渡良瀬遊水地   平成二十一年一月二十四日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.2.28

 東洋大板倉駅は遠い。大宮駅で画伯と一緒になり、栗橋駅でダンディ、瀬沼夫妻、一柳さんと合流した。一柳さんはずいぶん早くここに来てしまい、誰も姿を現さないので不安に駆られていたようだ。瀬沼夫人は実に久しぶりだ。
 東武日光線に乗り込んで、何人かの顔を発見する。越谷や春日部を経由してきた人が多いのだ。板倉駅に到着すればもうかなりの人が集まっている。最終参加者は二十二人。隊長、画伯、宗匠、大川、小澤、恩田、一言居士、長老、岳人、瀬沼夫妻、竹、ダンディ、ドクトル、若井夫妻、一柳、篠田、イトはん、堀内、伯爵夫人、私。講釈師はどうしたのだろう。風邪でもひいてはいないかしら。
 今日は鳥の観察がメインテーマであり、画伯、小澤さん、恩田さんは大きな望遠鏡を抱えているし、そうでなくても双眼鏡は必須アイテムである。ダンディさえ持ってきた。「これはオペラグラスですけどね」宗匠が「忘れてきちゃった」と言うので、「ホントに持ってるの」と私は疑うが、ちゃんとあると断言する。持っていないのは私である。人一倍鳥が好きな講釈師は、参加できずに悔しい想いをしているのではないかしら。
 隊長から配布されたのは「渡良瀬遊水地の植物図鑑」(編集・発行財団法人渡良瀬遊水地クリメーション振興財団)という便利な本で、これが無料なのは有難い。「五百円って言っても買うよ」とドクトルが感心している。宝くじの宣伝事業として作られたので無料配布しているということだ。ただ、隊長が用意した分では不足するかもしれないと、朝一番で一言居士が藤里町まで出向いて、わざわざ追加仕入れをしてきたそうだ。実にご苦労様で有難いことである。
 今日は風が冷たく、空はどんよりとして今にも雪が降りそうな天気だ。確かに寒くなるのは予想していたが、私が見た天気予報では晴れることになっていたのではなかったかしら。「いや、曇りか雨になるはずだよ」そういう宗匠だって傘を持ってきていないから、私と似たようなものだ。

   隊長の書いた案内文に従って、まず駅構内からクロガネモチの赤い実を見る。カイガラムシなるものが一杯ついているようだ。カイガラムシというのは初めて聞く名前だから調べておかなければならない。

カイガラムシ(介殻虫)は、カメムシ目・ヨコバイ亜目・腹吻群・カイガラムシ上科(Coccoidea)に分類される昆虫の総称。果樹や鑑賞樹木の重要な害虫となるものが多く含まれるとともに、いくつかの種で分泌する体被覆物質や体内に蓄積される色素が重要な経済資源ともなっている分類群である。(中略)
熱帯や亜熱帯に分布の中心を持つ分類群であるが、植物の存在するほぼ全ての地域からそれぞれの地方に特有のカイガラムシが見出されており、植物のある地域であればカイガラムシも存在すると考えても差し支えない。現在世界で約7,300種が知られており、通常は28科に分類されている(ただしカイガラムシの分類は極めて混乱しており、科の区分に関しても分類学者により考え方が異なる。)(ウィキペディア「カイガラムシ」)

 駅の階段を降りると一羽の鳥が立ち止まっている。「ツグミよ」堀内さんが声を出す。「キヲツケしてるでしょう」隊長は「偉そうにしてる」と言う。私は姿勢正しい鳥であると思う。
 「タラヨウの赤い実が生っている」と隊長は案内文に書いていたが、自らこれは間違いであったと訂正する。堀内さんの鑑定ではベニカナメモチというものらしい。タラヨウであれば、もうちょっと葉が大きかったよねと、私と宗匠が思い出す。年末に寄居を歩いた時に泉福禅寺でみて、私は葉の裏にボールペンで文字を書いて、宗匠にバカにされたものだ。これはそうではなく、ベニカナメモチ(紅要黐)である。バラ科カナメモチ科。

(カナメモチの)和名由来は新芽が赤く、アカメ(赤芽)モチ(モチノキ)と呼ばれて転訛した。 扇の要に使われたことからとする説もあるが、こちらは蟹の目が転訛したもので、関係がないらしい。
カナメモチの特に新芽の赤いものをベニカナメモチとして品種扱いする場合もあるが、分類学上は同じ。http://kawasakimidori.main.jp/webzukan/benikanamemoci.html

 モチノキに似ているがモチの木ではないということらしい。最初は「わたらせ自然館」に入る。隊長は下見のときにも来ていて、館員に挨拶をしている。「数が少なくて」と館員が言い訳しながら、資料を数部出してくれた。
 ここからは街路樹を見ながら歩いて行く。この辺りで、東洋大学は仏教関係の大学であると、一言居士と竹さんが主張し、ダンディと私が異議を唱える。東洋大学の創始者は井上哲次郎(円了)で、東洋哲学が専門だが妖怪の研究でも名高い。私の記憶では、本郷の春日の局の墓がある(「なんでしたっけ」、「麟祥院でしょう」とダンディが教えてくれた)そこで学塾を始めたのがその最初である。「哲学館です」すぐさまダンディが反応する。東洋大学で仏教の特別講座を受講している宗匠なら、こんなことは知っている筈だ。
 木肌が剥げているのはサルスベリなんでしょうね。ベニバナトチノキの冬芽に隊長の講義が始まる。この芽はネバネバしていない。いわゆる普通のトチノキの芽はネバネバしているのが特徴である。花がないと私にはさっぱり分からないが、とりあえず私も芽を触ってみる。たしかにネバネバはしていない。この花は、国士舘大学の前で見た。薄紅色の奇麗な花を付ける。ダンディは竹さんを相手に、ヨーロッパのトチノキ、マロニエについて蘊蓄を語っている。
 雪のようなものが落ちてきた。本格的に降るのだろうか、いやだな。「向こうの山から飛んでくるんですよ」と恩田さんが教えてくれた。風花である。名は風流だが寒いことに変わりはない。「霰が降ってもよさそうですよね」アラレ霰とヒョウ雹の区別って何か。ダンディが早速調べる。二ミリから五ミリまでの小さなものをアラレと言い、五ミリ以上のものをヒョウという。「それより大きいのはライオン」岳人が珍しくおかしなことを言いだしたのでみんなが笑ってしまった。

風花の舞に何やら好い予感 《快歩》

 土手に上がれば雲の向こうにいろんな山が見える。隊長もドクトルも岳人も瀬沼さんも、みんな詳しい。私はただ聞いているだけで、今度自分だけで見てもたぶん区別がつかない。赤城山、日光白根、様々な山の名前が出てきた。「広辞苑ではアカギヤマ、マイペディアではアカギサン、どういうことでしょうか」ダンディが首を捻る。こんなこともウィキペディアを検索すれば分かるようになっていた。

赤城山は古くから地元ではあかぎやまと呼ばれて親しまれていたのだが、国土地理院の地図にはあかぎさんと記載されていた。これは当時の規則により「山」を「さん」と読むと規定されていたからだが、地元群馬県民などには「あかぎやま」と親しまれていたのと、長年の陳情の結果「あかぎやま」と改称された。赤城山周辺の各町村に大字赤城山があるが、こちらは「あかぎさん」のままである。

 行政が無理やり変更しようとしても、地元が粘り強く反対すれば、元通りになる、一つの例であった。
 ホタカという名前を聞いて私は驚いた。武尊と書く。この山を私は忘れてはいけなかった。
 いまでも神仏習合の形を残している、武尊山神宮・南宮寺という神社と寺が一緒になったものが、武尊山の麓、群馬県利根郡白沢村上古語父にあり、ここに孝徳實清居士という小さな墓が建っている。平成九年十月十九日、享年四十九で死んだミノルである。バカなことをしでかして回りに迷惑をかけた挙句、見つかったときには体中に管を通され、赤ん坊のような細い手足になって、「俺、死にたくない」と泣いていた。

 風花や山の向かふに小さき墓  眞人

 変なことを思い出してしまった。里山には何の関係もないことでした。
 長い土手を降りて車道に入れば、車が頻繁に通るから危ない。左の歩道を歩こうとそちらに入った途端、先頭を歩いている隊長は右側の門に向ってしまった。それが見えない後ろからは「どうしたの」と声がかかるが、結局もう一度右側に戻る。
 門は閉まっていて、そこの、ちょっとした空間はガードレールとの隙間が狭い。女性陣は少し迂回して中に入る。
 ウォッチングタワーという。鳥を見るための展望台である。隊長がちょっと古ぼけて日焼けした地図を開いて見せる。風が強いから数人がかりで抑え込まなければすぐに飛ばされてしまいそうだ。地図上には隊長の家がちゃんと赤くマークされている。この地図の目的は遠くに見える山の位置を私たちに確認させるためのものである。
 山には興味はないが鳥に興味のある人たちは、そんな話は聞きもせず、望遠鏡や双眼鏡のセットに忙しい。
 「チュウヒ」「ノスリ」などの声がかかる。「チョウヒ、張飛かと思ってた」鳥には関心の薄い宗匠が笑っている。「どんな字を書くんでしょうかね」ダンディが辞書を開くと、チュウヒは沢?、ノスリは?。狂った鳥である。「草野さん、知ってますか」「知らない。こういうものはカタカナ表記にするのが決まりだから」鳥に関心のない三人(ダンディ、宗匠、私)は、漢字がないとイメージが湧かないと呟く。ただ特に植物については、漢字表記をすると、日本の植物と違うことがある。それで理科の本ではカタカナで書く、と教えられた記憶がある。

チュウヒ(沢?、Circus spilonotus)は、鳥綱タカ目タカ科チュウヒ属に分類される鳥。名前の由来は、中空を飛翔するという意味。チュウヒとノスリは、名前が入れ替わっているという説がある。(ウィキペディア「チュウヒ」)
ノスリ(?、学名:Buteo buteo)は、動物界脊索動物門鳥綱タカ目タカ科ノスリ属に分類される鳥類の一種。ノスリ属の模式種。(ウィキペディア「ノスリ」)

 回りは一面に葦の枯れ原が広がっている。かつては関東でも有数の収穫量を誇る村であった。トビも飛んでいるらしい。「もう良いんじゃないの」私と宗匠はすっかり飽きてしまった。しかし鳥の観察はまだ続くのである。腹が減ってきた。高いところで風に吹かれ続けたので体が冷えて来た。隊長がやっと腰をあげ、旧谷中村史跡ゾーンに向かう。
 「前回はあそこで食べたのよね」堀内さんが、枯れた葦が風よけになっているような場所を指さす。何年か前に来たことがあるらしい。園内の巡回をしている係員と隊長がポプラの木について話している。ランドマークともいうべきポプラの大木は枯れてしまい、これを切り倒した後の切り株に花が植えてある。「こんなになっちゃったんだ」
 昼食は、旧谷中村役場跡の東屋である。全員が入れないから、私たちいつもの面々はその前の原っぱにビニールシートを広げた。いつものように、女性陣から差し入れが届く。リンゴ、乾燥イチジク、チョロギの梅酢漬け、お煎餅も飴も出てくる。ドクトルと宗匠がチョロギを知らないのには驚いた。お節料理や天麩羅に添えられることが多いのではないか。珍しくもないのだ。二人のために(実は私も正体を知らないので)ウィキペディアを引いてみる。

チョロギ(チョウロギとも)は、シソ科の多年草の植物、あるいはその根にできる食用とされる球根のように見える塊茎部分である。学名はStachys sieboldii(ただしStachys affinisのシノニム とされることも多い)。中国が原産で江戸時代に日本に伝わった。
漢字表記は多数ある。塊茎が蚕の姿に似ていることから「草石蚕」と書かれたり、音から「丁呂木」「丁梠木」と書かれたりする。祝い事の際に食べる場合、縁起をかついで「長老木」「長老喜」「長老貴」「千代呂木」などと書かれることもある。元々は中国語の「朝露葱」を日本語読みにしたものではないかと言われている。またその形からネジ芋、法螺芋と呼ばれることもある。

 アダムとイブがエデンの園を追放された時、イチジクの葉っぱでその部分を隠した。ダンディが言うと、だから西洋ではイブ・ツリーと言う、隊長が珍しく人文系の知識を披露した。しかしこれは私の聞き間違いであった。手元の英和辞典を引くと、イブではなくfig treeであった。
 靴を脱いでシートに座り込んでいたので、足先が冷たくなってきた。昼食を終って周辺を見回す。私たちのいた場所は、旧役場跡であり、また大野孫衛門氏の家でもあった。すぐそばには谷中村中心部を地図にしてある。大野姓はこの役場周辺に集中しているから、村でも古い家柄なのだろう。
 枯れた葦の原の間の細い道は、昔の農村の中の道を連想させる。ここで画伯が句を詠んだ。最初に詠んだのは季語がないよと私が指摘すると、それならばと、詠み直してくれた。

  枯れ葦に足取られたる悪路かな  美佐矩

 いろんな人が句を詠み始める。そのうち、吟行なんて洒落た催しができるかもしれない。「延命橋」と名付けられた橋を渡ると、延命院のあった場所には鐘が吊るされている。ただし、ここにあるのはレプリカで、本物は藤岡町歴史民俗資料館に展示してあるそうだ。雷電神社跡に建つ案内板にはこう書かれている。

田中翁は、病気重態の折、わが身を担架に乗せて遠く谷中に送り届けよと要望したほど翁が最後の静養を志したのもこの社地であった。

 共同墓地のはずれには、享保九甲辰の銘が刻まれた庚申塔が立つ。普通この時代の庚申塔は、大体、碑面が摩耗しで、像もはっきりしないものが多いのだが、ここのものは、青面金剛は両脇に童子を従え、足元には邪鬼、その下に三猿がくっきりと彫られている。なんだか時代が新しいように思える。あるいは保存会の手によって手入れがなされているのだろうか。

 枯葦や史跡の村の庚申塔 《快歩》
 鉱毒の凍土に立つや庚申塔  眞人

 それと向かい合うように、三基の十九夜供養塔が立つ。これは月待ち信仰のひとつであって、十三夜、二十一夜など、さまざまな寄り合いの一つである。と、ここまでは私の知識の範囲であったが、もうちょっと詳しく調べてみると女性中心の講であった。

(月待ちとは)飲食をともにして月の出を祭る行事をいう。十三夜・十五夜・十六夜・十七夜・十九夜・二十三夜などの月待があるが、ことに盛んなのは二十三夜待で、これに参加する人々の集団を二十三夜講とか三夜講という。一般に正・五・九・十一月、正・六・九月、正・十一月など組み合わせはいろいろあるが、いずれも二十三日の夜に行われ、女の集会であることが特徴である。関東では利根川流域での三夜講がとくに盛んである。ここで注目されるのは名称は三夜講であるが、年齢集団によって講の機能が異なっていることである。たとえば二十代から三十代の女性は出産を中心、四十代・五十代は村の自治,六十代以上は念仏衆となっていることである。近世の中期以降にとくに盛んとなり、現在でも村境・辻などにおびただしい数の二十三夜塔や犬卒塔婆(ザガマタ)を見ることができる。またこの日に身ごもると身体に障害のある子ができるという俗信も聞かれる。
http://www.tabiken.com/history/doc/M/M110C100.HTM

 宗匠が調べると、十九夜は「伏待ち」である。伏して、つまり寝て待つのである。石塔の記銘は文化、万延など幕末のものだが、こんなに綺麗に残っているのは珍しいのではないだろうか。
 宗匠さえ、ここが田中正造にゆかりのある場所であることを知らなかったくらいで、今日の参加者のほとんどは知らない。ここは日本反公害運動の原点であり、明治国家暴虐の記念の地でもある。谷中村のことになると私の口調には荒畑寒村の悲憤慷慨が移ってしまう。

 我胸に明治の悲憤枯野原  眞人

 「時代がそうだったんだから仕方がないですよ」ダンディは淡々と感想を述べる。しかし、私はちょっと書いておかなければならない。

(前略)政府はこの眇たる一寒村を滅ぼすために、数年の久しきにわたって威嚇、脅迫、誘惑、買収、実に村民が命と頼む堤防の破壊すら敢てし、ほとんど執念とも見られるほど暴状を極めた。
一国の政府が、権力をもって人民を迫害クン逐し、一村を水没滅亡せしめたが如きはとうてい信じ難いところであるが、このような田中翁のいわゆる「亡国」の実情も、鉱毒問題の歴史的経緯を見れば敢て怪しむに足りない。明治二十年代の初期に端を発した足尾銅山の鉱毒問題は、利根川流域の四県、幾十万の生民を残害荼毒すること累年、ために明治三十三年の大兇徒嘯集事件をすら惹起せしめたのである。(中略)
古河市兵衛が足尾銅山を経営したのは、日本の資本主義の勃興期に当っていた。彼はその富を蓄積する上に当路の大官要人と結託し、政府もまた資本主義産業の発達のためには一村を強制収用し、住民が生計の資を絶つことを意としなかった。イギリスでは「羊が人間を食った」のだが、日本では「銅が人間を食った」のである。(荒畑寒村『谷中村滅亡史』改版にあたって)

 寒村二十歳の手になる『谷中村滅亡史」は明治三十八年五月に刊行され、即日発禁処分となった。私の手元にあるのは、新泉社が一九七〇年十一月に第一刷を刊行したものの十七刷で一九八一年のものだが、今では岩波文庫で手に入れることができる。
 「もう行くよ」という声で、私の感慨は中断しなければならない。あとは今日の趣旨に沿って鳥を見るだけである。
 途中で阿部さんたちのグループに出会った。久喜支部の活動「渡良瀬遊水地観察会」は九時スタートだったそうだ。
 恩田さんが望遠鏡をセットして、カワセミを見せてくれた。魚を食っているようだ。数人が続いて、篠田さんの番が回ってきても、彼女の眼には見えない。鳥だって、いつまでも同じ場所にはいないのだ。
 カンムリカイツブリ。何がカンムリなのか。「NHKに出てくるだろう、軍事評論家の」と隊長がおかしなことを言う。「エバラ、エバタ?」江畑謙介だったらしい。「あの髪型にそっくりなんだよ」。カイツブリが気の毒か、江畑氏が気の毒か。頭の恰好が似ているのだそうだ。ネット上に公開された写真で確認してみるが、そう言われればそうでもあるような、微妙な気になってくる。
 「カワイサがいる」一言居士の声だ。「可愛さ?」カワアイサであった。川秋沙と書く。カモ科カモ類。望遠鏡の中に見る頭は真っ黒のように見えるが、画伯の図鑑では緑色のようだ。「違うんじゃないの」「その著者の本なんか信じちゃダメだ」鳥に関しては絶対の自信を持っている一言居士である。「これがカワアイサでなかったら、なんだって言うんだ」調べてみると「緑色光沢のある黒色」ということなので、光線の加減で真っ黒に見えるのだろう。「望遠鏡を通すとどうしてもそうなる」と竹さんも言っている。
 望遠鏡をセットしても、時々水に潜って、しばらくしてとんでもない所に顔を出すから、なかなか捉えにくいようだ。

全長はオスで約六五センチメートル。オスは、頭部が緑色光沢のある黒色で、冠羽はなく後頭部がふくらんで見える。頸から脇と胸からの体の下面は白い。背は黒い。メスは頭部が茶褐色で、冠羽は短い。胸から体の下面は白色で、背からの体の上面は灰褐色である。雌雄とも嘴と足は赤い。(ウィキペディア)

 移動してもまたすぐに観察会が始まる。宗匠はすっかり飽きている。「まだ見るの」今度はミコアイサである。ダンディの辞書では巫女秋沙となっているが、神子秋沙とも書かれるようだ。カモ科ミコアイサ属。白い頭で目の周りだけが黒いので、パンダカモとも言われるということである。

全長約四十二センチメートル。
オスは羽毛が白い。嘴の基部から眼にかけてと、後頭部に黒い斑紋が入る。胸部に2本の黒い筋模様が入る。背と肩羽も黒い。メスは頭部の羽毛が褐色で、眼先は黒く、喉から頸にかけての羽毛は白い。胴体の羽毛は灰色がかった褐色である。(ウィキペディア)

 「秋沙」には秋が終わったころに飛来するから、という説があるとも言う。と言うことは別の説もある。アイは秋である、サが「早い」か「去る」かで説が違うようだ。早いととって「早秋鴨」では、秋の早い時期に来る鴨となってしまって実態に合わない。「秋去鴨」が正しそうだ。http://gogen-allguide.com/a/aisa.html
 潜ったままの鳥に向かって、堀内さんが「出て来ないよ」と叫んでいる。その傍で「ドアをノックしてみれば」なんて答える人もいる。実に鳥を見るというのはテンヤワンヤであるな。ここに講釈師がいたら、もっとにぎやかだったに違いない。
 そのほか、熱心な人はいろいろな鳥を発見するが、私のメモはここまでしか残っていない。私も飽きてしまった。

 寒風を忘れて見入るアイサかな 《快歩》
 鼻水を啜り眺むる鳥の顔  眞人

 鳥に関して私の仲間だと思っていた宗匠がジョウビタキを発見する。裏切られた。「少しは知ってるよ」ダンディが早速辞書を引き確かめると、尉鶲である。「スズメみたいなもんでしょう」私は適当に言うが、「全然違うよ」と宗匠が窘める。スズメ目ツグミ科ヒタキ属。全く違うと宗匠は言うが、ウィキペディアによれば、そんなに違うようではない。

体長は十三センチほどで、スズメよりわずかに小さい。オスは頭上が白く、目の周りが黒いのが特徴である。メスは頭が淡褐色でオスとは簡単に見分けられる。胸から腹、尾にかけてはオスメスとも橙色をしている。翼は黒褐色だが中ほどに白くて細長い斑点があり、ここで近縁種と区別することができる。
分類説によって、ヒタキ科もしくはツグミ科に分類される。ヒタキ類のように樹上から飛び立ち羽虫を空中捕獲で捕食する他、ツグミ類のように地上に降りることも多い。

 この説明では、私にはスズメと区別がつかないと思う。鳩が近寄ってくるが誰も相手にしない。「スズメも鳩も可哀そうだよね」長老は優しい。
 出口ゲート近くのトイレの前には早い梅が咲いている。ゲートを出て柳生駅を見ざす。狭い踏切を超えたあたりの民家に、黄色い房状の花をつけたものを発見して宗匠や若井夫人が悩んでいる。葉は柊のようであり、触ると鋸歯が痛い。宗匠が辞書を引いてヒイラギナンテンではないかと言う。実は小澤さんは隣にある花を見てそう思ったらしいのだが、私も宗匠も、その隣の花は見ていない。
 ネットで検索してみると、どうも花の形が違う。しかもヒイラギナンテンならば花は三月頃であるから、少し早すぎるような気がする。私の撮った写真では、ネット上にある花よりもっと房が長くて花の数が多い。房の形はホソバヒイラギナンテンというのに似ているような気がするが、こちらは秋に咲くという。素人が悩んでも無理であった。
 柳生駅から東武日光線に乗り込み、反省会参加者は栗橋でJRに乗り換え、大宮で降りる。お馴染み「さくら水産」が待っているのだ。隊長、ダンディ、ドクトル、宗匠、岳人、私。久しぶりにこじんまりした反省会になった。冷え切った体に寒ブリのみぞれ鍋が旨い。宗匠の万歩計で約一万八千歩。およそ十キロ程度であろうか。寒風吹きすさぶ渡良瀬散策も、旨い酒が飲めれば良いのである。

眞人