国分寺界隈   平成二十年四月二十六日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2008.04.29


 こんなに雨の多い四月は珍しいのではないだろうか。毎週のように水木曜の頃に雨が降り、今日も夕方あるいは午後から降りそうで、少し肌寒い。こんな季節には着るものに悩んでしまう。旧暦弥生二十一日。
 里山ワンダリグ始まって以来、初めて埼玉県から脱出した。国分寺駅南口の広場に集合したのは二十七人だ。男は平野隊長を筆頭に、井上和尚、江口宗匠、川崎ロダン、草野一言主、正田長老、鈴木岳人、竹、ダンディ松下、ドクトル三木、三澤講釈師、シオ爺山田、若井、島村チイさん(たぶん一年振りくらいか)。女性は、佐藤紀子(佐藤さんが多いので名前を確認させてもらった)、篠田、清水、高橋、寺山夫人、村田、森安直子、若井夫人、それに隊長がどこかで見つけて声をかけて連れてきた西山和子、中津、伊藤の諸嬢である。
 ダンディの帽子はまた初めて見るもので、小さなダビデの星が無数に散らばっている。イェルサレムの旅で買ったものだ。寺山夫人が大きな紙包みを持って、「昼に食べてよ」と渡してくれる。筍の煮物だそうで昼が楽しみだ。

 最初に訪れたのは都立殿ケ谷戸(とのがやと)庭園だ。パンフレットによれば、大正二年から四年にかけて、後の満鉄副総裁になる江口定條の別邸として作られた回遊式の林泉庭園だ。昭和四年に三菱の岩崎彦弥太に買い取られ本館、茶室(紅葉亭)などを追加整備した。人気が少なく、林に囲まれた空間は素敵だ。淡い新しい緑と深い緑と葉の色は濃淡様々だし、ハナモモも美しい。「不思議な女性はどうしたの」と清水さんが一部の人間にしか通じない冗談を口にする。なんだ、ちゃんとメールを読んでいるのではないか。岩根山の躑躅も綺麗だったと岳人と一緒に話をすれば、「一週間に一度しか開かないから、昨日見たわ」と答えて来る。
 白いエビネ(海老根)はラン科エビネ属。黄色い花はキエビネ。キバナホウチャクソウはユリ科イチゴユリ属。花は下を向いている。ダンディと宗匠が電子辞書を持っているからすぐに文字が判明する。宝鐸草。宝鐸というのは寺の軒先に下げる大型の風鈴を意味する。エンレイソウ(延齢草)もユリ科である。ニリンソウじゃないの、と宗匠が指を差したのは確かにそうだった。もう一対の花は終わってしまったようで、最初は一輪しか分らなかった。キンポウゲ科イチリンソウ属。ちゃんと観察すれば、花が散った跡が見える。
 クマガイソウ(ラン科アツモリソウ属)は図鑑では知っていたが、実物は初めて見る。管理人らしい男が昨日はもう一つ咲いていたと言うが、いま咲いているのはひとつだけだ。熊谷次郎直実の母衣に喩えられる。似たものにアツモリソウ(敦盛草)がある。礼文には珍しいアツモリソウがあるよと隊長が教えてくれる。普通のアツモリソウは赤いのだが、レブンアツモリソウは黄色いのだ。(私はどちらも見たことがない)
 直実と敦盛とくれば『青葉の笛』なんていう唱歌を思い出すのは、私の年代では異常だろうか。
 一の谷の軍破れ
 討たれし平家の公達あはれ
 暁寒き須磨の嵐に
 聞こへしはこれか青葉の笛(大和田建樹作詞・田村虎蔵作曲/明治三十九年)
 確か美女の名前は敦盛に因むと聞いたような気がする。宗匠は早速句を読む。
 谷睨む熊谷草の母衣はらみ  《快歩》
 逝く春や坂東武者の名の花に   眞人
 花が咲いていないと全く分らないが、トンネルになっているのは、葉の形から「これは萩ですよ」と鑑定したのはダンディだ。庭園の案内図にもちゃんと「萩のトンネル」と記載してある。
 次郎弁天池には湧水が見られ、ドクトルはちゃんと奥のほうまで覗き込んで源を確認している。管理所の辺りでは池を見下ろす構図でスケッチをしている人が何人もいる。みんな同じような年代で、そういう同好会かもしれない。
 藤棚を潜って外に出るとき、本日初参加の西山さんが、「安達明の歌知ってます?」と誰にともなく問いかけている。こういうことはロダンが大好きなはずだがちょっと傍に見当たらない。私が歌ってみた。
 うすむらさきの藤棚の
 下で歌ったアベ・マリア
 澄んだひとみが美しく
 なぜか心に残ってる
 君はやさしい 君はやさしい女学生(『女学生』北村公一作詞、越部信義作曲)
 「おんなじ年代でしょうか」しかし古いね。こういう歌謡曲は、歌詞を真面目に写していると、なんだかバカバカしくなってしまう。女学生なんていう言葉は死語になってしまった。そして清純とか純潔と言う言葉も既に生きてはいないだろう。
 全員の人数を確認して出発だ。道端に不動尊を刻んだ石塔が置いてある。ところが火焔を背負っているような感じではないし、「六臂あるのはおかしくないですか」と岳人が不思議がる。隣の丸い石にはちゃんと「不動明王」と彫ってあるから間違いないのだろうが、確かにこんな姿のものは私も初めてだ。
 しかし後で確認してみると、岳人の勘が鋭かったのだ。私はよく観察していないことが分る。傍らの説明板に「石橋供養塔等の由来」を記してある。私たちが不動明王かと思っていたのは、実は庚申塔であった。それならば六臂を持つ青面金剛だ。
 その不動橋を渡って、矢印に従ってお鷹の道へと歩いていく。古ぼけた掲示板に雨で汚れた紙が貼ってあり、国分寺市観光協会推奨の『武蔵国分寺』の歌詞が掲載されている。余り感心しないが記録のために掲げておこう。志村國雄作詞、清水一枝作曲である。
 武蔵野の遺跡は眠り
 境内に朝日照らす
 静寂な霧の中
 鳥鳴く声も清々しい
 羽音も高く飛び立つ小鳥
 太古のロマンが眼に浮かぶ
 幅一メートルちょっとの川の水は、底が綺麗に見えるほど澄んでいる。白い大きな花が水の中にいくつも咲いている。「カワニナをとらないで」という看板があるから、この花がそうかと誤解して、宗匠に笑われた。カワニナ(川蜷)というのは巻貝の一種で、蛍の幼虫の餌になるらしい。水が清くなれば生息できない。この清流は蛍でも有名なのだ。都会で育つと、こういうことも知らない。ただし、これを知らなかったのは私だけではなかった。宗匠とドクトルが川底を眺めるが、それらしき貝は見えない。
  武蔵野の水の流れに蜷求め  眞人
 花はカイウであると草野一言主が断定する。「カラーとも言うわよね」と伊藤さんと中津さんが口を揃える。早速ダンディが調べて、海芋と表記することが判明する。サトイモ科オランダカイウ属。白い大きな花弁が包み込むようにしている真ん中から、黄色の雌蕊が一本飛び出している。この黄色のせいで、遠くから見ると花全体が薄く黄色みがかっているようにも見える。ところが、私が雌蕊かと思ったのが実は花で、白い大きな部分はガクであった。ガクとは何か。こんなことまで調べないと分らないから嫌になる。「花弁の外側にあって、花弁の開花の時期まで保護する。花後も残って果実を保護するものある。」(『花色でひける野草・雑草観察図鑑』)
 この辺り一帯は、寛延元年(一七四八)に尾張徳川家の御鷹場に指定され、慶応三年に廃止されるまで続いた。それにちなんで、この流れに沿った道を「お鷹の道」と呼ぶ。
 長屋門を持った大きな農家、庄屋や名主クラスだったに違いない大きな屋敷が並んでいる。いくつもある大きな地所の門には、全て本多さんの表札が掛かる。本多一族の土地である。川に面した裏門には、川に降りられるよう二段の石段が設けられ、堰の名残りのようなものが川に渡してある。「これはさ」こういうことは講釈師に任せなければならない。この水を堰きとめると、水深が深くなる。そこで、野菜や桶、農具を洗うのだ。
 山吹色の八重の花を見て、たぶんこれが山吹ではあるまいかと宗匠に訊いてみると疑わしそうな顔をする。私も初めて見るものだから自信がなかったが、隊長のお墨付きをもらって自慢する。先日から美女や清水さんに、「絶対見たことあるわよ」とバカにされていたから、これでやっと自信がついた。しかし、花が咲いていなければ判定できないのは致し方ない。
 山吹や道灌のこと思ひだし 《快歩》
 「みのひとつだになきぞかなしき」実がならなければどうして繁殖するのか。こういうことを植物学に疎い宗匠と私が議論しても結論が出るはずがない。もう時季が終わったのだろう、清水さんが教えてくれたムラサキケマン(紫華鬘)はすっかり色褪せて、白っぽい残骸となっている。
 名前を忘れてしまったが、似たような植物の違いについて、「処女と年増と覚えればいいよ。処女はさ」一言主が言うのを聞いていた清水さんが「そうそう」と相槌を打つ。「清水さん、そこで頷いちゃいけません」
 小さな竿で川に糸を垂らしている親子がいる。ザリガニが取れるらしい。更に進んでいくと、川の行き止まりの崖の下が、ちょうど湧水の源になっているようだ。鳥居が立てられ、小さな祠が祀られている。「真姿の池湧水群」の説明があって、東京都の指定する名勝になっていることが記されている。「真姿」の由来は平安時代に遡り、病気で病み衰えた玉造小町という女が国分寺の薬師如来によって治され、もとの美しい姿に戻ったことによる。
 子供たちが三十センチほどの棒に糸を結んで川に垂らしているのは、さっきの親子と同じで、ザリガニ釣りをしているのだろう。いくつかの段差のところでは結構早い滝になっているから、かなりの水量が流れているのが分る。ペットボトルを数本抱えた男が水を汲みに来た。「飲めるんですか」「勿論」ここから湧き出した水が、この細い川を流れて野川に注ぎ込むのだ。ドクトルとロダンは国分寺崖線(ハケ)を探査すべく、石段を登っていくが、もう本隊はすでに出発するところだ。
 国分寺崖線(ハケ)とはなんであろうか。ハケは「峡」であると大岡昇平は断言している(『武蔵野夫人』)。貝塚爽平『東京の自然史』を読んでも、よくまとめられないので、お手軽に、いつものようにウィキペディアを参照してみる。
 関東山地を穿ちながら縫うように流れ下ってきた多摩川は青梅を扇頂とする扇状地を形成した。この扇状地が武蔵野台地の基盤であり、その上を関東ローム層が数メートルから十数メートルの厚みをもって堆積している。
 武蔵野台地では二種類の発達した河岸段丘が見られる。ひとつは南側を流れる多摩川によって形成されたものであって低位面を立川段丘あるいは立川面、高位面を武蔵野段丘あるいは武蔵野面と呼ぶ。もうひとつは北部に見られるものであって、かつての多摩川の流路の名残りと考えられているものである。
 川面と武蔵野面とは国分寺崖線によって分けられている。国分寺崖線は武蔵村山市緑ヶ丘付近に始まり、西武拝島線と多摩都市モノレールの玉川上水駅付近を通り、JR中央線を国立駅の東側で横切り、国分寺市・小金井市と国立市・府中市の市境に沿って東に進む。さらに野川の北に沿いながら調布市に入って深大寺付近を通り、つつじヶ丘などの舌状台地を作りながら世田谷区の玉川地区南部を通り、大田区の田園調布を経て同区の嶺町付近に至る。世田谷区の等々力渓谷は国分寺崖線の一部である。高低差は二十メートル近くになる。
 そして野川は、今見ているような湧水を集めて小金井、三鷹市の南西部を掠めて東南に流れ、入間川と仙川を合流させて、川崎市で多摩川に注ぎ込む川だ。
 ドクトルとロダンを待って先頭集団に追いつき、右の門柱に「武蔵国」、左に「国分寺」と刻まれた寺の境内に入る。これが「国分寺」本堂ということになっているが、誰も拝む人はいないようだ。万葉植物園になっているから花の観察が忙しい。草木に標識がついているのがありがたい。
 白い花はウノハナ(五月山卯の花月夜霍公鳥聞けども飽かずまた鳴かぬかも)。さっき教えてもらったばかりのホウチャクソウによく似た形の、薄い緑の入った白い花は、隊長の鑑定でアマドコロ(甘野老)であった。ユリ科アマドコロ属。私と宗匠は、赤塚植物園で半額で購入した『万葉の草木・薬用の草木』を開いてみる。絵には二つ一組になった花が茎にいくつもついているのだが、今見ている花は、一対だけで、宗匠が不思議に思うが、隊長が難しい説明をしているから間違いないのだろう。この本では薬用植物の項に記されていて、漢方では滋養強壮に効験ありという。

 昼食の時間だ。講釈師は、「そこにしようぜ」と門のすぐ傍のベンチに行ってしまうが、そこに全員は座れない。楼門の下にシートを敷いて弁当を取り出したところに、隊長が向こうに良いところがあると呼びに来る。百メートルも歩けば、何のことはない、ちゃんと芝生の公園になっているじゃないか。ところでさっきの楼門は国分寺市指定の「重宝」となっているが、明治二十八年、東久留米市の米津寺のものを移築したのだ。国分寺とは基本的に関係ない。
 講釈師とシオ爺はさっきのところに居座っているから、珍しく静かな昼食になった。寺山夫人の筍は美味しい。森安さんは浅漬けを出してくれる。岳人はバナナ。食べ終わった頃、シオ爺と講釈師もやってきて、いつもの賑やかな集団になった。シオ爺は、『山田新聞』のための写真撮影に忙しいが、その渾名の名付け親である森安さんとさかんに言い合いをする。「シオ爺新聞って変えたほうがいいんじゃないですか」初めて参加した西山さんがおかしそうに笑う。講釈師も久し振りに参加したロダンと掛け合い漫才を楽しんでいる。

 昼食を終え、遺跡になっている礎石(たぶん復元模型だろう)を見て、「金堂跡」と記された石柱にカメラを置いて、ジオ爺が集合写真を撮ってくれる。公園を出ると、地続きでマンションの立っている隣の畑は、縄文住居跡だという考古学発掘現場になっている。畑だったから残された。本当であればこの辺り一帯が遺跡の宝庫だった筈だが、発掘調査が始まったのは昭和三十年代後半のことらしいから、既に高度成長が始まって、周辺の開発はどんどん進行していた。
 文化財資料展示質で管理人が説明してくれるところでは、国分寺市によって発掘と整備事業が進められているが、東京都や国の補助は出ていないのではないか。石原都政がこういうことに金を出すとは思えないが、おかしな銀行を設立して追加出資するよりは、こういうところに金をかけなければいけないのだ。折角説明してくれているのに、講釈師はそっぽを向いて、誰かと別な話をしている。
 ただ、折角の管理人の説明でもちょっと誤解を招きそうな部分があった。「東山道武蔵路」について、あたかも「東山道」自体が道路(東海道のような街道)であったかのような言い方をしていた。勘違いをした人がいたかもしれないから、確認のために書いておく。
 東山道はその一つだが、五畿七道というのはもともと律令制国家の行政区画を表す。中心部の畿内は五つに区分され、山城、大和、河内、和泉、摂津を指す。七道は、東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、西海道、南海道である。そのエリアの中で、都から、近江、美濃、飛騨、信濃、上野の国府を結び、上野から武蔵に至る路を武蔵路と呼んだのだ。詳しくは知らないが、江戸時代に中山道として整備される前の街道がそれに当るだろう。
 この展示室では七枚のポストカードが無料で手に入った。
 武蔵野線の西側に出れば国分尼寺跡だ。シオ爺が女性陣の写真を撮ろうとするが、皆尻込みしている。ロダンと寺山夫人ふたりだけだと「お父さんに悪いよね」と声がかかり、清水さんが加わって撮影完了。

 左右に林のある、幅一間ほどの切通しが伝鎌倉街道だ。よく整備されていて、私たちのほかには人気がないから落ち着いた雰囲気で歩ける。静かで良い。鎌倉古道については瀬沼さんが詳しいが、毎月第四土曜日はその関係の仕事を抱えているから参加できない。竹林には伸び過ぎた筍が生えている。
 筍のいざ鎌倉と伸びにけり  眞人
 しかし空模様が怪しくなってきた。急いで西国分寺駅に到着したのは、まだ二時前ではないか。これで解散することになったらどうしたらよいか。武蔵野線利用者はここが都合が良いので(私だってそうだけれど)、いったん解散にする。残った者は国分寺駅まで歩くことになる。
 「えーっ、歩くんですか」と大きな声を上げた森安さんも、清水さんと西山さんが一緒だと分ると、「一人じゃなければ歩きます」と元気になる。ところが、ここで清水さんに急用の連絡が入ったらしく、残念ながら彼女も武蔵野線に乗って行ってしまった。ブツブツ文句を言っていたシオ爺も、飲み仲間が歩くのでは仕方がない。
 中央線に沿って東に向かうと、ピンクと白のハナミズキがちょうど盛りだ。隊長がヤマボウシを教えてくれるが、花がないから分らない。花が咲くのはこれから一ヶ月も後だろう。
 姿見の池は野川の源流のひとつになっている。大岡昇平が書いているのはこの池だろう。現在の住所表示では西恋ヶ窪一丁目となっている。
 「ここはなんてところですか」と勉は訊いた。
 「恋ケ窪さ」と相手はぶっきら棒に答えた。
 道子の膝は力を失った。その名は前に勉から聞いたことがある。「恋」とは宛字らしかったが、伝説によればここは昔有名な鎌倉武士と傾城の伝説のあるところであり、傾城は西国に戦いに行った男を慕ってこの池に身を投げている。
 「恋」こそ今までの彼女の避けていた言葉であった。しかし勉と一緒に遡った一つの川の源がその名を持っていたことは、道々彼女の感じた感情がそれであることを明らかに示しているように思われた。(大岡昇平『武蔵野夫人』)
 「恋ヶ窪なんて字が良いよ」とドクトルが感心する。鯉を飼っていたから「鯉ケ窪」と言う説があり、また役にも立たない窪地に遊女屋があったからだとする説もある。大岡の言う伝説の鎌倉武士は畠山重忠で、重忠戦死の報を聞いた遊女・夙妻太夫が姿見の池に身を投げた。実は戦死してはいなかった重忠が、夙妻を追悼するため阿弥陀堂を建てたという。
 ダンディが柳絮の飛んでいるのに気づく。「ユウジョ?」ロダンが首を捻るものだから、「リュウジョ」と文字を書いて示そうとするがあやふやで、「如し」の下に「衣」を書いてしまって、宗匠に「ちょっと違う」と指摘を受けた。ダンディが辞書を引いて漸く文字が確定した。「韓国には多いですよ」岳人が報告する。飛んでいるのをひとつ摘んでみると、タンポポの綿毛にそっくりだ。「絮」は綿のことだからな。言葉は知っていても、こうして意識してみることができるのも、皆様の知識のお蔭である。しかし、この会では電子辞書の活躍する機会が多い。
  柳絮ふる鎌倉武士の恋の池  眞人
 左手には林を遮る塀が延々と続く。これは日立中央研究所で、中に、これも野川の源流のひとつに数えられる湧水池がある。庭園になっているそうだから、いつか来てみたい。
 ぼんやりと淡い黄色のバラはモッコウバラだ。「棘のないバラなんて信じてなかったけど、女房が見つけてきたよ」シオ爺が言うとおり、このバラには棘がない。「綺麗なバラには棘がある」それならば棘のないバラは綺麗ではないかというと、そうでもない。ダンディの辞書では「木香」と書くようだ。中国原産。「新聞に載せないでね」と言う森安さんを無視して、シオ爺は西山さんと森安さんの写真を撮る。
 国分寺駅前に着くころ雨が本降りになってきた。丸井の前で美女二人と別れ、まだ二時半だというのに飲まなければならない私たちは店を探す。三時開店の居酒屋に井上和尚が交渉するがまだ駄目だ。結局日高屋しかないのだ。
 焼酎のボトルは置いていないので、「居酒屋」と言う名前の上尾の酒を飲む。今日のこの席ではダンディと隊長が最年長だが、男ばかり十人の場を支配するのはシオ爺だ。店員に次々に注文を出すシオ爺に「もうちょっと優しく言いなさいよ」と隊長が気弱な声をだす。誕生月の話題、長幼の序の話題。
 長幼を酒の肴に春惜しむ 《快歩》
 島村さんは地井武男に似ているからと(本人も結構自慢しているようだ)、呼び名はチイさんと決まった。一人千五百円也。実に安い。しかしまだ四時ですよ。隊長、ダンディ、和尚、ロダン、岳人、私はさっきの三時開店の居酒屋に入り込む。
 宗匠の万歩計では一万二千歩を歩いた。
眞人