれ一句づつ、そして井上信子が庇護した鶴彬と、性愛を大胆に激しく謳った時実新子を少し。
     鶴彬は特高につかまり拷問を受けた後、中野区野方警察署に拘留中、突然赤痢となって死んだ。逮捕されたのが昭和十二年(一九三七)十二月、赤痢で死んだのが翌年の二月では余りに不自然で、赤痢菌を注射されたのではないかとの疑いがある。二十九歳だった。

     絶頂で天下は見えぬ霧の海      剣花坊
     国境を知らぬ草の実こぼれ合い    信子
     河童起ちあがると青い雫する     三太郎
     蛇穴を出づるに似たるわが思い    周魚
     音もなく花火のあがる他所の町    雀郎
     道頓堀の雨に別れて以来なり     水府
     お父さんはネ覚束なくも生きている  路郎
     人を恨まずと日記に書き孤独     紋太
     ざん壕で読む妹を売る手紙      彬
     みな肺で死ぬる女工の募集札     同
     手と足をもいだ丸太にしてかへし   同
     五月闇生みたい人の子を生まず    新子
     ふたたびの男女となりぬ春の泥    同
     愛咬やはるかはるかにさくら散る   同

     川を離れると、やがて住所表示は菅野に変わり住宅地に入ってきた。「この辺りは黒松が多いんだ。」後で聞いたハッツァンの記憶では、終戦後までは砂地に畑ばかりの土地で、防風林(防砂林)として古くから黒松が植えられていた。塀越しに立派な瓦屋根も見える。「おっ、レモンだ。」かなり大きな実の生ったレモンの木があった。
     そしていきなり外環道の建築現場に出た。こんな住宅地の真ん中に高速を通そうというのである。かなりの反対運動があって工事着工にも時間がかかったようだが、今年の末には開通するらしい。
     そこを過ぎても狭い道に豪邸が多い。黒松を生かして、大正時代から別荘や邸宅が建てられた。「アッ、見越しの松か。」「黒塀ですね。」誰かが「粋な黒塀見越しの松に・・・」と『お富さん』(山崎正作詞・渡久地政信作曲)を歌いだす。
     路地を抜けても、塀の上に聳えるのはやはり黒松だ。ロウバイがまだ咲いている。塀際から淡いピンクのアシビも見える。植物学ではアセビと言うようだが、秋桜子の雑誌『馬酔木』はアシビと読む。「この頃はピンクが多くなりましたね。」「以前は白ばっかりだと思ったけど。」「園芸種でしょう。」
     国府台女子学院の前を過ぎる。市川市菅野三丁目二十四番一。校舎の間の道を抜けるか迷ったらしいが、その先でキャンパスの塀に沿って再び住宅地に入る。学園の理事長と同じ苗字の表札を掲げた邸宅もある。「浄土真宗だよ。龍谷と同系列だ。」そうすると本願寺派だが、スナフキンはやはり詳しい。
     文学の道から二十分程歩いたろうか。漸く白幡天神社に着いた。市川市菅野一丁目十五番二。天神社というだけあって梅が多い。白、ピンク、濃い紅。枝垂れ梅も咲いていて、実に華麗だ。治承四年(一一八〇)、石橋山で敗れた源頼朝が安房で再起して下総に進軍した際、ここで休憩し白旗を揚げたことから白幡宮と名付けられたと伝えられる。東側の入り口付近に荷風の碑があった。真ん中に「永井荷風」、右にこんな歌が書いてある。字は余り上手いとは思えない。

     松しげる生垣つづき花かをる菅野はげにも美しき里

     上手い歌とは思えないが、昭和二十一年四月二十四日の日記にある。左には、五月十日の断腸亭日乗の一節を記す。

    白幡天神祠畔の休茶屋にて牛乳を飲む。帰途り緑陰の石垣道を歩みつゝユーゴーの詩集を読む。砂道平にして人来らす、唯鳥語の欣々たるを聞くのみ。
     

     「露伴はどこですか?」マスクを着けたリュック姿の老人の不明瞭な言葉を察すると、こう言っているようだ。露伴の旧居を訊いているのなら私は知らない。「そこで荷風を見てるだろう?」そうか、彼が捜しているのは露伴の碑であった。
     「こっちにあったよ。」宗匠の言葉でそっちに向かう。ミツマタの花が開き始めている。大きな自然石の真ん中に「幸田露伴文学之碑」だけが書かれている碑だ。露伴に相応しいか。「裏には何が?」ロダンが覗き込んで、「碑を建てた由来だけです」と答えた。二つの碑は平成二十二年(二〇一〇)に建てられた。「案外新しいですね。」「石は古いけど。」
     露伴は外出できなかったからこの神社に縁はなかったが、介護に疲れた時、文は時折ここで休んだ。そして露伴の葬儀はここで執り行われた。「荷風さんは露伴のお葬式の時に見物に行ったんでしたか?」「弔問に行ったんだけど、礼服がないから門前で佇んできたっていうね。」

    八月初二、晴。午後二時露伴先生告別式。小西小滝の二氏と共に行く。但し余は礼服なきを以て式場に入らず門外に佇立してあたりの光景を見るのみ。・・・・

     狷介な荷風が「先生」と呼ぶのは成島柳北、森鴎外、幸田露伴くらいではないか。しかし、この時代に礼服を持たないのを恥じることはない。何か別の理由があったと想像させる。
     ちょっと歩いて商店街に入れば、街灯の柱には「荷風の散歩道・商美会ロード」の旗が吊り下げられている。荷風の似顔絵入りだ。「あれ、何でしょう。」市川市立八幡小学校の校庭には、古い石の門柱が残されている。左の門標は「八幡町立尋常高等小学校」、右は「八幡国民学校」である。
     京成八幡駅に出ると線路際に大黒家があり、「ここだよ」とスナフキンが指し示す。市川市八幡三丁目二十六番五。昭和三十四年(一六五九)二月頃まで、荷風は浅草のアリゾナで昼食をとるのが習慣だったが、三月一日、浅草で突然「病魔歩行殆困難」となり、一週間程は外出できなかった。日乗には三月七日から「正午大黒屋」の記事が並んでくる。荷風は「屋」と書いているが、実際は「家」である。
     当時は知らないが、寿司、天麩羅、鰻などを出す大衆割烹で、今では「荷風セット」と称してカツ丼に上新香(これは普通の漬物と違うのだろうか)と菊正宗一合をつけたものを千五百円で出している。「なんだか辛そうな色ね。」ウィンドウのカツ丼を見てハイジが笑う。
     死の前日にもこの店で銚子一本をつけ、カツ丼を食べていた。翌四月三十日には胃潰瘍からの大量吐血で死ぬのだから、そもそもカツ丼なんか食べてはいけない。「アリゾナとか、荷風は肉が好きでしたね。」
     線路沿いを歩いて左に曲がれば葛飾八幡宮だ。市川市八幡四丁目二番一。長い参道には、三十三周年式年大祭の紺の幟がずっと奥まで並んでいる。寛平年間(八八九~八九八)に石清水八幡を勧請して建立されたと伝える。下総国総鎮守である。
     銅葺きの屋根に朱塗りの随神門が立派だ。幅十メートル、横四・五メートルあるもので、元は上野・寛永寺の末寺である八幡山法漸寺の仁王門だった。明治の神仏分離で仁王像は行徳の徳願寺に移され、その跡に左右大臣を置いたのである。徳願寺には宮本武蔵供養の地蔵があったのを覚えているだろうか。更に中門もある。
     参道の左側に大きな石碑が建っているので気になって見に行った。「大衆の心を歌う 岡晴夫君 社団法人日本歌手協会 藤山一郎」である。「オカッパルだったよ。」「オカッパルって、ハーレターソラーソーヨグカゼーかい?」「そうだよ。」勿論『憧れのハワイ航路』(石本美由起作詞・江口夜詩作曲)であるが、私は『東京の花売り娘』(佐々詩生作詞・上原げんと作曲)が好きだ。因みにちあきなおみが『逢いたかったぜ』(石本美由起作詞・上原げんと作曲)を歌っていて、切なくて絶品です。

     冬木立むかしむかしの音すなり   一茶

     境内にトイレはないが、さっき鳥居の前にあったのは確認している。小町に教えて私もついでに用を足す。戻ると、皆は公民館の前でたむろしている。唐破風の向背が風呂屋の入り口のようだと言っていた建物で、ここにもトイレがあったらしい。小町に悪いことをした。ここでおやつが配られる。シノッチは必ず煎餅を持ってきてくれる。

     それでは出発だ。道の向かいの竹藪が「八幡不知の藪」である。一度入れば二度と出られないという伝説がある。道路は渡らず眺めるだけだが、竹藪の前に小さな鳥居だけがあるようだ。

     ・・・方二十歩に過ぎず。往古、八幡宮鎮座の地なりといひ伝ふ。すなはち森の中に石の小祠あり、里老いふ、人謬ちてこのうちに入るときは必ず神の祟りありとてこれを禁む。ゆゑに垣を繞してあり。(中略)(またある人いふ、この森の回帯はことごとく八幡の地にして、森の地ばかりは行徳の持分なりと。このゆゑに八幡村のうちに入り会ふといへども、他の村の地なるゆゑに、八幡の八幡知らずとは字せしと。さもあらんか。)(『江戸名所図会』)

     そしてまた住宅地に入り込む。この辺りの住宅地は本当にややこしい。「ちゃんと行けるかな。前の時も迷ったんだよ。」
     スナフキンの手はスマホを握りしめたままになっているが、今回は案内を見つけることができた。「六百メート先を左折だってさ。」「六百メートルって、どこで分るんだ?」塀から顔を出すコブシの蕾が嬉しい。暫く行けばちゃんと案内が置かれている。「ここを曲がるんだ。」
     水木洋子邸である。市川市八幡五丁目十七番三。「毎月第四土曜日と翌日しか開いてないんだ。」水木洋子が昭和二十二年から住んだ家である。今日はイベントが開かれているが、中に入って良いと言う。中の和室ではご婦人たちが大勢座り込んで、端切れで雛を作っているようだ。
     台所には水木洋子が最後にめくったカレンダーがそのまま掛けられている。「あの時のままなんです。」書斎は和室で、掘りごたつの上のテーブルで原稿を書いていた。このスタイルは、畳に資料を広げられるのでとても良い。床の間にはベッドが据え置かれている。書架の本は意外に少ない。庭に面した縁は一段下がった土間になっていて、隅に美術全集の棚が置かれていた。
     私は実は脚本家水木洋子のことを殆ど知らなかった。『ひめゆりの塔』(今井正監督)、『浮雲』(成瀬巳喜男監督)、『おとうと』(市川崑監督)、『キクとイサム』(今井正監督)など名作が多いのも今日初めて知った。日本映画黄金期を代表する脚本家である。テレビではNHK大河ドラマ『竜馬がゆく』も水木の脚本だ。
     映画のポスターが数枚貼られている。「『また逢う日まで』(今井正監督)って言ったら、尾崎紀世彦かって訊かれちゃったよ。マッタク。」と小町ががっかりしたように言う。「誰が?」「ヤマチャンだよ。私はリアルタイムで見てるよ。」『浮雲』は高峰秀子、『山の音』は原節子だ。
     係員にお礼を言って門を出る。「久我美子の相手は誰でしたっけ?平田なんとか?」映画は得意な筈の姫が訊くが、姫のホームグランドは洋画だったか。ガラス越しのキスシーンの相手は岡田ではなかったかしら。私も度忘れして名前が出てこない。「岡田って茉莉子さんのお父さんですか?」違ったと思う。「調べてみるよ。」スナフキンのスマホで、やっと岡田英次と分る。「そうでした、平田はご主人の方でした。」それを知っているだけでもスゴイ。岡田茉莉子の父は岡田時彦、久我美子の夫は平田昭彦である。
     「久我はコガって読むんです。」「エッ、そうなんですか。」姫の言葉にロダンが驚くが、村上源氏の流れを汲む侯爵の久我氏は確かにコガと読む。映画界に入って誰もそんな風に読めないから、クガヨシコと名乗った。「美人でしたよね。」
     「俺は高峰秀子と三枝子の違いがはっきりしないんだ」とヤマチャンが言う。「全然違うじゃないですか。」どちらが美人かと言われれば三枝子の方だろう。「山のさびしい湖に・・・・」とヤマチャンが口ずさむと、意外なことにオクチャンも続けて歌いだす。その湖が榛名湖であることは、ヤマチャンに言われるまで忘れていた。

     街道に出ると住所表示が市川市北方になった。「これでボッケって読むんだよ。」「そうなんだよ。」スナフキンも知っていた。私は五木寛之の回想で知ったのである。五木寛之は学生時代の昭和三十年頃から二年間、中山競馬場近くのアパートに住んでいた。競馬場に通うためである。大学に行かないから友人とも殆んど会わず、競馬のない日は図書館や映画館に通い、たまに京成電車に乗ると永井荷風を見かけたりした。そう言えば幸田文も競馬が好きだった。
     街道から逸れてかなりの急坂を上る。小町は大丈夫だろうか。遅れて宗匠とヤマチャンが登って来たが、小町の姿はまだ見えない。その先の左に曲がる角で小町を待つ。かなり遅れて息を切らした小町は疲労困憊している。「もうすぐだよ。」「ガンバルよ。」
     東山魁夷記念館だ。市川市中山一丁目十六番二。目の前はバス通りになっていて、停留所があった。一時間に二本しかないが、中山まで行ける。「バスに乗ろうかな?」小町が気弱なことを言い始めた。「それじゃ三時三十分、いや四十分まで見学してください。」今は三時十五分だ。「私は外で待ってるよ。」スナフキンも下見で見ているから小町と一緒に外で待つ。

    東山魁夷は、戦後まもない一九四五(昭和二十)年から一九九九(平成十一)年に逝去するまでの、およそ半世紀にわたり市川市に住み、「私の戦後の代表作は、すべて市川の水で描かれています。」との自身の言葉のとおり、市川市で重ねられたその輝かしい画業は市川市の誇りです。
    つねに自分をみつめ、修行僧のようなその生き方は、描いた静謐な絵の中に投影されています。http://www.city.ichikawa.lg.jp/higashiyama/020.html

     洋風の建物はドイツに想を得たという。入館料は一般五百十円、シルバーは四百円だ。四百円を出すと「昭和何年生まれですか」と訊かれる。「昭和二十六年。」これがテストだった。「おかしいな、私は訊かれなかったんですよ。」「俺の方がロダンより若く見られたんじゃないかな。」「それはない、ない」と宗匠が笑う。ヤマチャンは咄嗟に昭和二十六年と答えたと自慢する。生徒にヤマピーと慕われる教師が虚偽を申告して良いのか。
     「全然違うんだけど、どこか平山郁夫さんのことも思い出させるわね。」ハイジは絵にも詳しいが、私は平山郁夫と言えばシルクロードかと思うばかりだ。「唐招提寺の襖絵を描きませんでしたか?一度見た記憶があるのよ。」シノッチはあちこちに行っているのだ。生憎私は東山魁夷についても詳しくない。絵画の素養がまるでないのだ。それでも中に入ると、いくつかの絵には記憶があった。白い馬の絵をはじめ本の箱で見たものが多い。単純で装飾的な絵ながら、なんとなくシンシンとした気分になって外に出た。
     小町と一緒にベンチに座っていると、「四時までに入らなくちゃダメだよね」と見知らぬおばちゃんが声をかけてきた。「あら、違ったわ。」スタンプラリーをしているところだと言う。この順番だと回り切れないから自分でコースを組み立てている。「完歩したら何をくれるかしら」と笑いながら去って行った。
     シノッチが出てきて、「暑い暑い」と顔を煽ぐ。暖房が利き過ぎていたのだ。小町はバスに乗ろうかと言う。「大丈夫よ、あなた若いんだから。」私はシノッチと小町の年齢を知らないが、少なくとも私より年上であることは確かだ。
     法華経寺は近かった。墓地の脇から入る。池にはカメがいっぱい浮かんでいる。殆ど動かないと死んでいるのではないかと思ってしまう。「ミドリガメじゃないか?」「縁日で買ったやつを放してるんだろう。」中山法華経寺の名前は知っていたが、初めて見ると実に豪壮な寺である。市川市中山二丁目十番一。

     日蓮宗大本山正中山法華経寺は、鎌倉時代の高僧日蓮大聖人が最初に教えを説き、開いた零跡寺院です。
     中山の地は日蓮聖人の法難の際の安らぎの地であり、説法の地でもあります。日蓮聖人御真刻の鬼子母神が安置されている鬼子母神堂は、江戸三大鬼子母神にも数えられ、信仰厚く、子育安産、病気平癒の祈祷、社運隆盛のための参詣の人も多く訪れます。
     日蓮宗の祈祷根本道場で十一月一日から二月十日まで寒百日大荒行(世界三大荒行の一つと言われている)が行われることでも知られている。
     中山三法類(親師法縁、達師法縁、堺法縁)の縁頭寺である。国宝である日蓮聖人の御真筆(立正安国論、観心本尊抄)や五重塔、法華堂等国指定重要文化財の建造物や、市指定文化財の本阿弥光悦筆の扁額など、境内には多くの文化財があります。また、境内には千葉県で一番大きな「中山大仏」もあります。

     祖師堂は破風を二つ並べた形で、比翼入母屋造と呼ぶ。「これが珍しいんだよ。」この様式は、国内では吉備津神社本殿だけだと言う。五重塔も立派だ。カンヒザクラの濃い赤い花が、やや萎んだように垂れている。
     「今は三時四十五分だから、四時五分まで自由に見学してください。そのあと、奥之院に行きます。」本院は靴を脱がないと入れないので、玄関先から眺めるだけにするが、雛飾りがいくつも置かれている。男雛が全て向って左に位置しているのには賛成できない。宗匠は孫娘のための参考にと、中に入っていった。

     法華経寺外から眺む雛の壇   蜻蛉

     スナフキンに教えられて宝殿門を潜り抜け、聖教殿にも行ってみる。柱に動物をあしらった風といい、雰囲気が伊藤忠太に似ていると思ったのも道理で、伊藤忠太の設計であった。
     約束の時間に戻ると、スナフキンと小町が憮然とした表情で立っている。姫やシノッチ、オクチャン夫妻は先に奥之院に行ったそうだ。「俺、そんなに難しいこと言ってないぞ。」小町はまだここで休むというので、残りで奥之院に向かう。今は一般の道路になっているが、かつては境内の敷地内だったのではないか。五六分程で着いた。真っ赤な梅が美しい。
     宗祖最初転法輪旧蹟。鎌倉の庵を焼かれてこの地にあった富木常忍の館に逃れてき日蓮が、若宮八幡の境内で百座説法をしたのである。本殿は何となく中国風の色彩だ。
     法華経寺に戻ると、残った人は参道の店の前で甘酒を飲んでいた。マリオは足の肉離れで苦しんだと言うが今日は大丈夫だったろうか。「大丈夫、大丈夫。」オクチャンは明日の朝早く、草津から大津に向かうので、飲めないと言う。東海道を歩いているのだろう。オカチャンも予定があるらしい。
     豪壮な黒門を潜る。やや行けば今度は赤門で、すぐに京成中山駅の踏切だ。飲まない人はJR下総中山駅に向かって行った。みんなの方向を考えると京成線で日暮里まで行けばいいのではないかと思うが、小町はJRの安価なチケットを買ってきたのだ。
     ここまで二万三千歩、十三キロ程度になったか。腰が少し重い。「もう歩く気しないだろう?」各駅停車で京成八幡駅まで戻ることにする。見所満載の市川であった。

     折角市川に来たのだから、余り知られていない文人についても紹介しておきたい。一人は、落語好きなロダンも知らなかった正岡容(いるる)である。ここまで何度か名前を挙げた。
     正岡容・花園歌子の夫婦は西ヶ原の自宅が空襲で焼けたため、阪井久良伎の薦めで市川真間に転じ、昭和二十八年(一九五三)まで在住した。京華中学校在学中に短歌を吉井勇、戯曲を久保田万太郎、川柳を阪井久良伎に学んだから、文学環境としては申し分ない。
     十九歳で書いた『江戸再来記』が芥川に絶賛されたが、小説家としては大成しなかった。酒乱で女に溺れやすく、自殺未遂の経験もある。酒を飲まなければ猫のようにおとなしいが、酒を飲めば虎狼、感情の抑制が効かないから文壇では嫌われていたと、弟子の小沢昭一は言っている。
     小説では『円太郎馬車』、『円朝花火』、『小説円朝』を読んだ。江戸明治の芸の世界を舞台に人情を感傷的に描いた。寄席にまつわる随筆は『わが寄席青春録』を始めとして多く、寄席・芸能に関しては第一人者の地位を得た。安藤鶴夫とはライバル関係にあり、互いに悪口を言い合った。アンツルが古典落語一辺倒だったのに対し、正岡は講談・浪曲にも詳しく、二代目玉川勝太郎の浪曲『天保水滸伝』の台本も書いた。自身で落語、浪曲の高座にも上がった。
     小沢昭一は「正岡さんは久保田さん(万太郎)のこと好きなんだけど、正岡さんは浪花節をやるでしょ。久保田さんは浪花節嫌いだから、ちょっと顰蹙してるところがあった」と言い、加藤武は「安鶴は一所懸命久保万をヨイショもしてたしね。正岡さんはそういうことをしない、いえば潔癖な人だったとオレは思うんだ」と語っている。
     門弟に三代目桂米朝、小沢昭一、大西信行、加藤武、永井啓夫、鶯春亭梅橋、都筑道夫(梅橋の弟)、小島貞二等がいるが、特筆すべきは米朝であろう。米朝は大東文化学院在学中に、大塚で偶然「花園歌子・正岡容」と書かれた表札を見かけて家を訪ね、門下生の一番となった。それまでに『円太郎馬車』をきっかけに、著書を貪り読んでいたのである。
     応召して戻り、戦後は神戸で会社員をしながら素人落語に熱中していたが、滅亡の危機に瀕している上方落語の復興は貴公の使命だとの正岡の命令で、四代目桂米団治の門に入った。「そのエピソードは聞いたことがあるようです」とロダンが思い出した。正岡がいなければ名人米朝は生まれなかったのである。
     小沢昭一、大西信行、加藤武、永井啓夫は旧制麻布中学の同級生で、中学生時代に各所の寄席に出入りしているうち正岡と知り合い、門下に入った。戦後は早稲田で日本初の大学落語研究会を立ち上げた。米朝は、戦後各大学にできた落語研究会の殆どは正岡の影響を受けていると断言する。
     後年、安藤鶴夫が『巷談本牧亭』で直木賞をとった時、正岡は五年前に死んでいたが、小沢昭一たち門下生は、先生が生きていれば酒を飲んで荒れて大変だったろうと語り合った。正岡門下はアンツルを嫌っていた。
     荷風がしばしば正岡の家を訪ねたことがあり、荷風に傾倒していた正岡は光栄の至りと喜んだが、実は花園歌子の顔を見るのが目的だったらしい。花園歌子も実に独特な人生を歩んだ女性であり、私は山口昌男『敗者の精神史』で初めて知った。
     歌子は芸者時代に『芸妓通』を出した。これを国会図書館デジタルコレクションで読むことができる。こういう電子化なら私は大歓迎だが、ただ読み難い。献辞は「藝妓神聖論者 警視總監丸山鶴吉閣下に此書を献ず」である。

     徳川時代には巾着切りに赤い帽子を被らせて良民と区別したさうだが、今日の社会では芸者に左褄を取らせて人間並みの『女』と区別する。私達の目から見れば今日の女性は、それが上流階級に属すれば属するほど、男性の奴隷であり玩弄物である意味に於て、一人の例外もなくみな完全な醜業婦たる資格を持つものと思はれるのだが、彼女等は昔から極めて神経質に、私達と同視されることを避けて、私達のために別誂への『醜業婦』と称する一枚看板を用意し、一歩でも其処からぬけだして人まじりしようとする者があれば、彼女等は忽ち義憤を発して、非常な勢ひでこれを排斥する。その火元がいつも極って芸者を商売敵とする婦人矯風会あたりの『細君業者』なのは、少なからず義憤の価値を減殺するが、また聊か御同情申し上げるカドが無いでもない。

     一説には当時の夫・黒瀬春吉が書いたものとも言う。黒瀬は辻潤の親友のアナキストで、怪人ともいうべき人物であった。女優派出の名目で「パンタライ」(辻潤命名)という組織を作っていた。ギリシア語の万物流転と言う意味で、歌子はその花形である。
     パンタライはコンパニオン業のハシリであり、内実はお座敷ストリップのようなものであったから、歌子のダンスもそのようなる。ものになっていただろう。荷風は、歌子は酒席で全裸になってサロメを踊る女だと書いている。晩年は日本舞踊花園流を創始して初代家元となった。
     一方では、女性文化資料を中心とした古書収集家でもあった。明治文化研究会に出入りし、吉野作造が探しきれない資料を探しては持参した。一方的に吉野作造を慕っていたと言われる。明治文化研究会は吉野作造、石井研堂、尾佐竹猛、小野秀雄、宮武外骨、藤井甚太郎等によって始められたものである。成果として『明治文化全集』が刊行された。

     もう一人は和田芳恵だ。柏原芳恵は女だが、前田愛(幕末明治の文学、成島柳北の研究者)が男であると同じく、和田芳恵も男である。姫が以前、「前田愛をネットで検索すると女優しか出てこない」と嘆いていたが、幸い和田芳恵と同名の女優はいないから、すぐに本人が出てくる。古河市文学館で展示を見て覚えている人もいるだろう。
     和田は樋口一葉の研究家として不滅の業績を上げた。一葉の日記は小説修行の一環であり、全てを事実ととるのは間違いであると言う。
     市川市八幡町には昭和十年(一九三五)から昭和二十四年(一九四九)まで住んだ。若い頃には正岡容と同人誌を作っていたこともある。昭和二十二年に日本小説社を起こして雑誌『日本小説』を刊行し、「中間小説」の呼称を創始した。しかし雑誌は売れず生涯払いきれないほど多額の負債を背負って倒産し、二十四年から三年間失踪した。
     芥川賞候補二回、直木賞候補一回、読売文学賞候補一回は全て落選していた。読売文学賞の候補になった時は、夫婦二人一か月二万円で暮らしており、賞金の二十万円が咽喉から手が出るほど欲しかった。
     赤貧の中で昭和三十一年に『一葉の日記』を刊行、翌年に日本芸術院賞を受賞して漸く一息ついた。この時は幸田文『流れる』が同時受賞している。但しその後は学術的な著述を求められ、売れる筈がないので生活は大変だった。やがて小説に専念して、『塵の中』で昭和三十九年の第五十回直木賞を受賞した。この時の同時受賞が安藤鶴夫『巷談本牧亭』だった。
     私は『暗い流れ』しか読んでいない。幼時からの性の遍歴を描いた私小説で、ポルノかと思う程である。晩年は土浦短大で日本文学を講じた。女学生たちは先生の小説を読んで顔を赤らめなかっただろうか。

     さて、京成八幡駅に着いた。「もう着いちゃったの?二駅じゃなかったのかしら。」さっき鬼越も過ぎている。四時四十五分だ。
     大黒家の前ではハッツァンとトシチャンが迎えてくれた(勝手に呼び名を作ってしまった)。彼らが前もって頼んでくれていたので、座敷に人数分のテーブルが設えてある。こちらの会からは、スナフキン、姫、マリー、マリオ、ヤマチャン、宗匠、ロダン、蜻蛉。合わせて十人である。
     ハッツァンは、スナフキンの下見に付き合ってくれた縁で、本番の時は一緒に飲もうと約束していたのである。私にとっても古い知り合いで、今年の一月に会ったのが何年振りだったろう。「親の家は小岩だったんだよ、それが空襲で焼けた。」「まだ生まれてないでしょう?」「そうだよ。」そして一家を挙げて市川に移住してきたから、市川在住七十年になると自慢する。
     トシチャンは、スナフキンと蜻蛉の部下でしたと自己紹介したが、私は彼の上司になったことはない。青梅の出身で二十年来市川に住んでいる。「青梅と言ってもボクの方は山一つ越えれば飯能だから。」親戚に青梅の酒蔵があるらしい。「法華経寺の節分の豆撒きをやったんですよ。裃つけて。」それはスゴイ。「上から播くと気分がいい。大衆に施す感じですかね。」
     荷風が来店した頃を知っているというから相当な年になる女将が、トレイに三つづつビールを載せて運んできてテーブルに置く。宗匠とロダンがそれを回す。「すみませんね、お客さんの手を煩わせて。」「荷風さんはどこに座っていたんですか?」「あそこの椅子席です。今はお客さんが座ってますけど。」「他人が座っていると嫌がるんだよな。」「我儘だからね。」
     お新香を頼むと、それはない、何とかならあると言う。「何とか」は分らなかったが、白菜漬けがあったのでそれを注文する。あんみつ姫は漬物がないと生きていけない。出てきた漬物は古漬けではないし、これはお新香と呼ぶものではないのだろうか。スナフキンはトシチャンと相談しながら刺身の盛り合わせを注文した。珍しいことである。
     この店では日本酒かと思ったが、焼酎は黒霧島があった。トシチャンは一番年下だと覚悟したようで、焼酎のお湯割りを一所懸命作ってくれる。普段は部下に任せているだろう。「いつもは私が最年少なんですよ」とロダンが恐縮するが、私は全然恐縮しない。
     ハッツァンは息子に勧められてスマホを持ったばかりだ。「それじゃラインに登録してよ」とスナフキンが言うが、設定ができない。結局そのスマホをマリーが借りて設定した。黒霧島が三本空いてお開きである。

     春宵や荷風末期の店灯り    蜻蛉

     「機会があったらカラオケをご一緒しましょう」とハッツァンが姫に言う。「今日行きましょう。」話が早い。トシチャンも付き合って、ロダン、スナフキン、私とで五人になった。初対面同士とは思えない。よく歌う。ロダンは途中で寝込んでしまった。
     「この会はいいな、一緒に参加しようよ。」ハッツァンの声にトシチャンは笑うだけだ。「入会手続きはどうすれば良い?」「そんなものないよ。」ただ来れば良いのである。たまたま来年度計画表を持参していたので、それを渡す。二時間でお開き。

     二月十三日、鈴木清順没、九十三歳。『けんかえれじい』、『東京流れ者』が懐かしい。唐突な場面展開でも有名だが、『けんかえれじい』の最後に、原作にない北一輝を登場させたのは如何だったか。
     三月一日、ムッシュかまやつ没、七十八歳。『我が良き友よ』は時代錯誤だが、『どうにかなるさ』が好きだった。本来カントリーの人で、ザ・スパイダーズ時代には少し違和感があった。ソロ活動に移ってから存在感が増した。

    蜻蛉