西武球場付近・狭山丘陵 平成二十年三月二十二日(土)
西武球場駅前には三十二人が集まった。これまでの最高記録になるだろう。男性は、隊長、正田、皆川、画伯、若井、大川、小澤、竹、草野、ダンディ、講釈師、ドクトル、大塚、恩田、シオ爺、井上、長谷川、宗匠、岳人、私。女性は、あっちゃん、一柳、篠田、寺山、若井、村田、佐藤、高橋、堀内、藤岡、森安、黒坂。 これだけ多いと名前を確認するのも容易でないが、宗匠がチェック用のリストを作ってくれていた。随分久し振りの顔も見える。先月ブラジル旅行で欠席だったダンディが森安さんを見つけて「シオ爺の名付け親、名付け娘かな」と声を掛ける。「女房だって全然似ていないって言ってる」とシオ爺は抗議するが、もうこの渾名は撤回不可能だ。半分ほどの人がマスクを着けているのは、この国に花粉症という病気がいかに蔓延しているかを示している。 講釈師は草加の投句会で入選したという驚くべき事実を告白する。「抽選じゃないの」と宗匠は疑うから、「もう言わない、俺が俳 句っていうと誰も信じないんだから」折角だからここに公表してしまおう。
全員集合したのを確かめて、手書きの地図を見ながら隊長がコース説明をするのだが、駅前は球場の案内スピーカーの音が喧しく、よく聞き取れない。 歩き始めると寒緋桜が紅い花を下に向けて咲いている。「リュウキュウだよ」草野さんと大塚さんによれば、「琉球寒緋桜」だそうだ。国内で最も早く開花する。今日はこの二人が揃っているから、大抵のことは教えてくれるだろう。 田んぼと雑木林を抜けて行けば菩提樹池に辿り着く。隊長の地図には「ボダイギ」とルビを振ってある。江戸時代には菩提木とも書かれたそうだから、ボダイギと読むのは正しい。谷戸を堰き止めた農業用水池で、古くは「堰入の池」とも呼ばれ地名にもなっていたのだが、住所表示の変更で、江戸時代の菩提樹村に因んで「菩提樹池」と名付けられるようになった。 二十度ほどになるという天気予報通りにほんとうに暖かく、大抵の人がジャンバーを脱ぎ始めた。「脱皮しましたね」とダンディが笑う。
足元にはコスミレ、タチツボスミレの小さな花が咲いている。気をつけなければ踏んでしまいそうだ。私は、去年の四月に隊長が配ってくれたスミレ図鑑の抜粋のコピーを持ってきたから、なんとか対照してみる。「スミレってそんなに種類があるんですか」森安さんが驚くと、「スミレだけで図鑑ができるくらいだからね」とあっちゃんが説明する。「葉の裏は茶色くなってるだろう」草野さんも説明してくれる。 黄色の花はレンギョウ(連翹)か、そうではないのかなんていう議論もある。どんぐりが無数に落ちていて、それが割れて中の赤い豆から根が土に定着しているのもたくさん見られる。「コナラでしょう」「こんなにいっぱいあっても、木に成長するのはほんの少ししかないのか」ドクトルが言う。 ヒメカンスゲ(姫寒菅)はブラシのような小さな穂をつけている。ヒサカキ(非榊)は「福神漬けの匂い」。ハナニラの白い花。確かに葉は韮のようで、「韮の花なんて始めてみるわ」と森安さんが感動するが、実は韮ではなくユリ科である。トウダイグサ(燈台草)。ノウルシ(野漆)もトウダイグサ科で、これに似ているのだとあっちゃんが教えてくれる。「ネコノメソウ(ユキノシタ科)も似てますね」と岳人も詳しい。ヒメオドリコソウ。 一所懸命メモをとっているうちに、いつの間にかあんなに大勢いた集団の姿が見えず、九人が取り残された。今日の隊長は足が速い。もう少しゆっくり歩いてくれるよう、宗匠が連絡のために前線に向かった。隊長作成の手書きの地図を見ながら、遅れた八人が追いつこうとしても、依然として前には人影がない。その辺の民家の人に、怪しい集団が通らなかったかと尋ねても、それらしい様子はなかったとのことだ。遂に私たちは遭難したが、こういうときのために隊長は携帯電話を買ったのだ。
境内には六地蔵。釈迦の入滅後、五十六億七千万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻して煩悩に悩む衆生を救う。 ようやく先頭集団に追いつく。隊長の指令で岳人が後方に陣取ることになるが、やはり列はどうしても長くなってしまう。 民家の庭からはフェンスを越えてミツマタの黄色い花が咲いている。花を私ははじめて見る。また前方と離れそうになるが、隊長作成の地図にランドマークとして記されている二本の大木で追いついた。手前がシラカシ、向こうがケヤキ。ケヤキは落葉樹だから葉が落ちている。今度は赤いミツマタの花が咲く。赤いほうは園芸種のようだ。 モクレン(木蓮)とコブシ(辛夷)の区別が良く分らない。最初に見たのはハクモクレン、次に恩田さんがシデコブシを教えてくれる。モクレンが蕾だったころの、毛のついた殻が地面に落ちているのを佐藤さんが見つけた。こんなふうに開いて落ちるのだ。ユキヤナギが白く流れるように咲いている。薄紅色のウグイスカグラ(鶯神楽)は細長い花の先が下を向いて開いている。スイカズラ科で。何故ウグイスカグラというのか良く分らない。 そろそろ昼が近い。「もう十一時五十分です。お腹すいた」森安さんの腹時計は正確だった。「違いますよ、携帯電話で確認したんです」市民の森の看板を眺めて山道を登り、竹炭を作っているところを少し下れば「いきものふれあいの里センター」だ。あっちゃんはここで知り合いに出会って話し込む。顔の広い人だ。 ここでお弁当を広げる人もいるが、私たちはもう少し上って浅間神社のところでビニールシートを広げる。画伯は女性の多い場所に行きたそうだが、結局私たちと一緒に上へ登った。藤岡さんが大根の漬物を提供してくれる。チョコレート、煎餅、飴、いつもの事ながら、何も提供しない私は少し気がとがめる。 正田さんが今月満で八十歳を迎えるとダンディが報告し、それから、全員の誕生日の詮索が始まった。女性陣も別に年齢を聞かれても怖くはない。実に正直で、それを隊長が克明にメモをする。しかし八十歳の正田さんの元気の源はなんだろう。予科練出身ということも何か影響しているだろうか。シオ爺は爪の垢を煎じて飲まなければならない。私の父(大正十四年)と三つしか違わないし母(昭和四年)の一つ上だから、親と言っても良いくらいだが、さて、私がその年齢になったとき、こんなに元気に歩いているだろうか。 食事を終え、鳥居を潜って荒幡富士に登る。「私、所沢に住んでるのに、荒幡富士ってどこにあるのか知らなかった」森安さんは溜息を吐く。坂道の苦手なあっちゃんもゼイゼイ言いながら上る。 この富士塚は明治十七年に起工し十五年の歳月を要して完成したものだ。明治の初め、神仏分離と平行して社格の整理が行われた。少し時代は下るが、明治末期の革新的内務官僚による神社合祀とほとんどその発想は同じだろう。官僚が地方民衆の信仰形態にどれほど無知だったかが分るのだが、南方熊楠がこれに猛烈に反対したことはよく知られている。 この辺り、旧荒幡村にはもともと浅間神社のほか、三島、氷川、神明、松尾の各神社が祀られていた。明治五年、浅間神社が村社に制定されたことで、その他の神社は無社格になった。このため村民は、浅間神社をこの地に移し、抹殺されようとした各社をここに合祀した。富士塚はその記念になる。 頂上は十人も立てば一杯になる狭さだ。三百六十度、目の前には春の穏やかな風景が広がっている。 ゴルフ場を左に見ながら帰り道だ。男女の陰陽を象った木彫りの置いてある小さな祠は講釈師が好きな場所だ。女性陣を誘っては頻りに講釈をする。車の多い道から山道に入る。急な坂を上り、アルペンロードを通れば「トトロの森六号地」だ。 「ジロウボウエンゴサクが咲いていませんか」と岳人が探し始めたとたんに見つかるから不思議だ。次郎坊延胡索(ケシ科キケマン属)。「花を引っ掛けてさ、引っ張るんだ」講釈師の説明に草野さんも頷く。スミレも次郎坊も花の後ろに飛び出た部分(距)があって、それを互いに引っ掛けて、引っ張る遊びなんだそうだ。スミレを太郎坊というのに対して、次郎坊と言う。私は都会に生まれて育ったものだから、そういう遊びをしたことがない。キケマン属と分ってしまえば、なるほど、ケマンの類と同じように花が細長い。一つの茎には花が三つついているようだ。ムラサキケマンも見つかった。 珍しくもないオオイヌノフグリが、密集して一面に薄紫色に広がっているのはなかなか感じが良い。春の野は小さな花がそれぞれに自己主張をしている。
ふと見ればいぬのふぐりの沢なりき 《快歩》 いぬふぐり小さきものの懸命に 眞人 ホトケノザ(シソ科オドリコソウ属)が畑一面に赤紫に咲いている。「牧野博士は三階草って言ったんだよ」講釈師はこんなことまで知っている。教えられたときは確かに憶えたつもりになるが、私はこのホトケノザとヒメオドリコソウとの区別がちょっと怪しい。 アオゲラは青くない。アンテナにじっと止まっているのはチョウゲンボウ(長元坊)だ。小澤さんがセットしてくれた望遠鏡を覗いて、「眼がとっても可愛いの」と美女が喜ぶ。森安さん「ちょうどこっちを向いてくれたわ」、一柳さん「私が覗くと背中向きばっかり」などと姦しいが、大抵の人が確認できたようだ。私も覗いてみると、猛禽類の獰悪な感じが全くない。正面を向いた顔が丸く、とぼけたような眼を見張っている。ワシタカ目ハヤブサ科である。 「いつまでもキリがないよ、早く行こうぜ」講釈師が何故か苛々している。ロダンが来ないと講釈師の調子がでないのだろう。 「三澤さんみたいな人のことですよ」とダンディが「入間詞」を教えてくれ、宗匠が辞書を引く。狂言『入間川』にあるということだが、言葉を逆さまに言ったり、逆のことを言うのが、「入間の逆さ言葉」だ。なるほど美女に悪態を吐く講釈師には、小学生の男の子が好きな女の子にわざと意地悪をする趣がある。 永らく都に滞在の大名が太郎冠者と国へ帰る途中、入間川の渡り瀬に出る。対岸の入間某に浅瀬を確かめて渡ったところ、どうしたことか深みにはまってしまう。入間某の言葉を「入間の逆さ言葉」で判断した大名の早合点だった。大名は怒って成敗すると凄むが、入間某は成敗するとはしないということだと入間言葉で解釈して落ち着き払うので、気をよくした大名は喜び、某に太刀・刀など様々な物を与えて有頂天になる。だが終いには惜しくなり、無理矢理入間言葉を遣わせて取り返すという結末だが、居丈高の大名の感情の起伏と入間某のやりとりが本曲のヤマ場。(『橋がかり』第二号) 今日はお彼岸なのだということをすっかり忘れていたが、狭山湖畔霊園に出ると線香の匂いが漂って、墓参の人が歩いている。公営の霊園だから、キリスト教の十字を象った墓石があっても良い。私たちは霊園の裏手のほうから入ってきたが、入り口付近には尾崎豊の墓がある。芸能関係に詳しい講釈師はさかんに説明してくれるが、私は尾崎豊には何の関心もない。麻薬に狂った不良少年が死んだということ過ぎない。 石垣にずいぶん大きな青大将が横になってしがみ付いている。 三時半頃、駅前で解散し、残った二十人ほどがレストランで反省会だ。こんなに大勢は入れるだろうかと心配になったが、中は広い。奥のほうには宴会用の座敷までついている。「何を反省するんだい」と画伯がニヤニヤ笑いながら問いかける。特に反省すべきこともない。私は今日はずいぶん勉強した気分になっている。 私たちのテーブルでは生ビール中ジョッキ(七百円!)が主流だが、草野さんがメニューに書いてある小を頼むと、小はないという返事だ。中があって小がないとは不思議なことで、「おかしな店だ」と草野さんが頻りに首を捻る。「しょうがない」と宗匠が洒落る。向こうのテーブルでは、ビールは早すぎるという隊長の判断に従って、岳人が恨めしげにこちらを眺めている。 森安さんのクリーム餡蜜は、おばあさんのよく分らない説明を引き取った店主によれば、要するにクリームがないので、ただの餡蜜になる。一番早く出てくるだろうと思った宗匠のホットコーヒーはまたもや外れ、最後になってしまった。 このレストランは常連客を相手にしていないのだ。野球を見に来た一見客(しかも二度と訪れない客)を相手にしているから、真面目に商売する気がない。値段も高い。やる気がないから、メニューに書いてあっても補充する努力もしない。 店を出て駅に向かうとちょうど野球が終わった時刻で、大勢の客で混み合ってきた。西所沢で乗り換え、所沢に降りる。今日はいつもの反省会ではなく正田さんの誕生祝を兼ねている。しかし入る店はいつもの「百味」だ。生ビールを飲み、焼酎を飲む。この店は昼からやっているし、生ビールは四百五十円だ。これが商売のあるべき姿ではないだろうか。どぶろくを飲んだことのないひとたちのために、四杯注文し、少しずつ味わう。美女はソルティドッグなんて洒落たものを飲む。 正田さんの元気の秘密を聞きながら、今日も楽しい宴会になった。 |