栃木   平成二十年五月二十四日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2008.05.27


 小山駅で三十分近くも待って両毛線に乗り込んだが、車内を見回しても仲間の姿が見えない。集合場所を間違えたのではあるまいか、一瞬不安にもなってくる。水を張られた水田の傍に、黄金色に色付いた麦畑も広がり、コントラストが美しい。麦秋である。
 栃木駅に着けば、もうかなりの人数が集まっていて、「えーっ、両毛線で来たんですか。料金が全然ちがいますよ」とあっちゃんにバカにされてしまった。みんなは東武線を利用して来ているのだ。土地勘がないと損をする。
 どれだけ損をしたか検証してみよう。鶴ヶ島から川越までは通勤定期があるから、川越から大宮経由でここまで料金は千二百八十円であった。これを朝霞台から武蔵野線周りにすれば、朝霞台までは同じように定期を持っている。北朝霞から南越谷、新越谷から南栗橋を経由して栃木までは千百六十円だ。どうやらこれが一番安そうだが、その差は百二十円であった。
 参加者は平野隊長、内田青年、江口宗匠、ロダン川崎、島村チイさん、正田長老、岳人鈴木、竹、三澤講釈師、若井夫妻、阿部、一柳、大橋、胡桃沢、篠田、西山、私の十八人に決まった。あっちゃんは、先日からの体調不良で抗生物質を飲んでいるから不参加だが、リュックを背負ってここまで来たのは実に律儀だ。「あとで配ってね」と紫蘇飴を託される。とにかく早く帰って静かに寝ていなければならない。
 初めて降りた栃木駅は随分立派な駅舎をもち、新幹線の駅のように見えるが、東武鉄道(日光線と宇都宮線)とJR両毛線というローカル路線が交差しているだけに過ぎない。両毛線は一時間に一本か精々二本しか走らない。それにしては立派過ぎないだろうか。右翼の街宣車が軍歌をがなりたてて通る。何かがあるのだろうか。

 国学院栃木短大・高校行きのバスに、「本当は高校生専用なんだけど、良いですよ」という運転手の好意で乗せてもらう。二百二十円で、バスカードは使えない。座席は高校生でほぼ満席だ。はて、高校は土曜日にやっているのだったかしら。十時過ぎだから通常の授業ではない。補修とか部活とか、そんなための登校だろうか。
 十五分ほどで終点につき、バスを降りて一服していると「これから綺麗な空気を吸いにいくんですよ、駄目じゃないですか」と阿部さんに叱られ、私はすぐに火を消した。阿部さんに叱られると、なんだか幼稚園の先生にお説教されているようで、従わざるを得ない気分になってしまう。
 太平山を目指して登り坂を歩き始める。この山はオオヒラサンと読む。秋田には太平山タイヘイザンがあり、つい数年前まで、私は関東にもタイヘイザンがあるのかと不思議に思っていた。オオヒラサンは標高三百四十五メートル、小学生の遠足に適度な山だ。「関東じゃ東の太平山、西の高尾山が初心者向けのコースに決まっている」相変わらず講釈師は何でも知っている。秋田のタイヘンザンは標高千百七十一メートルで、高校生の頃には年一回の学校行事で、全校生徒が登る山だ。関東の人には「酒は秋田の大平山」のほうが有名だろうね。
 「短大生のためなんでしょうね」と阿部さんと若井夫人が覗き込むのは、洒落たペンション風のカフェだ。白とピンクの花をつけているのはハコネウツギである。今日は植物についてはほとんど全て阿部さんに教えてもらわなければならない。蕾のときは白で次第に紅に変わっていくから、一本の木に白から赤までの変化のある花をつける。スイカズラ科。箱根には自生しないので、ハコネの名の由来は何故なのか分らない。
 「山登りは暑くなりますからね。どんどん脱いで下さい」隊長がしつこく、しかもいやらしい声で女性陣に声をかけるがもちろん誰も聞かない。かなりきつい階段が一段落して、ゆるやかな道に入ると落ち葉がクッションになって足元が柔らかい。白い小さな花が無数に咲いているのは、コアジサイであると隊長が鑑定する。遠くから見ると綿毛のようにボーっと白くなっているようにも見えるが、近づけば、ちゃんとそれぞれが小さな花になっているのが分る。「葉の裏がさ、ヌード・・・・・」「えっ」「違う、ビロードみたいになってるんだ」隊長にもそろそろロダン症候群が現れているか。宗匠と触ってみるが、どうもビロードという感触は余り感じない。ユキノシタ科。
 前のほうで雨蛙と言うのを聞いて「アマガエルは別に珍しくありません」という宗匠と近づいてみると、青年が、これは目の下に黒線がないから普通の雨蛙ではないと断定する。阿部さんもそれに頷く。この人たちはどうしてこんなことを知っているのだろう。シュレーゲルアオガエルという。「シュレーゲルなんてついていますけど、日本固有種です。」青年は植物専門かと思っていたが、こういうことにも関心があるのだ。ライデン王立自然史博物館館長だったシュレーゲルの命名による。葉の上で眠っているのだろうか。じっと動かない。
 外見はモリアオガエルの無斑型に似ているが、やや小型で、虹彩が黄色いことで区別できる。また別科のニホンアマガエルにも似ているが、より大型になること、鼻筋から目、耳にかけて褐色の線がないこと、褐色になってもまだら模様が出ないことなどで区別できる。(ウィキペディア)

  青蛙薄ら眼で鎮座せり   眞人
   左右の樹木の葉や花を見つけると、青年は熱心に観察を初め、阿部さんとなにか専門的な討論をしている。この二人の会話に私は入り込むことができない。
 随神門に辿り着く。地図を確認すると、麓の鳥居から真っ直ぐに上る石段のほぼ頂点に位置するが、私たちはその石段ではなく、そこから少し右に逸れた山道を歩いてきたのだと分る。随神門は享保八年(一七二三)の建築で、表には左右大臣、後ろには仁王を配置している。
 そこから少し登れば神社の境内だ。太平山神社は天長四年(八二七)慈覚大師によって創建されたとされている。慈覚大師というのは円仁のことで、下野国都賀郡壬生に生まれた。十五歳で比叡山に登り最澄に師事する。最後の遣唐使として苦労したのは『入唐求法巡礼行記』に記されている。つまり天台宗の僧が創建した神社であるからには天台密教と山岳信仰が密接に結びついた典型的な神仏混淆の神社であることが分る。さっきの随神門自体も明らかに仏教寺院の山門だ。
 拝殿の横には星宮神社があるが、この建物も仏堂の形式によっている。背後の山の新緑が、濃淡様々で美しい。秋の紅葉も良いだろう。小学生の集団が写生をしている。拝殿を写生している子供、山を書いている子供は、まあ普通の感覚だが、ぶら下がっている絵馬に向かって、その一枚を画用紙に大きく描いているのはどういう感覚か。
 少し早めだが、帰りのバスの都合もある。石段を少し下って昼食だ。一時六分のバスに乗るには十二時五十分に出発しなければならない。リュックを下ろすと、みんなの背中は汗でびっしょりと濡れている。食事時間は僅かに十五分。美女にもらった紫蘇飴を配る。岳人は煎餅を出し、宗匠は青森林檎の飴を取り出す。長老からは本物の林檎も提供される。

 下りは随神門を潜って長い石段を下ることになる。かなりきつい階段で、愛宕山との比較に話が及ぶ。この話になれば、講釈師とロダンが喜ぶ。もう一部の人間しか覚えていないが、ロダン命名の由来は愛宕山の間垣平九郎に由来するのだ。さらに「水戸天狗党太平山本陣跡」の標柱もあるから嬉しくなってしまう。「筑波山に拠ったのはこの前でしたか」流石に水戸人ロダンは詳しい。天狗党事件は幕末水戸藩を無茶苦茶な状態に陥れた直接の原因になったもので、明治維新を迎えたときには水戸藩には有為な人材がほとんど残されていなかった。山田風太郎『魔群通過』はこの事件を扱ったもので、風太郎だからフィクションが多いけれど、天狗党の異常さとその悲劇性が最も強く印象付けられる小説だ。
 さっきから講釈師がさかんに信玄平と言っていたのは、実は「謙信平」であることが標識によって明白になる。永禄十一年(一五六八)、謙信と北条氏康がこの地で和解し、謙信が太平山で兵馬の調練を行ったことに由来するという。栃木市のホームページ、謙信平の項には、これを寛永十一年と書いてある。寛永と言うならばさっきの愛宕山、寛永三馬術を思い出す必要もない。家光の時代だから、これは明らかに間違いである。
 およそ千段あるという石段の両側には紫陽花がびっしりと植えられ、「あじさい坂」と命名されている。来月中旬が見頃だろうか。ウグイスが鳴いている。急がなければならないが、白い可憐な花を見つけて阿部さんと青年にオドリコソウだと教えてもらう。私も宗匠も初めて見る。ヒメオドリコウは何度も見ているが、それとは全く印象が違う。丸い玉の上に白い布をふんわりと蔽い被せたようだ。
 バス停が近づくと先頭集団は走り始める。花を見ていて遅れた私たちは最後尾から追いかける。なんとか学校の前についたとき、ちょうどバスが止まった。今度のバスは一般乗り合いだからカードも使える。終点の栃木駅で降りる。

 駅前には山本有三『路傍の石』の一節を記した、黒い大きな石碑が建っている。
 たった一人しかいない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間生まれてきたかいがないじゃないか。
 いまでは有三流の説教口調が鼻につくが、小学生の頃読んで感動した事実は消すことが出来ない。『路傍の石』が最初に映画化されたのは昭和十三年、文部省推薦映画の第一号だったが、実はこの小説は検閲の影響もあって未完に終わっているのだ。こんなことは知らなかった。私たちが小学生の頃、学校の行事で連れて行かれて見たのは、昭和三十五年公開の東宝映画だったろうか。主役の愛川吾一には太田博之がなっている。調べてみると父親は森繁久弥、母親は原節子だ。
 午後は栃木市内の観光コースを巡ることになっている。私は関東の歴史に昏いので、栃木についても良く知らない。県都宇都宮に比べてどうしてもローカルな町しか思えない。
 古代、毛野国が東西に分割され、現在の栃木県と群馬県の桐生川以東が下毛野国として編成された。これに対して現在の群馬県が上毛野国とされたのは、当然のことながら東山道の中でミヤコに近いからだ。和銅六年(七一三)、「諸国郡郷名著好字令」という法令によって国名が二字に統一されたとき、「下野」と決められた。このとき、シモツケの「毛」の文字が抹殺されたが、今も両毛線に、その「毛」は残っている。
 同じような例に近江がある。もと淡海(琵琶湖)であったが、東国に遠淡海(浜松)が発見され、近淡海(ちかつあはうみ)となり、やがて近江となった。いずれも、音を決定する文字を失っても呼び方は元通りだから、小学生に国語を教える場合に苦労する。
 下野の国府は都賀郡(現在の栃木市田村町)にあったから、本来はこのあたりが中心だったのだ。中世には小山氏、結城氏、宇都宮氏などによって支配されたが、江戸幕府成立後は天領や旗本領に細分化された。廃藩置県後、北部には宇都宮県、南部に栃木県が設置され、明治六年にそれが統合されて栃木県になったが、明治十七年に県庁所在地は宇都宮に移された。
 栃木市の中心部には巴波川(うずまがわ)が、東部には思川が流れ、江戸期には舟運の基地として栄えた。蔵が多いのはそのためで、「蔵の町」を市の観光の目玉として整備している。

 巴波川綱手道と表示された、川に沿った遊歩道を歩く。水は余り綺麗ではないが、鯉が泳いでいる。車輪梅という白い花を見る。隊長は車輪のようだからだというが、私には何が車輪のようなのかが分らない。別名はハナモッコク花木斛。
 薄い赤紫の鐘形に咲いているのはホタルブクロ。小さな赤い花はベニバナユウゲショウ。「ユウゲショウってどういう字を書くの?」私の持っている図鑑には「アカバナユウゲショウ」として赤花夕化粧と書かれている。これならばアカバナ科マツヨイグサ科。先日、世田谷の烏山川緑道で美女に教えてもらったムラサキツユクサも咲いている。一柳さんが「菫かしら」と悩んだのは、宗匠が諸葛菜であると断言する。私たちの仲間もすこしづつ成長している。塩庚申という小さな祠がある。
 観光地図を見ると、町の中心部には「塚田歴史伝説館」「横山郷土館」「あだち好古館」などとかなりの種類の小さな博物館が乱立しているが、それは入館料が必要だから入れない。私たちは、無料で入れる「郷土参考館」を訪れる。もと質屋(両替商)であった豪商の蔵で、大塚さんというメタボリック症候群だと思われるオジサンが案内してくれる。
 入り口脇には格子帳場があり、大福帳がぶら下がっている。その帳場に隊長が番頭さんのように座り込んで、受付名簿に名前を書き込む。
 蔵の隅の展示ケースの下の床に穴が開けられているのは何故か。「何かを保管していたものかしら」と胡桃沢さんが質問する。私は単に川が溢れたときのために床上げをしているのではないかなんて思いついたが違っていた。ちょっと外へ出ると、入り口の両脇の床に煙を燻す穴が開けてある。燻した煙が床下を通って蔵に流れ込む仕掛けだ。虫害を防ぐ。「うちは質屋だったから、証文類が虫に食われるとお手上げなんですよ」
 大塚さんの話は、話題があちこちに飛び移り、やや好い加減なところもあるのだが、実に楽しい。二階に上って長さ八間に及ぶという太い梁の話が、いつの間にか、宮大工の話、刀鍛冶の話、左甚五郎の話、日光二荒山の話にまで及ぶ。「猫を飼っているひとは」と聞きながら、東照宮の眠り猫は爪を立てているが、本物の猫はちゃんと眠ると爪を隠すのだと説明する。猫が嫌いな私には真偽の判定がつかない。
 「十三世紀、源平の争いが起こって、将門が千葉にミヤコを立てようとした頃」なんて話を堂々とされると、あれ、私の知識が間違っているかしらと不安になってしまう。将門は十世紀後半の人物です。
 京都と同じように、この町では間口税(田沼意次によって天明六年に始まる)がかかったから、表に面した大通りからは蔵は見えない。路地に入り込まなければ見えない。栃木弁交じりだから、聞き取るのが結構難しい。そのうちに木遣り唄の一節を歌ったのには全員が驚いた。やや高音で軽く歌っているのに伸びがあって素敵だ。拍手喝采をすると大塚さんは大満足だ。みんなで歌いましょう。みんなは囃しをいれてくれなければいけない。「ヨーイトコマイテ、梃子マイテ」さあ、練習しよう。
 練習を三遍ほど繰り返していよいよ本番だ。木遣唄自体は何を言っているのかまるで覚えられないが、七七七七の形式であるという説明だけは覚えた。消防鳶の会でもかなりの地位を占め、また二荒山の大先達でもあると、大塚さんは自慢する。
 最後に蔵の扉を閉めるのが、彼にとってはまた自慢の瞬間でもある。内側の引き戸を閉めるとどういう仕掛けかもう外から開かない。外側の厚い観音扉を左から右とゆっくり閉め、金輪を私につかませて空けてみろという。ひっぱっても駄目だ。鍵を掛けたわけでもないから私たちは首を捻り、それを見ている大塚さんは喜んでいる。
 もう一度最初から開けて見せて、今度は内側から見せてもらう。引き戸を閉めると、内側の桟に通した板が途中で下に落ち、敷居に食い込むから外からは開けられないのだ。外から開けるためには直角に曲がった鉄棒を小さな穴から入れて、操作をしなければならない。私たちは日本の大工の智恵と技に感動する。観音扉のほうは説明を聞いても良く分らない。戸をあわせる部分は斜めに角度がつけられ、二つ合わさるとそこが綺麗に密着する。「几帳面っていうだろう」そこにある種の真空状態が発生して扉は閉まる。金輪を微妙に上下させると、どこからか風が抜け真空状態が解除され、扉は開く。
 「もう早く行こうぜ」相変わらず説明も聞かずに外に待っている講釈師が急かせる。「どこにでもああいう人はいるんですよ」これだけの芸を見せて無料だから、彼はどこで収入を得ているのだろうか。家のほうには国宝級の「オタカラ」が山のようにある。「鑑定団なんか絶対だめだ。相続税が高くなってしまうから」不動産収入が別にあるのだろうね。最後にほら貝を吹き鳴らす。私達は熱演に感謝してそこを出た。
 若葉風木遣唄聞く蔵の町  眞人
 ここから川を中心にした一角を回っていく。日光例幣使街道の石柱がある。中山道倉賀野宿から分岐して、太田、八木、栃木、鹿沼、今市を通って日光に至る道だ。日光例弊使とは日光東照宮に御幣を奉納するために,京都の朝廷から派遣された勅使のことで,毎年四月十五日から十七日にかけて,家康の忌日に行われる東照宮春の祭礼に派遣された。
 夢二の絵を描いた木の看板のある、コンクリート三階建ての建物は松本床屋。県庁だった建物、病院などほかにも大正の頃を思わせる木造の建物もよく保存されていて、今でも使用されている。「理髪店」と一枚の木に彫り込んだ看板が掲げられている古い木造の建物は「ここがさ、日本で最初の床屋だよ」講釈師の縄張りは栃木にまで及ぶ。しかし本当かね。山口県下関に「床屋発祥の地」というのがある。
 鎌倉時代の中期、亀山天皇に仕えていた京都御所の北面の武士従五位ノ下北小路蔵人之頭藤原基晴は 宝刀の紛失事件の責任をとって職を辞し 三男采女之亮政之を連れて宝刀探索のため 当時蒙古襲来で風雲急を告げていた長門国下関に下った
 基晴親子は 当時下関で髪結をしていた新羅人からその技術を学び 往来の武士を客として髪結所を開いた 店の床の間には亀山天皇と藤原家の先祖を祭る祭壇があったので下関の人々はいつとはなしに「床の間のある店」転じて「床場」さらに「床屋」という屋号で呼ぶようになった 「床屋」という言葉は下関が発祥地となりその後全国に広まっていった。(http://hamad.web.infoseek.co.jp/hass-col/culture/Tokoya.htm)
 これもなんだか胡散臭いが、講釈師がこの栃木にある「理髪店」が本邦初であると断言する根拠はなんだろう。こっちだよと講釈師が先導したのは、翁島の代官別邸だ。これも入場料が必要だから、門の前で眺めるだけだ。
 近龍寺(浄土宗)は施餓鬼会の真最中で、度胸の声が響いている。正座した武士の前に平伏している子供の像は何だろう。「湊川じゃないか」正成・正行の桜井の駅の別れだと判断する。青葉茂れる桜井の里のわたりの夕まぐれ。浄土宗のこの寺にどういう関係があるのだろう。
 本堂の脇にあるのはシナノキである。「なかなか見られない」と隊長が言うから一所懸命に観察する。細い色の薄い若葉の裏の真ん中辺から、葉脈が折れるように飛び出していて、それがいくつかに枝分かれして小さな実を十五六個ほどもつけている。支那の木ではなく、信濃の木、科の木である。別にシナはアイヌ語であるという説もあるらしい。菩提樹の仲間でシナノキ科シナノキ属。(これは後で隊長から訂正が入った。菩提樹らしい)
 本堂の左から裏手に回って塋域に入ると山本有三の墓がある。茶色っぽい大きな石に『無事の人』(読んだことがない)の一節を土屋文明の書で書いてある。私達はこれを有三の墓だと決め付けたが、実は有三墓を示す案内標識は隣の墓石を差していて、その墓石はビニールシートの覆いが掛けられてある。あるいはそれが本当の有三の墓だろうか。

 隊長の計画した見所はここまでで、あとはぶらぶらと栃木駅を目指すだけだ。途中の店で篠田さんが竹炭を買ったようで、いっとき炭の話題が広がる。「林檎とかパイナップルも炭になる」講釈師の断言にロダンが「私の住んでる辺りでは見たことがない」と言う。「バッカじゃないの、街中で炭焼いている筈ないじゃないか」ロダンは、そういうものを売っている店がないということを言いたかったのに違いないが、反論すればまたそれに倍する言葉が帰ってくるはずだから、沈黙してしまう。
 この時間まで濡れずに済んだのは良かった。おかげで「雨男」の話題も出ずに済み、計画通りきちんと三時に到着したのは流石だ。女性陣はお茶を飲むための店を探し、私達は取り敢えず大宮に出て、貧乏人の味方であるさくら水産に入ることに決めた。
 どのコースを辿るのが最も経済的なのか、ちょっと議論はあったものの、東武線で栗橋まで行き、そこからJRに乗り換えることにする。講釈師は東武線でそのまま春日部方面へ向かうから栗箸で別れる。青年は飲めないので大宮で別れる。長老が一緒に飲むよというのが嬉しい。
 さくら水産の一階はほぼ満席で、小人数に分散しなければならないという。珍しいことだ。二階は五時開店だから二十分ほど待たなければならない。それでも二階の一番手前の狭苦しい席で時間を待っていると、五時十分前には入れることになった。楽しく飲んで、一人二千二百円なり。
眞人