飯能・吾妻峡・多峯主山   平成二十一年三月二十八日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.4.7

 和尚と私は、的場駅八時五十六分発の川越線に乗ったのだが、余り上手いコース設定ではなかったようだ。高麗川駅で十五分以上も待ち合わせがあり、東飯能駅で西武線に乗り換えたものの、ここでもまた十八分も待ってしまった。これなら本川越から西武線を利用した方が便利だったんじゃないか。風が冷たく、和尚は東飯能でヤッケを着こんでいる。飯能駅に到着したのは九時五十二分だから、電車が走っている時間よりも待っていた時間の方が長い。
 「遅いから今日も欠席かと思っていた」と宗匠に笑われる。それに「えっ、東飯能から西武線に乗ったの。画伯は歩いてきたんですよ。若いくせに軟弱です」とダンディにも叱られる。「歩いて僅か五分の距離ですよ」知らなかった私たちが悪い。
 本日は隊長のもと、男性は画伯、和尚、宗匠、ハコさん(宗匠が命名した)、小澤、ロダン、長老、瀬沼、竹、ダンディ、ドクトル、私の十三人。女性は阿部、伊野、一柳、サッチー、佐藤、篠田、寺山、カズちゃん、イトはん、伯爵夫人の十人が集まった。
 地図を確認しながら隊長の指示を受け、南口から出発する。久下(クゲ)稲荷という小さな祠の前に立っているケヤキには、昔はアオバヅクが住みついていたのだと、小澤さんが教えてくれる。「夜になるとホーッ、ホーッて鳴いて」今日は小澤さんがいろいろ地元の話をしてくれることになるらしい。地図を確認すると、この辺りは稲荷町である。
 飯能中央病院の敷地にはキンモクセイが立っている。この季節には当然花は咲いていないから、樹木だけでは私にはまるで分からない。隊長の説明によれば、木肌に小さく菱形の切れ込みがたくさんあるのだ。狭い道だが車が頻繁に通る。天守閣のように屋根を何層にも重ねた家が見えてきた。石井さんの家である。もちろん私たちの知り合いではない。しかしすぐに町中を抜ければもう里山だ。
 「モクレンとコブシの違いがいまひとつ分からない」と宗匠が呟いていると、ちょうどハクモクレンの大きな木が立っていて、「花びらが六枚以上あるのがモクレンなの」と伊野さんが教えてくれる。これは宗匠に早速教えなければならない。宗匠を呼ぶと阿部さんもすぐそばにきて、モクレンの花は九枚であると無知な私たちに優しく教えてくれる。

家々の木蓮咲けり里の朝 《快歩》

 しかし、このハクモクレンの花はかなり茶色に変色して、そろそろ寿命が尽きかけているんじゃないか。

 モクレンも命枯れたる里の道  眞人

 割岩橋の手前にはログハウス風の「こども図書館」が建っている。「良い雰囲気ですよね」「こんな環境で本を読んでみたいですね」女性陣は喜んでいる。「こども図書館」を大人が利用するのは可能だろうか。こういう命名は、利用者を限定させてしまうのではないか。もっとも私自身は図書館を利用したことがないので関係ないのだが、詰まらないことを考えてしまう。
 「ここは、マンション計画の話が持ち上がっていた所なんです。地元が立ちあがってそれを撤回させました」と小澤さん。確かに、橋の下にはすぐに飯能河原が広がり、自然が充分に残っている場所だ。なにもこんなところにマンションを建てる必要はない。
 橋は鉄橋だが赤く塗られていて、眼下に見る川や周辺の樹木と不思議にうまく合っている。橋を渡ってすぐに見えるのは、鹿の角のように(阿部さんの表現だと隊長が言う)枝分かれなっているミズキだ。こういうことは教えてもらわなければほんとうに分からない。若い枝だと思うのだが、細い枝は真っ赤になっていて、先端も赤く膨らんでいる。この角のような形がこの木の特徴であるようだ。学名「コーナス」はラテン語で角の意味になる。日本語の「ミズキ」は、春先に枝を切ると水が滴り落ちることによると言うことである。
 「ハナミズキとどう違うの」宗匠も意外にミズキに関しては無知である。花の形が全然違います。ミズキの花は、細かな白い花が無数と思われるほど密集して咲く。この花については確か岳人が詳しい。そう言えば岳人はどこに行ったのか。山に行っているのだろうか。
 ミズキはミズキ科ミズキ属であり、ハナミズキはミズキ科ヤマボウシ属。その他にミズキ科に分類されるものに、アオキ属、ゴゼンタチバナ属、サンシュユ属、ハナイカダ属などがある。
 庭に、水を循環させて水車を回したりする構造物を置いた家がある。ちょうどその家の主人がいるので、隊長など数人は庭に入り込んで観察する。表札に「大河原町の土木部委員」の文字を発見したダンディが。「これも土木の技術ですね」と感心している。
 まだ完全に開ききっていないアケビの花は、黒い外側がボールのように丸まっていて、内部の赤が覗いている。完全に開けば三弁の花が咲くようだ。ヒトリシズカ。ムラサキケマン。「ケマンっていうのはどういう字を書くの」「難しい字」誰も知らないからダンディが早速辞書を引く。華鬘である。もともと花を糸で結んで連ねたアクセサリーのことだそうだ。
 また車の通る道に出る。通り過ぎてしまった空地に何かを見つけて、紀子さんと篠田さんが走って戻って行った。何があるのだろうか。「シュンランよ」「こんなにいっぱい」阿部さんも駆けつけて、みんなを呼び戻す。隊長も「これは気付かなかった」と驚いている。
 立ち上がった茎から十字架が少し丸まったようで、どこからが花で、葉なのか茎なのかよく分からない。とても珍しいものなのだろうか。それではウィキペディアを参照してみよう。

シュンラン (春蘭、学名:Cymbidium goeringii) は、単子葉植物ラン科シュンラン属の蘭で、土壌中に根を広げる地生蘭の代表的なものでもある。名称の由来は春蘭で、春に咲くことから。
日本各地によく見られる野生蘭の一種である。山草や東洋ランとして観賞用に栽培されることも多い。
葉は地表から出る根出葉で、細長く、薄いが固く、根元から立ち上がり、曲線を描いて下に向かう。細かい鋸歯があってざらつく。茎は球形に縮まった小型の偽球茎になり、匍匐茎はなくて新しい偽球茎は古い偽球茎の根元から出て株立ちになる。根は太くて長い。
花は春の早くに咲く。前年の偽球茎の根元から出て、葉の陰に茎をのばし、その先端に一つだけ咲く(まれに二つ咲く)。花茎は薄膜状の鱗片にゆるく包まれる。花は横を向いて咲き、外三弁と副弁二枚は楕円形、黄緑か緑でつやがある。外三弁は広がって三角計の頂点を作り、副弁はずい柱を囲うように互いに寄り合う。唇弁は基部はずい柱の下に受ける溝のようで、縦にひだがあり、その先は前に面を向けて広がり、先端は後ろに巻き込む。普通種の色は白ないしうす緑で、あちこちに赤い斑紋が入る。(ウィキペディア「シュンラン」)

 シュンランの傍にはオオイヌノフグリも散らばっている。黄色い花はダンコウバイ(壇香梅)である。「ちっとも梅のようじゃない」ダンディは不満そうだが、クスノキ科クロモジ属であるから、梅とは直接の縁戚関係がない。その場ではこれで完結したのだが、後で隊長から訂正が入った。実は阿部さんの鑑定ではこれはアブラチャンであったという。油瀝青と書く。ネットを検索すれば、クスノキ科クロモジ属である。それならダンコウバイとは実に近い種類なのだろう。ところがもう少し検索していると、シロモジ属であると主張するものがある。さらにアブラチャン属と言うものまであって、私は困ってしまう。
 今日は観察すべきものが多くて、足がなかなか前に進まない。道路に面して家の前に大きな磁器の水槽(昔あった火鉢の大きなようなもの)を据えて、そこに小さな魚をうじゃうじゃ泳がせているのはメダカである。メダカって現在絶滅危惧種じゃないか。「そうなのよ」阿部さんが頷く。黒っぽいのはクロメダカ、赤いのはヒメダカだと隊長の説明にある。それでは白いのは何か。「シロメダカ」宗匠は冗談を言ったつもりだったが、広辞苑ではちゃんと「シロメダカ」というものがあり、かえって「クロメダカ」がない。ウィキペディアを探してみるとこうなる。

メダカの体色は、野生型では焦げ茶色がかった灰色だが、突然変異型では体表の、黒色、黄色、白色、虹色の4種類の色素胞の有無あるいは反応性の違いによって様々な色調を示す。突然変異型には、
? ヒメダカ(緋目高) - 黒色素胞(メラノフォア)がないため体色がオレンジ色をしている。観賞用に流通している。
? シロメダカ(白目高) - 黒色素胞がなく黄色素胞(キサントフォア)が発達していないため、体は白い。
などがある。 これらと区別するため、野生型のメダカを通称クロメダカとも呼ぶ。(ウィキペディア「メダカ」)

 つまり普通はクロメダカなのであり、赤や白は突然変異型なのであった。この家の主人は卵から孵して育てていると言う。「成長したら放流するんですか」と宗匠が問いかけても、なぜか聞こえないふりをする。もしかしたら売るんだろうか。「ちゃんと列になっていないね」和尚の言葉には「先生がいないからだよ」「春休みだし」と答が返ってくる。

  今やはやメダカは泳ぐ水槽に  眞人

   畑には成長しすぎたフキノトウがたくさん生っている。「勿体ないわね」寺山夫人が嘆く。「食べない人は関心がないのかしら。家じゃ、すぐに食べてしまうけど」寺山夫人は山菜とか野草料理が得意だからね。「トウのたった人は、この中に随分いるんじゃないの」こんな失礼な言葉は誰が言ったか。
 今日はずいぶんのんびりしたペースだ。予定の昼食場所に時間通り着くのだろうか。こういうとき、講釈師がいれば大声を出して進行を早める筈だ。「いないと淋しいね」

 隊長は金蔵寺(真言宗智山派)には寄らない積りらしいが、門の脇に六地蔵が見えたのでちょっと入ってみた。地蔵には左からそれぞれ、禅林地蔵、無二地蔵、護讃地蔵、諸龍地蔵、伏勝地蔵、伏息地蔵の名がついている。「六地蔵って、こういう名前がついていたかな」宗匠が首をひねっているが私もこういう名前には初めてお目にかかる。

 日本では、地蔵菩薩の像を六体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は六種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを六種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。六地蔵の個々の名称については一定していない。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もある。(ウィキペディア「地蔵菩薩」)

 この寺の地蔵の名前はかなり特殊なものかも知れない。寺のすぐ隣の池にはオタマジャクシがうようよ泳いでいる。枯れ果てた蓮根が数個、泥の中から顔を出している。
 そのすぐ斜向かいには八耳堂がある。さっきの金蔵寺の境外仏堂で、聖徳太子を祀るので太子堂とも言われる。保元年間(一一五六〜一一五八)の創建。ところで、金蔵寺の山号表記がいろいろあって紛らわしい。さっきの六地蔵のところには金軸山無量院と書かれていた。こちらの方の説明には金輌山。金輪山と書く場合もあるようで、「リン」の表記が一定していない。とりあえず説明板をみてみよう。

八耳堂と軍荼利神社
八耳堂は真言宗の寺、金輌山無量院金蔵寺の仏堂で、太子堂とも呼ばれている。
本尊は聖徳太子を祀り、保元年間(一一五六〜一一五八年)に建立されたといわれているが、現在の建物は文政三年三月(一八〇二年)に再建されたものである。
この奥手に軍荼利神社があり、鎌倉時代の建仁二年(一二〇二)飯能地方の武士、大河原四郎が創建したと伝えている。
大河原氏は、この地方の殿屋敷と呼ばれる場所に居住し、当社の南方に位置する龍涯山に砦を造って非常に備えると共に、金蔵寺とこの神社を厚く信仰したという。神社は天和二年(一六八二年)火災にあったが、のちに再建された   昭和五五年 埼玉県

 この辺りは中世、大河原氏の支配する地であった。さっき歩いているとき、大河原さんの表札を見掛けてドクトルが、地名と人名が一緒になっていると感心していた。中世から続くこの辺の地主であろうか。
 太子堂の脇には大きな宝篋印塔が建つ。塔身は二段重ねになっていて、その種子を判定しようと、資料を開いて点検するがなかなか分からない。宗匠も自分の資料を確認している。「シュシを見てるのか」「これはシュジと読みます」
 ようやく似た形を見つけてアーク(大日如来)ではないかと判定した。真言宗の寺であれば、最初に大日如来を考えなければいけないのは常識ではないか。この判定に宗匠も賛成する。他の三面には判読できない文字が刻まれているから、これは大日如来が独立しているとみてよい。
 その上の段にあるもうひとつの種子は何だろう。「キリークよ」とサッチーは言っているが、どうも判定しにくい。こちらの方は四面に種子が彫られている。とすれば、金剛界曼荼羅で大日如来の四方に位置する阿?如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来のことであろうか。それならば、正面にサッチーの言うようにキリーク(阿弥陀如来)が位置していてもおかしくない。
 「六角地蔵は珍しいですよね」と瀬沼さんが話しかけてくる。宝篋印塔の隣に建っている。これも私は初めて見る。背の低い灯籠のような形で、上に屋根がついていて、その下の六面にそれぞれ地蔵が浮き彫りにされているのだ。
 「神社にはお参りしないんですか」奥の方には勿論グンダリ神社がある。このグンダリも、この狭い場所で表記が異なっているからややこしい。「ダは難しい字なんだよね」「お茶に似ている。クサ冠に余ると書きます」たまたま覚えていたのが正解だった。本来は「軍荼利」だが、石柱には「村社軍太利神社」と書いているのは何故か。軍荼利とは五大明王の一である。

彫像、画像等では、不動明王が中心に位置し、東に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、南に軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王を配する場合が多い。なお、この配置は真言宗に伝承される密教(東密)のものであり、天台宗に伝承される密教(台密)においては金剛夜叉明王の代わりに烏枢沙摩明王が五大明王の一尊として数えられる。(ウィキペディア「五大明王」)

 軍荼利明王は、もともとは古代インドの神が仏教に取り入れられたものであることは間違いない。真言宗の寺に付随する神社だから明王を名にもつのは不思議ではないが、私はこういう神社名を見たことがない。おそらく明治の廃仏稀釈、神仏混淆の禁止によって本来の文字「荼」を「太」に変えたのではあるまいか。つまり政府に気兼ねして仏教色を薄めながら、名前は残そうとする深慮遠謀ではないか。こんなことを詮索しているのは私と宗匠位なもので、みんなは珍しい花を見つけて喜んでいるようだ。
 神社につながる参道脇に薄い空色のヤマエンゴサク(山延胡索)が群生しているのだ。「サクはひもです」私の言葉でダンディも和尚も辞書を開く。去年、狭山丘陵でジロウボウエンゴサクは見ているが、ちょっと形が違う。「よく憶えていますね、私は全く覚えていない」ダンディは野草には興味がないからだ。形がケマンにもちょっと似ているのは当たり前で、エンゴサクはケシ科キケマン属である。ロダンに説明していると「これから何でも聞いてくれってか」とドクトルが笑う。
 「そろそろお腹がすいてきましたよ。まだですか」珍しくダンディが空腹を訴えている。「もうすぐですよ」トイレ休憩を終ってようやく出発だ。もう少し西に向かってから、河原に降りると、そこは吾妻峡である。
 草むらにはニリンソウが咲いている。一輪だけなのに二輪草とはどういうことか。小澤さんが「葉の付け根に柄があるのがイチリンソウ」と説明してくれるのだが、「柄」とは何か、頭がうまく回転してくれなくて困る。小澤さんには迷惑だったかも知れないが、しつこく確認して、葉柄のことであると納得した。花が咲いている茎が葉に接している部分に小さな芽のようなものがあり、これがもうひとつの花になるのではないかというのが、ロダンの意見だ。「もっと簡単な見分け方はね」阿部さんが「葉の形が五角形になっているの」と指さす。なるほど、切れ込みの大きい葉の全体の形が確かに五角形になっている。
 黄色い花は、オウバイではないかという意見もあったが、阿部さんが考え込んでいる。彼女が考え込むときは、それは違うということだ。花弁は四枚だからオウバイとは違う。鑑定の結果これは連翹だった。私は、連翹というのはもっと花びらが細く四弁が明確に割れているものだと思っていた。今見ている花は、そんなに細くない。

 河原の石がごろごろしている中で、できるだけ平坦な場所を選んでシートを広げる。和尚はずいぶん大きなブルーシートを持ってきた。「私も」と宗匠が初めてシートを取り出す。「先月も持ってきたんだけど、マサトさんがいなかったから残念だった」
 残念ながら阿部さんはここでお別れらしい。これから後、分からない草花を誰に聞けば良いのだろうか。
 それにしても今日は差し入れが膨大に集まってくる。サッチーからはお得意の煮物と漬物、カズちゃんは山菜のおこわと沢庵、イトはんからは漬物、一柳さんからは夏ミカン、長老からはリンゴ。その他、実に書ききれないほどのものが提供される。(ちなみに甘いものを戴いた人は残念ながら名前を載せられない。私は甘いものを食べないから記憶がない)すっかり腹が膨れてしまった。
 「次回は参加しなくても良いから差し入れだけ届けてください」私がバカなことを言い、「今日の暴言ひとつ」と宗匠に窘められる。
 空模様が少し怪しくなってきた。「雨男が来たから降るんじゃないの」画伯が私の顔を見る。予報では少し降るかも知れないと言っていたので、私も折り畳み傘はもってきた。しかしダンディは「大丈夫ですよ。今日は降らないって、われらの予報士が断言していますからね」と安心しきっている。しかしじっと座っていたから、体が冷えてきた。

  弁当を広げ河原の春寒し  眞人

 対岸まではコンクリートの丸い台が飛び飛びに設置されている。「足の短い人は行けません」どうやら足の短い人はいなかったようで、全員無事に対岸に渡ることができた。
 対岸に渡ると、黒いなめし皮を捻ったようなものが落ちている。なんだこれは。木の前で隊長が「これはサイカチである」と説明する。枝には鋭い棘が生えている。落ちていたのはサイカチの実だった。莢の中には乾燥した種が入っているようで、振るとカサカサと小さな音を立てる。イトはんが二つ三つ拾って袋にしまい込むのは何のためだろう。辞書を調べていたダンディが「石鹸の代りになるって書いてある」と不思議そうな声を出す。「泡立つんですよ」うろ覚えだが、そう聞いたことがある。念のために確認しておこう。

木材は建築、家具、器具、薪炭用として用いる。
豆果は皀莢(「さいかち」または「そうきょう」と読む)という生薬で去痰薬、利尿薬として用いる。
またサポニンを多く含むため古くから洗剤として使われている。莢(さや)を水につけて手で揉むと、ぬめりと泡が出るので、かつてはこれを石鹸の代わりに利用した。
棘は漢方では皀角刺といい、腫れ物やリウマチに効くとされる。
豆はおはじきなど子供の玩具としても利用される。
若芽、若葉を食用とすることもある。(ウィキペディア「サイカチ」)

 登り道の途中にはネコノメソウ(猫の目草)が群生している。小さな花の真ん中が焦げ茶色になっているのは種である。種のできているのは初めて見た。私はネコノメソウ(ユキノシタ科ネコノメソウ属)とトウダイグサ(灯台草。トウダイグサ科)の区別に自信がないものだから、しつこく確認してしまう。
 黄色の花はクサノオウ(ケシ科)。和尚も電子辞書を検索する。「難しい字だったと思うよ」だが和尚と宗匠の電子辞書(広辞苑だろう)には草の王、または草の黄と表示されている。おかしいね、そんな簡単だったろうか。後で調べてみると勿論そのようにも書くが、「瘡の王」という書き方もある。これは皮膚病に効くということからきているらしい。やはり広辞苑だけを信用していては何も分からない。
 車の通る道に出ると、西洋の城を模った(つまりラブホテル風の)建物が見えてくる。大東幼稚園である。柵の中には菜の花が一面に黄色く咲いていて、昔懐かしい、ちょっと臭い香りが漂ってきた。「これはアブラナです」と宗匠が言う。私は菜の花にいくつも種類があるなんて知らなかった。「菜の花っていうのは総称だよ」
 その角を曲がり込めば、園舎の向かいにはポニーや羊を飼う小さな牧場まで設置してある。文部科学省教育科学推進モデル指定幼稚園になっていて、なかなか偉い幼稚園なのであった。「自然に触れ、動物と仲良くし、じっくり観察することにより、豊かな情操を育てる」ということが教育方針に掲げられているので、これはその実践なのだ。馬に一頭づつ名前が付けられている。幼稚園児も名前がなければ馬を呼ぶことができないから、これは当たり前です。
 馬に関心もなく、そのまままっすぐ歩いて行く人を呼び戻し、もういちどさっきの道を行く。ここは単に馬を見るために立ち寄っただけなのだ。

 登山道の入り口の鳥居には、「御嶽八幡神社」の額が掲げられている。次第に山道になっていく所に、またネコノメソウが群生している。こっちのほうは種が見えない。自然石を利用した石段は結構歩きにくい。端の石のない所の方が歩きやすい。「それはね、石段だと歩幅が制限されるからなんですよ」小澤さんは大きな望遠鏡を担ぎながらゆっくり歩いている。イトはんと長老がやや遅れ気味で、竹さんが最後尾を守ってついて行く。私も何かあれば彼女を助けようと、途中から後ろに回った。いつの間にか太陽が出て、暑くなってきた。イトはんはジャンバーを脱いで腰に巻きつけている。上の方では要所でロダンが待っていて、遅れ加減な人に「もうすぐですよ」と声をかけてくれる。
 急な石段のある神社のほうには向かわず、そのまま土の道を歩いて雨乞池に到着した。「こういう道は良いですね」「ほんと、足が疲れない」
 「この池は龍がいたとかいう伝説があるんじゃないの」ロダンはそう言うが、龍が住むには小さすぎるような気がする。畔に立つ案内板には、「鼻をつまみ息を止めて七廻りすると、池に異変が起きる」と書かれている。
 この池にはサンショウウオが住みつき、その卵があると言うので、全員が池の底を覗き込む。「どれですか」「そこに“の”があるでしょう」底の泥にまぎれて分かりにくいが、指さされた方を見ると確かに「の」が沈んでいる。隊長は「勾玉みたいな」と言うからまだあるんじゃないか。二三メートル程右の方を見詰めていると、今度は勾玉をもう少し丸めたような形のものが見つかった。
 サンショウウオと言えば、井伏鱒二であろう。二年も閉じ込められて、身動きできなくなったサンショウウオとカエルの最後の会話がおかしくて切ない。

 「お前はさっき大きな息をしたろう?」
 「それがどうした?」
 「そんな返事をするな。もうそこから降りてきてもよろしい」
 「空腹で動けない」
 「それでは、もう駄目なようか?」
 「もう駄目なようだ」
 暫くして山椒魚は尋ねた。
 「お前は今、どういうことを考えているのだろうか?」
 相手は遠慮がちに答えた。
 「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」(井伏鱒二『山椒魚』)

 少し疲労を感じている長老に竹さんが付き合って、池のところで待っていてもらい、その間に残りの人間は頂上を目指す。「イトはん、リュック置いて行ったら」「そうよね」身軽になった彼女は、一所懸命登り始める。
 途中、黒田直邦の墓を見る。萬松院殿故中太夫袷遺兼豊前州太守丹治眞人関(?)鐡直邦大居士という長い戒名がついている。

黒田 直邦(くろだ なおくに、寛文六年十二月二十七日(一六六七年一月二十一日)- 享保二十年三月二十六日(一七三五年四月十八日))は、常陸下館藩主。上野沼田藩の初代藩主。久留里藩黒田家初代。
旗本・中山直張の三男。母は黒田用綱の娘。正室は柳沢吉保の養女(折井正利の娘)。子に黒田直亨(次男)、娘(奥平松平忠暁正室)、娘(黒田直基正室のち黒田直純正室)、娘(九鬼隆寛正室)、娘(内藤政醇正室)らがいる。養子は黒田直基、黒田直純。官位は従五位下、従四位下、豊前守、侍従。墓は埼玉県飯能市多峯主山(とうのすやま)。

 常陸下館、上州沼田、上総久留里といずれも飯能には関係なさそうだが、出身は「丹党中山氏」である。武蔵七党の一つで、本貫の地は秩父から飯能にかけてであった。能仁寺に黒田家歴代の墓がある。
 多峯主山の頂上に着く。海抜二七一メートル。「おかしいな、三百三十メートルになっている」ダンディの高度計は六十メートルも狂っている。「今日は低気圧が入ってきてるからね」と言うのはドクトルで、そうか、高度計というのは結局気圧で測定するものであると改めて認識した。気圧が低くなれば、高く登ったと高度計は勘違いしてしまうのだ。
 多峰主の由来には、@多くの山の主峰。とう(峠、尾根)の一番高い位置。A峠の語源タワ、トウの主(ぬし)でノスはその訛りという二つの説があるらしい。「三百六十度ですよね」伊野さんは感激する。山の好きなひとは遠くを眺めて山の名前を特定している。私はよく分からない。
 真ん中には経塚というものが建つ。その塔に小さな石をいくつも積み上げているのはケルンの積りだろう。その前でまず女性だけが集合写真を撮る。いくら呼んでも、サッチーは自分は女ではないと主張するようにアサッテの方を見ている。その後で今度は隊長が久しぶりに全員の集合写真を撮る。かつてのような「日光写真」ではないから、あっという間に撮影は終了する。「確認しなくて良いの」「大丈夫、大丈夫」隊長はすぐにカメラをしまいこんでしまった。

 下りになると一番早いのはカズちゃんだ。イトはんは途中で後ろ向きになっている。「膝を保護しなくちゃいけないのよ」隊長の最初の計画にはなかったが、小澤さんが教えてくれた植物を見るために、少しコースを変えることにしたらしい。アサダという木は珍しいものらしい。樹皮が剥がれたようになっていて、かなりの人が熱心に眺めている。幹から直接赤い葉が生まれているのは、フサザクラである。「これはフサザクラ科です」(しかしこれも後で隊長から訂正があり。実はヤマザクラであった)
 「よしだけ」というものには何故か常盤御前の伝説がついている。常盤がこの多峯主山に登ったとき、「源氏再び栄えるならこの杖よし竹となれ」と突いた竹が一面の竹林になった。「別に珍しい竹じゃないんだろう」「普通の竹のようです」
 静御前にもいくつもの墓があるように、義経の母にも伝説がつきまとっていて、その墓は、京都、岐阜県関ヶ原町、群馬県前橋市、鹿児島県郡山町、埼玉県飯能市など各地にある。判官贔屓、義経伝説の関連であろう。
 見返り坂(ここにも常盤が振り返って見たと言う伝説)を降りると、あたりは一面の湿地帯で、笹が茂っている。笹の葉の上面は無毛、裏は細毛でビロード状になっていると言う。早速触ってみるが、どうも「ビロード状」という言葉に幻惑されるか、その感触がなかなかはっきりしない。私の感触では、細かくて柔らかい短い産毛が一面に生えているようなものだ。この笹は、牧野富太郎が発見したもので、飯能にしか見られない、実に珍しいものなのだ。そのため飯能笹の名がつけられた。

  判官の母も泣きたり春の山  眞人

 モミジイチゴの白い花が咲いていて篠田さんたちが確認している。「枝に棘があるからノイバラだと思う」という宗匠の意見は、しかし隊長に却下された。モミジイチゴはバラ科だから当然棘がある。
 能仁寺の手前ではヤドリギの解説が始まる。ヨーロッパではいくつもヤドリギを見たというダンディはもう改めて見る必要もない、私は見ても興味が湧かない。宗匠もすっかり飽きている。こんなとき講釈師がいれば。

 道草や三澤恋しき春の昼 《快歩》

 結局能仁寺は素通りしてしまう。町に出れば、市民会館前には桜祭りの提灯がぶら下がり、屋台も出ているようだが、まだ夜桜には寒いだろう。
 観音寺にはちゃんと立ち寄った。般若山長寿院(真言宗智山派)。随分大きな石灯篭には、文昭院殿の文字が彫られ、正徳の年号が記されている。新井白石の時代だが、文昭院とは誰だろう。宗匠が広辞苑を引くと六代将軍家宣のことだと分かる。六代将軍がこんな飯能にどう所縁があるのか。これは宗匠が教えてくれたので、下記を引用する。

 増上寺の徳川家霊廟は戦災に遭い、霊屋等の貴重な文化財は焼失してしまいました。
 戦後、この霊廟部分をプリンスホテルが取得し、霊廟への参道や霊廟を囲む様に立ち並んでいた三百諸藩主より寄進された石灯籠は所沢の地(現在の西武ドームの辺り)に運ばれました。
 その数約千基と言われております。学術調査が終わるやいなや狭山の地に運ばれそのまま野積みにされ西武球場が建設される時に周辺の寺院に希望により配布されました。
 私の住む東村山の寺院にも数基づつ残されておりますが、碑面の痛みも激しく今のうちに記録する必要を感じています。(伊藤友己「増上寺の石灯篭」)
http://members.jcom.home.ne.jp/tom-itou/

 戦後のドサクサに堤康次郎がどういうことをやったかは、猪瀬直樹『ミカドの肖像』にも詳しい。案内板には鎌倉期の五輪塔や板碑があると書かれているのだが、発見できなかった。水原秋櫻子の句碑だけは見つけることができて、ダンディが声をあげて読む。

  むさし野の空真青なる落葉かな  秋桜子

 樹や花を見ずに石碑の方に関心を持つ私たちを、イトはんが老人扱いしたとダンディが報告する。人間の関心は動物から始まって、植物、鉱物の順に至る。つまり生きているものから死んでいるものに関心が移る、そうして人は年老いていくのだという。
 あとは駅まで行くだけだ。隊長の計画よりはかなり遅れて、もう四時半になっている。狭い道で後ろから来る自転車を避けようと、体が逆に動いてしまうときもある。

 おっとっと避けた所が通り道 《イトハン:快歩》

 宗匠の万歩計で一万七千歩は十キロちょっとであろうか。反省をする人間は、隊長お薦めの駅前「おらく」に入り込む。竹さんが初めて参加し、カズちゃんも加わってちょうど十人だ。最初に注文を取りに来たのが「若女将」であり。あとから来たのが本当のオカミである(但し通いだけどね)と隊長が言う。ずいぶん詳しいじゃないですか。
 名古屋弁や東北弁の話から方言周圏論へ。宗匠との間で、秋田弁と佐賀弁に共通の単語があることが判明した。「徒然」は秋田では「トゼネものな」、佐賀では「トゼナカッショ」と言う。「ビッキ(蛙)」はヒキガエルのヒキの転訛か(これは確証はないけれど)など。ハコさんはかつて箱根駅伝の三区走者を経験したという偉い人であったこと。だから「ハコさん」か。
 何故かカズちゃんが「イチレツランパンハレツシテ」の九番が分からないと言う。「マサトさんなら調べるでしょう」演歌の歴史は調べたことがある。

一 いちれつらんぱん 破裂して
二 日露の戦争 始まった
三 さっさと逃げるは ロシアの兵
四 死んでも尽くすは 日本の兵
五 五万の兵を 引き連れて
六 六人残して 皆殺し
七 七月八日の 戦いは
八 ハルピンまでも 攻め入って
九 クロパトキンの 首をとり
十 東郷大将 万々歳(東郷元帥 万々歳)

 元歌は「欣舞節」、明治二十二年に日清戦争を予想してつくられた。(日清戦争は明治二十七八年)作詞・作曲 若宮万次郎である。

 日清談判破裂して
 品川乗り出す 吾妻鑑
 西郷死するも彼がため
 大久保殺すも彼奴がため
 遺恨かさなる チャンチャン坊主

 自由民権運動が、国権運動(ナショナリズム)へと変質していくちょうどその頃になるだろう。手元にある『明治大正・流行歌史』『演歌の明治大正史』〈いずれも「添田亜蝉坊・知道親子全集」)では、元歌の方は分かったのだが、毬つき歌はネットで調べなければいけなかった。(演歌ではないからだ)
 これとは別に、毬つき歌(お手玉)では、こんな歌も私の記憶に残っている。これも地方によって少しづつ歌詞が違っている筈だが、前田愛「幻景の明治」から引用してみる。

 はるか彼方を眺むれば
 十七八の姉さんが
 花と線香手に持って、

 もしもし姉さんどこへ行く
 お墓詣りに参ります
 西郷隆盛娘です

 この辺、私の記憶では

 姉さん姉さんどこへ行く
 私は九州鹿児島の
 西郷隆盛娘なり 
 

 とか言っていたようだ。これについて、今回不参加のあっちゃんが思い出してくれた。

 いちかけ、にかけ、さんかけて、しかけて、ごかけではしをかけ。
 橋の欄干、手を腰にはるか向うを眺めれば、
 一七、八の姉さんが花と線香を手に持って
 姉さん、姉さん、どこ行くの
 私は九州鹿児島で、切腹なされた父上のお墓参りに参ります。
 お墓の前で手を合わせ、南無阿弥陀仏と唱えれば〜
    って歌って、何故だか最後はじゃんけんポンをするんですけど、変ですね

 相変わらず楽しい反省会である。三千二百円なり。

眞人