戸田   平成二十年十一月二十二日

投稿:   佐藤 眞人 氏     2008.11.24

 先週の中頃から急に気温が下がってきた。今日も空はすっきりと晴れた青空だが、風が冷たい。旧暦十月二十五日。戸田公園駅には二十人が集まった。
 男は隊長、中将、宗匠、一言居士、岳人、瀬沼さん、竹さん、住職、ダンディ、講釈師、テラさん、私。女性は阿部さん、一柳さん、大橋さん、本庄小町、のんちゃん、カズちゃん、いとはん、伯爵夫人(初めて言ってみた。さてこのニックネームが適当かどうか判定してください)。テラさんは足の調子がおもわしくないので自転車に乗ってきた。戸田に住んで長い人で、隊長と一緒に下見もしてくれた。今日は御苦労をおかけする。
 隊長訓示の後、出発しようとするとテラさんの姿が見えず、宗匠が探しに行った。ところがそのテラさんは先の方で自転車を押して待っているから、隊長を先頭にしてみんなは歩き始めた。「呼んできます」と岳人が行ったと思えばすぐにその宗匠が戻ってくる。どうもタイミングが悪い。宗匠と伯爵夫人が岳人を待つことにして、私たちは子供の国を目指してゆっくり歩き始める。
 公園の中では紅葉をみて隊長が何かを説明しているが良く分からない。そこに宗匠、岳人も追いついた。ドームの屋根がスイカのような形をしているのは、プラネタリウムのようだ。「恐竜だよ」講釈師が指をさす。
 歩き始めると、歩道脇が少し引っ込んでいて、昔懐かしい円筒形の郵便ポストが鎮座している。「まだちゃんと集配してるんだ」「一日に三回あるよううだ」と歓声があがる。
 ヘクソカズラ(アカネ科ヘクソカズラ属)の実は黄土色で、濡れたように、あるいは粘っこいように光っている。ノンちゃんがわざわざ「ヘクソ」の文字の説明をしてくれる。「臭いのかしら」「臭いのは花じゃないかな」「花は結構良い香りだったような気がする」
 花は白の中心が赤くなったようなもので、名前ほどおかしな花ではなかった筈だ。別名にサオトメバナとも言うらしい。ウィキペディアによれば、葉や茎に悪臭がある。生の実はかなりの臭気を放つが乾燥させると匂いが消える。
 ネズミモチ(モクセイ科イボタノキ属)の実は黒い。岳人がクチナシ(アカネ科クチナシ属)の実を見つけてくれる。

 JRの線路に向かって上り坂になる道を隊長はまっすぐ登っていくが、すぐ右に水神社を見つけたので後ろ半分の連中はちょっと立ち寄ってみる。小さな社で、正面の「水神宮」碑には寛政八年(一七九六)と彫られている。祭礼には獅子頭が飾られるということで、「川岸の獅子頭」という標柱も立っている。鳥居は神明鳥居型、「水神社」の額が取り付けられている。
 荒川に沿って、水神宮が点在している。大正期の地図(戸田市立郷土博物館「大正期の下笹目・美女木」)で、当時の荒川をここから上流のほうに遡ってみると、早瀬のあたり(今の笹目水門のあたりか)から北に向かいながら、北に南に東に西にと、かなりの蛇行を繰り返しているから、氾濫が常のことだったろうと思われる。そんな土地柄だから水神宮が多い。今見ている地図では、早瀬に二か所、美女木の二か所確認できる。
 隊長を追いかけて坂道をちょっと登れば、片隅に「中山道戸田渡船場跡」の石柱が立ち、渓斎英泉「木曾街道蕨之驛戸田川渡場」の絵が掲示されている。「これが問題なんですよ」「そう、まだ決着がついていませんね」今年六月、志木を歩いた後に入った居酒屋「華の舞」の壁に、この絵が大きく飾られていて、ちょうど酒の席での恰好の話題になった。朝の光景であろうか、夕方であろうかという問題だった。この問題で一時間費やしたから、私たちも実に暇である。
 絵をよく見てみよう。画面手前には向こう岸を目指す渡し船が大きく描かれている。縞の合羽に三度笠の男、老女、馬も一頭乗っている。船に驚いたように鷺が二羽川から飛び立ち、向こうの空には先に飛び去った鳥が小さく五羽見えている。対岸には船着き場を目指す女性が歩いてくる。胸に笠を抱えて杖を手にしている。(刀を差した侍だと思った人がいるが、明らかに女性の姿である。一言居士、竹さんが確認した)空は薄く茜色に染まっているようだ。
 朝派の私の言い分は、女性が降りてくる対岸は戸田である。とすれば、川の右から茜色に染まる空は、方角として東であり、つまり朝焼けである。江戸を早立ちして中山道を下る旅人が、朝一番の渡し船で戸田を目指すのである。ダンディ、宗匠もこの説を主張する。
 一方、夕方派の言い分は、鳥が飛んでいるのは寝ぐらに帰るところだ。だから空が染まっているのは夕方である。これを主張するのは隊長とシオ爺で、「あっちゃんも朝派だよ」と隊長が言い張る。
 「アッ、その話面白いですね」阿部さんが深く感動して、後で寄った郷土博物館の学芸員に尋ねてくれた。その場では分からず電話連絡ののち、阿部さんが教えてくれた結果は以下の通りである。
 「絵に見える対岸は下戸田村である」朝派の推測した通り、やはり板橋宿を出て戸田に向かう船であることがこれで根拠を得た。ところが、私たちが最も関心のある空については、「この絵は版画であり、当然、同じ版木で刷った別の絵がある。そちらの方は青空になっているものもある」ということで、朝夕の別どころか昼であるかも知れないというのだ。
 結局結論はでないが、学芸員にも判定がつかないのを、素人の私たちがこれ以上追及できそうにもない。熱心に問い合わせをしてくれた阿部さんには感謝する。

 (前略)手前は蓮沼、根葉両村の入会地、川向いは下戸田村であった。平時の川幅は六十間(約一〇〇メートル)で、橋はなくて渡船場であったから、中山道では最初の難所であった。すなわち平時の水深は四尺であるが、出水して一丈八尺余(五・五メートル)になると留り川となって渡ることができず、一日や二日の滞在を余儀なくされ、江戸から来た者は引き返すか、千住へ廻るかしたのである。
 川は豊島郡と足立郡の境、いまは東京都と埼玉県の境界である。この渡船場は戦国時代からあったというが、江戸時代には下戸田村が渡船の権利を持っていた。下戸田村には川会所があって、名主・年寄・組頭などが交代で詰めて業務を行っていた。天保年間では、馬船・平田船・伝馬船・小伝馬船など十三艘あったが、馬船一艘ずつが両岸にあって、人神馬込みで渡していた。長さは五丈六尺(一七メートル)、幅は九尺(二・七メートル)で、馬は四疋乗せることができた。(児玉幸多『中山道を歩く』)

 少し戻って水神社から狭い道を回り込んで地蔵堂を見る。このあたりが本来の中山道なのだ。隊長作成の資料では中山道を説明する説明板があるらしいのだが、残念ながら気付かなかった。
 入口の左には青面金剛が立っている。「講釈師はいるかしら」金剛の足元を見ても擦り減っていて邪鬼の姿は良く分からない。「俺はどこだっているよ」と講釈師自ら証言するから、いるのだろう。三猿の下には鶏も見える。享保十六年(一七三一)の銘がある。
 地蔵堂の軒には正徳三年(一七一三)の半鐘が懸っていたらしいが見つからなかった。 この建物は相当に古い(戸田市内最古)もので、紅梁、斗?、木鼻などが注目すべき点が多いと、隊長作成の資料に書かれている。しかし私は全く分からない。ちょうど宗匠が調べてくれたので、そのまま利用させてもらうことにする。

紅梁:寺院・神社の建物内部の柱間に渡した最下部の梁。これを水平に架けると目の錯覚で垂れ下がった様に見えることから、ゆるいアーチ形にして安定感を持たせる。この紅梁の両端が柱の両側に突きだした部分に彫刻を施したものを「木鼻」という。大きな屋根の寺院の軒下を見ると部材が組み合わされて屋根を支えているのが見える。これを「斗きょう」(ときょう)又は組物という斗は枡形の部材でキョウは肘木と言い外側に伸びている部材。(出典:http://web1.kcn.jp/sendo/shajitishiki/shajiflame.htm)

 埼京線の下をくぐってすぐに親水公園に入り、少し休憩をとる。公園の入口には戸田橋の親柱を残していて、御影石を積み上げた立派なものだ。これは三代目の柱であるとテラさんが教えてくれる。たしか初代の親柱は小豆沢公園にあった筈だが、と思ったのは私の勘違いだった。うろ覚えで言うから、それを聞いた人には申し訳ないことである。三代目親柱の北側がここに、南側の柱が板橋区小豆沢公園内に移設されたのであった。
 明治八年五月、木製の橋が取り付けられたとき、戸田の渡しは廃止された。橋を通るのは有料である。

 長さ七十五間(一三六メートル)、幅二間二尺(四・二メートル)、工費一万二千六百五十円であった。同七年一月から三月までの一日平均の渡船者は、人が九百五十九人、車が百二十輌、馬が六十疋、馬車が二輌で、これをもとに計算を立て、工費を一万円とし、渡橋銭を人一人五厘、人力車は車夫とも一銭五厘、同空車は一銭、荷車は八厘、荷馬は一疋馬夫とも八厘、馬車の二疋引きは十二銭五厘、一疋引きは六銭二厘五毛とし、一日に六円九十二銭余の収入であった。(児玉幸多、前掲書)

 大正元年、二代目(これも木製)に架け直されたが、関東大震災と翌年の水害で破損する。昭和七年十二月二十四日、初めて鉄製の橋が架けられた。これが三代目である。長さ五百二十八・六メートル、幅は十一メートルだった。 現在の戸田橋は昭和五十三年に架けられた四代目になる。
 ここから漕艇場の南側を歩くことになる。「立教の艇庫がありますよ」とダンディが指を指す。「立教にボート部があったなんて、全く知りません」立教は知らなかったが秋田高校にボート部があったのは覚えている。
「俺はクラス対抗で漕いだことがあるよ」とテラさんが思いがけないことを口にする。昭和二十七八年の頃はそんなこともやっていたのか。私の時代、クラス対抗にボートはなかったな。球技と格技、それに合唱コンクールがあった。私は(エヘン)、一年のとき剣道団体戦で優勝し、三年では合唱コンクールで優勝した。(もちろん他のメンバーのお蔭であるが)
 船着き場というのかしら、ボート競技の終点から川を眺める。日差しが暖かくて気持ちが良い。澄んだ青空の下、水は濁っているが、練習中のボートが静かに走っている光景はなかなか良いものではないか。
 芝生にシートを広げて小学生の男の子を座らせ、若い母親が赤ん坊を抱いていて、カズちゃんがしきりに話しかけているのが聞こえてきた。「この辺にお住まいなの?」「草加なんです。パパがボートをしてい
るので」三菱など企業の艇庫もあるから、企業スポーツとしても盛んなものなのか。男の子は退屈そうな顔をしている。

  父の漕ぐボート輝く冬日かな  眞人

 ここでダンディが教えてくれる。この漕艇場は川ではなく、溜り水である。なにしろ昭和三十九年の東京オリンピック以来、水の入れ替えをしていないからアオコが発生する。そのため汚れが甚だしく、それを解消するため真珠貝を入れた。「それがなんと、実際に真珠ができたんですよ」いずれは戸田名産の真珠として町興しの起爆剤になるのかもしれない。真珠はこんな汚い水で育つのか。もう少し正確に知ろうと下記を見れば確かにそうだ。
 水質浄化も真珠もできる。こんな一石二鳥の試みを埼玉県ボート協会が行っている。場所は戸田漕艇場(埼玉県戸田市)。池蝶貝を使っての実験で、まだ浄化効果の数値は出ていないが最近、淡水真珠ができていることが分かった。「水がきれいになり、真珠もできれば」。関係者は今後の展開に期待している。
 戸田漕艇場で三月一八日、池蝶貝を引き揚げて生育状況の確認が行われた。二個を引き揚げたところ、沈めたとき約十三センチだった全長は約十八センチに成長。一個の中には細長い真珠(縦約七ミリ、横約四ミリ)七個。もう一個には円形状の大粒真珠(直径約十五ミリ)二個が見つかり、関係者から歓声が上がった。(産経新聞二〇〇八・四・八)  東大の艇庫の隣に学習院もあって、阿部さんが仰け反るように驚く。学習院の名前にそんなに驚かなくても良いじゃありませんか。その隣には法政大学、対岸には慶応と早稲田が並んでいる。筑波大学の艇庫前にはボートが並んで干して(?)あるのでじっくり観察させてもらう。座席は可動式である。「私こんな狭いところでどうするんだろうと思ってたわ」いとはんが感動する。意外に幅は狭く、その癖長さは相当ある。講釈師がいろいろ説明する姿を付属高校のボート部員が見て、笑っているような気がするのは勘違いだろうか。その高校生にいとはん、カズちゃんはいろいろ質問する。
「こんなに人がいたんじゃ水鳥もみえないですよね」と瀬沼さんが呟いている。私は気付かなかったが、宗匠はカイツブリを発見したらしい。ちゃんと観察していなければいけない。

漕艇場澪へ顔出すかいつぶり 《快歩》

 この漕艇場は昭和十五年、幻に終わった東京オリンピックのボートコース会場として整備された。「田中英光って知ってますよね」ダンディが話しかけてくる。『オリンポスの果実』。ボートの選手が走り高跳びの女子選手に恋をする物語であった。「私は中学三年の時に読みました。ここに来るといつも思いだす」私もその頃かな、高校に入っていたかも知れない。
 田中英光は戦後ヒロポン中毒になって、太宰治の墓前で自殺した。かなりの大男だったというので、ボート選手としては不向きだったのではないだろうかとも思うのだが、第十回のロサンゼルス・オリンピックに日本代表として出場しているから、一流選手だったのだ。息子の田中光二はSF作家になった。『エデンの戦士』はまさき・もりが漫画化している。
 私はボート競技のことは何も知らなかったので、この機会に一応の基礎知識を身につけようと思う。例によってウィキペディアのお世話になる。
 まず、漕ぎ手が一人で一本のオールをもつか、二本持つかで異なり、前者をスウィープ艇、後者をスカル艇と呼ぶ。そして、それらが更に細分される。体重別とオープン制の別もあるらしい。
 エイトは、スウィープ艇で、八人の漕手と一人の舵手(コックス)が乗る。ボート競技の中では最大の人数で、最も高速である。 「コックスって、ただ座って右とか左とか言うだけなんでしょう、楽よね」いとはんが面白いことを言う。「違うよ、一番大事な役目だ。舵も取らなくちゃいけない」講釈師が断定する。舵手であると同時にピッチやタイムを測定し、チーム全体を引き締める重要な役目だ。暇ではない。
 フォア (四人漕ぎ)には、舵手付きフォア、舵手なしフォア、スカル艇で舵手付きクォドルプルと舵手なしクォドルプルの四種目がある。舵手付きクォドルプルは日本独自の種目である。二人漕ぎではペア(舵手付き、舵手なし)、スカル艇のダブルスカル。一人ではシングルスカル。これだけの種目があるのだ。
 距離は二千メートル。但し国内では千メートルの競技が最も多い。直線コースで二千メートルを確保するのが難しいためだ。早慶レガッタは例外的に三千メートルで行われるらしい。

 大学のボート競技は盛んで、早稲田大学と慶應義塾大学の対校試合である「早慶レガッタ」は三大早慶戦と言われ、隅田川の春の風物詩としても有名である。また学校間での対抗戦として最も歴史があるのは開成高等学校と筑波大学附属高等学校の行っているもので、大正九年から行われる。以来平成二十年で八十回を迎えた。五月のゴールデンウィークの次の週の日曜日に行われる東京大学と一橋大学の対校試合は「東商レガッタ」(一橋では「商東戦」)と呼ばれる。通算成績では東大が一橋を大きくリード。一橋が盛り返した時期もあるが、近年再び東大が優勢に立っている。 伝統校と呼ばれる大学が活躍していた時代と現在では大きく勢力図が変わってきている。早稲田大学や慶應大学は現在でも強豪校であるが、東京大学、一橋大学の両校にかつてのような強さはない。(ウィキペディア「ボート」)

 この筑波大学付属高校は伝統校であったのだ。明治の頃には隅田川で大学対抗戦が行われた。明治二十四年四月十一日、樋口一葉は誘われてボート競技を見物した。

 今日は大学のきみたちきそひ舟ものし給ふとてはや木ま木まにこぎいで給ふも折からいとうれし。遠眼鏡ものして見渡せば、此高どのゝしたこぎ行やうにぞみゆる。赤しろ青紫など組々にて服の色わかち、おのがじし漕きそふさま水鳥などのやうに心のまゝ也。(『若葉かげ』)

 一葉は「きそひ舟」と言っている。柴田宵曲の『明治風物誌』によれば、加藤弘之は「走舸競漕」と書いて「フネコギカケクラ」と読ませたと言う。明治である。
 ポプラの巨樹がある。「ハコヤナギだよ」と隊長が呟き、ちょうど一柳さんがいるので「イチヤナギですか」と洒落てみる。「巨樹の定義は何?」宗匠の質問に岳人が「高さ一・五メートルのところの周囲が四メートルだったかな」とやや自信なさそうに答えている。「六メートルじゃないの」と巨樹の会員の前で不孫にも私は断定した。いとはんもノンちゃんも感心したように聞いている。「だけど嘘かもしれないから調べてみてよ」「だんだん講釈師みたいになってきた」と宗匠は広辞苑を引いてみるが、「大きな木」という説明しかない。
 実は私の言ったことは全くの出鱈目で、岳人も間違えていた。

樹高の高い木や太い木を大木、巨木、巨樹などと呼びますが、はっきりとした定義はありませんでした。一九八八年に巨樹・巨木林調査を行うにあたり、「地上から一三〇センチで幹周(幹の円周)が三〇〇センチ以上の樹木を対象とする」と定め、現在ではこれが巨樹の一般的な定義となっています。http://www.kyoju.jp/data/teigi.html

 しかし、こんな記事も見つけて少し安心する。

 一般的には、環境省の巨樹の定義として「地上から一.三メートルの幹周が三メートル以上の樹木」と言われています。しかし、これはあくまで「調査対象」の樹木であって、巨樹の定義ではありません。巨樹としては、樹高や樹齢もあるでしょうが、これは調査が困難なため、測定しやすい幹周を調査することにしたのです。調査対象として、直感的にもわかりやすいところで、およそ直径で一メートルというのが出発でした。北と南の地域によっても、樹種によっても、巨樹と呼ばれるものも変わるでしょうから、調査の結果からこれを見極めて保全の資料にしようと考えたわけです。それが、巨樹の定義になってしまったのです。これも、数字が独り歩きをした例でしょう。
 一九八八年の調査の際には、できるだけ全国で巨樹への関心を高めて、調査情報を得ようと考えました。そこで、太い木が発見されるたびに、地方紙などで発表をしてもらいました。おかげで、巨樹に対する関心は高まったのですが、どうも太さ(幹周)に集中しているようです。調査では当時の緑の国勢調査としては珍しく、地域のシンボルとなっているか、故事・由来があるか、信仰対象となっているか、などのいわば人文的な項目も調べました。これも、人と巨樹との関わりが保存への原動力との思いからです。こちらの方へも関心を向けてもらいたいものです。(高橋進「全国巨樹・巨木林の会と巨樹調査再考」)http://staka-kyoeiac.blog.so-net.ne.jp/2008-07-02

 私たちは調査しているわけではないから、厳密にその数値にこだわることはないわけだ。「巨樹の会」というのは、どういうスタンスで歩いているのだろうか。
 対岸に時計台のある建物を発見して、戸田病院、いや老人施設だとやかましい。テラさんの証言で、もとは脳病院だったと言うので、本庄小町が渡辺淳一を思い出す。「脳病院を舞台にした小説があったでしょう」私は知らない。ダンディも「読んだことがありません」と答えている。「渡辺淳一なんて、ただのエロ爺じゃないの」私の言い方はちょっと問題発言だったか。小町は「だって昔はそんなエロじゃなかったんだよ」と残念そうだ。
 私は知らない振りをしたが、実はずっと昔、たったひとつだけ読んだことがある。その『阿寒に果つ』は映画にもなったはずだが、これだって要するに「フリン」じゃないか。
   「フリンってさ、昔は何って言ったけ」住職が不思議なことを聞いてくる。「フリン」と表記すればなんだか分からない。不倫、それは倫理に悖ることである。つまり人として、してはいけないことである。「不義密通」「そうじゃなくて刑罰で」「姦通罪」「そうそう」なぜこんな話題になるかと言えば、渡辺淳一のせいなのだ。宗匠に言われて二十二日の朝日新聞「天声人語」を読んでみた。田辺聖子が「オジサンは司馬遼太郎を読み、オバサンは渡辺淳一を読むようになる。」と言っているそうだ。司馬遼太郎についても無条件に信用するわけにはいかないのだが。
 あまり目立たないように立っている聖火台の横の芝生で昼食となった。「早くシートをだしてよ」意外にも今日は私とダンディしか持ってきていない。二枚のシートを並べた狭い場所に、いつもの連中が背中合わせに座り込む。「画伯のシートは広いんだ。ああいうのを持ってこなくちゃ」それなら自分で持ってきても良いんじゃないか。「俺は今日たまたま忘れたの」講釈師は毎回必ず、「たまたま」忘れてくる。
 女性を中心にほかのひとたちは、少し離れた陽だまりのところで、銘々のシートを円形に並べて座っている。あっちの方が楽しそうだ。ノンちゃんが柿をくれる。「ノンちゃん自宅の柿ですよ」ダンディは知っている。本庄小町からは奈良漬けが提供される。岳人はいつものようにポテトチップを出してくれる。
 聖火台には何の説明もない。いとはんは「何か書いてくれてても良いんじゃないかしら、おかしいわ」と言う。テラさんは事前に戸田市に問い合わせをしたそうだ。「市でもここに説明がないのは知っているんだが、国の管轄だから何もできないそうです」縦割り行政の縄張り根性がここにもあるか。
 昼を終えて出発するとすぐに、寒桜の白い花が咲いているのをテラさんが教えてくれる。「正式には何と言うのか、十月桜とかなんとか。私はよく分からないけれどもな」しかし一言居士が「花びらが多いからカンザクラで良いんだよ」と断定する。八重とまでは言わないだろうが確かに五弁よりは多い。私は言うまでもなくそんな区別は全く分からないが、カンザクラを検索すると、早くても開花は一月頃だという記事が多い。温暖化の影響なのだろうか。
 隊長の当初コース案では、もう一度元に戻って対岸を歩く予定だったが、それを変更して、競艇場の方からまわっていくことになった。
 モミジバフウには、長い棘をまとった球体の実が生っている。「モミジ、バフウ?バフウってなんですか」人文社会系には滅法強いダンディも、植物になると私と全く同じ状態になる。紅葉葉楓。マンサク科、別名アメリカフウ。その実に女性陣が手を伸ばすが届かない。
 暫く歩くと、前方に水飛沫が上がっているのが見えてきた。競艇の真っ最中である。遠くから見ているとなんだか狭いところのようだが、戸田公園大橋に上がると、そんなに狭い訳でもない。競艇なんて「何度も見たことがあるよ」と小町が言う。カズちゃんが好きだと言ったのには驚いた。ノンちゃん、いとはんは初めて見る。ちょうど戸田公園駅からのバスが着いて、橋の上を男たちが大勢やってくる。「競馬は馬券、競輪は車券。競艇は何っていうんですか」ダンディの質問にそれぞれ「舟券フナケン」と答える。「まさかシュウケンとは言いませんよね」瀬沼さんが笑う。「うちの方じゃ場外発券場があるよ」中将の言葉で思い出した。確か相当な反対があった筈だ。ボートピアと言うのですね。岡部町大字西田にある。
 橋の上はちょうど良い観覧席になっていて、なかなか列が動かない。橋を降りるところで待っていた私たちに漸く追いついてきたノンちゃんが「初めて見たの」と感動した声を出す。今日一番の感動ポイントはここだったかも知れない。隊長が一番熱心に見ていたんじゃないか、最後にやっと追いついた。

  競艇の飛沫見惚れる小春かな  眞人

 橋を下りて倉庫街を歩く。実は十年ちょっと前、業務委託の相手を探していて、この辺の倉庫会社を回ったことがある。そのとき出会った会社名を見つけて懐かしい。その道を少し東に戻って脇道に入れば、新曽下町会館の庭に石仏群が置かれている。「新曽」は「ニイゾ」と読む。市内各所に残っていたものを集めたものだろう。真ん中には左手に赤ん坊を抱いた地蔵尊(文化十三年)。左右には青面金剛の庚申塔や馬頭観音が集められている。馬頭観音は十四基あると言う。

北吹くや街道脇の石仏群 《快歩》

 テラさんによれば、この会館では毎月十七日、観音経が開かれていると言うことだ。「観音経ですか、講ではないですか」と無学な私は質問する。

観音経は、観世音菩薩の掛軸を掲げ、締太鼓と大太鼓のリズムに乗せて、観音経や般若心経を全員で唱えます。江戸時代の寛政年間には既に行われており、観音様の加護を得て水害や疫病などの難から逃れようとして始まったものではないかといわれています。戦前は、毎月一七日、二三日の二回行われ、観音経を行う場所は順番で各家々を宿として、道具を運んで行いました。現在は、毎月一七日夜七時頃から新曽下町会館で講を結んでいます。流儀は特にありませんが、太鼓打ちの中で、一定の間隔で下から上に向かって、太鼓のふちを打つ打法です。戸田市域の観音経は、かつては各地域で盛んに行われていましたが、現在完全な姿で継承されているのは、新曽地区の新曽下町観音経のみで、戸田市無形民俗文化財に指定されています。
     http://www.city.toda.saitama.jp/12/11070.html

 つまり観音経を唱える講である。最初は、上に引用したように宗教的なものだったろうが、おそらく地域共同体の楽しみに転化していったのだろう。補陀落(秋田ではお逮夜に参会した人たちが歌う。西国札所巡りの歌?)なんかも、そういうものじゃなかったか。
 ここからオリンピック通りに出る。「オリンピック通りって和光の方にもあるよ」と言うのは一言居士だ。なるほど各地にその名前の通りが存在する。聖火ランナーが走ったところではないだろうか。
 庭先に十五センチほどの長いサヤ豆に黄色い花をつけた樹木を見る。隊長も阿部さんも判定ができない。「それじゃ園芸種ということで」と宗匠が結論を出すそばで、「インゲンバナだよ」と講釈師が茶々を入れる。その顔を覗きこめばいつも嘘をつくときのように、鼻の下を伸ばして下を向いている。今日はロダンがいないせいか、講釈師の存在が目立たなかったが、やはり健在である。

見慣れない木の名を問えば「園芸種」 《快歩》

 住宅街を通り抜け、やがて新曽氷川神社にたどり着く。永享元年(一四二九)に創建された神社で、旧新曽村の鎮守であった。明治四十年、神明社、八幡社、稲荷社を合祀した。境内に入ってすぐに目につくのが、大きな柿の木だ。丸いのと細長いのと二種類の実が、二つ、四つ、六つなど、対で生っているように見える。これは「夫婦柿」と呼ばれて戸田市の指定天然記念物になっている。
 丸いのは雌、細長いのが雄であるが、本来、雄は結実しないものであろう。男に子供が生まれれば大変だからね。説明によると、退化した筈の雄花の雌しべが、突然女の役割に目覚めたのではないかということである。
 「甘いかな、渋いかな」「渋柿でした」阿部さんが報告する。「阿部さん、食べたんだ。こっそり盗んで食べたんだな」と講釈師が囃し立てる。「食べてません、わたし食べてませんって」落葉を掃除していた人に聞いたのだろうね。

神前に柿盗人と囃されて  眞人

 境内を出れば、右手には道路で切断された参道が児童公園の向こうまで伸びている。その奥にはお寺の屋根も見える。神仏分離の影響だろうかと瀬沼さんが怒る。
 次は妙顕寺だ。山門も立派だが、その奥にはさらに立派な仁王門が控えている。日蓮宗長誓山安立院。由緒によれば弘安四年(一二八一)、日蓮の弟子である日向上人を開山として創建された。その以前、日蓮が佐渡流罪のとき立ち寄ったとき、領主墨田(隅田)五郎に安産護符を与えたので、夫人は無事男児を出産した。それに感謝した墨田氏が日向上人を招いたという。
 境内にはドングリが落ちていて、「踏んでもいいかしら」とノンちゃんが踏みしめて歩く。乾燥しているからパチパチと弾けるような音をたてる。

団栗を踏む昼下がり仁王門  眞人

 「これは横縞だからシラカシね」また分からないことを言う。素人に分かるように言って欲しいものだ。ドングリの傍にそこから脱げた帽子(ガク?)が落ちている。「ここが並行になっているでしょ。これがそうなの」ウロコ状またはイガ状になっていればナラであり、こういうふうに横に平行に筋がはいっているのがカシである。
 隊長作成の資料(それに配ってくれた地図)では、この寺には慶長年間の板碑がある筈で、探し回っても見つからない。「ありましたか」「そんな墓地の奥にはないでしょう」「おかしいですね」南無妙法蓮華経の七字題目を刻んだ供養塔の前に、長さおよそ四十センチ、幅二十センチ弱の薄い板碑が立てかけられていて、これがそうではないかと皆が集まってくる。碑面は摩耗して全く読めない。岳人がそれを動かして、「こんなものじゃ盗まれてしまいますよね」と言うのは尤もな話だ。これでは何かの「文化財」の扱いではない。
 供養塔の裏に回れば、東京吉原として、女性の名前が二人刻まれている。これは寄進者の名前だから遊女ではないだろう。妓楼の女主人でもあろうかとダンディが断定する。
 とりあえず、その板碑だったことにしようと納得して帰ろうとしたとき、宗匠が奥の方に宝物院のような建物を発見した。「あそこにしまってあるんじゃないの」宗匠は冷静である。しかし板碑をしまうだろうか。

  幻の板碑求むる冬日かな  眞人

 ここで作文を書きながら「板碑」を調べていて私は悩んでしまった。慶長年間(一五九六〜一六一五)の板碑というのは、時代が新しすぎないだろうか。板碑は鎌倉武士の信仰に深いかかわりがあるようで、だから関東中心に分布しているのだが、戦国時代には既に流行らなくなっている。
 境内にある戸田市教育委員会の建てた案内板に、この板碑のことは何も書かれていないのは何故だろう。但し同じく教育委員会発行の「戸田市・史ある記マップ」には妙顕寺の説明のところに、ちゃんと慶長の板碑のことが書かれている。なんだか不思議だ。
 ウィキペディア「板碑」を全文引用してみる。

 板碑は中世仏教で使われた供養塔である。基本構造は、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものである。頭部に二条線が刻まれる。実際には省略される部位分もある。
 分布地域は主に関東であるが、日本全国に分布する。設立時期は、鎌倉時代〜室町時代前期に集中している。分布地域も、鎌倉武士の本貫地とその所領に限られ、鎌倉武士の信仰に強く関連すると考えられている。
 種類としては追善(順修)供養、逆修板碑などがある。形状や石材、分布地域によって武蔵型、下総型などに分類される。 ちなみに武蔵型とは秩父・長瀞地域から産出される緑泥片岩という青みがかった石材で造られたものをさすが、阿波周辺域からも同様の石材が産出するため、主に関東平野に流通する緑泥片岩製の板碑を武蔵型、四国近辺に流通していたものを阿波型と分類している。また下総型とは主に茨城県にある筑波山から産出される黒雲母片岩製の板碑をさしている。
 地域、時代により形態や石材にバリエーションがあり、戦前から郷土史家たちの格好の研究材料であった。戦国期以降になると、急激に廃れ、既存の板碑も廃棄されたり、用水路の蓋などに転用されたものもある。現代の卒塔婆に繋がる。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E7%A2%91
 井上光貞監修『図説歴史散歩事典」にも、「ほぼ中世にかぎって造立された特色ある石塔に板碑がある」と書かれているから間違いないだろう。慶長と言えば、家康が江戸に入府し、秀忠時代まで続く年号である。板碑の定義からすればやや不審が残る。
 実はここからちょっと行ったところに、観音寺があり、そこに「建長五年(一二五三)の板碑」(阿弥陀一尊種子板石塔婆)が残されている筈なのだ。こちらならば年代的に相応しい。寺にはレプリカを残し、郷土博物館に本物を置いてあるそうだ。

 大橋さんのリュックに結び付けてあるビニール袋は、今日の収穫、ドングリや葉っぱ、柿まで入っていっぱいになっている。テラさんの自転車を先頭に住宅地を歩いていけば、市立図書館・博物館につく。一階は図書館になっていて、三階が郷土博物館の展示室だ。今は「古の道と川端のくらし」企画展が開かれている。壁には昭和三十年代の農村風景の写真が飾られ、瀬沼さんが「このまんまでした」と言う。板橋に住んでいたから本当に近くなのだが、その頃までこの辺りは全くの農村地帯だったのだ。
 一階に降りると、「リサイクル図書コーナー」として、図書館で不要になった本を戴けることになっているのを見つけた。余り期待はしていなかったが、「日本古典文学大系」(岩波書店)の『浄瑠璃集』上下本を見つけた。掘り出しものである。これは嬉しい。岳人には二日酔いの本を薦める。 私は図書館にほとんど足を踏み入れることがないので、こんな良いことをしてくれているなんて知らなかった。これなら、時々は図書館に来てみる価値がある。

 戸田駅前で、阿部さんとノンちゃんはお別れだ。阿部さんは学芸員からの連絡を待つ体制に入っているのかも知れない。残った連中は「華屋与兵衛」でお茶を飲む。分かれて座っているから定かではないが、テラさんや竹さんはビールを飲んでいる。私は我慢してオレンジジュースにした。暫し休息の後解散だ。ここでテラさんはわかれる。大変お世話になった。
 反省する人間は武蔵浦和の「さくら水産」に向かう。「武蔵浦和にさくら水産ありましたっけ」「何言ってるんですか。佐藤さんが定期券を落とした店ですよ」それで思い出した。買ったばかりの六か月定期券だったから、あのときは慌てたよね。幸い、隊長が拾ってくれて翌日には無事戻ってきたのだったが。今日は落とさないよう、ジャンバーの胸ポケットに入れてジッパーを締める。
 本日、宗匠の万歩計では一万八千歩であった。

眞人