野川・国立天文台   平成二十一年四月二十五日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.5.2

 雨である。予報では午後からは暴風雨も心配されるが、事前に通知された隊長の案内には「雨天決行」の文字が厳しく記されている。行かねばならぬ。
 これまで雨の日にはリュックの中もびしょ濡れになった経験から、今回は余計なもの(年表とか、結構いろいろ資料類を持っているのです)を取り出し、弁当とシートだけにした。それにリュックを保護するものが必要だろう。「ビニールの風呂敷みたいなものはないかな」「そんなものはありません」妻は冷たい。ふとひらめいて、ゴミ袋を突っ込んできた。
 北朝霞から武蔵野線に乗り換え、西国分寺で中央線に乗り込んだ。国分寺を過ぎたあたりで電話が鳴った。「こんな雨ですけど、行っても良いんでしょうか」カズちゃんである。「大丈夫です。俺も向かっています」
 武蔵境駅であんみつ姫と一緒になった。「何時に出てきたんですか」「八時十七分、鶴ヶ島です」「私は七時五十分かな」勝った。私の方が近かった。威張る理由も何もないのだが、なんとなく自慢したくなってしまう。ここから西武多摩川線に乗るのだが、私はこの路線は初めてだ。別に西武多摩湖線や、東急多摩川線というのもあって、ちょっと紛らわしい。新入社員の頃、武蔵境駅には何度も降りたことがあったのに、あの頃からこんな路線があったかしら。調べてみると意外に古いから、私の観察力がいかにずぼらであったかが分かってしまう。

多摩川河原で採取した川砂利を運搬する目的で、一九一〇年八月に設立された多摩鉄道によって開業した路線である。また戦中は中島飛行機の工場・引き込み線があり、沿線工場への貨物輸送にも利用された。
一九一七年十月二十二日に境(現・武蔵境)― 北多磨(現・白糸台)間、一九一九年六月一日に北多磨 - 常久(現・競艇場前)間、一九二二年六月二十日に常久 ― 是政間が開業した。一九二七年八月三十日に(旧)西武鉄道に合併され、同社の多摩川線となった。一九五〇年に電化され、一九六七年に貨物輸送を廃止した。(ウィキペディア「西武多摩川線」)

 「こんな日に本当に参加者いるのかしら」「少なくともカズちゃんだけは来ます」わずか二分で着いた新小金井駅は小さな駅だった。降りたホームの端で線路を渡って向こう側のホームに出ると、出口のところに隊長と伯爵夫人の姿が見えた。手を振ると隊長がびっくりしたような顔をしている。私と美女は同伴出勤だからね。「ウソです」。ホステスが馴染み客を呼び出して一緒に出勤することだが、今でもこんな言葉はあるのだろうか。まずトイレで用を済ませて改札を出ると、ダンディとロダンがいる。
 「軟弱ですね、われわれは東小金井から歩いてきたんですよ」ダンディの台詞は前にも聞いたことがあるようだね。ロダンが「武蔵浦和でダンディと出会って教えてもらったんです」と言う。ダンディはあらゆる場所の地理を熟知しているから歩いて来られるが、私の持っている(そしてあんみつ姫も持っていた)東京の地図では、ちょうどこの辺りがちょん切れていて、確認できなかったのだ。
 やがてカズちゃんが、次いで岳人が登場して今日のモノ好きは八人に決定した。私も含めて余程閑なのか。岳人の歩き方がなんだかぎこちないのは、一週間前の両神山登山による筋肉疲労の影響である。「もう一週間も経つんですよ」「自分で思うほど若くないってことなの」「荷物が重すぎるんじゃないの」「そう言えば、余計なものを持ち過ぎてますね」
 私はゴミ袋を取り出し、きっちりリュックに装着する。二つ折りにするとちょうどサイズが上手い具合にあう。「なかなか考えてるじゃないか」と隊長が笑っている。専門家はちゃんと専用のカバーを取り付けているのだ。「私のなんか、リュックより高ったんですよ」と美女が言う。そんなに高いのか。
 ロダンはセーターを着込んでいる。そんなに寒くなるのかしら。「こんな雨の中、行くのはバカだって怒られた。風邪をひくと何を言われるか分からないから」
 美女もカズちゃんも雨合羽を取り出している。ダンディも「六十年間、風邪をひいたことがない」と言いながら、ビニールのカッパを着こみ、それぞれ雨対策は完璧にできている。私はティーシャツの上に長袖シャツを着て、薄手のジャンバーを羽織ったばかりだ。私だけが無防備であった。ロダンの用意周到さを見習わなければならなかったと気づくのは、ちょっと後のことになる。

 踏切を渡って南に向かって住宅地の中を歩く。民家の垣に咲く黄色い花に岳人の足が止まった。これは私に聞いてほしいね。淡い黄色がなんとなく上品そうで、モッコウバラ(木香薔薇)と言う。綺麗な薔薇には棘があるが、このバラには棘がない。これは去年、国分寺を歩いていて誰かに教えてもらったのだった。あのとき、シオ爺が「棘のないバラがある」と感激していたのも思い出す。
 適当なところで西に曲がって歩いて、西武線の線路に出たところで、それに沿った下り坂になる。左側の林は国際基督教大学の敷地になっていて、住所表示は三鷹市大沢だ。道の右手には「国際基督教大学構内十五番遺構」のお看板が立っている。後期旧石器時代の遺跡であるが、申し訳ないけれどあまり興味を感じない。
 「思い出しました。この辺はキリスト教系の学校が固まっているんですよ」何でも知っているダンディが言い出した。確かに地図を見れば、ICUに隣接するようにルーテル学院大学、東京神学大学が存在する。「それぞれ派が違うんでしょうか」「そう言えばクリスチャンがいるじゃないですか」しかし美女は「私はそういうことは知りません」とそっけない。それなら疑問を持ったときが調べ時である。いつものようにウィキペディアを参照する。
 国際基督教大学(ICU)は、キリスト教超教派によって創設されており、米国型リベラルアーツ・カレッジの形式を踏襲している。一九四九年、御殿場にあるYMCA東山荘で催された日米のキリスト教指導者による会議において、国際基督教大学の創設が正式に決定された。ということは、カトリックもプロテスタントも合同しているということだろうか。
 ルーテル学院は、日本福音ルーテル教会と日本ルーテル教団が創立の母体というから、明らかにプロテスタント系である。これはなんとなく分かりやすい。
 しかし東京神学大学はちょっと難しいので引用してみる。

メインライン(主流派、エキュメニカル派)プロテスタントの合同教会たる日本基督教団立の神学校である。特徴としてドグマ重視の教会的神学を掲げる。神学の座として教会を据え神学研究を続けながら、同時に伝道者育成をする。キリスト教福音派からは神学的リベラルの立場に立つ神学校と見なされるが]、日本基督教団内では神学的保守と見なされることもある。教理的には改革派・長老派とメソジストの影響を強く受けている。(ウィキペディア「東京神学大学」)

 この記事を読んで理解できた人は、相当キリスト教に詳しい人だと思う。「ドグマ重視の教会的神学」なんて、スコラではないのか。私はよく分からない。それはともあれ、ICUの広大な敷地と隣接して都立野川公園が広がっている。このあたりは、ちょうど行政区画の境目になっていて、この公園は、小金井市東町一丁目、調布市野水一・二丁目、三鷹市大沢二・三・六丁目にまたがっているのだ。
 野川公園の大部分はもともとICUのゴルフ場だったところで(それ以前は米軍の施設だったかな)、そのせいだろう、芝生が整備されている。雨のために流れは速いが、野川の水はきれいだ。草むらの中をカルガモガ二羽、のんびりと歩いている。野川とは何か。

国分寺市東恋ヶ窪一丁目の日立製作所中央研究所内に源を発し南へ流れる。西武国分寺線・JR中央本線と交差し、真姿の池湧水群からの湧き水を合わせ、東へ向きを変える。小金井市に入り、武蔵野公園にさしかかるあたりから東南に流れ、西武多摩川線とを交差し、野川公園に入る。小金井市と調布市の間を何度も縫ってその後三鷹市を流れ、再び調布市に入る。
京王線と交差し、調布市と狛江市の境を何度も縫い、調布市入間町付近で支流の入間川を合わせる。世田谷区に入り、神明の森みつ池からの湧水を合わせて、小田原線をくぐり、東名高速道路と交差する。世田谷区鎌田で北から流れ来る仙川を合わせ、多摩川と並んで二子玉川で国道二四六号新二子橋や二子橋をくぐり、東急田園都市線・東急大井町線二子玉川駅のホーム下をくぐった後、世田谷区玉川一丁目付近で多摩川に合流する。野川の北側に並行して大昔多摩川が削ったといわれる河岸段丘である国分寺崖線がある。「ハケ」と呼ばれる崖の斜面からはかつてに比べれば大幅に減少しているものの清水も多く湧き、都内でも珍しい自然が残っている。(ウィキペディア「野川」)

 「この川の左のあっちの方、あれが崖線なんだよ」隊長とロダンは、しきりに国分寺崖線のことを話している。去年の四月に国分寺周辺を歩いた時に、ちょうど、日立中央研究所や真姿湧水群を見ているから、私にも少しは地理的感覚が蘇ってくる。関東ローム層、武蔵野礫層、上総層なんていう用語を駆使して、二人が話題にしている貝塚爽平『東京の自然史』は私にはとても難しすぎて手に負えなかった。
 「あの本が私の生涯の趣味を決定したんですよ」実に名著であるとロダンは力説する。そうなのだろうね。私は国分寺崖線とかハケなんて聞くと、大岡昇平『武蔵野夫人』のほうが頭に浮かんでしまうから、それぞれの趣味嗜好はそれほど違う。
 北門入口から入り、川に沿って歩いて行くと、クリ橋、もみじ橋、みずき橋なんていう橋を過ぎる。みずき橋の両岸には、その名の通り、ほんとうにミズキの木が林立して花を咲かせている。
 川沿いの道の両側は草むらになっていて、その草が水を含んでいるから、靴の底がなんだか湿っぽくなってきた。最初は自然観察センターに寄る。「ここで資料を二枚もらってください」隊長の指示がでるが、「四月自然観察園の花だより」はあっても、隊長の期待したもう一枚がない。隊長が係員にお願いして人数分コピーしてくれたのは、樹木観察クイズ「この木なんの木」問題用紙であった。
 センターの水槽のなかに、ガラスにへばり付いているカワニナを初めて見た。「カワニナって何」ロダンだって、去年国分寺を歩いたじゃないか。「お鷹の道」あたりの細流に、カワニナの説明板が立っていた。その時私は知らなくて、そういう種類の花があるのかと口走って宗匠にバカにされたりしたものだったが、「川蜷」である。巻貝の一種で、ゲンジボタルの幼虫がこれを餌とするため、カワニナのいる川には蛍が生息していることが多い。

 トイレ休憩を取って、いよいよ自然観察園に向かう。雨は一向に止みそうもない。かえって朝方よりも激しくなっているようだ。公園の中で観察園は鉄柵で区切られていて、専用出入口から入らなければならない。木道を歩き、傘をさしながらロダンは一所懸命メモをとっているが、私は諦めた。さっきもらったコピーがあれば、あとで思い出せるんじゃないか。
 薄い緑色をして、細長い筒状の三四センチほどの花が下を向いてついている。あんみつ姫は「ナルコユリです」と言うが、これはホウチャクソウ(宝鐸草)じゃないか。すぐに訂正が入って、やはりホウチャクソウであると確認できたのは、我ながら偉い。「去年、国分寺で見ましたよね」とカズちゃんもやっぱり覚えている。「だって印象深かったから」
 写真を撮っておこうとカメラをとりだすと、充電が切れていて撮影できないのが情けない。しかも自分で褒めてみたが、実は良く分かっていないことがすぐに判明する。そもそも「ナルコユリ」なんて初めて聞いた名前で、私はただ一度聞いただけのホウチャクソウしか頭にない。宝鐸草はユリ科である。ナルコユリ(鳴子百合)もその名の通りユリ科であって、形がよく似ているのだ。もうひとつ、これも国分寺で教えてもらったのだが、アマドコロも似ているのであった。
 オドリコソウ(踊子草。シソ科)がこんなに群生しているのは初めて見る。淡紅色の花の形がなんとも言えない不思議な形をしている。去年の五月、栃木の大平山で見つけた時は、僅かに数本、しかも花色が少し茶色に変色しかけているようだった。あれは時期が既に遅かったからだろうか。

  野道行き踊子草に雨頻り  眞人

 サクラソウも群れて咲いている。「なんて言っても浦和の花ですから」というのはダンディだ。浦和の田島に群生地があり、「浦和倶楽部」と称して何人かで見に行ったことがある。
 ムサシアブミはマムシグサに似ている。「アブミって馬に乗る時の」「そうです」カズちゃんとロダンが話しているのが聞こえる。武蔵鐙。「これが花ですか」くるっと巻いているような形が、鐙をさかさまにしたようだと言えば良いのだろうか。すぐそばにマムシグサも見つけた。すっと立ち上がっている茎の模様が、蛇の鱗に似ていると言うのである。どちらもサトイモ科テンナンショウ属だ。
 ラショウモンカズラ(シソ科)は薄紫の花だ。その形が、頼光四天王の渡辺綱が羅生門で切り落とした鬼の腕に似ているというのだが、そうかな。サギゴケ(ゴマノハグサ科サギゴケ属)は白い小さな花が鷺に似ていると言われれば納得するが、コケと言われると違和感がある。

本州以南の日本各地に分布する多年生草本。湿った草地や水田の畦などに生育しており、ほふく茎で広がる。群落が広がると、地面に葉がびっしりと広がり、他の植物が生育しにくくなるほどである。(ウィキペディア「サギゴケ」)

 同じ花の形で紫色のも咲いていて、これはムラサキサギゴケである。イチリンソウ(キンポウゲ科イチリンソウ属)、ニリンソウ(キンポウゲ科)。その他にもジュウニヒトエなどいくつか教えてもらったが、カメラはないし、メモもとらなかったから、ここに書くようなことは何も覚えていない。
 樹木の方はどうだったろうか。ロウバイはミノムシのような(こう言うと怪しげであるが、実際に見れば結構面白い形だ)実をつけているのに記憶があった。「実の中にゴキブリの種みたいなものが入っている」隊長の言葉に、「ゴキブリなら、隊長の友達じゃないか」とダンディが笑う。ゴキブリと遊んで足の指を骨折した人がいましたね。しかし、「ゴキブリの種」とは何であろう。ゴキブリは種から発生するか。どうやら隊長の意図は、「ゴキブリの卵みたいな種」と言う積りだったようだ。
 ムラサキシキブは実がついていなければ私には区別がつかない。こんなに大きくなるのかと驚いただけだ。
 「この木なんの木」問題用紙には三十番まであるのだが、一番印象的だったのはウワミズザクラである。十〜十五センチ程のブラシのような房に、小さな白い花が無数についている。花の大きさより相対的に長い雄蕊は透き通るようだ。遠くから見かけたことはあるが、こんなに間近まで枝が降りていて花を観察するのは初めてだ。隊長や美女にとっても珍しいことらしい。返す々すもカメラの充電忘れが悔やまれる。漢字では上溝桜と書く。それならばウワミゾと読むのではないのと素人は考える。実は「杏仁子」とも言って食用になるのだと隊長が教えてくれる。この実で果実酒を作ると「とっても美味しい、お薦めですよ」と梅酒の大好きな美女が言う。

 春逝くやこの木なんの木傘傾げ  眞人

 だんだん体が冷えて、靴の中が水っぽくなってきた。観察園を出たところで、伯爵夫人はここでリタイアしたいと言う。今朝は一番早くやって来たのに残念ではあるが、風邪を引いては大変だ。大事を取った方が良い。さっきの観察センターにバスの時刻表が貼ってあったから、時間を調整して帰れば良いだろう。

  野を行かば冷たき雨よ暮れの春  眞人

 川に沿って暫く歩いて東門から公園を出れば住宅地になり、すぐに龍源寺に着く。曹洞宗大沢山龍源寺。この「大沢山」はこの辺の地名、三鷹市大沢に由来するのだろう。脇から入って境内のヤマボウシを見て、いったん人見街道側の門の外に出ると、近藤勇の像と「近藤勇墓所」の石碑が立っている。ここは勇の生家である宮川家の菩提寺である。
 「お墓も見ますか」折角ここまできて墓を見ない手はないだろう。本堂裏に小さな竹林があって、墓地の入口に入った所に近藤家の墓がある。正面の墓石は五基、向かって一番右は近藤家累代の墓、二番目の一番背の高いのが勇の墓だ。その左隣は勇五郎と読める。「それ誰ですか」「そういう人、いませんでしたか」講釈師がいれば即座に解答を出すのだろうが、あいにく、今日のメンバーには講釈師ほど新撰組に強い人間がいない。実はこれは勇の長兄音五郎の二男で、勇の娘婿になった人物であった。
 近藤の戒名は貫天院殿純誠義大居士。「院殿って、最高級の戒名でしょう」ロダンは興奮したような口ぶりだ。「高いんですよね」「こういう戒名をつけちゃうと、子孫が大変なんですよ。ランクを落とすわけにはいかなくて」みんなには余り縁がなさそうな名だが、これは松平容保の命名であると言う。
 「板橋にもありますよね」とロダンだが思い出す。板橋駅前には永倉新八によって建てられた墓がある。板橋は近藤が処刑された場所だから縁がある。その他、会津天寧寺、岡崎市法蔵寺と、勇の墓は四か所あるらしい。会津は容保との縁で分かるが、岡崎の法蔵寺はなんだろう。調べてみると近藤の首を祀ったところだという。その由来はこうである。三条大橋に晒されていた近藤勇の首を、斎藤一が奪取して、当時三条大橋近くの誓願寺にいた孫空義天に供養を依頼した。その義天が後に岡崎の法蔵寺に移った時に、その首を移したのだと伝えられている。真偽は不明だ。
 今日の仲間の中では近藤の評価はあまり高くない。「土方は美男ですよね」「だって近藤の最後が見苦しいでしょう。それに比べて土方歳三のほうは潔い」上方人ダンディの評定である。歳三を潔しと見るかどうかはちょっと難しい。そもそも歳三がこんなに有名になったのは司馬遼太郎のお蔭だと思うが、思想信条の潔さというよりも、戦争が好きな人物であったということじゃないか。平時には生きられないが、戦になると鮮やかな生き方を示す類の人物がいる。(ここから歩いて二三分のところに、近藤勇生家跡や近藤家の道場跡がある。生家跡には小さな祠が祀られているだけだが、道場「撥雲館」跡の標柱のある家には「近藤」の表札が掲げられている。一族であろうか。)

 人見街道から御狩野橋を渡ってすぐに、「ホタルの里」の看板のところを右に回り込む。すぐそばには東八通りという幹線が通っているのに、こんな近くに湿地帯が整備されている。木道を歩いて行くと横穴墓群八号墓に続く登り坂の入口手前に、わりに大きな白い花が群生していて、隊長が立ち止まって注意を促す。これはカラーであろう。これも去年、国分寺の湧水群の細流でみた。カイウ(海芋)とも言う。白い花は茎の中心からすこしずれている(この形を仏炎苞というようだ)のだが、真ん中に黄色くて長い雌蕊のようなものが一本伸びている。これは実は雌蕊ではなく、小花が密生し直立する肉穂花序であるそうだ。つまり、このちびた鉛筆みたいな黄色い棒が花なのである。サトイモ科オランダカイウ属。
 小さな木戸を抜け崖に沿って石段を上ると、中腹に八号墓の公開施設がある。私は考古学に弱いので、パンフレットをそのまま引用するしかない。

 横穴墓は古代の墓のひとつの形で、古墳時代の後半(五世紀終わり頃)から、六七世紀まで盛んに造られました。(中略)
 古墳が人工的な墳丘を持っているのに対して、横穴墓は給料や崖など自然の斜面を横に彫って造られることが最大の違いです。(中略)
 玄室は、石列によって前室と後室に区切られ、後室には三体、後室から前室にかけて一体の計四体が埋葬されていました。(中略)これらの人骨は、一度にではなく次々に改葬された結果だと考えられます。これを追葬と呼び、横穴墓や横穴式石室のもっとお特徴的な埋葬の方法とされています。(「利用案内」三鷹市教育委員会)

 ボタンを押すと解説の音声が流れ、ガラスで仕切られた内部に光があてられる。内部の人骨は、もちろん本物ではなく模型である。ここが八号墓というのだから、三鷹にはかなりの数の、こうした横穴墓が発見されているのだ。これも国分寺崖線という地形的なものに関係があるのかもしれない。それにしても、下は湿地帯、ここは崖の中腹である。こんな場所にわざわざ横穴を掘るのはかなりの労力が要った筈だ。仏教渡来以前の日本人の死者に対する感覚が、今気にかかっている。
 そろそろ腹が減ってきた。「それじゃ、天文台で食事にしましょう」隊長の声で出発する。
 畑の中を通り抜ける。「三鷹ってこんな田舎でしたか」岳人が三鷹市に対してやや失礼な感想を漏らす。確かに田舎である。鶴ヶ島とそれほど変わりはしない。
 濃い赤紫の花が枝いっぱいに塊になって咲いているのを見て、「ハナズオウじゃないかな」と岳人が指摘し、美女が確かにそうだと確認する。岳人は偉い。花蘇芳。なるほど、蘇芳色と言うのはこんな色なのか。

 やがて天文台の塀が見えてきたが、その敷地は広い。ところどころに通用門が開いているのだが、見学者は正門受付に行けと言う案内が張り出されていては、近道をするわけにはいかない。長大な塀の周りを一歩づつ進んでいくしか仕方がない。やっとバス通りに出ると、右側に入口があるようだ。「やっと着きましたか」「到着です」
 受付で人数を申告するとワッペンをくれる。これを服の上から貼り付けなければならないのだが、服は雨で濡れているからすぐに剥がれ落ちる。みんなは中の服になんとか貼り付け、私は帽子に貼り付けて、これなら良いだろう。
 隊長は食堂を利用させてもらう積りだったが、土日は閉鎖していると言う。「どこか、食べられるところはありませんか」「すぐそこのラーメン屋が」そういうことを聞いているのではない。雨を凌いで休憩できる施設のようなものはないのだろうか。「そういうものはありません。建物内部はすべて飲食禁止です。」
 とりあえず構内に入り込み、どこか良い場所はないかと探して歩く。広い敷地で樹木が多く、散策にはもってこいの場所だ。見学者を想定しているのだから、東屋くらい造ってもバチはあたらないのではないかと思うのだが、役所のすることはこんなものか。
 隊長が一人でどんどん歩いて行くのは成算があるのだろうか。結局見つけたのは閉まっている食堂入り口の、僅かに庇が伸びているコンクリートのところだ。ここに二枚のシートを敷き、七人が体を寄せ合って座り込む。「これも思い出になるわ」カズちゃんがしみじみと感慨を述べる。
 そのカズちゃんが熱いお茶を入れてくれる。熱いお茶は嬉しい。彼女はこのために、小さなコップまで用意してきているから偉い。美女は漬物を配給してくれる。食事を終えると、カズちゃんがチョコレート、あんみつ姫が珍しく煎餅(アラレ)を、岳人がエビ煎を出してくれる。いつも戴くばかりの私は、本当に恐縮してしまう。
 しかし座り込んでいると体の芯が冷えてくる。出発だ。

 最初に入ったのは小さなドームで、二十センチ屈折赤道儀が設置してある。カール・ツァイス社製であると言われても、それがどんなに大層なものか分からない無知な私は、そうですかと頷くしかない。長い筒の下には、黒点をスケッチする紙が置かれている。一九三九年から六十年間、太陽黒点を観測してスケッチを重ねてきたと言う。今でも手で書くのであるか。
 そこを出て歩き始めると、道路に小さな円盤が設置してある。間隔をおいて設置してあるようで、惑星の名前と大きさが記されているのが分かった。水金地火木と続いて行く。どうやら太陽から順番に、それぞれの距離に比例して設置してあるらしい。最後の円盤に「天王星、海王星、冥王星」が一緒に書かれている。「水金地火木ドッテンカイメイ」私たちはずっと冥王星を太陽系惑星の第九番目の星だと教えられてきたのだが、冥王星は突然その地位を剥奪された。可哀そうな冥王星。
 「あれって本当の天文台みたい」美女が囁くのは、私なんかも普通にイメージしている天文台のドームだ。ここは天文台歴史館(大赤道儀室)である。この雨の中をモノ好きに見学に来てくれた私たちに、学生のように見えるスタッフが説明してくれる。巨大な筒は六十五センチ屈折望遠鏡で、重さ九トンと言ったかしら。理科が苦手だった私は、ここで初めての知識を得る。「屈折望遠鏡」というのはレンズで光の屈折を利用して焦点を合わせるものである。反射鏡というのはその名の通り鏡を使うもので、「屈折」より大きなものができるらしい。(間違っていたらごめんなさい)
 「それを見てください」若い衆に言われて銘板を確認すると、LONDON 1875と読める。一八七五年は明治八年であり、国立天文台に現存する望遠鏡としては最古のものである。気象予報士がいろいろ質問するのは当然である。岳人が焦点距離とか何だか、やたらに専門的なことを聞くのは、精密機械のエンジニアであるから、これも当然であった。
 それにしても望遠鏡の覗きこむところ(何と言うのかしら、接眼レンズ?)の位置がむやみに高い。脚立のようなものに上がって覗き込むのかと、バカな私は考えていたが、実は床全体がエレベーターになっていて、昇降するのである。「だから、二十人以上になると、ちょっと危ないんです」ドームの天井は木製だし、ところどころ雨漏りがすると言う。実に古い、歴史的な建造物なのだ。
 一階に下りれば展示室になっている。天文とは全く関係なしに、手回し式計算機を初めて見たのは収穫だった。知識としては知っていても、実際に見たことも触ったこともなかったからね。実際に触っても良いと書かれているので、触ってみる。古いせいなのか、ハンドルの動きが鈍い。「壊しちゃ駄目ですよ」とダンディから声がかかる。確かに、ハンドルを回した数だけの掛け算割り算ができる。なるほど、こういう風に表示するのか。しかし、乗数が百を超えると、ハンドルを回すだけでも体力が要る。
 「私、会社に入ったとき使いました」カズちゃんの時代でそうなのか。私が会社に入った昭和四十九年にはもうなかった。私は算盤を支給され、何回やっても合わない計算を続けては上司に叱られていた。半年ほど経った頃、ようやくカシオの電卓が課に一台支給されたが、下っ端の私には触ることもできなかった。それからの電卓の進化は誰でも知っている通りで、この発明がなかったら、私は会社員生活を続けることなんかできなかったんじゃないか。
 これと同時に英文タイプライターには苦労させられたが、こっちの方は、キーボードに慣れることになったので、パソコン時代が到来してから随分役にたった。しかし東京天文台に来て、サラリーマン生活三十五年を回顧するとは思わなかった。
 そんなことはともかく、もらった資料三種が嬉しい。「蔵書印に見る暦編纂の歴史」「人々の暮らしに使われたこよみ」「江戸時代の宇宙観」の三種である。ロダンはもともと伊能忠敬を尊敬していて、この頃では麻田剛流のことも読んでいるらしくて、我が国天文の歴史について、かなり専門的なことを言う。詳しいことは知らないが、幕末の蘭学のレベルは相当高かったのだ。

 さて、当初の隊長の計画では、これから深大寺に向かうはずだったのだが、今日の天候では諦めざるを得ない。天文台の構内を出ると、ちょうど武蔵境行きのバスが来たところで、それに乗り込む。終点でバスを降りれば目の前がドトールだ。運が良い。体を温め、休息をとる。身体が暖まったところで、カズちゃんと美女は家に向かい、男五人は池袋に向かう。
 池袋に着いたのが三時半、こんな時間にやっている店があるだろうか。取り敢えず北口に出てみると、ロダンの嗅覚は冴えている。迷いもせずに真っ直ぐに「庄や」にたどり着くと、店はちゃんと開いている。しかも既に相当数の客で埋まっているのには驚いてしまう。「土曜日ですからね」だけど、いつだって土曜日に店を探して苦労しているじゃありませんか。これが池袋の地域性であろうか。
 いつものように生ビールの後は焼酎を二本。二時間を過ごしてこれで二千百二十円也。今日も無事に酒が飲めたのは喜ばしいことであった。その後ダンディと岳人は、いつもように「金太郎」に向かうのである。

眞人