天神山(男衾〜寄居)を訪ねて   平成二十年十二月二十七日

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.2.28

 「里山ワンダリング」今年の歩き納めは東武東上線男衾駅集合だ。
 北風が冷たい。それに暮れの忙しい時だから参加者は少ないのではないかと心配されたが、こんなときでも来る人はちゃんと来る。
 隊長、長老、住職、画伯、ダンディ、講釈師、一言居士、ドクトル、瀬沼さん、宗匠、ロダン、岳人、伯爵夫人、サッチー、イトはん、カズちゃん、阿部さん、若井ご夫妻、私。男衾駅には二十人が集まった。岳人は最近病院で酷い風邪を移されたからマスクをしている。若井ご夫婦は久しぶりだ。実はサッチーは寄居まで行ってしまったのだが、隊長に連絡を取って戻ってきた。彼女を待つ間にまた隊長の電話が鳴った。戸田公園にいると言う。「誰ですか」「大川さん」さすがに戸田公園では待つことはできない。一か月ずれていて残念なことであった。
 出発の時男衾駅の看板を振り返り、この意味は「オトコヤモメである」と講釈師が断言する。そのココロは、男が一人で布団にくるまっているのだと言う。これだから、中国でも「講釈師」の名が轟くのだ。
 男衾という地名の由来については、ちょっと調べただけではよく分からない。吉田東伍『大日本地名辞書』でも参照しなければならないだろうか。しかし既に七世紀に武蔵国の男衾郡が成立していたというから、かなり古い地名だ。ウィキペディアによれば大陸からの渡来人による新開地であった。それならば朝鮮語起源の可能性もある。
 寄居町では何も教えてくれないが、オブスマの「オ」はおそらく接頭語の「お」であろう。問題はフスマである。「衾」を地名に持つ目黒区の広報では、いくつかの候補を挙げている。自由ヶ丘のあたりは、かつて荏原郡碑衾町大字衾であった。
 起伏のある丘陵地帯の地形が掛け布団を連想させたという説。フスマは麩(馬の飼料)であったという説。あるいは湿地に馬が足を踏み入れるからフシマ(伏し馬)。地形上、谷間が多いから間(ハザマ)が転じたなどの説。こういうことならどれでも、この男衾にも合いそうな気がする。
 その由来はともかく、「男衾三郎絵巻」または「男衾三郎絵詞」というものがある。勘違いする人がいると困るのだが、男衾三郎から地名が発生したのではない。男衾の地に住んでいたからそれを苗字にした。「どこだって地名が先にあるんですよ」とダンディも強く断定する。三郎の兄は吉見に住んで吉見二郎と名乗った。それでは一郎がどこかにいても良さそうだが、そんなことはどこにも書かれていない。
 この絵巻は十三世紀頃に成立した中世の代表的な絵巻であり、日本史の教科書には必ず書いてあるそうだが、私は覚えていなかった。実に恥ずかしい話で中世史を勉強したなんて言えないが、仕方がないから、ここで知識を得ておかなければならない。

紙本着色、全一巻の絵巻。縦約二十九センチ、横約十三センチ、詞書六段、絵も六段仕立てである。筆法は軽妙洒脱で家屋の描法も吹抜屋台式であり、人物・樹木・風景などの描法も典型的な鎌倉期のもので稚拙な部分もあるが、それがこの絵巻に活気をもたらしている。全体の画風・筆法が、一二九五年(永仁三)作と推定されている伝藤原(土佐)隆相筆の『伊勢新名所歌合絵巻』と、近似しているところから、この絵巻の年代もそのころとされ、筆者も同一人とされている。この絵巻の内容は武蔵国の住人男衾三郎という武芸一点張りの勇猛な典型的東国武士と、その兄吉見二郎という風流華奢な京かぶれの男とを対照させ、その両者の末路を対比しようとした物語である。大番勤めのため兄弟相前後して出発、兄は山賊に殺害され、弟は帰郷後その母子を虐待、また観音祈願で授かった兄の娘の可憐物語など、京対東国・無神論対観音信仰を盛り込んだ珍しい教訓的風俗絵巻である。
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C291R100.HTM

   比企、大里一帯を領有していた地侍の一族だったのだろう。地頭職を得ていたのかもしれない。ただしこの絵巻は話の途中で紛失しているそうだ。
 ついでだから、テキストをダウンロードしてみるか。最初の二段分だけにするが、兄と弟の性格の違いが分かる。読みやすいようにちょっと改行を変えてみる。しかしこういうテキストが無料でダウンロードできるのは実にありがたい。

 第一段 昔東海道のすゑに、武蔵の大介といふ大名あり。
其子に吉見二郎・をぶすまの三郎とて、ゆゝしき二人の兵ありけり。常に聖賢の教をまもり侍ければ、よの兵よりも、花族栄耀、世にいみじくぞ聞えける。
吉見の二郎は、色をこのみたる男にて、みやづかへしける或る上臈女房を迎て、たぐひなくかしづきたてまつり、田舎の習ニはひきかへて、いゑゐ・すまひよりはじめて、侍・女房にいたるまで、こと・びはをひき、月花に心をすまして、あかしくらし給程に、なべてならずうつくしき姫君一人いでき給へり。
観音に申たりしかば、やがて、「慈悲といはん」とて、さぞなづけ給ける。おとなしくなり給まゝに、いとゞなまめき給へり。
八ケ国の中に聞及て、心をかけぬ大名・小名ぞなかりける。其中に、上野国難波の権守が子息、難波の太郎をむこになさんとて、難波より吉見へふみをつかはしたれば、これをばきらふべきにあらずとて、陰陽に吉日をみせられけれぱ、占申様、「今三年と申八月十一日いぬの時のよりこのかた、吉日みえず 候」といふに、この様を返事したりけれぱ、権守、「いつまでも約束変改あるまじくば」とぞ悦ける。

 第二段 をぶすまの三郎、あにゝは一様かはりたり。
「弓矢とる物の家よく作ては、なにかはせん。庭草ひくな、俄事のあらん時、乗飼にせんずるぞ。馬庭のすゑになまくびたやすな、切懸よ。此門外とをらん乞食・修行者めらは、やうある物ぞ、ひきめかぷらにて、かけたて/\おもの射にせよ。若者共、政ずみ、武勇の家にむまれたれば、其道をたしなむべし。月花に心をすまして、哥をよみ、管絃を習ては、何のせんかあらん。軍の陣に向て、箏をひき、笛をふくべきか。この家の中にあらんものどもは、女・めらべにいたるまで、ならふべくは、このみたしなめ、荒馬したがへ、馳引して、大矢・つよ弓このむべし。惣じては、兵のみめよき妻もちたるは、命もろき相ぞ。八ケ国の内ニ、すぐれたらんみめわるがな」とねがひて、久目田の四郎の女を迎て、夫妻とぞたのまれける。
たけは七尺ばかり、かみは ちゞみあがりて、もとゐのきはにわだかまる。顔ニハ鼻よりほか、又見ゆるものなし。へ文字ロなるくちつきより、いひいだすことぱ、ことにはかばかしき事はなかりけり。男子三人、女子二人いでき給へり。
http://www.ucalgary.ca/~xyang/obusu/obusu1.htm

 駅前を出てすぐの曲がり角にある木に隊長が注意を促す。ヒイラギ(モクセイ科モクセイ属)の花が咲いているのだ。葉の根元に、くすんだような色の小さな白い花が密集して咲いている。なるほど、冬に咲くから柊であったか。葉の棘はあまり鋭くなさそうだ。「年をとると丸くなるの」隊長の言葉に、「丸くならない人もいっぱいいますね」とダンディがこっそり笑っている。

 里山の花柊に迎へられ  眞人

 暫く歩いて行くとカラスウリが濃い朱色の実をつけているのが見えてきた。「俺が中国の娘さんに教えたの」と講釈師は自慢する。「娘さん」とは言うが、彼女はれっきとした人妻です。隊長は賈さんに会ったことがない。「残念だよ」現在広州に住んで、日本語を教えている。

  広州に想ひ遥けし烏瓜  眞人

 ネコヤナギのような芽が出ている。蔦の絡まっている大きな木はなんであろうか。私が分からないのは当然だが、阿部さんも隊長も判定できないようだ。ただ瀬沼さんはムクかエノキではないかと推測する。
 冬の木の実はみんな赤いので、私はほとんど区別ができない。「これは南天」と言う宗匠に違うんじゃないかと言ってはみたが、阿部さんがあっさりと南天であると決定してくれる。
 赤い実が弾けたようで小さな四つの実(種?)に分かれているのはマサキだ。ニシキギ科ニシキギ属の常緑低木である。柾、正木、正しい木である。何が正しいのか。
 マンホールの蓋には雉と花となんだか分からないもようが刻まれている。「これ何かしら」この地方の象徴であるのだろうが、デフォルメがきつくて判断できない。

 「今日は山登りだからたまには使わないと」とダンディがステッキを取り出したが、使い慣れていないものだから、邪魔になって持て余している。鉄人に杖はまだ要らない。山と言っても私の持っている地図には天神山なんてどこにも載っていない。本当に山があるのだろうか。たしかに天神山を指し示す標識が立っているのだが、なかなか登り道にならない。
 途中、曼荼羅板石塔婆という珍しいものに出会った。小さな祠の道路側には首を傾げた観音や地蔵が三体並んだところに説明板が立っている。それを読みながら写真を撮っていると「こっちだよ」という講釈師が呼んでくる。そっちに向かうと、格子にさえぎられた祠の中に、大きな緑泥片岩が収まっている。石が登場すればサッチーの出番である。彼女はかなり熱心に講釈を続ける。長瀞の石のおかげで、埼玉県内では石塔婆や板碑はよく見るのだが、これは初めて見る。磨滅した梵字だから当然読めないし、遮られて近づけないから説明板から引用しておく。

 この板石塔婆は現高一三六センチメートル、幅七五センチメートル、厚さは六センチメートルである。
 方形の曼荼羅を刻むためか、巾の広いこと、頂部の三角部が低く作られ、上面を平らにせず、前に傾斜する面を作り出すという特異な仕上げを行うなどの特徴がある。
 胎蔵界大日如来を示す梵字を中心に、四仏四菩薩を八葉の蓮華文にあらわして中台八葉院とし、各蓮弁の間に三鈷杵と四隅には花瓶を配している。
 中央下部に「寛元元年(一二四三)癸卯八月十七日敬白」の紀年銘があり、板石塔婆としては初期に属するもので、町内に現存するものでは最古である。
 胎蔵界曼荼羅の刻まれた板碑は埼玉県内には類例が無く、美術的にもすぐれた大変貴重なものである。
      平成二十年三月 

埼玉県教育委員会
寄居町教育委員会

 曼荼羅は一つの絵の中に諸仏諸菩薩を配したもので、いわば仏教における宇宙図と言えるのだと思うのだが、難しくて簡単に理解ができないのだが、末木文美土のお世話になろう。

 空海の密教は胎蔵(界)・金剛界の両部(両界)を立てて体系化したところに特徴がある。胎蔵(界)は『大日経』に基づくもので、女性的原理、あるいは理(真理)を表す。金剛界は『金剛頂経』に基づくもので、男性的原理、あるいは智慧を表す。曼荼羅は、この二大原理のもとに、あらゆる仏や外教の神々をも配列し、宇宙の秩序を示したものである。両部の発想は、中国で伝統的な『易』の陰陽の二元論にも通ずるもので応用範囲が広く、修験道や両部神道など、土着の宗教を仏教によって体系化していく際の原理として用いられた。(末木文美土『日本宗教史」』

 とこんな風に抜き書きしても、何のことかさっぱり分からない。もうひとつ、説明にある四仏四菩薩はこうである。

 曼荼羅は全部で十二の「院」(区画)に分かれている。その中心に位置するのが「中台八葉院」であり、八枚の花弁をもつ蓮の花の中央に胎蔵界大日如来(腹前で両手を組む「法界定印」を結ぶ)が位置する。大日如来の周囲には四体の如来(宝幢−ほうどう、開敷華王−かいふけおう、無量寿−むりょうじゅ、天鼓雷音−てんくらいおん)と四体の菩薩(普賢菩薩、文殊師利菩薩、観自在菩薩、慈氏菩薩)、計八体が表わされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E7%95%8C%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85

 ロウバイ(蝋梅、?梅、臘梅)が咲いている。ソシンロウバイだが、少し早すぎるのではないだろうか。我が家の近所でも、一本だけ、ロウバイの花が開いている木がある。数少ない知識だから私は勇んでカズちゃんに「素心」の文字を教える。
 「臘月に咲くから蝋梅です。旧暦十二月の別称ですよ」ダンディの説明に納得する。今日は旧暦十二月一日、それならば、極端に早すぎるというわけでもない。「磐城にはないんです。埼玉に来て初めて見ました」というのはカズちゃんの証言で、それならば関東が北限であろうか。秋田にはあったかどうか、昔の私は樹木や花なんかまるで関心がなかったから気付いていない。
 「春の花が咲いてますね」岳人が見つけたのはホトケノザだ。濃いピンクの小さな花が数個咲いている。「オオイヌノフグリもある」花だけ見ていると春の雰囲気になってくるが、風は冷たい。私はこの一か月鼻風邪が治らず、今日も鼻をかむのに忙しい。

  北風にイヌノフグリの三つ四つ  眞人

 細い枝の先端が弓のようにたわんでいる木は何だろう。幹の途中から上の方はペンキでも塗ったように赤くなっている。葉は紅葉だ。
 「有名なうどん屋だよ。寄居の名物なんだ」講釈師が教えてくれたのは讃岐うどんの店である。こんなところで讃岐うどんかと、宗匠と顔を見合わせてしまった。しかも店の名前が「イーハトーボ」である。瀬沼さんも笑っている。寄居と讃岐と宮沢賢治と、何をどう結びつければよいのだろうか。遠野のチョウコさんがいれば怒るのではないか。しかしこんな記事を見つけると、賢治が夢みた幻の岩手、イーハトーボを店名につけた理由が分かるかも知れない。

店は軽度の障害をもつ人達の、社会復帰のための教育現場という視点で経営されている。時に怒鳴り声や厳しい指導も飛ぶが、びっくりしないように。うどん店ではあるが教育実習場でもある。客としてはおおらかに余裕を持って見守りたい。
http://www.shikoku-np.co.jp/udon/shop/shop.aspx?id=336

 やっと「登山口」の標識が現れた。登り始めたところで、ここでも蔓を長く伸ばした赤い実を見つけたので阿部さんに教えを乞う。「えーっと、あれはですね、その」阿部さんがいきなりロダン症候群に悩み始めた。「ちょっと待ってくださいね」知識の量が多すぎると抽斗から出してくるのが大変なのだ。しかし流石に三十秒もしないうちに答えが返ってくる。「ツルウメモドキです」そうか、隊長の案内文にもその名前が出ていた。ニシキギ科ツルウメモドキ属。

  赤き実を訪ねて歩く冬の道  眞人

 山道の両側の林の中にはシイタケ栽培用に、長さ一メートル程に切られた木が並べられ、もうキノコが出来ているものもある。道との境には、緑色のシートで覆っていたようだが、強風のため、そのシートはよじれてしまって、何の役割も果たしていない。「盗まれないためなんだよ」その目的だったら、もうちょっと別の方法を考えた方が良いのではないだろうか。
 「皮が剥げてるだろう」隊長が指さした。河の剥げる木はいくつもあるのではないだろうか。これはリョウブ(令法)だという。以前に教えてもらったから花は記憶がある「尾っぽのような花だったよね」宗匠の記憶はもっと正確だ。「そう、志木だったかな」
 もう頂上に近そうなところで、遅れてくる人を待って少し休憩をとる。「住職、大丈夫かい」「大丈夫」イトはんも少しきつそうだ。しかしすぐに頂上だ。遠くに見える山並みが美しいから、山の好きな人はさかんに名前を確認しあっている。下には寄居の街並みが広がる。講釈師は遠くに見えるピンク色の建物が気になってしようがない。「何だろう、ラブホテルかな、モーテルかな」
 林の中には、なにかの像が建っていたらしい石段のついた台座だけが残っている。そもそも天神山とは何であるか。

その昔、周辺住民はこの山の最も高い部分の岩肌に、学問の神、菅原道真公を祀り“鎮守の森”として、崇拝していました。毎月、一日、十五日には村人総出で清掃なども行ない慕っていましたが、戦時中に移転しました。頂上からは、眼下の寄居町から広がる関東平野、その向こうには、北関東の山や上州の山まで雄大な景色が一望できます。
http://www.tobu.co.jp/playing/sotochichibu/tenjin_kawahaku/index.html

 ということは、この台座には菅原道真が鎮座していたのだろうか。天神を祀ったから天神山。ここにはあまり時間をかけないで、すぐに下山だ。かなり急だが、木でできた階段は段差が少ないからそれほど疲れない。「ちょうど良い間隔だわね」と若井夫妻もゆっくり降りている。ただし坂道のところどころに氷が固く張っているから気をつけなければならない。画伯の温度計では気温九度だそうだが、風が冷たいから融けないのだろう。
 豊田彫刻工房という木工所のようなところに出た。庭にはコンクリートで作った四角の枠のようなものが置かれていて、これが分からない。神社や寺院の屋根や欄干の装飾を連想させるが、そんなものをコンクリートで作るだろうか。
 倉庫の中を覗き込んでいた講釈師が歓声を上げる。「住職、こちだよ、見えるだろう」仏像などの間に、隅の方には女性の裸像が立てかけられているのだ。なにも住職を呼ばなくても良いじゃありませんか。「おっぱいが」どうも話題がおかしなほうになってしまう。

 大きな紡錘形の芽は何だろう。一言居士と阿部さんが検討した結果、正体は不明だがアレチマツヨイグサの類ではあるまいかと言う。「大きさが違うんですけどね」隊長がヌルデ(ウルシ科ヌルデ属)の葉痕を示して説明をする。ドライフラワーのように乾燥した、花なのか実なのか分からないものを手にして、一言居士が遊んでいる。「こうやって鼻につけてさ」花びらが三枚くっついたような形をしている。調べてみると、果実は大きな三つの稜があって中に種が入っているということなので、これはその果実が乾燥しきったものではないだろうか。種は落ちてしまったんじゃないか。
 民家の格子に絡まっている赤い実はサネカズラ(実葛)である。握り拳よりちょっと小さくて、小さな赤い実がいくつも固まって生っている。和菓子にこんなものがありそうだ。別に美男カズラとも言うらしい。その意味は、皮を剥いで潰して水を加えると粘っこい液体になって、昔はこれを髪を結うときの整髪料として用いたからと言う。モクレン科サネカズラ属。
 「サネカズラなら、知ってるでしょう」とダンディに言われて思い出さない訳にはいかない。逢坂山のサネカズラ、人に知られでくるよしもがな。「やっぱり知ってる」とダンディは誉めてくれるが、悔しいことに上五がなかなか思い出せない。「宗匠、何だっけ」「知らない」これでは仕方がないね。「名にしおはばだったかな」中学生の頃は百首ちゃんと暗証できたのに、情けないことである。

三条右大臣

名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られで来るよしもがな  

 三条右大臣は藤原定方。「逢坂山」で「逢う」、「さねかづら」で「さ寝」、「来る」で「繰る」を掛けている。他人に知られずに、さねかづらの蔦を手繰るように、恋しいあなたに逢うことができるだろうか。というほどの歌である。意味だけを追及すると実に下らない。平安の貴族と言うのは実に暇で、こんなことしか考えることがなかったのかと思う。高校生の私は、だから和歌と言うものに拒否反応をもってしまったのだが、今では言葉の絡み合いを読めば良いと納得している。
 遠くの民家の庭に白い花の咲いた木が見え、「あれ何だろう」と瀬沼さんが双眼鏡で覗いてみる。「どうやらサザンカですね」そう言えばあちこちの垣根や民家の庭には山茶花が咲いている。山茶花とツバキの簡単な見分け方は花の落ち方の違いだった。ツバキは花弁と雄蕊が基部でくっついているから、花ごと、ボトリと落ちる。サザンカの方はくっついていないから花弁が散る。

山茶花の赤に気力をもらひけり 《快歩》

 広い道に出ると民家の庭先にカラマツが生えている。隊長の案内文には「びっくり」と書かれているし瀬沼さんも驚いているから、平地で見るのは珍しいのだろう。軽井沢じゃちょくちょくお目にかかる。ちょうど家の主人らしい男性が車の掃除をしているので、隊長が声をかけて見学させてもらう。「植えたんですか」「長野から苗を貰ってきて五年経つよ」「五年でこんなに大きくなりますか」
 松ではあるが葉は落ちてしまっている。「だから落葉の字があるのか」私はやっと気づいて「そう、そうなんだよ」と隊長に褒められる。落葉針葉樹なのであった。唐松とも書くが日本原産だ。短い枝に集まった葉の状態が、唐絵に描かれた松に似ているからだそうだ。
 ロダンが「島倉千代子が歌っていた」と口走る。カズちゃんも「からたち日記ね」と同調する。

こころで好きと叫んでも
口では言えずただあの人と
小さな傘をかたむけた
ああ あの日は雨
雨の小道に白い仄かな
からたち からたち からたちの花(西沢爽作詞・遠藤実作曲『からたち日記』)

 遠藤実も亡くなってしまった。「違う、そうじゃないよ。これはカラマツ、落葉松。だからむしろ北原白秋と言って欲しい」ちょっと変則で申し訳ないが、改行せずに引用する。

一 からまつの林を過ぎて、からまつをしみじみと見き。からまつはさびしかりけり。たびゆくはさびしかりけり。
二 からまつの林を出でて、からまつの林に入りぬ。からまつの林に入りて、また細く道はつづけり。
三 からまつの林の奥も、わが通る道はありけり。霧雨のかかる道なり。山風のかよふ道なり。
四 からまつの林の道は、われのみか、ひともかよひぬ。ほそぼそと通ふ道なり。さびさびといそぐ道なり。
五 からまつの林を過ぎて、ゆゑしらず歩みひそめつ。からまつはさびしかりけり、からまつとささやきにけり。
六 からまつの林を出でて、浅間嶺にけぶり立つ見つ。浅間嶺にけぶり立つ見つ。からまつのまたそのうへに。
七 からまつの林の雨は、さびしけどいよよしづけし。かんこ鳥鳴けるのみなる。からまつの濕るるのみなる。
八 世の中よ、あはれなりけり。常なれどうれしかりけり。山川に山がはの音、からまつにからまつのかぜ。(北原白秋「落葉松」)

 ここの主人は親切な人で、なっている柚子の実を取って良いという。早速?ぎ取ったロダンは「これで女房にアリバイができた」とほくそ笑むが、「だけど冬至は過ぎてるよ」と宗匠に笑われる。敷地に沿って道を回り込むと、この家は園芸農家のようで、綺麗に手入れをされた樹木が立ち並んでいる。
 道端には「湯殿山・月山・羽黒山供養塔」「坂東・秩父・西国・四国札所巡り供養塔」、馬頭尊が並んで立っている。二つの供養塔には安政四年(一八五七)三月吉日の銘がある。馬頭尊は嘉永元年(一八四八)十一月十九日である。幕末の人心不安のこの時期、何でもよいから御利益のありそうなものを集めてきたか。
 「腹減っちゃったよ、早く行こうぜ」こういうことを言う人は一人しかいない。川の博物館は入場料四百円だから(ただし六十五歳以上は無料だという)中には入らず、その外側を回り込むように歩く。外からは大きな水車が回っているのが見えるが、広い園内に人気はない。何か分からない大きな設備を見て「ディズニーランドみたいじゃないか」と講釈師が喜んでいる。ディズニーランドなんて、子供が大きくなったから行かないという若井夫人に、「だから大人だけで行くんですよ、楽しいですから」と瀬沼さんが応じている。「それで奥さんと行くのね」「いや行きません」「なんだ」
 しかし、こんな広い敷地を開放しないのは勿体ないのではないだろうか。無料にすれば貧しい私たちだってちゃんと入城して少しは川や生態系について学習する機会を持ったかも知れない。ここは埼玉県の施設であるが、当局はどう考えているのであろう。
 少し離れた広場にシートを広げて昼食だ。イトはんが大根の皮を細切りにした漬物を出してくれる。パリパリとした食感が良い。サッチーはやはり自家製の漬物を取り出す。一言居士が一人で小さなテーブルを前にしている。「どこで買ったの」「百円ショップだよ」この人は面白い小物をいくつも持っていて、毛糸で編んだペットボトル入れなんかを見せてくれる。短い棒を見せて、「これは何だと思う」と言う。私は前に見せてもらったから知っている。つなぎ合わせて箸にするのだ。「それも百円ショップ?」「これはもっと高い」瀬沼さんも知っているらしく、箸だけでなく、スプーンやフォークになるものもあると教えてくれる。一言居士が甘い菓子を配り、「これなら甘くないよ」と岳人もスナック菓子を提供してくれる。しかしじっと座り込んでいると体の芯が冷えてくる。

 昼食を終えて河原に降りて歩く。吹きっさらしの河原は寒い。あまり歓迎すべきコースではないが、石の好きな人はこういう場所は必ず歩かなければいけないのだろう。ドクトル、ロダンもそうだろうか。「漬物石にちょうどいいだろう」「それじゃ背負ってきてくれる」講釈師とサッチーが掛け合いをしている。風がきついのでマフラーを鼻まで引き上げる。ダンディのスロバニアの帽子が飛ばされて転がって行く。
 川には鴨や川鵜が遊んでいる。彼らには冷たいという感覚がないのだろうか。カラスも水を浴びているらしい。「ここはカラスの入浴場なんだ。寄り合いをしてる」見ているだけで寒くなる。

カラス語も分る如きに講釈師 《快歩》

 早々に河原を引き上げて上の道にコースを変更する。河原の方を見ると、大きな石が転がっている場所ではモトクロスの練習をしている男たちもいる。「カッコイイですね」カズちゃんはこの手のものが好きらしい。「そう言えば、戸田の競艇場も熱心にみてましたね」ダンディが思い出すと、「そうなんですよ、スピード感がたまらないんです」と嬉しそうに答える。
 林道にはドングリが大量に落ちている。「ドングリの形で何の木か分かるのかい」ドクトルが聞いている。「この丸くて大きいのはクヌギ」と一言居士、阿部さんが同時に回答を出す。確かに丸くて大きい。戸田を歩いた時には、ドングリの帽子を見ればシラカシかナラか分かるとノンちゃんが教えてくれたのに、この辺にはその帽子が落ちていないので折角の知識もここでは役に立たないのが残念だ。とりあえず、シラカシとクヌギだけは知識の抽斗にしまっておかなければならない。

北吹くや目深帽子へ犬の吼ゆ 《快歩》

 二頭の犬が繋がれていて、私たちを見て吠える。私たちは怪しげであろうか。さっきのピンクの建物がよほど気に入ったのか、講釈師が若井さんにモーテルへの入り方について講釈している。「入る時も出る時も、顔を見られないですむんだよ。行ってみるかい」「どういう人だ、このひとは」ロダンは呆れる。これなら確かに怪しい。

 玉泉山泉福禅寺。山門の前には後深草天皇勅願所の石柱が建ち、その脇には八尺ほどの地蔵が立っている。
 勅願寺とは、天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された寺のことなのだが、寄居のこんなところに、何故そんな由緒があるのだろうか。寄居町はこういうことに親切でなく、ホームページを開いても何も書かれていない。
 また後深草天皇というのは、寛元四年(一二四六)四歳で即位して正元元年(一二五九)に退位した。さっき見た曼荼羅板石塔婆が寛元元年(後深草誕生の年)の銘を持っていたから、この辺りに何か関わりが多いのだろうか。この天皇から持明院統の系統が始まり、後の南北朝にまで続く、大覚寺統との皇位継承争いが始まった。
 隣は浄土宗大亀山浄福寺で、ここでトイレ休憩を兼ねる。境内のトイレには「観光トイレ」と記されているのだ。句碑があって、若井さんをはじめ数人で挑戦するが読めない。
 この一路たとり○○○○あふべきや  江南
 この四文字が読めない。若井さんは「つく日に」、私は「時雨に」と読んでみたが二人ともまるで自信がない。最初の○は日偏に寸のようだから「時」ではないだろうか。そして次が「雨」。しかし、「而」「留」のようにも見えるし、要するにいい加減である。江南先生と言うのはこの辺りの俳人らしいが、その喜寿の祝賀のために門人一同の手で句碑が建てられた。観光トイレを設置している程の寺ならば、何か説明があっても良さそうではないか。

 赤い実がブドウの房のように固まってついているのは多羅葉(モチノキ科)である。今日は赤い実ばかりで、区別が難しい。「ハガキの木だよ」葉に文字が書けるというので、サッチーが早速名前を書き付けた。私はボールペンで書いてみる。葉は固く肉厚で確かに綺麗に書けるが、それを伯爵夫人が胡散臭そうに眺めている。「そうじゃないよ」宗匠が言うには、木片などで葉の裏を傷つけると黒くなるというのだ。なるほど、昔の人はボールペンなんか持っていない。

 貝多羅葉(ばいたらよう)…貝多羅樹は、ヤシ科のオウギヤシ(別名ウチワヤシ)で、その掌状の葉の裏に竹筆や鉄筆などの先の尖ったもので文字を書くと、その跡が黒く残るので、古代インドで写経をするのに用いました(「貝多羅」は梵語(サンスクリット語) pattra の音写、「葉」の意)。略して貝葉とも呼ばれています。
 なお、似たような名称で多羅葉(たらよう)がありますが、多羅葉はモチノキ科(モンツバキシバ・ノコギリシバ)の常緑樹。その葉に傷痕を付けると黒変して文字が書けるので、わが国では貝多羅葉になぞらえて「多羅葉」と名付けられました。
 http://homepage2.nifty.com/t-nakajima/3toppage.htm

 ただ、「葉書」の語源になったというのは俄かに信用することができない。当て字ではあるまいか。念のために例によってウィキペディアから葉書を検索してみる。

はがきを、「端書」と書くのは、言葉の語源から来た表記方法で、文字通りに、覚え書き・メモ等を、端書きしたためである。端書はまた、葉書とも、羽書とも記し、郵便制度の成立後は、「葉書」という表記が一般になった。葉書と記して「郵便はがき」を普通指すが、「葉書」は当て字であり、「端」の代わりに「葉」を使う理由については諸説があり、よく分からない。「タラヨウ(多羅葉)」の木から「葉書」の「葉」が来たという説があるが、確かなことは分かっていない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%8C%E3%81%8D

   正喜橋の手前に「史跡鉢形城址と四十八釜」という石碑が立っている。道の向こう側だったので、車が途切れた瞬間を狙って私だけが見に行った。「四十八釜ってなんでしたか?」

(前略)城の内堀として重要であった深沢川は今も尚両岸より断崖絶壁が迫り、激しい急流は谷ぞこの岩盤をうがち幾多の淵をつくり、灌木天を覆い渓谷の姿を止めている。いつのころからか淵を釜と呼んで「四十八釜」と総称され、(後略)

 橋の上から川を覗き込むと、確かに渦を巻いているような淵が見える。「釜っていうのはあれでしょう、あれがいくつもあるようです」ドクトルがカメラを構える。
 いよいよ鉢形城址である。先月、大学のゼミの同級生がここを訪れて感激したと言っていた。城址を見るのが好きで、空濠とか縄張りの跡を想像すると「ゾクゾクしちゃうわ」と言うのだが、そんなものか。

 鉢形城は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の平山城跡で、東国における戦国時代の代表的な城跡のひとつである。
 背面に荒川、前面に深沢川を擁する天然の要塞である。大手、搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともなう。関東地方に所在する戦国時代の城郭としては完全に残ったもののひとつであり、一九三二年(昭和七年)、国の史跡に指定された。(ウィキペデゥイア「鉢形城」)

 以下、ウィキペディアその他を参照しながら戦国時代を追っかけて見る。この時代の武蔵国の勢力地図は難しくて、書き写していながら混乱しそうになる。下総古河に拠った古河公方足利成氏と、関東管領上杉氏の戦いが基本線であることは間違いないのだが、そこに各家の相続争いや権力抗争が加わってくる。甲斐には武田が、相模には新興勢力である北条が武蔵国を睨んでいるから、こちらにも注意を払わなければならない。
 川越城、岩槻城、江戸城は成氏に対する関東の防衛拠点である。上杉家は山内と扇谷の二つに分かれていて、扇谷は山内の分家のような地位にあった。しかし定正が扇谷上杉を継いで以来、家宰太田道灌の力によって、この頃には山内をしのぐほどの勢力を持ち始めた。
 山内上杉の家宰であった長尾景信が足利成氏との戦いで没した後、家宰の地位を弟に奪われた長男景春が、文明八年(一四七八)鉢形城を築城し、弟の長尾忠景、山内顕定(忠景を引き立てたから)に対抗するため成氏に加担した。義理も人情もあったものではない。鉢形城は、平将門、または源経基の築城によるとか畠山重忠が拠ったなどという伝説もあるが証拠がない。ただこの地形を見れば、かなり古くから戦いの拠点、砦として使われたことは間違いない。
 やがて文明十年、景春は太田道灌によって攻められ、城には山内顕定が入城した。敗れた景春は秩父に落ち延びて尚ゲリラ戦を続けたから、軍事的腕力はあったように思われる。しかし戦いの最大の功労者である太田道灌は、この年扇谷定正によって謀殺された。扇谷の力を削ぐための山内顕定の陰謀であったとも、道灌の力を恐れた定正の疑心暗鬼によるとも、また北条早雲の陰謀であったとも言われている。暗愚と言って良いだろう。八犬伝でもこの定正はよく描かれていない。
 やがて山内、扇谷の抗争が激化する。扇谷定正は何度かこの城を落とそうとして果たさず、明応三年(一四九四)、今度は北条早雲と同盟して打って出たが、その戦いで落馬して死んだ。後に関東に覇をとなえる北条と、ここで手を組むなんていうのは先が見えていない。
 この後も、顕定の養子同士である顕実と憲房が争い、そこに相模の北条、甲斐の武田も加わって、実にややこしい戦いが繰り広げられる。要するに関東地方は無茶苦茶な状態であった。北条に対抗するため山内憲政は扇谷と和睦したが、天文十五年(一五四六)河越夜戦で北条氏に決定的に敗北した。
 勝利した北条氏が武蔵国の覇権を握り、永禄七年(一五六四)北条氏邦が鉢形城に入った。こうして鉢形城は北条氏による北関東支配の拠点となり、城郭が整備された。その後も武田信玄や上杉謙信(河越合戦で敗れた上杉憲政の家督と関東管領職を引き継いだ)の攻撃を受けているから、関東への出口を固める要衝として、戦略的価値がいかに大きかったかが分かる。扇谷上杉は河越夜戦で滅びたが、名跡は一族が引き継いだ。ちなみに吉良義央はこの扇谷の血を引いている。
 天正十八年(一五九〇)、秀吉の小田原攻めの際、前田利家を始めとする西軍三万五千の兵に包囲され、一ヶ月の籠城戦の後に降伏して鉢形城の歴史は終わった。

 広場に設置された復元模型を見て、講釈師が見てきたような講釈を始める。「講釈師は室町時代にも生きていたんですか。元禄時代だとばっかり思っていたけどね」ダンディが大袈裟に驚く。しかし本丸跡を指さし「ここが天守閣だよ」と言うのは少々困ってしまう。この時代、本丸はあっても天守閣を持った城なんかある筈がない。今私たちが普通に連想するような天守閣は信長に始まると考えてよい。それ以前、高層の建造物としては物見櫓程度はあったかも知れない。住職と画伯はこの広場で待っていることになり、残った人は少し登って城址を見て歩く。
 本丸跡には漢詩を記した大きな石碑が立っている。冒頭の「襟帯山河」を私は勝手に山河を襟に帯び、なんて読んでしまって若井さんに訂正される。襟帯はキンタイと読まねばならず、山が襟のように取り囲んで川が帯のように流れている様子を示す。辞書を引いてみると「山河襟帯」という熟語がある。典拠は白居易にあるというが調べられなかった。

襟帯山河好雄視関八州
古城跡空在一水尚東流

 襟帯山河、好雄関八州を視る。古城址空しく在って一水尚東に流る、とでも読むのだろうか。しかし私の読みはいい加減だ。五言絶句ならば文字数が合わない。正しくはこのように読む。

襟帯山河好 雄視関八州     襟帯山河好し。雄視す関八州。
古城跡空在 一水尚東流     古城の跡空しく在り。一水尚ほ東流す。

 詩は田山花袋、書は武者小路実篤である。こんなところで花袋に会うとは思わなかったが、花袋は各地を歩いて紀行文を書いた。秩父旅行の際に玉淀渓谷に感動したらしい。実篤は毛呂山に新しき村を開いていた。

 私は昔のさまを想像した。太刀を挟んだ武士や、かつぎを着た姫達が此処等を往来したさまを眼の前に浮べて見た。過ぎ去つた時の永劫即一瞬の空気の深く身に沁みるやうな気がした。(田山花袋『秩父の山裾』)

 「花袋はどこの出身ですか」ダンディが聞いてきたので「確か栃木の方じゃなかったかな」と私はまた嘘を言う。宗匠が電子辞書を開けばすぐに群馬県出身と答えが出てくる。悔しいから、『東京の三十年』(岩波文庫)の解説(竹盛天雄)から抜き書きする。

 花袋は本名を録弥と言い、明治四(一八七一)年十二月十三日(ただし太陽暦では明治五年一月に十二日)、上州館林に田山ワ十郎の二男として生まれた。田山家は代々秋元藩士。ワ十郎は単身上京して警視庁巡査となったが、明治九(一八七六)年三月ごろ、妻子を東京に呼び寄せた。花袋(数え年六歳)にとってこれが第一回の上京である。しかし父は西南戦争に警視庁別働隊として参加して戦死したので、一家は帰省せざるを得なかった。館林で初等教育を受け始めるが、明治十四(一八八一)年二月ごろ、祖父につれられて第二回目の状況をすることになる。家計の足しに丁稚奉公に出されたわけである。京橋南伝馬町の有隣堂という農業関係の書物を扱う本屋が、彼の落ち着き先であった。

 「私は『蒲団』を読みましたけど、全然、まったく純情な話じゃないですか。いやらしいところなんかまるでない」ロダンの言葉に、「エロ本だと思って読んだんじゃないの」と周りの反応がやかましい。出来事ではなく、赤裸々な心情告白がスキャンダルを呼んだのだ。自然主義の闘将とみられている花袋だが、彼自身は強いて分類すれば純情派であろう。
 「田舎教師は花袋のことだと思っていた」「確かモデルがあったはずです。花袋自身は教師になったことがないから」これは間違っていなかった。二十歳で死んだ小林秀三という教師が残した日記に基づいた。羽生には花袋の義兄が住職をしていた建福寺があり、その縁で花袋は羽生を訪れていたのだが、小林はその寺に下宿していたのだった。
 城跡を見てゾクゾクするような人はいないから、適当に歩いて下に戻って住職たちと合流する。
 寄居駅を目指す途中で酒蔵直営らしい酒屋を発見した人は店内に入り込む。ドクトルは奈良漬けを買った。「だって旨いっていうからさ」酒蔵から出る酒粕を使ってあるから、好きな人には旨いものなのだろう。私は奈良漬けが苦手だ。「どうして、お酒が好きなのに」と阿部さんが驚くが、だって甘いじゃないか。ダンディは日本酒を買っている。一言居士はワンカップを買う。シールを蒐集しているからだ。珍しく岳人が何も買わないのは風邪のせいだろうか。「自分だって、いつも必ず買うわけじゃありませんよ」
 本日のコースは終了した。宗匠の万歩計ではおよそ一万八千歩であった。

 寄居駅前の「華屋与兵衛」でお茶を飲み、その後はお馴染み川越の「さくら水産」だ。「寄居で飲む気はしないよね」確かに寄居では飲んだあとが遠すぎる。画伯は奥さんの了解をとるため電話をしなければならない。イトはんは事前に「おとうさん」の了解をもらってきたので勇んで参加した。「でもお酒は飲めないからね」お茶でも良いのだ。
 カズちゃんは最初におにぎりを注文するが、なかなか出てこない。その間に一人一丁づつの豆腐が出てきたから、それで空腹は収まったようだ。「さくら水産」でダンディは必ず魚肉ソーセージとキムチを注文する。「だって、ひと皿五十円ですよ、今時ないでしょう」焼酎を二本開け、一人二千三百円である。
 「それじゃカラオケだ」と隊長が命令を出す。久しぶりに画伯が最後まで付き合ってくれる。カズちゃんとイトはんも一緒だ。イトはんは「初めてだわ、だって昔はなかったでしょう」と感激している。このメンバーなら、まず新しい歌は出ない。岡晴夫、岡本敦郎、平野愛子、三浦洸一、若山彰。新しくても松島アキラや舟木一夫だからね。あっちゃんがいないから残念ながら渡辺はま子や高峰秀子は登場しない。
 画伯は相変わらず正しく品の良い歌を歌う。ロダンがいつものように手当たり次第に選んで登録するが、そのほとんどを私が奪って「ダメだよ、ひとの歌とっちゃ」と顰蹙を買う。隊長は途中で寝てしまった。最初の予定通り、二時間ちょうどで解散だ。

 画伯の個展の日程が決まった。五月十四日(木)から二十日(水)までである。それなら十六日(土)か十七日(日)にお邪魔しなければならない。

眞人