官ノ倉山   平成二十年九月二十七日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2008.10.12

 空気が乾燥して爽やかな秋晴れである。昨日の蒸し暑さからは一転して、今日は気温も下がることになっている。家を出る時長袖を着ようか半袖で行こうか、悩んだ末に、長袖シャツをリュックに放り込んできた。
 鶴が島駅で和尚と一緒になって、電車の中を見回してみたが、仲間の姿は見えない。「チョウコはちゃんと電車に乗れたかな」と和尚が心配そうに何度も見回している。この電車はちょっと早目だから、まだいないのだろう。小川町で乗り換え東武東上線竹沢駅に着くと、別の車両から数人が下りてくるのが見えた。ダンディ、宗匠、チイさん、村田さんだ。
 改札を出ると、今月までゆっくり静養するはずの隊長がいるので驚いた。「いや、お見送りですよ。リーダーの様子も確認しなくちゃいけないし」たかが足の指とは言っても、骨折の後のリハビリはきちんとしないと後遺症が残る。気をつけてもらいたい。数年前に踵を骨折した私はつくづくと感じているところだ。隊長が「スズメバチに気を付けてください」と言えば、「そう言えば下見のときに頂上付近で見かけました」と岳人も思い出す。本当だったら怖い。
 今日のリーダーはもちろん岳人で、やたらに重いリュックを背負っている。おそらく遭難しても全員が二三日は生きていけるよう、人数分の食糧を用意しているのだろう。三百メートル程度の山でも、準備は万端にしなければならない。
 和尚、宗匠、小野の中将と本庄小町、ロダン、小林さん、チイさん、ダンディ、ヤマちゃん、チョウコさん(ちゃんと来たじゃないか)、カズちゃん(「隊長に連れてきてもらったんです」と言う)、いとはん、村田さん、私。十五名である。この作文の主人公とも言うべき講釈師の姿が見えないのが淋しい。

 (注:潔旦那を深草の少将に比定すれば、小野の少将といわなければいけないのではないかとダンディが指摘してきた。しかし、深草の少将は思いを遂げることができなかったのに、潔旦那はちゃんと小町と添い遂げたから、一階級特進して中将になるのだ。この論知はダンディも了承した)

 堀内さん、阿部さんという植物班の先達がいなければ、私たちは何を頼りに植物を観察すればよいか。せめてどっちか一人でも来て欲しかったと、植物に無学な連中は淋しがる。あっちゃんは別のイベントのため欠席なのは事前に分っている。シオ爺は熊野古道を歩いている筈だ。ドクトルは欠席だが、二週間前に同じコースを歩いて、参考になる知識を伝達してくれている。
 もう一人、上野さんと言う背の高い人が駅で合流した。顔見知りの本庄小町が挨拶したので、途中まで一緒に行くことになった。「エンジョイ・ハイキングの会」リーダーだそうだ。私は参加したことはないが、「エンジョイ」はかなりハードな行程を歩くらしく、私たちのようにのんびりした会とは違うらしい。今回は下見のために一人で歩くつもりが、私たち素人集団につかまってしまったのは、彼にとって運が良かったかどうか。私たちにとってはとても良かったことが後でわかる。

 十時三分着の電車まで待って出発する。山岳会会員の小林さんとエンジョイの上野さんという専門家を前に、岳人はやや緊張気味だ。
 歩き始めればコスモスが揺れているのが目につく。コスモスはいつだって風に揺れるものと決まっていて、俳句の本を読めば「揺れるコスモス」なんて紋切型を使うと大抵叱られてしまうのだが、実際、風に戦いでいるのだから仕方がない。私たち素人が最初に覚えるお馴染みのキバナコスモスの他にも赤、桃色、様々な色の花が咲いている。あちこちに塊になって咲いているヒガン花も美しい。
 八高線の踏切を渡って国道二五四を歩く。「これって何かな、ママコノシリヌグイ?」宗匠が聞いてくる。「今日は植物班がいないから、我々で決めてしまおうよ」私が無茶苦茶な言葉を口走るものだから、上野さんが「確かにママコノシリヌグイです」と断定する。植物の先生はここにいたのだった。「花のない時期に教えてもらっているから、花は初めて」と、この花は宗匠も初めて見たらしいが、それで即座に鑑定したのは偉い。私は念のために茎を触って、不覚にも小さな棘を指に刺してしまった。タデ科イヌタデ属である。
 「佐藤さんに後れをとらないように、私もメモ帳を持ってきた」と言っていた和尚はちゃんとメモをしただろうか。
 「これは何なの」いとはんが立ち止まって首を傾げているのは、大きな蓑虫というか繭のように、ちぎれた葉のような小片がいくつも重なって五センチほどの細長い塊になり、それがいくつも生っている木だ。これはどうやら果実らしい。「クマシデです」先生は何でも知っている。図鑑で調べてみればブナ目カバノキ科クマシデ属。熊四手と書く。
 民家の庭先には、もう萎れかけながら、黄色の長いラッパ状の花を下に向けているのが目立つ。これはキダチチョウセンアサガオである。ナス科キダチチョウセンアサガオ属。「キダチは、黄色いからですか」「木立の意味です」と先生が教えてくれる。「何かもっと格好良い名前があったはずですよ、トランペットなんとか」園芸方面ではエンジェルトランペットと呼ぶということがネットで調べると分かる。
 「チョウセンは差別語でしょうか」と岳人。これは韓国の人と北朝鮮の人に聞いてみなければよく分からないが、私は基本的に「差別語」というものの存在を認めない。場面々々での使い方、相手に対する斟酌があれば、おのずと使用する用語が定まってくるだけだ。互いの間で不快になる言葉は使わない。歴史的な知識と想像力の問題であろう。ただしこの花は朝鮮半島渡来ということではなく、単に海外渡来の意味で名付けられたものらしく、原産地は東南アジアである。
 クリ畑には毬栗がたくさん落ちていて、ダンディが中を割って、大きな栗を取り出す。私も真似をしたが、道路側に落ちていたのではなく、畑の方に落ちていたのだから、厳密に言えば窃盗の罪に値する(かな?)

 吉田家住宅の標識のところで国道から脇道に入っていく。さっきのママコノシリヌグイで自信をもった宗匠が、「オカトラノオじゃないか」と言ったのは、以前阿部さんに教えてもらったオカトラノオとは違う。オカトラノオはもっと小さな白い小さな花が密集していたような気がするが、これは長い穂に薄紫(薄紅)の割に大きな花がついていて、それに穂が真っ直ぐに立っている。オカトラノオの方は、本当に尻尾のように、尾が垂れ下がるような形をしていた。上野先生に教えを請えば、これはハナトラノオである。
 吉田家の敷地の入口にはヤマホトトギス(山杜鵑草)が咲いている。小野の中将が教えてくれたが、もしかしたらヤマジノホトトギスかも知れないと私は思っている。前に隊長に区別を教えてもらっていたのだが、実はよく分からない。ウィキペディアを読んで、区別できる人はいるだろうか。

 ヤマホトトギス Tricyrtis macropoda Miq.

 関東以西の太平洋側および長野県に分布し、草丈は一メートルほどになる。花は二日間で、茎の先に花序を伸ばし、晩夏に咲く。花びらの折れたところに斑紋が入らず、花びらが反り返るところで判別できる。

 ヤマジノホトトギス(山路杜鵑草) Tricyrtis affinis Makino

 北海道から九州までに分布する。草丈は一メートル弱。花は二日間で、初夏から秋にかけて咲く。葉腋に着く場合と、茎の先に花序を伸ばす場合がある。花びらの折れたところに紫色の斑紋が入ることで判別できる(他種は橙色)。

 私が撮った写真では、花びらがそれほど反り返ってはいないし、その折れた所にも斑点はあるように見える。だからヤマジノホトトギスであろうと、私は勝手に判断する。
 小さな紫色の実を無数につけているのは、ムラサキシキブではなく、コムラサキ(ケマツヅラ科)である。実が小さい。だいたい、こういう民家のところに生っているのは、ほとんどがコムラサキだと考えて良かったんじゃないかしら。山野に自生するムラサキシキブとは、ちょっと違う筈だ。「白いのもありますよね、シロムラサキシキブですか」岳人の質問には「それはシロシキブだよ」中将が答える。
 中将だって植物には結構詳しいのだが、普段あまり公言しない。私たちは講釈師の影響を強く受けてしまって、少しでも知っていることは、誇大に言いふらす癖がついてしまったから、中将の奥ゆかしさは偉い。これこそが「能ある鷹」であろう。「植物図鑑も持っているんだけどね」図鑑は重いからなかなか持ち運べない。私は森林公園で買った「花のさんぽみち」を持ってきたが取り出す余裕がない。カズちゃんは、赤塚植物園で手に入る「万葉の植物」を持ってきている。
 吉田家は享保六年(一七二一)に造られた、県内最古の民家であり、国の重要文化財に指定されている。「国から補助が出ているんだろうか」ヤマちゃんが心配する。維持費が大変だから、なんらかの補助があるのではないか。私は三度目になるが、初めてのヤマちゃんのために、一応吉田家のホームページから引用しておこう。

 入母屋造りで茅葺屋根を持つ大きな民家です。
 間取りは「三間広間型」と呼ばれる、奥に二間の畳敷きの座敷、手前に広い板間のある江戸時代の典型的なものです。板間にはいろりがきられ、土間の中央やや北側に大きな一口のかまどがあります。
 南側の大戸脇には風呂場があり、その対岸の北側には流しが作られています。

 私が三度目というのは、一昨年の二月と去年の十月に来ているからだ。一昨年はまだ埼玉県生態系保護協会主催の「ふるさの道自然散策会」が活動していたときで、その反省会席上で好い加減酔った挙句に、リーダー(名を秘す)が三月で会を解散すると宣言したのだった。それが隊長による「里山ワンダリング」へと発展する機会になった。
 去年の十月は悲惨だった。台風接近が予想される雨の中、集ったのは隊長、ドクトル、岳人、私の四人だけだった。それはまだ良いのだが、他の三人はちゃんと雨を防ぐ装備を備えているのに素人の私だけが全くの無防備で、寒い思いをした。ただ、雨の中でも、ヤマホトトギス、コムラサキ、ナンテン、ツリガネニンジンなどを見たから収穫はあった。

 土間に入れば地元産のキノコや栗、味噌などが売られている。酒を飲みすぎるチイさんに、私はコガネタモギを強く勧める。本当に黄金色をしたキノコで、非常に体に良いものである。スーパーなどには売っていない。と吉田家の従業員(ボランティアかしら)が説明する。キノコ置いてある台の前には、山本光昭著『黄金タモギとは何ぞや』が置かれている。本の惹句を引用すれば、こんなもんである。

 (著者は)信州大学中退後、出版社の植物図鑑の研究と植物写真家時代に自然植物の美しさに魅了され、日本の山岳・高原を歩き回り、自然植物の傑作写真を記録。その後、“キノコの神秘性”に心を奪われ、キノコの生態系から研究を始め、キノコ菌の研究では日本有数の一人に数えられるまでになった。十五年前から“タモギタケ”の研究に没頭し、ついに無農薬の人工栽培技術に成功。そこから生まれたのが「黄金タモギ」という独自のブランド名。この「黄金タモギ」の生食用から粉末、顆粒スティックで、世の難病・苦病に苦しむ人たちに救済の手を差しのべる運動を展開して、講演や講習、そして生産技術指導に東奔西走する毎日。現在、キノコ種菌製造開発「(株)日本通商」代表取締役

 とにかく万病に効くらしいが、私は眉に唾を付ける。生のもの、乾燥させたもの、粉末にしたものの三種類が売られている。乾燥したやつは味噌汁にいれると旨いのだと、おばさんが説明している。「とにかく体に良いんです」こういうのは気分の問題だから、効くと思って食べれば効くかもしれない。キノコは好きだから、別に病気に効かなくても良い。去年買って油で炒めて酒のつまみにしたら旨かったのだ。
 ダンディもいろいろ買い込んでいる。チョウコさんは「小川ハリコ(張り子)」という、なんだか不細工な(?)人形や絵葉書を集めている。いとはん、本庄小町、カズちゃんは団子を食べるのに忙しい。団子は囲炉裏で焼くのだ。「あっ、もう二つも食べてる」私の指摘に対して、いとはんは「三つ目よ」と答えるがそれは嘘だった。「朝早かったのよ」だから団子を食べる資格があると小町は弁解するが、聞けば私が朝食を採ったのと同じ時刻じゃないか。私はまだ腹は減っていないぞ。「栗ご飯を炊かなくちゃ」カズちゃんも栗の袋を手にしている。

 秋の山登らぬ先に山の幸  眞人

 奥の座敷では陶磁器の展示会をやっているようで、テーブルに並べてある。私は興味がないし、靴を脱ぐとあとが面倒なので上がらないことにする。ただし初めての人には、折角だから二階にも上がってみるよう勧めておく。

 これから山に登ろうというのに、土産を買いこんだ人は、すでにリュックを満杯にしている。ずいぶんゆっくり休憩していよいよ出発だ。
 田舎道で私たちの他には誰も通っていないのに、道路はよく舗装されている。「道路を造りすぎる」と上野氏は日本の道路行政を罵倒する。確かにここは農道であり、別にこんなに綺麗に舗装する必要はない。
 ススキが美しい。ススキ、「薄」と書くより「芒」の方が感じが出る。「もうすっかり秋になっちゃったんだ」ヤマちゃんの口調が妙に詠嘆的になってくる。彼は結構いろんなことに感動する。初めて会ったときには、道灌の山吹に因む「紅皿の碑」(大久保)に感動していたのを思い出す。どうも、こういう風景だと、風に揺れるススキなんていう陳腐な紋切型しか浮かんでこない。ロダンがワレモコウを見つけたので、吾亦紅の文字を示す。

 里山に団子を食へば吾亦紅  眞人

 自分では食わない癖に、私のイメージはなんだか団子から離れられない。いとはんと上野さんはが草を見ながら何やら熱心に話をしている。私はメモをとるひまもない。
 農家の庭にヒガンバナが鮮やかに咲いて、その前を猫が悠々と歩いている。

 かひねこのあゆみやはらかまんじゅしゃげ 《快歩》

 三光神社は小さな神社だ。本来は北辰妙見菩薩を祀ったが、明治の神仏分離でこれを捨て(菩薩は仏教だから)、日月星の三光を祀ることに変更した。北辰とは北斗七星のことだ。千葉氏が北辰妙見を信仰したのは有名で、千葉周作の北辰一刀流につながっていく。「神田お玉が池でしょう」ロダンはこういうのが大好きだ。
 ここから暫く里道を歩いて行く。ゲンノショウコ(現の証拠)は白い五弁の花が可憐だ。赤紫のものもあるらしい。フウロソウ科である。そう言えば志木を歩いて、薬舗でゲンノショウコを買っていたのはダンディだった。「沢山あったんですけど、随分飲みました。ゆっくり時間をかけて煎じるんです」
 よく見るキク科の白い花はヨメナである。キク科シオン属のなかに、シオン属(狭義)、ハマベノギク属、ヨメナ属、ミヤマヨメナ属などがある。要するに野菊である。残念ながら私は「野菊の如き」と言うべきひとには会ったことがない。ヌスビトハギ。こんなところは熊でも出てくるんじゃないの」いとはんが怖がるが、「「熊は絶滅寸前ですよ」と上野さんが断定する。年間四千頭も射殺され、九州ではすでに完全に絶滅したと言う。「それじゃ、本州から持っていかない限り、九州に熊はいないんですか」肥前のひとヤマちゃんが驚く。
 こんな風に一所懸命観察しているうちに、先頭とはずいぶん離れてしまった。最初の約束では私は後方守備を担当する筈だったのに、これでは職務怠慢で、リーダーに申し訳ないことをした。「今日は除名を迫る人がいないから、ついついゆっくりしてしまった」宗匠もリーダーに謝る。
 「だから今日は妙に静かだよね」「ほんと、うるさい二人がいないからね」二人とはだれのことか、今日参加していないが心当たりの人は申し出て欲しいものだ。「でも淋しいですよ」最後の声は女性である。
 小さな田んぼの道路脇の金網には稲藁が掛けられている。これもハザと言って良いのだろうか。あまりにも田んぼが狭いから、その中だけでは間に合わないのだろう。田んぼの中にもハザが立てられていて、「昔懐かしいような風景」と和尚が嬉しがる。

 天王池に着いた。「池というより、これは沼ですよ」ダンディが主張し、地図を見ると確かに「天王沼」と書いてあるのに、池畔に立つ石碑には「天王池建設記念」とあるのだ。碑を読めば、灌漑用に作られた人工の池(沼)だ。
 このあたりは旱魃に弱く、昭和三年(一九二八)、木部耕地整理組合を設立してこの池を作った。その結果、約八.八ヘクタール耕地をうるおす池が出来上がったのだ。そのとき、池が破壊されることなく永く木部の里に五穀豊穣、家内安全が続くように池の上側に八坂神社を祭ったため、以後、この池は「天王池」と呼ばれるようになったとされる。八坂神社は牛頭天皇(スサノオ)を祀るから天王様とも呼ばれるのだ。こんなことは上方人のダンディには言うまでもないことだろう。
 池の向こうには小さな東屋があって、親子連れらしい数人が休憩しているのが見える。登山口にはポストが設置され、登山カードを投入するようになっている。さすがに小林さんは専門家だから、きちんと記入して投函する。

 ここからが山道になる。「やっと山登りらしくなってきましたね」鉄人ダンディが喜ぶ。リーダーの後ろには女性陣を配して、私は最後尾の位置をとる。ミズヒキ草の赤が色鮮やかに目立っている。先頭のほうでは上野さんがいとはんに植物名を説明しているが、後ろの方までなかなか伝わらない。「伝言お願いします」
 暫く登っていくと、いとはんや小町が疲れ気味になってきたが、高度計付きの時計を見ているダンディが「まだ百メートルしか登ってませんよ」と無情に告げる。それでも何とか登って、ここが頂上かと一瞬思ってしまった、やや広くなった所に出たところで少し休憩をとる。小学生が一人で登ってくる。「大丈夫か」「無理するなよ」その後ろから、父親らしい声が聞こえてくる。あと少しだ。登っている途中で隊長から電話が入った。「もう食事しているかい」「まだです。頂上まであと二十メートル」「頑張ってね」
 山頂は見晴らしが良い。男体山、赤城、榛名、他いろいろな(私は全く無知なので分からない)山が見える。上野さんは地図を開いて、岳人に確かめている。標高三百四十四・七メートルである。登っている間は汗をかくほどだったが、頂上で動かずにいると風が冷たい。ヤマちゃん、チイさんにならって、長袖をひっかける。「ロダンは若いって言いたいんですか、半袖のままですね」ダンディが声をかけ、「そんなつもりじゃないんだけどな」とロダンも長袖を着こむことになった。
 「官ノ倉って由来はなんですかね」この質問には宗匠がちゃんと準備している。「神のクラ(座)です」「それなら山岳信仰か」とヤマちゃんが納得する。
 狭いところに、なんとかビニールシートを三枚敷いて弁当を取り出す。お尻に岩が当たってちょっと痛い。和尚とチョウコさんは、二人だけでちょっと離れたところで小さなシートに並んで座っている。和尚はなぜか女性に好かれる。羨ましい。
 「梅も作っています」会社を辞めて農業に勤しんでいるチイさんが自家製の梅干しを出してくれる。「私が漬けたんじゃないよ」それならチイさんの奥さんは梅干し作りの名人だ。大きな梅を私は二つも頂戴してしまった。
 「良かったよ、来たい来たいって思ってたから」小町はこの山に初めて登ったのだそうだ。上野さんが集合写真を撮ってくれる。それでは出発しようとすると、「皆さん、ちょっと待ってください」珍しくロダンが講釈を試みる。「この岩はチャート角礫岩、珍しいものです」ロダンは地学ハイキングの常連メンバーで、これは専門である。私は地学、地質学にはまるで疎いからそう言われても分からない。

 チャート(chert)は、堆積岩の一種。主成分は二酸化ケイ素(SiO2、石英)で、この成分を持つ放散虫・海綿などの動物の殻や骨片(微化石)が海底に堆積してできた岩石(無生物起源のものがあるという説もある)。断面をルーペで見ると放散虫の殻が点状に見えるものもある。非常に硬い岩石で、層状をなすことが多い。
 チャートには赤色、緑色、淡緑灰色、淡青灰色、灰色、黒色など様々な色のものがある。暖色系のものは、酸化鉄鉱物に起因し、暗色系のものは硫化鉄や炭素化合物に起因する。緑色のものは、緑色の粘土鉱物を含むためである。これらは、堆積した環境によって変わると考えられている。(ウィキペディア「チャート」)

 「それにここは、根なし山としても珍しいものです」根がない山とは何であるか。どうも難しい説明が続くので、うろ覚えで聞いたことよりもネットで検索してしまったほうが早い。いろいろ探していると、なんとマッターホルンのところに「根なし山」の説明があった。

 実は、この山は根無し山なのです、一方富士山のような山は地底のマグマが噴出して出来ているので、しっかりと地球に根元を食い込ませています。  大昔(中世代から新生代にかけて)の地球規模での造山活動が盛んであった頃、複雑に褶曲、衝突、せりあがり、もぐりこみ等の激しい地殻変動活動を何回も繰り返した結果に出来たのがヨーロッパアルプスです。
 マッターホルンは、ちょうど、・大きな岩を地球に突き刺した形で立っていると考えて良いでしょう、ある意味では船のように浮かんでいると言えるかもしれません。
 富士山は地球にしっかりと根を張っているので‘腫瘍’、そしてマッターホルンは根が無いので‘にきび’ではいかがでしょうか?
     http://www.geocities.jp/yukiwada33/zer.sub7.html

 褶曲、衝突、せりあがり、もぐりこみなんていう言葉から想像してみるのが一番良いのだろう。二週間前に下見をしてくれたドクトルからは、「官ノ倉山の山頂は主に硬質の珪岩により形成され、小突起として侵食に耐え残った山と見ました」と報告されている。この会に参加していると、植物から地質まで、自然系の知識が頭脳を溢れるほど披露されるから、メモをするのも大変だ。
 上野さんとはここで別れ、私たちは「あそこですよ」とリーダーが指し示す石尊山に向かう。ちょっとした岩場を下り、すぐ登りになる。この山は官ノ倉山より見晴らしが良いはずなのに、頂上と思しき場所は林のように樹木で囲まれてまるで周囲が見えない。そこから少し下って(だから最高峰ではないのだろう)、本当に見晴らしが良い場所が頂上ということになっている。石の小さな祠が二つあって、下りの降り口には注連縄が張ってある。何を祀っているのかと言えば、その名の通り石尊であるが、それは何か。ダンディが電子辞書を検索して、「石尊」は大山信仰だと教えてくれる。

 昔から、笠原の里の人達は信仰が篤く、特に土地の福田紋次郎という人が、明治五年(一八七二)ころ、里の五穀豊穣を祈願して、相模の国中郡の阿夫利神社を勧請したのが始まりである。
 石尊信仰とは、丹沢山系の大山にある阿夫利神社を中心とする山嶽信仰のことである。山頂の石尊権現と山腹にあった大山寺が信仰の中心であった。
 石尊の名前の由来は山頂の岩石による。山の頂の岩に神々が降りると信じられていたため、石尊の名がついたとされる。
 http://www.itede.net/Dialy/kankura.htm

 大山詣り。宗匠は一度登っている筈だが私は落語でしか知らない。大山阿夫利神社の神体は大山祗大神(オオヤマツミノカミ)であるが、石尊「権現」というからには神仏習合していたのだ。権現とは、仏が権(仮)に神の姿をして日本に降り立ったものだから、明治の神仏分離令後、石尊権現の名称が廃止され、阿夫利神社とされた。「カマキリを拝んでしまいました」ダンディが祠の上のカマキリを摘みあげる。

 蟷螂にお詣りをする秋の山  眞人

 下りはちょっと怖い。岩場には鎖が設置されているが、あまり役に立つようには思えない。鎖に頼りすぎると却って危ないと、ドクトルも注意を促していた。子供のころは山を駆け巡っていたというカズちゃん、遠野で河童と遊んでいたチョウコさん、日頃森林公園を歩きまわっている村田さんは早い。あっという間に姿が見えなくなるが、後方守備担当としては、小町といとはんを守らなければいけない。いとはんが尻もちをついた途端、私もお付き合いをして滑って肘を少し打ってしまった。痛いが、男子たる者そんな顔を見せてはいけない。
 本来であれば中将が小町の守護をしなければならないのだが、「そっちじゃないよ、そこを歩くんだよ」と声をかけるだけだから、私やロダンが小町の手をひくことになる。いとはんはロダンと岳人を両手にし、その手を広げて「嬉しいわ」と喜んでいる。「フォークダンスじゃないんですから」チイさんが笑う。雨が降ればこの岩場はとても歩けない。本当に晴れて良かった。

 秋の山マイムマイムはぎこちなく 《快歩》

 それでもなんとか難所を越えれば普通の山道だ。少し降りて、やや下り坂の右側の崖に狭い石段が続いているのが、北向き不動だ。左手には湧水を木の樋で運んだ水が流れている。この水で手と顔を洗う。冷たくて気持ちが良い。「飲んじゃだめですよ」直接湧いている水ならともかく、樋を流れている間に何が混入するか分からない。北向き不動説を明する立札が立っている。

 北向不動は笠原の里を見おろすように北向に建っている。
 祀られている不動明王は、五大明王の一つで密教の中心的仏像であり、大日如来が悪魔を降伏させるために化身したものである。特に修験道の本尊として山伏とともに広まり、庶民の信仰の中に浸透した。
 また、三十六童子については次のような伝説が残っている。
 昔、笠原の里は、水利も悪く不自由な土地であったそうであり、土地の庄屋は里人から年貢を取り立てず、庄屋持ちの不動様の山の財産で立て替えていた。ところがとうとう年貢が納められなくなり、村から逃げ出そうとし村を去るにあたって何か記念を残したいと思い、居住していた三十六戸の戸数を童子にみたて、三十六童子を建立したそうである。
 不動様、三十六童子、雨乞いが行われたといわれる不動の滝などがあるこの地は、里人にとって信仰のよりどころであったことがうかがえる

 「挑戦する人はいますか」和尚がすぐさま石段に取りついたので私も後を追う。狭い上に段差が不揃いだから、鉄の手摺につかまらなければ危ない。しかし登り始めればすぐに崖の中腹にある祠の前に到着して息を整えていると、なんだ、結構みんな登ってくるじゃないか。いとはんが一番後ろから石段に手をつきながら這うように登ってくる。「だって折角来たんだもの」下りの方が怖いが全員無事に下に着いた。
 降りてから気がつくと、石段の両側には制多迦童子(セイタカドウジ)と矜羯羅童子(コンガラドウジ)の板碑が建っている。この二人を中心にした不動明王の眷属、八大童子というのは知っていたが、三十六童子というのは知らなかった。
 全く関係ない話で恐縮しながら言うのだけれど(もっとも私の作文自体がいつだって恐縮すべきものなのだが)、セイタカドウジという言葉を聞くと、私はいつも、さとうさとる『誰も知らない小さな国』という児童文学を思い出す。昭和三十年代半ば、さとうさとる、いぬいとみこ、山中恒などが輩出して、日本児童文学のルネサンスと呼ばれた時期で、その頃ちょうど小学生だった私はこれらに夢中になったものだった。その中で、さとうさとるのコロボックル物語第一作の主人公が、後に婚約者になる女性に「セイタカドウジ」と呼ばれるのだ。

 ここからは山道というよりは里山に近い道になる。ようやく花を眺めるゆとりができてきた。キダチチョウセンアサガオを植えている民家が目立つ。小川町の人は殊にこの花を愛好しているのだろうか。ヒオガンバナ。
 長福寺は割愛して八幡神社に到着すれば、ちょうど子供相撲大会をやっているところだった。奉納相撲であろうか。小川町教育委員会のテントが設営され、大東文化大や国士舘などのネーム入りのジャージを着た大男が、行司や介添えになって動いている。そう言えば朝、竹沢を出発する時花火の音を聞いたのを思い出した。このためだったのだ。ちゃんと土俵が設えてある。

 すまひとる童の肩に秋の風  眞人

 本殿前の鳥居の上には鳩が鎮座している。「鳩はどういう意味なの」「鳩は八幡神の使いである」偉そうに答えたが、実は私も去年調べて知ったことだった。「鎌倉の鶴岡八幡にもいるよ。鳩サブレもあるし」小町が裏づけてくれる。「鳩サブレ」ってそういうことだったのか。この八幡は、そもそも鶴岡八幡を分祀したものだ。
 なぜ鳩が八幡の使いなのか。宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ八幡様を勧請する折、白い鳩が道案内をしたことに因るというのだが、良く分からない。ただ、このことから分かるのは、八幡神はもともと宇佐の神であったことだ。おそらく朝鮮半島から日本へやってきた人たちが信仰していたものだろう。祭神は応神天皇だが、仏教と習合して八幡大菩薩となり、源氏の守り神になったのは何故なのかも私には分からない。
 小町が梨を配給してくれた。これは小町のリュックではなく、中将の方に入っていたものだが、「いつまでも持ってちゃしょうがないからね」という小町の託宣で、出されたものだった。美味しい。
 「芭蕉の句碑見つかった?」宗匠が聞いてくるがまだ見つからない。ドクトルのメールに書いてあったのだ。土俵の裏のほうに回ってみると「蕉門」という文字だけがわずかに読める碑が建っているが、これではなさそうだ。仕方がないので皆の方に戻ると、反対の方に行っていた宗匠が見つけてくれた。文字はかすれていてほとんど判読できないから、説明板に従うしかない。

 者流もやゝ気色とゝ乃ふ月登梅  者世越

 「者」は変体仮名で「は」と読む。「者世越」は「はせお」である。私は古文書をもう一度勉強し直そうと、最近、吉田豊『寺子屋式古文書手習い』というごく初歩の入門書を買ったばかりだ。今風に表記すれば、「春もやや気色整ふ月と梅  芭蕉」である。
 「それじゃ晴雲酒造に向かいましょう」最初岳人のコースには入っていなかったようだが、ドクトルが事前に報告してくれたので、行かなければダンディが納得しない。「だって、楽しみにしている人がいるんですから」和尚も「是非行きましょう」と力を込める。
 小川の町中に入れば、古い街道なのだろう。「紙屋」の屋号を入れた二階建て木造の店舗が残っている。そいえば小川町は和紙の町でもあった。
 酒蔵に近づくと、煉瓦塀には万葉の歌を記したパネルが嵌め込んである。三十一番とつけられているから、まだあるのだろうかと注意していると、晴雲酒造の入口の塀に三十番の歌があった。三十一番に二首、三十番に一首、すべて山部赤人である。私は赤人(というよりも)万葉に詳しいものではないが、とりあえず記しておく。

 み吉野の象山(きさやま)の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだも騒ぐ鳥の声かも
 ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く
 若の浦に潮満ちくれば潟をなみ葦辺をさして鶴(たず)鳴き渡る

 最後の歌を読んで「これ有名だよ」とヤマちゃんも宗匠も口を揃える。佐賀県ではそんなに有名なのか。それにしても、この歌と小川町とはどういう関係にあるのか、まるで分からない。

 秋登山万葉の歌でしめくくり  眞人

 店内に入ると隊長が待っていた。一日中、この近辺を(ただし平地)を歩いていたそうだ。まず、仕込み水を飲む。予想に反してあまり冷たくないが、ここでは酒の試飲ができる。若い衆が出してくれたのはまず生酒だ。しかし口にする前には、説明を聞かなければならない。カズちゃん、チョウコさんは手を出すだろうと思っていたが、村田さんまで手を伸ばしたのには驚いた。度数十九度だからかなりきついが確かに旨い。夢中で飲んでいる私たちを、小町といとはんはベンチに腰掛けて見ている。  講釈は続いているが、堪りかねた誰かが「次にいきましょう」と声をかけ、今度は「無為」という季節の酒を出してくれる。最後は大吟醸である。

 講釈に堪へて新酒の試飲かな 《快歩》

 玄米から大吟醸を造るためには、どれほど米を磨かなければいけないか。実物を見せながら講釈は続く。講釈師が欠席しても、どこかに必ず講釈をする人が現れてしまう。ここで酒飲みたちはそれぞれ気に入った酒を土産に買う。私は酒飲みではないから買わない。
 駅前の喫茶店「コスモス」で休憩だ。「やっぱり喫茶店で一次会ですか」小林さんは最初から酒に行きたい様子だが、女性陣がいるから喫茶店は外せない。それに今日はいないが、講釈師が酒を飲まないから、喫茶店に入らないと機嫌が悪いのだ。さっきの試飲で酔ってしまったか、村田さんの顔が赤い。
 宗匠が万歩計を確認して、今日はおよそ二万歩余を歩いたことになると報告すると、いとはんは「私の万歩計は一万二千六百いくつしかない」と言う。それはあんまりだ。実感と違いすぎる。やや暫くして「これ、さかさまに読んでいるんですよ」とロダンが原因を発見した。デジタル表示の文字だから逆さに読んでも確かに数字は見える。おそらく、正しく読めば「二〇九二一」のところ、逆に読んで一万二千六〇二歩になってしまったのだろう。機械が悪いのではなかった。

 休憩が終われば私たちは酒を飲みに行かなければならない。中将と小町は寄居に向かう。村田さんは森林公園で別れて行った。酒飲みたちは川越で降りたが、いとはんはそのまま乗っていった。「この次は、ふじみ野、志木、朝霞台ですからね」と念を押して別れる。
 川越はロダンの縄張りで、その後をついて行くとどうやら今日は「ビッグ」ではなく「さくら水産」になるようだ。クレアモールはいつも人通りが多い。本編に参加したのが十六人、酒を飲むのが十二人だから、歩留りが良い。カズちゃん、チョウコさんのように女性が参加してくれるのはとても嬉しい。
 ビールをあけ、焼酎に移ればすぐにボトルが開いてしまう。隣の席ではなぜかカラオケの話題が出たらしく、「佐藤さんは歌がうまい」という話題が出たらしい。「今度ぜひご一緒したいです」とカズちゃんが言う。しかし、「上手いとか、お上手というのは、アマチュアに対するお世辞である。私はあまり嬉しくないな。(こういうことを言うから、私は嫌われる)
 今日も楽しく飲んで、男性ひとり一人二千四百円、女性二千円。やはり「さくら水産」である。

眞人