幸手   平成二十年十月二十五日

投稿:   佐藤 眞人 氏     2008.10.29

 三か月の休養を終え、今日は隊長が復帰する日である。つい二三日前までは、雨になる予報だったが、少し早まって昨日かなりの雨を降らせたお蔭で今日は止んだ。隊長復活のためであろう。
 東武日光線が幸手駅に到着すると、周りを見回していた和尚が「なんだか随分田舎に来ちゃったな」と大きな声を出す。周りの乗客が苦々しい顔をこちらに向けてくる。しかしホームの外には一面に田や畑が広がっていて、町らしい景色が見えないから、和尚の感想を批判しても仕方がない。なにしろ和尚はこの鉄道に初めて乗ったのだ。
 幸手市は人口五万三千人、埼玉県で最も小さい市である。私にはあまり馴染みのない土地なので、少し地理の勉強をしておかなければならない。江戸時代には、日光御成街道と日光街道の合流する宿場町として栄えた。以下、例によって「ウィキペディア」から適当に抜き書きしてみる。(幸手市のホームページも参照した)

 日本武尊が東征に際して「薩手が島」に上陸、田宮の雷電神社に農業神を祭ったという言い伝えが残っており、「幸手」の市名はその薩手(さって)に由来すると伝えられている。古代から中世までは下総国葛飾郡に属した。鎌倉時代から江戸時代の初めにかけては古河公方の家臣一色氏の領地であったが、その後大部分は天領に、関宿向川岸・槙野地は下総国関宿領となった。
 市の東を江戸川が南下し、これをはさんで千葉県野田市に接し、北部は中川および権現堂川を境にして栗橋町、茨城県五霞町に接し、西部は久喜市・鷲宮町に、南部は杉戸町にそれぞれ接している。地勢は古東京湾の一部が陸地化したもので、東端には下総台地の一部があるものの、ほかは沖積低地で、利根川と渡良瀬川の氾濫によって形成された沖積層の粘性土が大半を占めている。全域が海抜十五メートル以下の低地となっており、自然堤防などの微高地を除いて一般に土地の起伏はほとんどみられない。
 市の西寄りを南北に東武日光線と国道四号が縦断しており、東武日光線幸手駅とその東側の旧道(旧・日光街道)、国道四号を中心に宅地を中心とする市街地が広がる。市街地の外側では水田地帯中に集落が散在している。

 隊長を筆頭に、画伯、和尚、大川さん(久しぶり)、ロダン、草野一言居士、チイさん、長老、岳人、瀬沼さん(毎月の講習を終えて一年ぶりに参加)、竹さん、住職、長谷川さん、ダンディ、講釈師、私、阿部さん、チョウコさん、カズちゃん、いとはん、村田さん、森安さん(四月の国分寺以来)の二十二人が集まった。今日は女性が少ない。何でも明日は巨樹の会があるそうで、堀内女史を初めとする植物班の大半はそのために休養しているのかもしれない。美女がいないのは確か別の講座に参加しているからだが、和尚が淋しがる。宗匠はインド哲学の勉強で忙しい。ドクトルも体調が今少し順調ではないらしい。

   駅舎の横に大きな石碑が立っているのは、「東武鉄道日光線開通記念碑」である。昭和七年四月の日付が入っている。
 歩き出してすぐに幸手観音(荏柄山満福寺)の脇を通り過ぎる。隊長のコースには含まれていないのだ。まだ駅前なのに道幅はあまり広くない。
 やがて到着したのは幸宮神社である。もとは八幡香取社と称していたもので、この地域の総鎮守であった。明治の廃仏毀釈、神社合祀令の影響で名を変えたが、「幸」の「宮」なんて、歴史的な匂いを全く消された名前では神社も浮かばれまい。石造りの鳥居は一般的な明神鳥居で、寛政四年(一七九二)の年号を持つ。
 その鳥居の脇に立つのはタブノキ「椨の木」(クスノキ科タブノキ属)で、一年中、葉を落とさないのであると阿部さんが教えてくれる。やはり「里山」はこうでなければならない。隊長の最初の挨拶では、今日はあまり自然観察の機会に恵まれないかもしれないということであったが、植物班はちゃんと何ものかを見つけてくれるのだ。
 本殿は文久三年(一八六三)に建てられたものという。それならばもうすぐ明治維新を迎えようと言う時だ。海鼠塀に囲まれているが、格子窓から覗きこめば、見事な彫刻が多少は眺められるようになっている。私は辛うじて、上り竜、下り竜、船から米俵を担ぎ出す人足の姿を見ることができた。かつては河川舟運の基地であったことが分かる。
 狭い路地の四つ角に立つと、右に豆腐屋があって、森安さんが声をあげる。しかしみんなの関心は左に集まった。煎餅屋が商いをしているのだ。格子の窓から、ステテコ姿の親父さんが煎餅を焼いているのが見え、みんなが面白がって覗き込む。
 「どこから来たんですか」と奥さんが聞いてきて、それにカズちゃんが「里山の会です」と答える。「そうなんですか」と奥さんは納得した口振りだが、意味が通じたのであろうか。これで分かるのであれば、わが隊長主催する「里山ワンダリング」は県内有数の会になったということである。(そんなことはないね)
 草加あたりだと、手焼き煎餅屋はもうすこし大袈裟な店構えで、観光客の目を意識しているが、この店はそんな感じではない。ひっそりと地元の人のためだけに煎餅を焼いている風情だ。「万」の中山せんべいという。
 路地を行けば、大輪の菊をいっぱい並べた家がある。「菊は大変なんだよな」「旅行にも行けないそうですね」なぜかみんなが菊造りに詳しいようで、口をそろえたように講釈が始まる。

 「荒宿」という交差点で日光街道を左に曲がって、聖福寺(菩提山東皐院・浄土宗)に入る。四脚門には「御殿所勅使門」と記された案内石柱が立つ。扉には菊の紋様が刻まれていて、我々が通行できないように鎖を巡らしている。ダンディはそんなことにお構いなく、鎖を跨いで越えてしまう。
 家光が日光社参のときに休憩所として利用したため御殿所の名をもつ。それ以来、例幣使や、歴代の将軍が休息した寺である。と書かれているのだが、例幣使はこの道は通らなかったのではないか。例幣使街道は、中山道倉賀野宿から分岐して、太田、佐野、壬生を経由して今市で日光街道に合流する。それはその通りで、京都から下ってくるときは確かに中山道から例幣使街道を通るのだが、帰路は、日光街道から江戸に出て東海道を通ったようだ。それならば、この幸手を通過しても何の問題もない。どうも例幣使街道なんて言う名前を見れば、行きも帰りも同じコースを辿ったのだと思ってしまう。頭が硬直している証拠だ。境内入り口右手には芭蕉と曾良の句碑が立つ。

  幸手を行ば栗橋の関     芭蕉
  松杉をはさみ揃ゆる寺の内  曾良

 「幸手を行けば栗橋なんて、当たり前じゃないの」ロダンが首を捻る。私は連句を知らないが、当たり前の句(七七)を掲示して、これに対する応答を求めるのが、その作法なのかも知れない。(これは全くの当て鉄砲だ)
 芭蕉と曾良は、元禄二年三月二十八日に春日部を出立、幸手を通ってその日は間々田に泊まった。「奥の細道」三日目のことである。

 ここを出て二三分歩けば、高さ三メートルもありそうな、新しい立派な石灯篭がいやに目立つ。正福寺(香水山揚地院)、真言宗智山派である。「智山派の総本山は智積院です」と相変わらずダンディは詳しい。そこに竹さんが「豊山派は長谷寺」と付け加えてくれる。なんとも知識豊富なひとたちばかりだ。
 門を入れば左手にクロガネモチ(モチノキ科モチノキ属)がたつ。なにか巨大な盆栽でもあるかのような印象があるのは、曲がりくねった根や幹の太さに比較して、葉がつき始めている位置が低いからだろうか。高さは相当に高い。赤い実が生っている。境内には樹齢四百五十年を超えるマキノキ(槇)があったのだが、枯れてしまった。「幸手市の木はマキです」地元に近い阿部さんが証言する。
 境内右手には「義賑窮餓之碑」が立つ。天明三年(一七八三)の浅間山大噴火による飢饉の際に、幸手の有志二十一名が義捐金を拠出したことへの顕彰碑である。ただ、こういうことを単なる善意とばかり見ては、歴史を見誤ってしまう。飢饉による欠落ち、それに結果する耕作放棄、年貢未進は名主の責任でもある。責任を回避するためには、欠落ちを防がなければならない。「有志」というのはこの地方の名主のことだろう。
 この年、世界的には、アイスランドのラキ火山が噴火、同じくアイスランドのグリームスヴォトン火山もまたこの年から一七八五年にかけて噴火した。これによって、おびただしい量の火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を引き起こした。「平均気温が五度も下がったんですよね」と大川さんが専門的なことを口にする。
 日本では特に奥州の被害が著しく、四年、五年と未曾有の大飢饉を現出した。弘前藩では八万から十三万とも言われる餓死者を出し、全国ではその死者は推定で数十万の規模に上った。身売りが横行した。これは悲惨だがまだ命あるだけ良い。人肉食の記録まで残るほどの飢饉だった。

 石灯篭の笠に付着した苔の緑色が鮮やかで綺麗で、いとはんが感激する。境内の正面奥に向かえば、コンクリート造りの本堂を阿吽のライオンが蹲ったような形で守っている。「スフィンクスじゃないかしら」いとはんが喜ぶが、これはライオンそのものだと思われる。そもそもライオンに対する信仰が東アジアに伝播して、そのものを知らない連中が想像して狛犬や唐獅子をでっち上げた。それならば先祖返りをしてライオンそのものを置いても、何の問題もないだろう。
 そこに奥さんらしい女性が現れ、「戸を開けましょうか」と声をかけてきた。願ってもないことで、早速みんなに声をかけて扉を開けてもらった。内部は実に絢爛な金色に輝いている。本尊は不動明王。私は普段はお賽銭なんか上げないのに、今日は差し出さない訳にはいかない。しかし財布の中の小銭は二十二円しかないので、これで勘弁してもらう。
 「今は狭くなってしまったけど、四十九の末寺を持つ学問の中心だったんですよ」と奥さんが話し始める。境内は三千坪、末寺を含む敷地全体は三万坪に及んだ。智山派の常法林である。「明治維新で没落して」というのは、廃仏毀釈の影響のことだ。「それに三度も火事にあってしまったの。だからコンクリート造りにしたんですよ」
 寺の歴史を知るためには歴代住職の墓を見るに限るという奥さんの指示で、私たちは墓所に向かう。五輪塔墓が並んでいるのがそうだ。年代を見れば、元禄、享保、寛保と読める。どうやら一番古いのが元禄の頃であろうか。奥さんの話では、この寺では京都の公家が江戸に下向して歴代住職の職についたという。
 見慣れない人に五輪塔の説明をしてみる。一番下の立方体が「地」を表し、そこから上に「水火風空」の順で、球形の塔身、屋根の形をした笠石、受花、宝珠とそれぞれ形の違う石が積み上げられている。仏教の思想による宇宙構成の五大元素である。平安時代に始まり、墓石に取り入れられたのは鎌倉期で、中世に流行した。
 宇宙を構成するもとは何であるかと、古代の人は考えた。ターレスは万物の根源は水であると主張した。エンペドクレスは風火土水の四大元素であると考えた。古代中国には五行説(木火土金水)があり、おなじように仏教では、地水火風空であると考えた。
 「五色もありますよね」阿部さんが「順番も教えてね」と言うけれど、そんなことは知らない。調べた結果、緑(東)、赤(南)、黄(中央)、白(西)、黒(北)である。緑は青にもなる。これならば実は調べるまでもなかった。黄色は別にして、青龍、朱雀、白虎、玄武ではないか。これは人生の季節にも適用され、青春、朱夏、白秋、玄冬という言い方にもなる。

 こんなことを始めると長くなってしまう。そろそろ出発しなければならない。周囲を畑や田んぼに囲まれた道を歩き出せば、向こうの方に桜並木の土手が見えてきた。アメリカイヌホウヅキ、アキノノゲシを教えられる。
 公民館でトイレ休憩をとって権現堂桜堤に向かう。堤に上がる道の両側には、六月にはアジサイが群れ咲くだろう。そこを抜けて堤に登れば「順礼の碑」の案内板のところで悩む人がでる。「順礼は、巡礼が普通じゃないですか」カズちゃんの質問に、ダンディが電子辞書を取り出す。広辞苑には両方記載されている。「でも広辞苑は新語を無方針でとりいれますからね、信用できない」と言いながら、「マイペディアには巡礼しかありません」と教えてくれる。
 『岩波国語辞典』『大辞林』ともに「巡礼/順礼」または「巡礼・順礼」の項を掲げていて、区別はしていない。大槻文彦『言海』では「巡礼」の項があっても、「順礼」はない。他の大半の辞書では「巡礼」を項目として挙げているようだ。しかし徳富蘆花には『順礼紀行』がある。私はなんとなく「順礼にご報謝」という文字が記憶にあって、調べてみた。やはり『傾城阿波の鳴門」には「順」の文字が使われている。

 「順礼に御報謝」と、いふも優しき国なまり。「テモしほらしい順礼衆。ドレドレ、報謝しんぜふ」と、盆に白米の志。「アイアイ、有がたふござります」と、いふ物腰から爪はづれ、「可愛らしい娘の子、定めて連れ衆は親御達。国はいづこ」と尋ねられ、「アイ、国は阿波の徳島でござります」「何じゃ徳島。それはマアなつかしい、わしが生まれも阿波の徳島。そしてとゝ様やかゝ様と、一所に順礼さんすのか」「イヱイヱ、そのとゝ様やかゝ様に逢ひたさ故、それでわし一人、西国するのでござります」と、聞いてどふやら気にかゝる、お弓は猶も傍に寄り、「ムヽ、とゝ様やかゝ様に逢ひたさに西国するとは、どふした訳じゃ、それが聞きたい、サヽ、云ふて聞かしゃ云ふて聞かしゃ」「アイ、どふした訳じゃ知らぬが、三ツの年に、とゝ様やかゝ様も、わしをばゞ様に預けて、どこへやら行かしゃんしたげな。それでわたしはばゞ様の世話になって居たけれど、どふぞとゝ様やかゝ様に逢ひたい、顔が見たい。それで方々と、尋ねてあるくのでござります」「シテ親達の名は、何といふぞいの」「アイ、とゝ様の名は十郎兵衛、かゝ様はお弓と申します」

 これを見れば、江戸時代には既に「順礼」と言っておかしくなかった。おそらくもともとは「巡礼」であった。それが、西国札所巡りなどは順番に回ることから、順番を意識して「順」の文字も使われるようになったということではないだろうか。
 堤が切れて改修工事がうまく進捗しなかったとき、自ら進んで(と書かれている)人身御供になったのが巡礼親子であった。共同体の危機のとき、たまたまそこにいた他所者が犠牲にされることはよくあることだ。その怨霊の祟りを鎮めるため(自分たちの罪を免れるため)、共同体ではその例を祀る。順礼(巡礼)はこうした危険や行き倒れの危機を常に身に感じながらでなければ、道中できなかった。それは常に死と隣り合わせだったと言って良い。
 「外の橋」で堤の全体像を遠望する。いま来たところの手前には菜の花畑が一面に広がり、その奥の堤の方が桜並木になっている。「黄色の絨毯にサクラですから、花の時期には人が繰り出します」岳人の証言である。
 鳥の好きな人は双眼鏡をとりだし、しきりに、「コガモだ」「カルガモ」「サギ」と言いあっている。「何、双眼鏡もってないの。里山歩きの常識だよ。」講釈師が攻撃の種を見つけて、特にロダンに集中的に攻撃をかけてくる。
 「コガモって子供のカモかと思ってました」「そうそう、私もそう思ってた」チョウコさんと森安さんが小声で話し合っている。それでは二人のためにウィキペディアを引いてみよう。

体長は四十センチ前後だが、雄の方が大きめ。ハトより一回り大きい程度で、カモ類の中では小型である。
雄は頭が栗色で、目の周りが暗緑色、身体は灰色で側面に横方向の白線が入り、腰が橙色と特徴的である。雌は全体に褐色で地味だが、雄と同様に緑色の翼鏡が見られる。
嘴と足は黒い。

 私だって二人と似たようなもので、鳥は全く分からない。ロダンは双眼鏡を家のどこかにしまってある。(但しそれは絶対に見つからないだろう)長谷川さんは「近所の店においてある」と言い、私は最初から双眼鏡なんか手にしようとも思わない。
 鳥を見ているときりがない。それに十二時を過ぎ、そろそろ腹がすいてきた。土手に戻って「峠の茶屋」(店は閉まっている)の脇のベンチと四阿で食事休憩だ。ベンチは昨日までの雨で少し濡れているから、ビニールシートをその上に被せる。「いつもいつも済みませんね」講釈師の言うことがいつもと違う。
 森安さんが漬けものを出してくれる。岳人は煎餅を、和尚は林檎を提供してくれる。いつものことながら、私は貰うだけで何も提供するのがない。
 食事を終って辺りを歩いていたいとはんが、「石碑が多いの、驚いたわ」と教えてくれる。すぐそばにはさっき説明を見た「順禮供養塔」がたち、その隣にも大きな石碑が立っている。これは何でも、溺れかけた友人を救おうとしてかえって自分がおぼれ死んでしまった人の碑であった。「他にも色々あるのよ。それに石が大きいの」確かに大きい。栃木と言えば大谷石が有名だが、それではなさそうだ。種類は分からないが、あるいは秩父とか長瀞の方から川で運んできたのだろうか。

 少し歩いて堤を抜ける。シソによく似ているらしいものはレモンエゴマである。初めて聞く名前だ。

本州、四国、九州の山地の林縁に生える一年草。エゴマに似て、レモンに似た芳香があることから名の由来がある。シソ、エゴマともに外来種だが、本種は在来の野生種である。萼に毛が密生、茎にも軟毛が密生し、葉は長い葉柄があって卵形〜広卵形、鋸歯がある。枝先の長い花序にシソ科に特徴的な唇形花をつける。

 チヂミザサ(イネ科チヂミザサ属)は、江戸歩き「目黒編」の時、幡竜寺(岩屋弁天)であっちゃんに教えてもらった。「葉が縮んでいるように見えるだろう、笹に似ていて」とロダンに教えてやる。ヒガンバナの花が終わった茎だけが、かなり多く残っている。薄い赤紫の細い花が道端一面に広がっている。「あれはアカマンマで良いんだよね」と確認すると、「ほんとはイヌタデって言うんですけどね」と岳人が答えてくれる。タデ科イヌタデ属。この花を見ると私はいつでも中野重治の詩を思い出す。

お前は歌ふな
お前は赤ままの花やトンボの羽根を歌ふな
風のささやきや女の髪の毛の匂ひを歌ふな
すべてのひよわなもの
すべてのうそうそとしたもの
すべての物憂げなものを撥き去れ(「歌」)

 プロレタリア文学運動に邁進するためには、すべての情緒的なもの、ひよわなもの、美しいものへの同情を断ち切れ。そんな宣言の底に、どんなにか、情緒的なもの、ひよわなものへの恋着が満ち満ちていることか。戦前の共産主義運動の運命には同情を禁じ得ないが、人としての素朴な感情を押し殺さなければ運動はできないという、痩せ細った思想からは悲劇の他には何も生まれなかった。小林多喜二だって、虐殺死の直前の作品なんかまるで読むに堪えない。この頃『蟹工船』が若いものの間で流行っているという。明らかに不幸な時代であろう。

 畑の向こうにはセイタカアワダチソウが黄色に広がっている。岳人がチョウコさんに、その性質を教える。外来種は強い、のではなく、外来の土地でも生き残るほど強いものが、現在残っているのである。「もともと観賞用に輸入されたらしいです」確かに、燃え上がるような形で黄色一色に染まったところは、美しいとさえ言っても良い。「根から毒を出すんですよ。それが周りの植物を枯らしてしまう。ところが、そのうちに自分自身も自家中毒を起こして枯れる。」そんな話は聞いたことがあるような気がする。チョウコさんによれば、岩手では見たことがないそうだ。
 「これがお茶の花だよ」民家の生垣に咲いている白い花を指さして講釈師が説明する。そうなのか。画伯がこれに異議を申し立てる。「これはサザンカだよ。実の形が全然違うもの」しかし講釈師は怯まない。「新井さん、五対一だよ。だからこれは茶なの」その五に私は入っていないだろうね。私には判定がつかない。ただし、葉がツバキのようでもあるな、それならサザンカかも知れないと思い始めた。しかし、茶そのものがツバキ科であると分かってみれば、私の感想は何の意味もない。それまで講釈師の話を無条件で信用していた森安さんとチョウコさんも、そろそろ、疑うということを知ってきた。
 東武線の線路の下を潜り抜ける。「昔はさ、ここは踏切だったんだよ」講釈師は実にいろいろ知っている。イチジクの尻(と言うのかな)が割れて赤い実が覗いているのを見て、チョウコさんが「ザクロ?」と口走る。私だってイチジクは知っているぞ。遠野にはイチジクが存在しないのだ。「昔、疣ができると、イチジクの汁を塗って」と私が子供のころを思い出すと、ロダンはそんなことは知らないと言う。水戸ではそういうことをしなかったのだろうか。カラスウリ、ユズ。
 常福寺の手前の分岐点に庚申塔が建っている。「講釈師はいないかな」「どれどれ、アッいるいる。俺が確かにいるよ」かなり磨滅しているが、青面金剛に踏みつけられた邪鬼の姿がちゃんと見える。
 奥の民家の庭にはキダチチョウセンアサガオの黄色い花が、いつもと同じように下を向いて項垂れている。「良く知ってるじゃないの」隊長が褒めてくれるが、先月、上野さんが教えてくれたのだ。これは和尚も覚えている。

 ムベの実を初めて見た。「ムベって初めて聞く」森安さん、国分寺の万葉植物園で見たじゃないか。「だって、こんな実をつけてましたか」あれは花の時期だったから実はつけていない。アケビのような形をしているのも当たり前で、アケビ科ムベ属である。
 ダンディが辞書を引いて「郁子」「野木瓜」の文字を示す。郁子さんのほうが良いね。ダンディはついでに文屋康秀を暗唱する。

 吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ

 なんだか、当たり前のことを実に論理的に言っている歌だ。「むべ」は「宜」(うべ)の転訛である。道理で、いかにももっともだ、というほどの意味だ。これが植物名になったのについては天智天皇の伝説がある。長寿子沢山の老夫婦に出会った天智がその理由を尋ねたところ、いつもこの実を食べているからだと答える。「うべなるかな(そうか、道理で健康なのか)」と言ったその実がウベ(ムベ)になったと言う。
 向こうに見える畑には白い小さな花が一面に咲いている。遠いのでよく見えないが、「あれは蕎麦である」と講釈師が断言し、阿部さんも肯定する。「栗橋の方には赤蕎麦もあるんだ。ネパール原産だよ」蕎麦に関して講釈師に反論できるものはいない。
 高須賀池では釣りをしている。若い女性もいる。「あのひとが摘まんでいたの、芋虫でしょうか」チョウコさんが気味悪そうな声を出し、「こんなに大きくって」と指を広げる。私は見ていなかったが、釣りをしようと思えば虫の類はなんでもないだろう。この池は、浅間山噴火によって利根川が堰きとめられてできたものだ。
 氷川鹿島大神宮。「氷川と鹿島って違う神社なのに」ロダンが首を傾げるように、この名前は明治以後のものである。もともとは単なる地元の鎮守であった。神社合祀令によって、地方の群小の鎮守はまとめられ、いかにも由緒のありそうな名前に付け替えられたから、現在の神社名や祭神の名前だけを見ても、歴史は分からない。「南方熊楠が大反対したんですよ」ダンディはやはり詳しい。
 明治四年五月十四日「官社以下定額及神官職員規則等」を定めた布告が出された。

それは、官・国幣社を具体的に定め、その下に府藩県社、郷社、産土社を置いた。・・・・全国の神社と神職は国家機関となり、官・国幣社は神祇官の、府藩県社以下は地方庁の管轄のもとにおかれた。(中略)
こうして、村毎に一村一社を原則とする村氏神=村社がおかれ、区毎に郷社をおいてその区の村社は郷社の附属とし・・・・だから、一村一社を原則とする村氏神の成立は、一方でそれ以外の雑多な神仏を排除するとともに、地方で国家がさしだす神々の体系を受容する受け皿でなければならなかった。(安丸良夫『神々の明治維新』)

 そして、

まず、この神社合併事業の進められた目的は、当時全国にあった大小の神社十九万五千余社のうち「由緒ナキ矮小ノ村社無格社」凡そ十八万九千余を合併整理しようという大がかりな処置であった。こうして、たとえば三重県では神社数の凡そ九割、和歌山県では凡そ八割が削減されるというほどにドラスチックな整理が行われたが、(略)(橋川文三『昭和維新史新論』)

 南方熊楠に代表されるような反対論にあって、この布告の目的は完全には履行されなかったが、それでも相当な影響を及ぼした。熊楠の意見書はあまりにも長大なので、ごく一部だけ引用してみる。この当時、生態系のことを口にする人は熊楠の他、それほど多くはなかった。

(前略)ことに苦々しきは、只今裁判進行中の那智山事件にて、那智の神官尾崎とて、元は新宮で郡書記たりし者が、新宮の有力家と申し合わせて事実なき十六万円借用の証文を偽造し、一昨年末民有に帰せる那智山の元国有林を伐採し尽して三万円の私酬を獲んと謀り、強制伐木執行に掛かる一刹那検挙されたるにて、このこともし実行されなば那智滝は水源全く涸れ尽すはずなりしなり。この他に熊野参詣の街道にただ一つむかしの熊野の景色の一斑を留めたる大瀬の官林も、前年村民本宮に由緒ありと称する者に下げ戻されたり。二千余町歩の大樹林にて、その内に拾い子谷とて、熊野植物の模範品多く生ぜる八十町長しという幽谷あり。これも全くの偽造文書を証拠として山林を下げ戻されたるにて、只今大阪から和歌山県に渉り未曽有の大獄検挙中なり。これらはいずれも神社合祀の励行より人民また神威を畏れず、一郡吏一村役人の了見次第で、古神社神領はどうでもなる、神を畏るるは野暮の骨頂なり、われも人なり、郡村吏も人なり、いっそ銘々に悪事のありたけを尽そうではないかという根性大いに起これるに出づ。(略)

政府は田畑山林の益鳥を保護する一方には、狩猟大いに行なわれ、ややもすれば鳥獣族滅に瀕せり。今のごとく神林伐り尽されては、たとい合祀のため田畑少々開けて有税地多くなり、国庫の収入増加すとも、一方には鳥獣絶滅のため害虫の繁殖非常にて、ために要する駆虫費は田畑の収入で足らざるに至らん。去年十二月発表されたる英国バックランド氏の説に、虫類の数は世界中他の一切の諸動物の数に優ることはるかなり。さて多くの虫類は、一日に自身の重量の二倍の草木を食い尽す。馬一疋が一日に枯草一トン(二百七十貫余)を食すと同じ割合なり。これを防ぐは鳥類を保護繁殖せしむるの外なし。また水産を興さんにも、魚介に大害ある虫蟹を防いで大悪をなさざらしむるものは鳥類なり、と言えり。されば近江辺に古来今に至るまで田畑側に樹を多く植えあるは無用の至りとて浅智の者は大笑いするが、実は害虫駆除に大功あり、非常に費用を節倹するの妙法というべし。和歌山県には従来胡燕多く神社に巣くい、白蟻、蚊、蠅を平らぐることおびただし。近来合祀等のためにはなはだしく少なくなれり。熊楠在欧の日、イタリアの貧民蠅を餌として燕を釣り食らうこと大いに行なわれ、ために仏国へ燕渡ること少なくなり、蚊多くなりて衛生を害すとて、仏国よりイタリアへ抗議を申し込みしことあり。やれ蚊が多くなった、熱病を漫布するとて、石油や揮発油ごとき一時的の物を買い込み撒きちらすよりは、神社の胡燕くらいは大目に見て生育させやりたきことなり。(後略)

 高秀寺の脇の鳥居の横には庚申塔、二十三夜供養塔、十九夜塔などが並んでいる。庚申信仰と、月待ち信仰とがかなり密接に絡んでいるという実例だろう。
 畑の中の道を歩いて行けば、シオン、オギなどが見えてくる。「普通のススキとは違うような気がするんですよね」というカズちゃんの疑問には、一言居士がきちんと答えてくれる。あれはオギである。湿地に生えるのがオギ、乾燥地にはススキ。「だから、荻窪っていう地名を見れば、湿った窪地に荻が生えていたのが分かる」このほかにも、区別する特徴をいろいろ説明してくれたが、私はまるで忘れてしまった。この人も何でも知っているのだ。
 内池にはアサザ。岳人が見つけたシロバナタンポポは、阿部さんも「珍しい」と言っているから貴重なものらしい。だいたい西日本に多いもののようだが、花が咲くのは時期外れだ。狂い咲きであるか。
 エンジュの実がいくつもぶら下がっている。「実が数珠のような形をしてるでしょう、あれがエンジュ。ハリエンジュ(ニセアカシア)のほうは、もっと平べったい実なんです」阿部さんが教えてくれる。槐。マメ科エンジュ属。
 「これは珍しい」と瀬沼さんが近付いていったのは、十月桜である。白い小さな花が二三輪、枝にしがみつく様に咲いている。オオケタデは案外綺麗な赤紫色花で、大きな房のようになっている。これと比べれば、アカマンマはやっぱりイヌタデと呼ばれても仕方がない。
 用水を左に、右手には新興住宅のしゃれた家並みを見ながら歩いて行く。ハナミズキの葉はすっかり赤くなっている。玄関先に大きな葡萄の房をいくつも垂らした棚を作っている家がある。あまり見事なブドウなので、作りものかと思ってしまったくらいだ。しかし、玄関先にこんなものがあっては、家にはいるのも大変ではないだろうか。

 マルヤというスーパーを超えたあたりで、ずっと左手の方に、なにやら一面に赤く色づいている畑が見える。「あれだよ」講釈師と阿部さんがほぼ同時に指をさす。赤蕎麦の畑である。南栗橋の駅はすぐそこだが、折角だからそちらに方向を変える。町興しの一環ではないだろうか。幟が立っているし、休日には屋台もでるらしい。車も数台止まっていて、写真を撮っている人の姿もある。私たちも一斉にカメラを取り出す。「旨いんですか」「日本の普通の蕎麦がAだとすれば、C位かな」蕎麦の権威である講釈師の判断である。「そうかな、私は割りに美味しいと思いましたよ」とダンディはどこかで食べたことがあるそうだ。藪、更科、砂場など蕎麦屋に関する話題が出れば、誰も講釈師には敵わない。
 赤い花の先端が小さな三角形になっていて、これが実になるらしい。「蕎麦もやっぱり赤いのかな」「違うよ、中身は普通の蕎麦とおんなじ、茶色だよ」ネパールでは、蕎麦切りにせず、丸めて焼いて食べるそうだ。お好み焼きとかドンド焼きのようなものか。「そうよね、ネパールの人がお蕎麦をツルツルとなんて想像できないものね」と阿部さんが笑う。
 赤蕎麦の花を充分に堪能したあとは南栗橋駅に向かうだけだ。「確か、駅の向こうに静御前の墓があった」ロダンが言うので、それなら時間調整にもなる、行ってみようと駅前の地図を見れば、それはこの駅ではなく、JR栗橋駅の方であった。私たちはどうせ大宮で飲むことに決めているから、栗橋に向かうことにし、このまま東京方面に向かう人たちとはここで別れる。

   日光線一駅で栗橋に到着する。ロダンはどんどん歩いて行く。二三分歩くと小さな広場の周りを商店が囲んでいて、入口には「静御前之墓」の石柱が立つ。広場に入って左手に、もともとの(と言っても真偽は不明だが)墓は、「静女之墓」と彫られた石で、ガラスを嵌めてある保存容器(?)の中に収められている。形からみても、平安後期の墓石の形でないのは明らかで、江戸時代または近代になって作られたものだ。その隣には「義経招魂碑」も並んでいる。
 正面には、黒い御影石で、静御前の舞う姿を描いた大きなものを中心にして、右には「静や志つしつのおたまきくり返し昔をいまになすよしもかな」、左には「吉野山みねのしら雪ふみ分けていりにし人のあとそ恋しき」と並んでいる。随分新しい。栗橋ではこれを観光名所にしようとしているのだろう。それならもっと宣伝しなければならない。
 説明によれば、義経を追って奥州へ向かった静御前は、下総国下辺見で義経の最後を知らされた。傷心して都に戻ろうとする途中、「伊坂の地」で病に冒され亡くなった。文治五年(一一八九)九月十五日のことである。
 「まあ、あちこちに墓はあるんでしょうね」ダンディが笑う。きちんとした資料が残っていないのだから、すべては伝説の闇の中だ。少し探してみると、こんなものが見つかった。

傷心の静は、みちのくの平泉に落ちのびた義経を追って平泉を目指しますが、頼朝の兵たちが厳重に固める太平洋沿いの道は北上できません。そのため、静と従者たちは越後に出て、そこから山中を会津へ抜け、さらに平泉に向けて北上するという長い道のりを選びました。道中には、世情名高い八十里越えの難所があります。ところが長旅の途中、栃堀までやって来た静は病を患い栃堀に逗留することになりました。そして、建久元(一一九〇)年四月二十八日、従者たちの看護のかいもなく静は若い身空で世を去ります。従者たちは栃堀の里人の手を借りて、小高い丘の中腹に静の遺骸を埋葬し、そのふもとに庵を造って静の霊を守り続けることになりました。この庵が、後の高徳寺であるとされています。(新潟県栃尾市)
http://home.u06.itscom.net/mitake/newpage70.html

福津市生家地区に静御前の墓と言われている墓があります。カンバンも案内板もなく田んぼの隅にひっそりと建っています。
静御前と言えば源義経の愛妾だった人です。なんでも、一一八五年頃に静御前は源義経を探すためにここに住んでいたそうです。義経に会えない悲しみから
わが君の 行くえも知らず、しずか川
流れの末に身をやとどめむ
という歌を詠んだと言われています。後にこの地を生家(ゆくえ)と呼び、静御前の霊を弔う墓が建てられたそうです。(福岡県福津市)http://www.yado.co.jp/tiiki/munakan/sizukagozen/index.htm

源義経との恋に生きた静御前の墓は日本各地に存在するが、この地も江戸時代から有名な場所である。二基並ぶ宝篋印塔のうち、右が源義経、左が静御前の墓と言われている。静は鎌倉で義経との子を殺されたが、命を助けられ、頼朝の妹の夫、一条能保に預けられたという。一条家の荘園が志筑にあったためここに隠れ住み、一二一一(建暦元)年の冬に四十七歳で没したため、供養として宝篋印塔が建てられたと伝えられている。
現在周辺は静の里公園として市民に親しまれ、多くの観光客が訪れている。墓に詣でれば技芸に熟達するとされ、また美貌の児を授かるとも言われている。(兵庫県淡路市志筑)http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/trip/html/105/105.html

 取り敢えず、新潟、兵庫、福岡と見つかった。一所不住、「道々の輩」である白拍子の運命に相応しい。探せばまだまだありそうだが、この位にしておこう。
 「タッキーと石原さとみでした」カズちゃんはNHK大河ドラマの主人公をよく覚えている。「タッキーって何」ロダンは知らない。「私は全く知りません」とダンディが言うそばで、「俺は知ってるよ」と和尚が自慢する。私も何度か見た記憶がある。
 判官贔屓という日本人独特の感情は、確実に現代まで及んでいることが分かった。実際の義経は出っ歯であったそうだが、それを言うのは野暮と言うものかも知れない。しかし珍しいものを見た。
 ちょうど時間も良い頃だ。大宮に向かえば「さくら水産」が私たちのために店を開けている。

眞人