鹿沢温泉一泊旅行   平成二十年六月十四、十五日

投稿:   佐藤 眞人 氏     2008.06.22


 梅雨時には珍しく好天気が続いている。隊長からは、ストック、カッパ、傘、セーターは必ず持参するように、この時期の山は寒いと事前に注意されていたのだが、私は一度収納したカッパを家においてきた。どうも季節はずれの陽気だと困ってしまう。
 鶴ヶ島から東上線に乗ったときは忘れていた。川越市駅で向かいのホームを見ていた女子大生(と言うのだろうか。聞きたくもないのにやかましい話が耳に入って、今年東洋大学に入学したということが分ってしまった)二人が騒ぐので気づいたのだが、今日から副都心線というものが誕生して、ホームの反対側の電車には渋谷駅直行と書かれている。「渋谷まで直行だよ、すごいよね」と感激しているが、これが便利なのかそうでもないのか、私には良く分らない。(それから一週間、この副都心線は毎日ダイヤが乱れ、その影響で東上線も遅れ勝ちで、しかも池袋のホームは人で溢れている。私にとっては却って不便極まりないものになった)

 北朝霞で武蔵野線に乗り換え東所沢で降りたところでドクトルと、改札口の手前で隊長と落ち合った。「早いじゃないの」と隊長は言うが、お互い様である。改札を出るとすぐにダンディの車が到着し、十時ぴったりに岳人も姿を見せた。
 ドクトルは大きなリュックと小さなリュックと二つ肩に掛けて来た。大きな方には水が二リットル入っているということだが、山に登るのは明日なのに、今から二リットル分の重さは必要ない。北大探検部は敢えて難業を己に課さなければならないのか。岳人も大きなリュックに小さなバッグ(たぶん「お泊りセット」をいれてある)を括り付けている。助手席に岳人、後部座席に隊長、ドクトル、私を乗せてダンディの車は出発する。後部座席でも高速道路を走るときにはシートベルトを付けなければならないようになった。
 去年は雨の関越道を走っていたのに、今日は快晴だ。過去二回の鹿沢温泉は雨だった。今回初めて参加したのはドクトルだから、この快晴はドクトルのお蔭だと決まった。関越道から上信越道を順調に走って、横川のサービスエリアでトイレ休憩を取る。キンシバイ(金糸梅、オトギリソウ科オトギリソウ属)が咲いているのに気づいたのは私だから、これは褒めて貰わなければならない。念のために隊長に確認してお墨付きを貰ったから大丈夫だ。「ビヨウヤナギ(オトギリソウ科オトギリソウ属)と違うだろう」と隊長に言われるまでもない。大体花の形が違うし、雄蕊の長さがまるで違う。確かに鮮やかな黄色は同じだが、この二つの花が「似ている」と言われるのは、私はちょっと不満だ。
 横川ならば「峠の釜飯」だと思うのだが、店頭の幟は達磨弁当ばかりで、「おかしいですよ」と岳人が不満を漏らす。達磨弁当は高崎ではないか。調べてみると上り線のサービスエリアにはあるらしい。「使いもしないのに、あの釜を保存したりしてましたよね」私も岳人と同じ経験がある。あの釜は益子焼だそうだ。ついでに中身は、鶏肉、ささがき牛蒡、椎茸、うずらの玉子、筍、栗、杏、紅生姜。皇室専用には、椎茸の代わりに松茸が入る!天皇が「峠の釜飯」を食っている姿を想像するとなんだかおかしいい。製造元は「おぎのや」である。
 インターチェンジを降りて軽井沢に向かう。去年大塚さんが気づいたシダの列が、今年も同じように道路の端に綺麗に揃って生えている。誰かが植えたのだろうかとみんなで考えるが分らない。新緑の中に白い花が目立、岳人と隊長がミズキの花だと教えてくれる。

 軽井沢の町に入る前に蕎麦屋を見つけて入る。「庵」と言う。十一時四十五分。まだ早いからだろうか、私たちのほかには客は誰もいない。カウンターにヤマボウシ、ガクウツギ(これはノリウツギかも知れないと後で考えることになる)が活けてある。店の様子が東京や埼玉の蕎麦屋とまるで違う。これが軽井沢風なのだろうか。私はカツ丼とか天丼を置いていない店を蕎麦屋とは呼びたくない気分だが(田舎ものだね)、本当に蕎麦の好きな人なら、こういう店が好きなのだろうか。
 この店の三味蕎麦というのは、キツネ、タヌキ、山菜の三種類が入ったもので、暖かいものと冷たいものとがあって九百五十円である。冷たい三味を頼んだダンディが七味を掛けようとして山葵の存在に気づく。暖かい蕎麦には唐辛子、冷たい蕎麦には山葵と区分けされるのは何故だろう。私はこのとこお腹の調子がいまひとつ良くないので暖かい方を撰ぶ。途中でやっと他の客が二組入ってきた。

 食べ終わって、軽井沢の駐車場に車を入れたのが十二時四十分だ。軽井沢銀は梅雨の晴れ間にどっと繰り出した人で一杯だ。過去二回、「茜屋」のコーヒーを飲んだけれど、今回は時間がないということのほかに、私も隊長も実はコーヒーの味がよく分らないという理由で、寄らない。姐さんがいれば有無を言わさずにこの店に立ち寄っただろう。
 気温は二十五度だ。標高千メートルで約六度の気温差になるのだと隊長に教えてもらった。とすれば、下界では三十一度になっているだろうか。
 芭蕉句碑「馬をさへながむる雪のあした哉」。ショーの家を抜けて、余り人のいない道に通っていく。軽井沢を歩く人間は多いが、こういうところを歩く人は少ない。門から家までどれほどの距離があるか分らないような広大な別荘がある。この辺の別荘はとても広い。碓氷峠までのバスが走っているらしい。その停留所の前のトイレでちょっと用を足し、石の多い道から遊歩道に入り込んでいく。
 遊歩道の入り口は熊が出没するから注しろという看板が立てられている。声を上げるか物音を立てながら歩けばよいらしい。私たちを追い抜いていく若い男の背に大きな鈴がつけられているのは、熊避けのためだろうか。「岳人もつけてますよ」ダンディに言われてはじめて気がついた。
 松の落ち葉が敷き詰められた山道は足元が柔らかくて心地よい。ジージーとかギシギシとかゲコゲコとか、ひっきりなしに音が降ってくる。蛙のようにも聞こえて最初はなんだか分からなかったが「春蝉って言うんだ」と隊長が教えてくれる。姿は見えないが、ヒグラシを小さく黒くしたような形をしている。ある程度の規模の松林がないと生息できない。別名、松蝉とも言うようで、それならば季語になっている。
 松蝉やせせらぎの音をかき消して  眞人
 スミレのような白い小さな花を見つけて、「これはなんでしょうかね」と岳人が質問しても、さすがの隊長にも判別できないものがある。
 ミズの小さな花が咲いている。ミズの茎を茹でて味噌と合わせて叩いたやつは、子供の頃から好きだったが、実物の花を見るのは初めてだ。正式にはイラクサ科のウワバミソウと言うらしい。私がガクアジサイの一種かと思った白い花は、ノリウツギであった。外側に白い花弁のようなガクを配置して、真ん中に小さな花賀集まっている。ユキノシタ科アジサイ属だから、全くの見当はずれでもなかった。(後で岳人から疑問が入り、ヤブデマリではないかという。こっちはスイカズラ科ガマズミ属である。しかし素人には区別がつかない)
 どうしたきっかけだったか、ダンディと二人で真田十勇士の名前を数え始めた。猿飛佐助、霧隠才蔵、三次晴海入道、伊三入道、根津甚八、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、望月六郎。二人で話せば思い出せる。立川文庫の世界になれば、寛永三馬術にも話が及び、そうなれば、当然話はロダンにも及んでしまう。私は勿論だが、ダンディの世代だって立川文庫の現物を知っているわけがない。立川文庫が作り出した真田十勇士は、その後続々と出た講談本に引き継がれて今に残っている。ただ、寛永三馬術は立川文庫とは関係がない。
 いつの間にかダンディと隊長はどんどん先を行ってしまう。遊歩道に入る前にはちょっと腰が痛そうだった隊長も、ダンディの速度につられて速度を上げる。私とドクトルと岳人はゆっくりと植物を見ながら、歩いていく。
 出発前には碓氷峠まで「三十分程度じゃないの」とダンディが言っていたが、見晴らし台に出るまでには実際には一時間ちょっとかかり、ちょうど十四時だ。駐車場には車が止まり、結構、人が集まっている。

 万葉集歌碑。
 日の暮れにうすひの山を越ゆる日はせなのが袖もさやにふらしつ 読人知らず
 ひなくもりうすひのさかをこえしだにいもが恋しくわすらえぬかも 他田部子磐前
 タゴールの記念像がある。遠くの山が綺麗に見えているから、山男達はそれを確認するのが大変だ。私とダンディは全く分らない。ドクトルがサクランボウのパックを出してくれる。旨いが皮がお腹に悪くないだろうかと、私は自重して三粒だけ頂戴した。汗をかいた岳人が四阿でシャツを脱ぎ、下着になったところで、別に裸になったわけではないけれど、「ご婦人もいるんだよ」と隊長が注意する。ちょうど若夫婦と両親だろうかと思われる四人組がすぐそばにいたのだ。
 碓氷峠は日本の中央分水嶺になっている。元祖力餅「しげの屋」の店先の真ん中に線が引かれ、右は長野県、左は群馬県の表示が立つ。税金はどうなるんだろう。ここに落ちた雨滴は、運がよければ日本海にも太平洋にも到達することができる。標高千百九十メートル。今日は午前中から、隊長、ダンディ、岳人の高度計が三四十メートルほど微妙にずれていたので、ここで調整する。私は仕組みについては分らないが、岳人によれば気圧を感知して高度に変換するようだから、勢力の在る高気圧が張り出している今日のような日は、結構実際の高度とずれていくに違いない。
 そろそろ戻らなければならない。十四時三十分発の軽井沢行きのバス停に女性が三人待っている。私たちが見晴台に到着する前に、隊長とダンディはこの三人に会っていたのだ。写真を撮ってくれと隊長が頼まれたのに、一瞬の躊躇の間にダンディがそのカメラを受け取って撮影した。隊長はそれが悔しい。バスは二三分後に来るようで、「乗っていこうか」と隊長が提案するが、趣旨が怪しいので断固それは拒否された。中山道を降りた方が早いかというダンディに、車道は危険だし遊歩道を戻ろうと岳人が反論して、今来た道を戻る。「松たか子に似てたんだ」「バスに乗れば、ちょっと位、お話しできたかもしれないじゃないか」だんだん愚痴が出る。里山ワンダリングの隊長たる者が女性に心を奪われて、折角歩ける道をバスに乗ろうと思うのはいかがなものか。
 下り道は早い。四十分ほどで軽井沢銀座に戻ったところに、ちょうど上から降りてきたバスが到着した。赤い、ちょっとしゃれた感じのバスだ。「まだ乗っているかな」バスでこんなに時間がかかるはずが無い。「もうとっくに降りてますよ、一本前のバスじゃないですか」隊長の「高原のお嬢さん」はこうして消えていった。
 面影は分水嶺に夏の空  眞人
 十五時三十分に駐車場に戻り、鬼押出しを目指して出発だ。白糸ハイランドウェイ。「この道は草軽電鉄が走っていたところです」ダンディは学生の頃にその鉄道に乗っている。鬼押出しハイウェイを通り、鬼押出しに着いたのは十六時、丁度良い時間だ。去年で様子は分っているから、私達は真っ直ぐに高山植物コースを辿っていく。
 ウラジロヨウラク(裏白瓔珞、ツツジ科)が良く咲いている。去年、最初はドウダンツツジかと思ったやつだが、花の形が少し違うし下を向いた筒状の花の先が紅に染まって開いているのが少し色っぽい。ヒカリゴケはよく光っている。自ら発光するのではなく、外の光を反射させるのだから、今日の日差しによく反射するのだ。去年は雨で光がないから良く見えなかった。隊長は感動する。レンゲツツジの葉は、ふやけたようにしわしわが多い。ミヤマヤナギ(深山柳、ヤナギ科)は、十五から二十センチほどの黄色い房全体を綿が覆っている。白い小さな花が密集しているようなのはナナカマド(七竈、バラ科ナシ亜科ナナカマド属)。ちょっと時季が早すぎたようで、去年見たコマクサはまだ咲いていない。(何故か分らないが、私は去年来たのは七月だったと思い込んでいた。実は六月九日だったから、むしろ今回のほうが一週間遅いのだ。この誤解があとまで続いて、見る花々が違っても季節の違いにしていたのだから勘違いは怖い。)
 ここでも山がくっきり見える。浅間山がこんなに綺麗なのは珍しいそうだ。浅間、黒斑、北アルプス連峰白馬、四阿山、本白根、苗場、谷川連峰、至仏、武尊、男体山、浅間隠等が見えるから(私がこんなことを知っている筈がないので、隊長のブログから引用させてもらった)、山男三人は動かなくなってしまう。宿の時間と言うものある。ここは非情に転進を宣告しなければならない。  十七時に園を出る。出口付近の売店で岳人は焼酎を日本買い、おまけに饅頭を五個貰った。普段食べない私もちょっと腹が減っていたので食べてみたが、別に感動もしない味だ。岳人が今回買ったのは、石楠花酵母で作った(?)乙類焼酎だ。去年は「噴火焼酎って書いてあるのに、ちっとも噴火しませんでした」という甲類二十五度のものだったから、今日のほうが旨い筈だ。あとでお相伴に預かれるだろうか。

 休暇村鹿沢温泉には十七時四十分頃到着した。住所は群馬県吾妻郡嬬恋村大字田代一三一二である。これで風呂に入れば夕食は丁度良い。今回は民宿「こじか」には泊まれなかったが、小林捨七さんが休暇村の予約を取ってくれたのだ。駐車場は一杯で、第二駐車場は遠すぎ、ダンディは苦労して枠外に車を止めた。客室六十四、宿泊定員二百二十八人となっているが、予約は一杯だ。私たちが泊まれたのは運が良い。
 「おねえさん、灰皿持ってきて頂戴」部屋に案内してくれた若いスタッフに頼むと、困ったような顔で「お部屋は禁煙になっております。喫煙は一階の喫煙所でお願いします」と言う。そういうことか。喫煙所は一坪ほどの密閉された部屋で、真ん中に排煙テーブルがおかれているから、一度に入れるのは精々四人だけ。小さな硝子の灰皿が二つだけ置かれていた。侘しい。
 休暇村というのはどこの役所が管轄しているのか。全国に三十六ヶ所ある休暇村は全て国立公園、国定公園の中にあり、財団法人休暇村協会というところが元締めになっている。所轄は環境省で、理事長は環境事務次官であった。しかし悪名高いグリーンピアと違って、これだけ人が宿泊していれば、取り敢えず経営的には問題ないだろう。
 露天風呂が気持ちよい。温泉は久し振りだ。鹿沢温泉源泉「紅葉館」の風呂も昔ながらの造りで風情があってよいが、こんなにのんびりした気分にはなれない。汗をゆっくり流して二階の食堂に入る。「夕食バイキング」という用語にダンディが反対する。正しくビュッフェ方式といわなければならない。「英文科の美女だっておかしいって言いますよ」とにかくヨーロッパの文化に関してダンディはいい加減なことは許さない。そんなことは知らなかった私は、お手軽にウィキペディアのお世話にならなければならない。
 一九五七年、当時の帝国ホテル支配人の犬丸徹三が旅先のデンマークで出会った北欧の食べ放題料理、魚介料理や各種の燻製などを客が好きなものを好きなだけ食べられる『スモーガスボード』がそのヒント。犬丸は内容的に「これはいける」と確信し、当時パリのリッツ・ホテルで研修中で後に帝国ホテルコック長となる村上信夫に料理内容の研究を指示した。一方その名称が非常に言いにくく馴染みが無いものだったため、新名称を社内公募した。その結果「北欧と言えばバイキング」という発想と、当時帝国ホテル脇の日比谷映画で上映されていた『バイキング』(一九五八) という映画の中の豪快な食事シーンが印象的だったことから、これを『バイキング』と名付けることに決定、「バイキングレストラン」を一九五八年にオープンした。このレストランは大変好評を博しバイキングはビュッフェレストランの代名詞となった。
 「バイキング」は語源の成り立ち方からもわかるように和製英語である。日本以外では韓国の一部など限られたところでしか、使われていない言葉とされている。
 またビュッフェというのはセルフ方式の食事のことである。実に勉強になる。ところで、小林さんが私たちのためにビールをサービスで予約してくれていた。ありがたい事だ。ダンディは良く食べる。隊長も食べる。私はお腹を気にしながら少し控えめにする。日本酒を二本。あとでドクトルの持ってきたスコッチと岳人の買った焼酎が飲めるはずだから、ここは控えめでよい筈だ。
 山菜の天麩羅は多分人気メニューだからだろう。揚げる速度が客に追いつかないから、私は諦めた。やっぱり「こじか」で小林さんが揚げてくれる山菜が食べたい。刺身(ハマチ、ブリ)は取り放題だが、こんな山の中で刺身を大量に食っても感動はしない。食べ放題の時間は八時までだ。部屋に戻って改めて飲み始める。
 「あれっ、おかしいな」ドクトルが荷物の中を探ってみるが、折角用意していた筈のつまみがない。「入れ忘れちゃったのかな」それでもドクトルはサラミソーセージを切る。サラミソーセージだけは、おそらく非常の場合に備えて持っているのだろう。私は駅前のコンビニで買ってきた魚肉ソーセージを取り出した。ドクトルのスコッチは旨い。ウィスキーを飲むのは久し振りだ。二十代の頃にはまだ焼酎なんか飲まなかったから、スナックに行けば、当時はサントリーホワイトが身分相応の酒だった。向うの席で角瓶を飲んでいる連中を見れば、何故か分らないけれど反感を感じた。ダルマなんか飲んでいれば、それだけでブルジョアに違いなかった。ウィスキーの値段はあの頃とは全く違って安くなってしまっているが、焼酎に押されて余り飲む機会がない。このスコッチは良い。ストレートで飲んで旨い。岳人の焼酎も旨い。
「おいおい、正露丸の臭いがしないか」隊長の鼻は鋭い。私が飲んだ。
 隊長はまだ、昼に出会った女性のことを思い出して悔しがる。「だって、僕が最初に声をかけられたんだよ。あのとき躊躇しなければなあ」隊長のように、女性に出会うたびに反省していては大変だ。「自分にはトラウマがあるんですよ」と岳人が半生を振り返って深く反省し、二本目の焼酎の口を開けている。私は去年の二日酔いを反省して(「だって日本酒五本にワイン、焼酎ですよ、明らかに飲みすぎですよ」と岳人に叱られた)、今回は失敗しないようにおそるおそる飲む。それほど酒に強くは無いはずのドクトルも、今日はつまみを忘れたことを反省しながらよく飲んでいる。ダンディだけは反省に縁が無いが、ドイツ旅行の話題で賑わしながらウィスキーをストレートで飲む。みんな良く飲むよね。
 このとき私は気付かなかったが岳人が写真を撮っている。それを見ると、私は大欠伸をしているし、ドクトルも横になって、隊長は既に半分眠っている。ダンディだけはウィスキーを片手に持って笑っているのがすごい。十一時頃にお開きとなり、床についた。

 私は神経が細いので枕が変わるとなかなか寝付かれない。夜中、何度も目を覚ましたから少し寝不足気味だが、みんなが起きて来る前に風呂に入ると気分も良くなった。二日酔いの気配は全く無い。部屋に戻る前に一階のホールをぶらついていると、玄関ホールの外では、地元のおじさんが山葵やブルーベリーのジャムを売っていて、宿泊客が集まっているのが見えた。そのそばに灰皿を見つけて集まってくる喫煙者もいる。煙草を吸い、売店と見比べた結果、私は売店のほうの一番安いハチミツを買った。(何のハチミツかと妻に問いただされても私には答えられなかった)
 ドクトルや岳人はまだ風呂から戻ってこないが、腹が減ったダンディと二人で先に食堂に入る。今朝もいわゆる「ビュッフェ方式」だ。夕べの正露丸が効いたようで、お腹の調子は快適だ。やがてゆっくり入浴していた三人も席についた。私はご飯を二杯、焼き魚、切干大根の煮付け、シラスおろし、納豆、おひたし、野菜サラダ、野沢菜漬け、梅干に味噌汁と、普段の朝食の三倍ほどの量をお腹に収めた。隊長と岳人はご飯、ダンディとドクトルはパンだ。岳人は少し二日酔い気味に見える。
 ひとり一万一千二百五円也。精算を済ませ、池の平の「花暦」というパンフレットを貰う。去年も同じものを貰った筈だが、この近辺の花を対照刷るのに便利だ。
 「あれ、こんなところにあったんじゃないか」荷物を積み込んでいるとドクトルが素っ頓狂な声を上げる。昨日口にするはずだったツマミが、ちゃんと、コンビニの袋に入ったまま、車に積んであったのだ。「ちゃんと持ってきたんだよ」冷静沈着なドクトルは意外にそそっかしい。

 最初は「こじか」に寄らなければならない。小林捨七さんは、七時から休暇村の宿泊客を相手に自然観察の会を指導しているからあえないのは分っている。「それなら、我々も早起きしてご挨拶しなくちゃいけなかったんじゃないかな」ドクトルの言葉は正しいが、現実には無理だった。くれぐれもよろしくと、奥さんにお礼を申し上げる。「こじか」のすぐそばのがけに埋め込んである「雪山賛歌」碑は、ドクトルは初めてなので、一所懸命撮影している。
 一町ごとに祀られてある百体観音を見ながら走る。一町は六十間。計算すれば約百十メートルになるか。しかし、どう見てもそれ以上の間隔だろうと思うような位置にあるものは何だろう。地形のためにずらしたか。あるいは、番号をきちんと確かめたわけではないから、なくなって欠番になったものもあるのだろうか。
 八時五十分に池の平の駐車場に辿り着くと、地図上では二千六十一メートルの筈だが、三人の高度計には昨日と同じように若干の誤差がある。今日も絶好の登山日和だ。空気が乾燥していて、空に白い雲がくっきりと浮かんでいる。ストックを買ってきたダンディ、ドクトルに頼んで先のほうに丸いラバーをセットしてもらう。よく見ると、ドクトルのグリップは真っ直ぐで、スキーのストックのような形をしている。岳人、ダンディのT型のものと違う。ストック、ステッキと呼び名はどちらでも良いようだが、専門家にとっては難しい区別があるのか知れない。
 岳人はいつものように二本のストックを操る。それを見て「ヨーロッパじゃ二本持つのが主流ですよ」とダンディが報告する。アルプスでもそうらしい。使ったことのない私はどちらが良いのか分らない。
 ダンディと隊長が先を進み、私はドクトルにぴったりついて、植物観察をしながら登っていく。岳人はトイレに寄ったために少し遅れている。あちこちに濃い赤紫のイワカガミが下を向いて咲いている。鬼押し出しでは、遊歩道から手の届かない下の方にちょっとだけ咲いていて、撮ることができなかったから、今日は慎重に何枚も撮って見る。接写の按配がいまひとつ分からないので、いくつか試してみないと後でピンボケだということがよくあるのだ。
 「ダンディみたいにあんなに急いで登ってちゃ、これも見てないんじゃないかい」「隊長も今日は腰の調子がよさそうですね」今年七十歳の誕生日を迎える二人が先頭を走り、その後から年齢の順について行く形になった。
 足元が土の地面から岩場に変わってきたのは頂上に近付いてきたからだ。不規則でちょっと安定を欠く岩ばかりで登りにくい。夫婦を追い抜いて息が上がりそうになりながら、あと少しと上を見上げると、先に到着しているダンディと隊長の姿が見える。後ろにはようやく岳人の姿も見えてきた。一踏ん張りして頂上に立つ。九時三十分「東篭ノ塔山」の標識が立っている。地図には東篭ノ登山」とあるのだが、どっちでも良いのか。
 「私だってちゃんとイワカガミは見てますよ」ダンディがビデオに撮っているうちに隊長が追い抜いたようだ。「隊長に敬意を表して先頭を譲りました」
 白い雲の上に、白く輝く山並みが鮮やかに浮かび上がっている。穂高、槍と専門用語が飛び交い、山男たちは恍惚感に浸り続ける。北アルプスがこんなに鮮明に見えるのは珍しいことらしい。去年登った烏帽子岳、その前に上った湯の丸山も隣り合わせに、確かに「烏帽子」、「丸」という文字にふさわしい格好でよく見える。下界からガスが沸いてきて山影を隠しても、すぐに晴れ渡る。こんなに晴れたのはドクトルのおかげだと何度でもお礼の言葉が口に出る。
 遠くに見えた山を隊長のブログから頂戴すれば、南岳、大キレット、北穂、奥穂、西穂方面、白馬、鹿島槍などということになるらしい。
 今日はもうひとつ、隣に見える西篭ノ登山にも登るのだ。十五分休憩しただけで岩場を下る。岳人、ドクトル、ダンディはストックを携えているが、こういう不安定な岩場では却って不便ではないだろうか。私は軍手を嵌めて、岩や枝に手をかけながら慎重におりているつもりなのに、一度だけ、尻餅をつきそうになった。
 アズマシャクナゲ。「石楠花にもいろいろ種類はあるのかい。我が家のは何かな」ドクトルが聞けば、即座に隊長から答えが返ってきて、なんでも有名なものには三四種類あるらしいが、私はもう聞いたことを忘れてしまっている。仕方がないのでまたウィキペデイアのお世話になる。
 シャクナゲは常緑広葉樹にもかかわらず寒冷地にまで分布している。そのため、寒冷地に分布する種類のなかには、葉を丸めて棒状にして越冬するものがある(ハクサンシャクナゲなど)。日本にも数多くの種類のシャクナゲが自生しているが、その多くは変種であり、種のレベルでは以下の四種に集約される。
 その四種というのは、ツクシシャクナゲ、ハクサンシャクナゲ、キバナシャクナゲ、ホソバシャクナゲである。アズマシャクナゲは最初のツクシシャクナゲの変種に分類されるらしい。
 「アズマシャクナゲの葉はさ、裏が茶色なんだよ」「そうですか」とドクトルが葉をめくれば、茶色というか黄色というか、確かに表の緑とは色が違っている。
 ミネズオウ。ミツバオウレン(三葉黄蓮、キンポウゲ科オウレン属)。オオカメノキ(大亀の木、スイカズラ科ガマズミ属)。ミネザクラ。
 岩場を過ぎて土を踏みしめれば安心するが、すぐに登り道になる。それでも地面が見えているうちはそれほどきつくは無い。また岩場になってくると苦しい。さっきの東よりも難所のように思える。
 頂上についたのは十時十分だ。二千百十二メートル。石に腰掛けていると少し肌寒くなってくる。ダンディは途中で出会った女性に、ずいぶん涼しそうな格好ですねと言われたらしい。だいたい、袖がメッシュ状になった長袖シャツ一枚で、リュックも背負っていないのだから、山登りをしているようには見えにくい。これに対して岳人は完全な登山人の服装だ。彼にとって残念だったのは、今日のために数万円もする合羽も買ったのに、この快晴ではそれも出番が無いことだ。「岳人はお金かけてるからね」「持ってないから揃えてるだけですよ」一番金がかかっていないのは私だ。ダイエーの閉店セールのときに五百円で買った靴は、そろそろ底が磨り減ってきている。ベストも同じときに五百円で買った。
 「これで今日の登りは終わりですか」「違う違う、また今の道を戻るんだから」駐車場に戻るためにはさっきの山にもう一度登らなければならないのだ。岳人とドクトルは、頂上でラーメンを食べることも計画していたのだが、今日はそんな時間はない。下山してから地蔵峠で食事を取ることになっている。「お肉が痛んじゃうよ」しかし、ドクトルのコンロはガスが無くなりかけているともいうから、実行できたかどうかも分からない。それにこちらの頂上はさっきの東よりも狭いし、平らな場所の確保は難しそうだから、ガスが大丈夫でもどうだったろう。
 山というのは、下りるために登るものなのだ。ここも二十分いただけで、さっきと同じように、不安定な格好で岩場を下る。今度は登り道をダンディに少し遅れて、十時五十分、私は二番目に東の頂上に到着した。娘の到着を待っている若い父親に頼んで記念撮影。岩場は怖いが下り始めれば早い。駐車場には十一時二十五分に到着した。駐車場の受付窓口のホワイトボードには、池の平の本日の開花情報が書かれていて、それを確認していたドクトルが、「クリンソウが咲いてるよ。まだ見てないから、行ってみたい」と言うが、「そんな時間はありませんよ」「不満ですか」「大いに不満です」今回は我慢してもらおう。
 出発しようとしたところで、隊長が慌てた様子でリュックの中を探り出す。「携帯がないんだよ」「違うポケットじゃないんですか」「また山を戻るのは無理ですよ」
 あわや二度目の携帯電話紛失事件発生かと思われたが、なんのことはない。首にぶら下がっているはないか。前回の紛失事件の後で、ダンディがプレゼントしたストラップではないだろうか。「よくやるんですよね」私も他人のことは言えない。買ったばかりの定期券を無くしてしまったと思い込んで、切符を買ったのはつい先月のことだ。
 地蔵峠には十一時四十五分到着。食堂で隊長だけは焼きそば七百円を頼み、他の四人は山菜ラーメン六百五十円を注文する。ストックや山の道具も置いてあるが、ちょっと高いのではあるまいか。吝嗇な私は買う気がしない。

 車に乗り込んで小諸を目指す。運転するダンディには申し訳ないが、後部座席の三人はいつの間にか寝込んでしまい、懐古園の駐車場に到着するまで気づかなかった。十二時四十五分だ。私は初めてだが隊長、ダンディ、岳人は過去に来たことがあるそうだ。小諸城址である。復元したものでも石垣がちゃんとあるから城の雰囲気が良く残っている。園内散策だけなら三百円、藤村記念館、美術館、郷土資料館、徴古館に入れるのは五百円。私たちは五百円の券を買った。
 城門を入るとまず左の石垣に木村熊二のレリーフが埋め込まれている。小諸義塾の主宰者で、像の下には「門弟並有志 島崎藤村書」と書かれている。藤村記念館では女性客が五六人いて声高に喋っている。字がうまい、奥さんはきれいだ。少しうるさい。「本名は春樹っていうんだ。それじゃ藤村は芸名なの?」芸名には恐れ入る。ダンディと顔を見合わせて苦笑するしかない。江戸歩きの大久保コースでは藤村旧居跡を見ているが、隊長は「そうだったかな」とすっかり忘れている。ほとんど餓死といってもよい状態で死んだ妻と娘たちを葬った墓も見ているのに。
 壁に広がる年譜を見ていたダンディが「柳田国男が訪ねていますよ」と注意してくれる。何気なく聞き過ごしたが、確か『椰子の実』は柳田に聞いた話を元に作られたのではなかったかしら。名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実ひとつ。中学の頃、黒板一杯にこの詩をひらがなで書き、これを漢字仮名混じりに直せという問題を出した教師がいた。国語ではなく、秋田市立山王中学校のブラスバンド部を何度も全国優勝に導いた音楽の先生であった。木内先生だったよな。ついでに思い出せば、世界音楽史に残る三つのBのうち、ひとつは断然ビートルズでなければならないということも、この先生に教わったのだった。
 藤村詩碑を見る前から、岳人は「しろがねのふすまの岡辺、日に溶けて淡雪流る」なんてちゃんと覚えているから偉い。私は「まだ上げ初めし前髪の」(『初恋』)や「遠き別れに耐えかねて」(『惜別』)なんかが好きだ。どうも私の趣味は歌謡曲ですね。折角だから『千曲川旅情のうた一』をちゃんと思い出しておくことにする。
小諸なる古城のほとり  雲白く遊子悲しむ
緑なす??は萌えず   若草も藉くによしなし
しろがねの衾の岡辺   日に溶けて淡雪流る
あたたかき光はあれど  野に満つる香りも知らず
浅くのみ春は霞みて   麦の色はつかに青し
旅人の群はいくつか   畑中の道を急ぎぬ
暮れ行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の   岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて   草枕しばし慰む
 「歌哀し佐久の草笛」。広場では草笛コンサートと称する催し物をやっている。少し音程の狂った草笛の音色はなんだか懐かしいようだが、その演目が「黒田節」ではちょっとイヤだな。
 谷(地獄谷)に架けられた酔月橋を渡っていったん城外に出る.鹿嶋神社の参道になっていて、左手には鹿島神社、正面に寅さんの記念館があるが、そこには入らない。百年もすれば、フーテンの寅も、すっかり実在の人物だったと思われるか。その入り口に立つ木に薄紅の花が咲いていてハナミズキかと思ったのだが、隊長がヤマボウシだと鑑定する。こんな色のヤマボウシは初めて見る。ちょっと離れたところには普通の白いヤマボウシも咲いている。
 郷土博物館は後回しにして、小山敬三美術館に入る。靴を脱がなければならないのが面倒なのか、隊長は外で待っている。私は美術史に疎いので文化勲章受章者だという小山敬三の価値がさっぱり分らない。ダンディと岳人はしょっちゅう美術館を回っているから詳しいかもしれない。浅間を描いた絵も数点あり、これがこの美術館の目玉なのだろう。ドクトルは五種類の絵葉書を買った。
 建物の周りは浅間火山岩石庭園になっていて、隊長はこれを見ていたのだ。岳人もなにやら真剣に隊長の講義を聞いている。
 郷土博物館も三階は展望台になっているから山男は山影の点検に忙しい。外にでるとき、浅間山を簡単に解説した資料がないかと、隊長が受付の女性に尋ねている。学術的な調査報告の類はあるが、そんな簡便なものはない。ちゃんと勉強しなさいということではなかろうか。隊長とドクトルが粘って見るが、やはり無いものはない。
 もう一度城内に戻って、動物園には回らずに出口に向かう。徴古館には甲冑や藩主の着物、城内のミニチュア模型などが展示されている。なぜか左甚五郎作という春日局と家光の像が飾られている。「これが家光かい、女みたいじゃないか」ドクトルが指を差しているのは春日局のほうで、家光はその左の小さな男の子だ。小諸藩牧野家の初代藩主が家光の側室阿玉の方(桂昌院・綱吉の母)の甥にあたり、その縁でこの像が小諸にあるのだという。

 十四時三十分、車に乗り込んで出発だ。小諸インターチェンジから高速道に入り、車はどんどん走る。相変わらず後部座席の三人は居眠りをしてしまう。高坂のサービスエリアで休憩を兼ねて、ダンディが払ってくれた費用を精算する。岳人がきちんとメモをするのでついでに私も記録しておく。往復の高速代金が五千二百円、有料道路が九百二十円、駐車場が千八百円。ガソリン代は百七十円で計算して七千九百円。五人で和って端数処理をすれば、一人三千六百円ということになる。無茶苦茶に安いではないか。「だってさ、八高線でバスに乗り継いでこじかに行くだけで、こんなもんじゃないよ」これだけ楽しんで、宿泊代と合わせて一万五千円ほどで済むのも、五人乗りの車だからだ。ダンディに深く感謝しなければならない。それに酒を提供してくれたドクトルと岳人にも御礼申し上げる。それも隊長が「こじか」の小林さんと連絡を取って、休暇村の予約を確保してくれたからできたことで、何も役に立っていない私は、せめて書記の役目でも果たすしかないのです。
 十七時をちょっとすぎた頃に東所沢に到着する。「楽しいことってすぐ終わっちゃうんですよね」岳人の言う通りだ。「ダンディが車だから反省会もできませんよね」しかし夕べはかなり反省をしたように思う。明日は仕事だから(会議が二つも入っているのだ)、今日はおとなしく帰ろうよ。
 隊長は府中方面へ、三人は浦和方面へと分かれる。更に私は北朝霞で東上線に乗り換え、越谷と春日部の住人はそのまま武蔵野線に残った。
眞人

これまでの鹿沢温泉一泊旅行の履歴
◎第一回目 平成十七年六月四日、五日 湯の丸山登山 民宿「こじか」
参加者 隊長、ダンディ、一言居士、シオ爺、姐さん、裕子姫、眞人
◎第二回目 平成十九年六月九日、十日 烏帽子岳登山 民宿「こじか」
 参加者 隊長、ダンディ、岳人、ツカさん、眞人