志木 平成二十年六月二十七日(土)
志木駅十時集合。改札口には隊長が一人で待機し、全員が集まるまで私達は広場で時間を待つ。男は画伯、和尚、青年、宗匠、ツカさん、長老、岳人、竹、長谷川、ダンディ、講釈師、シオ爺、久し振りのヤマちゃん(本人の申告だが、そのうち違う名前が付けられるかも知れない)。女性は阿部、あっちゃん、大橋、胡桃沢、佐藤紀子、篠田、のんちゃん、高橋、寺山、カズちゃん(シオ爺のしつこい命名である)、堀内、村田。総勢二十八人となった。(敬称略)そろそろまだ本名で書かれている人にも何か別の呼び方を考えたい。(本人の申告も受け付ける) 「ロダンさんは来ないんですか」カズちゃんが残念そうだが、彼は今日は会社の研修で抜けられない。朝、講釈師が駅で出会ったそうだ。ドクトルも急用ができた。「東上線の駅は武蔵野線に比べて垢抜けている」とヤマちゃんが不思議なことに感動する。私は東上線に義理はないのになんだか自慢したいような気分になってくる。 隊長によれば今日は自然散策と言うより歴史文化に触れるコースである。それならば志木の歴史をお浚いしておきたい。ただし手元には何の資料もないので、いつものようにウィキペディアのお世話になるしかない。私は近くに住んでいながら、志木のことなんかまるで知らなかった。
歩き始めてすぐ雨が落ちてきた。天気予報では降らないはずだったから、私は傘もカッパも持ってこなかった。カッパを着るのに手間取ったシオ爺が最初から出遅れ、「ゴメンゴメン」と走ってきた。「返り新参なのに大きな顔するんじゃないよ」講釈師が絡んでくる。ツカさんが傘を差しかけてくれるのが嬉しい。あっという間に雨がかなり大粒になってきたので、志木小学校に隣接する遊学館で雨宿りをすることになった。雲の動きを見ていたツカさんが「すぐ晴れますよ」と言う通り、十分もすると雨も止んだ。「俺が来たから晴れたんだよ」自慢するシオ爺に、「だいたい今日は降らないはずなんですよ。シオ爺が来たから降ったんじゃないの」とダンディが突っ込む。 このあたりは旧奥州街道だそうだ。川越街道だとばっかり思っていた私は混乱してしまう。そうなのか。こんなことは日本史の授業では教えてくれない。奥州街道と言えば、千住から日光道中を経て津軽に至る道が江戸五街道の一つとして公認された街道で、私の知識にはそれしかない。運よくこんなページを見つけたので、引用してみる。 甲州街道の日野宿から小川新田(現小平市)・清戸(現清瀬市)・野火止(新座市)を経て、志木市域の中央部を通り、与野・大宮(以上、現さいたま市)・原市(現上尾市)を経て、岩槻で日光御成道に合流するこの往還は、奥州方面に向かう道であることころから奥州街道と呼ばれていたのだが、コースを反対方向に取れば甲州に達するということで、甲州道と呼ばれることもあったらしい。(中略) 奥州街道がいつ頃成立したかははっきりしないが、元になるようなものは、中世後期に起源したように思われる。江戸時代に奥州街道沿いに位置していた中ノ氷川神社(志木市中宗岡)が永享年間(一四二九〜四一)に現在の場所に創建されていることから、この頃すでに鎌倉街道(注)は羽根倉の渡しの手前で南下する支道を分岐させるようになっていたものと私は推測する。それが江戸時代に入ってからメインストリートとしての奥州街道になったのではないかと思われる。 中世には府中が名目的とはいえまだ武蔵国国府としての役割を担っていたので、府中へ通じる鎌倉街道はそれなりに重要な意味を持っていたが、江戸に幕府が開かれて政治の中心地となれば、古代的な国府が意味を成さなくなるということで、国府の府中に通じる鎌倉街道は廃れ、部分的にかつての鎌倉街道の一部を利用した形で、五街道のうちの甲州街道と中山道、日光御成道とを結ぶバイパスが成立したように思われる。特に与野と羽根倉との間はかつての鎌倉街道のコースをほとんどそのまま踏襲しているのだ。 「歴史を紐解く」http://shimin.camelianet.com/shiminweb/pre_04/pre4-2a.htm ということで、おおよその理解はできた。ただし、実はもう少し古い時代(平安の頃)にはもうひとつ違う奥州街道もあった。江戸東京歩きの第六回「大久保余丁町編」を宗匠の案内で歩いたときに調べていたのをすっかり忘れていた。
古い街道らしく、土蔵や木造の家並みが所々に残っている。「駅前と違うよ」とヤマちゃんが呟く。朝日屋原薬局(国登録有形文化財)の前には明治になって復元された道標が立つ。 膝折村へ一里九町四十一間二尺、大井村へ一里三十四町十一間、川越町へ四里三町三十二間一尺。大和田町へ三十五町十八間、浦和町へ二里十三町六間。
「内外薬舗あさひや」と書かれて屋根に掛かる看板は欅の一枚板である。間口を貫く黒松の一枚板は、この店の最も価値の高いものである。手前のショーケースには普通市販の売薬も置いてあるが、左側の棚には古い漢方薬の袋がいくつも重ねてある。ダンディはゲンノショウコを買った。美女はクコを買いたかったが値段が分らないので買えなかった。店に並べてある商品の値段が分らないというのは、つまり全く売れなくなってからどれほどの時代がたっていたかということだろう。この店が商売で成り立っているとは到底思えない。主人はもともと大学で化学を教えていたから「私は漢方はさっぱり分らない」というから困ってしまう。奥さんのほうが漢方の専門家だそうだ。 店を出れば先のグループは既に史蹟の前で待っている。「下の水車跡」「西川家潜り門」。潜り門で刀傷を見つけるのは当然のことながら講釈師だ。なるほど案内板にちゃんと武州一揆の折の刀傷が残っていると書いてある。鎖が設置してあるから入ってはいけないのだろうに、当たり前のように近づいて門をさすっていたのは誰だっただろう。 武州一揆は慶応二年(一八六六)六月に起きた。横浜開港後の諸物価高騰、飢饉に加え、幕末の世情不安がそれに加わり、この年は全国各地で一揆、暴動が頻発した。小野文雄『埼玉県の歴史』から要約してみる。 この事件は狭い名栗の谷で生じた貧農の蜂起がきっかけで、約一週間にわたり、全県域に暴動の嵐が吹き荒れることになり、打ちこわしにあった家は約三百軒におよんだ。これは各地の貧農たちが社会的不満をいだいており、これら貧農が各地で一揆に参加したから、あたかも雪だるまのようにふくれあがったからである。 六月、川越城下および周辺の大工職が、米価引下げの要求をかかげて氷川神社境内に集まり、川越藩では急遽、藩米の放出、米価値下げを行って辞退を収拾したが、こうした救済をえられない地域では、貧農の不満が急速に高まった。 六月十三日、秩父郡名栗谷の農民が蜂起し、次第に人数を増しながら、まず飯能にいたり、富農数軒を打ちこわし、さらに扇町屋(入間市)で富農を襲い、所沢に押し寄せた。人数は二千人におよび、富農十八軒を打ちこわし、さらに二手に分かれて一隊は小川町方面、一隊は引又町(志木町)方面に向かった。一揆に参加した農民たちの武器は斧・鳶口・かけや・鎌などで、帯刀のものはほとんどいなかったが、なかには鉄砲をもったものもいたらしい。 引又町へ押しよせた一隊は、高崎藩野火止陣屋の藩士たちによって空砲で追い散らされ方向をかえて北上し、途中で富農を打ちこわしながら川越に押しよせた。一群のものはそれから川島に向かい、高坂・坂戸・松山方面を打ちこわし一群といっしょになり、熊谷に向かって押しよせ、その途中、冑山村(大里村)の富豪根岸友山の家に押しよせた。 小川町を荒らした一揆の一群は、その後秩父方面へ押しよせた。 しかし、幕府および諸藩の警備態勢がととのうと一揆はしだいに鎮圧され、六月十八日、上州新町宿をおそった一揆が岩鼻代官所と高崎藩連合軍に徹底的にうちのめされ、ようやく鎮静に向かった。 「いろは樋」の模型がおいてあり、水が滝のように落ちている。新河岸川を越えて野火止用水を宗岡地区に通すために造られた水路橋だ。四十八本の木製の樋を繋いで川から四・五メートルの高さに駆けられた。四十八本あることから「いろは樋」の名がついた。このあたり一帯が「いろは商店街」とか「いろは橋」という地名を持つのはそれに因むのだ。武蔵野台地東南部の高低差を利用して、小枡、大枡の組み合わせで水を流したものだが、詳しい理論は面倒なので(よく分らないので)省略する。 柳瀬川を渡ると、新河岸川との合流地点の広場に村山快哉堂がある。「家伝・中風根切薬」の看板を掲げている。店先は開け放たれていて、ボランティアの男性が説明してくれる。ここは木造二階建ての土蔵をそのまま店にしたもので、明治十年に建てられた。ただし場所はここではなく、本町通りに面していた。「引っ張ってきたんでしょうか」「解体復元したのです」 街道であるからには宿場もあった。引又宿古絵図(文化十一年制作・志木市郷土史研究会模写)を見ると、南北に通る宿場町の南からほぼ三分の一のあたりに、村山彦兵衛の名が見える。平成五年まで実際に商いをしていたが、七代目が商売を断念して志木市に寄贈し、平成七年この場に移築された。志木市生涯学習課が管理している。 自家製の薬品として中風根切薬が看板だが、それは高くてそれほど売れなかった。売れたのは万能薬としての蛤に詰めた軟膏で(おそらくメンソレータムみたいなものだろう)、それ以外にも江洲日野製剤会社の販売代理店であることを示す看板もある。「やっぱり江洲ですね」ダンディの言うとおり、ほとんど全ての商売は近江商人によって全国に広まったが、薬もそうだとは知らなかった。私は薬と言えば富山と思ってしまうが、これは商売の形態が違う。富山のほうは店舗を持たず家庭を訪問して歩く。
調べてみようと思っても、由来や性格も様々で東日本、西日本でも大分違う。こんなことを調べ始めると大変だが、大まかに分けて、亀に由来するものと猿を連想するものと二つに分類されるらしい。だいたい、カッパというのは関東地方で、エンコウ、ガワタロ、ヒョウスベ、メドチ、スイジン、スイコなんて呼び方もある。西遊記の沙悟浄がカッパの姿で現れるのは日本だけの話で、中国では頭に皿を載せた姿であるはずが無い。 柳瀬川には河童にまつわる二つの伝説がある。所沢の持明院に伝わる「河童の詫び証文」は、悪さをした河童が和尚に懲らしめられ、二度と悪さをしないと証文を書いたというもので、この手の話は各地にありそうだ。志木市柏町の宝幢寺に伝わるものは、柳瀬川の河童が馬に手を出して逆に踏みつけられて怪我をして捕まった。今まで河童の悪戯に手を焼いていた村人は制裁を下そうとしたが、宝幢寺の和尚が助けたという。これは河童駒引きの典型的な話で、おそらく全国的にあるだろう。 今度は新河岸川に架かる「いろは橋」を渡って川沿いの遊歩道を歩く。小さな薄紅の花はなんだったかしら。教えてもらった記憶があるのに思い出せない。岳人が聞いて、隊長がアカバナユウゲショウと言い、堀内さんは、「ただのユウゲショウで良いの」と訂正してくれる。それなら、栃木を歩いたときに見た花だと宗匠と納得する。折角あの時教えてもらったのに、植物学校に入学したばかりの私はまだ駄目だね。それにしても宗匠だって私と同じレベルだと確認できた。 カモにしては首が長い鳥が数羽遊んでいる。「ガンだよ、誰だいカモなんていうのは」シオ爺はバードウォッチングの人であったが、ガンの種類を特定するまでには至らない。ただし、ウィキペディアによれば、ガン(雁)はカモ目カモ科の鳥の総称であるというから、カモで間違っているわけではない。体が比較的小さくて首が長くないのがカモ、そうでなければガンだそうだ。「シナなんとかっていうんです」美女もなかなか思い出せずに「ああ、ここまで出てるんですよ」と頭を悩ます。中国渡来のガンが家禽化し(あるいは家禽を輸入して)、やがて野生化したものだろうか。(後で思い出した美女から報告が入った。シナガチョウというものらしい。「シナ」は当然支那であり、「支那」という言葉が差別語であるという意見は無視する。) 富士下橋のところまで歩いたところで、まだ十一時半を少し回ったところだが、空腹に耐えかねたシオ爺のわがままな要求に、隊長がここで昼食にすると宣言する。空腹というよりも、疲れたというのがシオ爺の本音のはずだ。私は言われるまで気付かなかったのだが、この付近にはイネ科の植物が多い。あっちゃんはこの種に対してアレルギーがあるので、ひとり淋しく橋を渡って放浪の旅に出た。
朝、寺山夫人が渡してくれた漬物が予想通り旨い。和尚と長老は林檎を出してくれる。サッチーは唐揚げを配る。「アーンして」と岳人の口に箸で放り込むのは彼女の得意技だ。 ダンディはドイツで買って来た葉巻を取り出す。「これを見せたかったんですよ」と見せてくれる箱には、喫煙は汝を殺すと書いてある。(もちろん日本語で書いてあるのではない)Killというような言葉をなぜ使わなければならないのか。ふだん煙草は吸わないダンディが今日は葉巻を旨そうに吸っているのがおかしい。細身の煙草で癖がなく香りが良い。
天神社は小さな神社だが、社殿が参道より一段高くなっている。かつては川の氾濫でこのあたりはしばしば洪水に見舞われた。そのために、土を盛っているのだ。脇には滑り台と遊具が置かれている。昔ならばシーソーと決まっていたものだが、今は違う。スプリングを効かせた板(犬が咥える骨をイメージしているような形になっていて、三メートルほどのものだ。商品名はスプリングボーンと言う。カタログ価格で四十二万円の遊具だ)の両端に立って、互いのバランスを崩すように競い合うものだが、結構怖い。のんちゃんが果敢に挑戦すると、実にバランスが良い。彼女の運動神経はかなりのものだ。女性が挑戦するのでは私もやって見なければならない。向う端にはあっちゃんが立ち、こっちに私がヘッピリ腰で立つ。揺らすとかなり怖い。みんなに催促されたシオ爺は、リュックを外して念入りに準備してから板に乗るから気合が入る。サッチーも挑戦する。そんな私たちを阿部さんが感動したような(呆れたような)目で見つめている。
濃い赤紫の小さな玉が密集して固まりになった周りに、白っぽい五弁の装飾のような花がついているのを発見して「ガクアジサイでしょ」サッチーが叫ぶ。濃い赤紫の色が実に艶めかしい花だが、アジサイとは違うような気がする。「ボタンウツギじゃないかしら」と阿部さんが自信なさそうに小さな声で言う。堀内さんの鑑定ではボタンクサギ(牡丹臭木)である。(実は阿部さんもそう言ったのを、私が聞き間違えたのかも知れない)サッチーはボタンウサギと復唱する。ウサギではなくクサギです。ケマツヅラ科である。 道端に置かれた水槽の藻から小さな白い花が咲いている。「タヌキモかしらね」今度はウサギではなくタヌキに出会った。ザクロの赤い花が咲いている。私は初めてみる。画伯も初めてらしい。ガクアジサイのようで白いガクの形が違うのは、先日碓氷峠で見たノリウツギではあるまいか。私と同じ植物には素人の宗匠が広辞苑を検索して、どうもそれらしいとお墨付きをくれる。ただ、阿部さんが「アジサイは難しくて」と口を濁すから、もしかしたら違うかも知れない。 「この連中と付き合っちゃ駄目だ。元不良少年、不良少女だから」講釈師がカズちゃんに盛んに私たちの悪口を言う。「元」と言われたのは光栄であった。「わたしたち、ちゃんと更生したのよね」あっちゃんが笑う。「ちゃんと」かどうか分らないが、私だって今はまともに生きている。 気がつくと講釈師がなんだか得意そうに頭を振っている。つまり頭に注意を促しているのだ。見れば帽子のリボンにザクロの赤い花を挿しているのだ。「俺は花に囲まれて生きてるんだ」ダンディの帽子に対抗したのだろう。今日のダンディの帽子はドイツで買ったもので、ピンにはノイシュヴァイン・シュタイン城のネームが光っている。 塀で囲まれた屋敷の中に、土が盛られて高くなったところに蔵が建っている。隊長の解説で水塚(ミヅカ)と言う。洪水に備えたもので、さっきの天神社と同じ趣旨のものだが、志木市教育委員会が一九八八に調査したときは志木市内に六十三基残っていた。避難用の舟を保存している家もあるという。ただ、「ミヅカ」という言葉は初めて聞く。ダンディが電子辞書を検索しても、広辞苑にもマイペディアにも出てこない。(平凡社版「日本史事典」にも記載されていなかった)関東一円の荒川、利根川などの流域で、江戸後期から明治にかけて造られたもので、その用語もこのあたり特有のものなのかも知れない。 敷地内に一部土盛をしその上に建つ、敷地全体に土盛が施され、その上に更に土盛を施し建っている、敷地内に一部土盛をしてあり主屋とともに同じ地盤レベルで建つ、堤防を利用してつくられたもの、その他、地盤の高さは変わらないが水害時にはあきらかに「水塚」として使われていた事が判明したものなど、形はいくつかあるようだ。 荒川堤防前のスポーツセンターで休憩する。顔を洗うと気持ちが良い。朝買って来たお茶はなくなったので、ペットボトルに水を補給する。思いがけず暑い日になった。堤防ぼ上に立てば、一面に水田が広がっている。スポーツセンターから男が出てきて、サングラスの忘れ物だと呼んでいる。これはサッチーであった。 堤防の上を歩くと風が気持ちよい。真夏だったら暑くて大変だろうが、日差しはあってもまだ六月だ。秋田平野を見て育った私は水田の緑を見ると気持ちが落ち着く。水田は綺麗だが、この辺には休耕田がないのだとツカさんがちょっと残念そうに指摘する。休耕田があれば野鳥のいつかの種類が見られるそうだ。水田の向うには浦和の町が広がっている。ムラサキツメクサ。(私は全然違う名前を連想していた)案の定「アザミって思ったの」と宗匠に笑われる。向うの空には連凧が雲に吸い込まれるように延びている。
その隣は富士塚だと思ったがちょっと風情が違う。宗匠とダンディが目敏く見つけたのだが、頂上には御嶽山、三笠山、八海山と記した石版が建っている。これは御嶽塚であった。富士塚はいくつか見ているが、御嶽塚は初めてみる。こういう珍しいものに、何の説明も置かれていないのは志木市として怠慢ではなかろうか。 古代から火を噴く恐ろしい姿や、獲物を与えてくれる神聖な領域として、山への原始的な信仰は始まった。それが役の小角の修験道に結びつき、更に密教と習合したのが現在に至る山岳信仰の基本形だ。富士信仰は余りにも有名だが、木曽の御嶽山信仰も随分古くからあって、江戸期に入れば御嶽教という宗派が発生する。
バスに乗るのを計画した隊長と歩き疲れたシオ爺はやや不満気だが、今日はまだそれほど歩いていないではないか。結局バスに乗ったのは誰だったのだろう。十人以上が志木に向かって歩き始めたが、途中のバス停でうまくタイミングがあったシオ爺は「駅で待つ」と言い残してバスに乗り込んでしまった。 堀内さん、大橋さんは途中のガストでお茶を飲むと別れていった。(あとで講釈師は、「志木の駅前にしようって言ったのに」と残念がるが仕方がない)蔵づくり本舗を見つけてあっちゃんは最中を買いに入ってしまう。甘いものには目が無い美女だ。「酒屋があれば鈴木さんがはいっちゃうでしょう」ダンディが笑う。生憎、あるいは幸いなことに酒屋は見えない。 いろは橋に出れば、もう志木駅は近い。「時間がかかっちゃった」と遅れて追いついたあっちゃんは、和尚の赤いバンダナが見えたので追いかける元気が出たと言う。数年前まで私もバンダナをつけていたが、額に日焼けの線がくっきり出てしまうので、この頃は帽子にしている。 駅に辿り着けば、壁際にシオ爺がしょんぼりと座っている。「そっと近づきましょうか」と言い合っているうちに、向うから気がついて立ち上がる。講釈師がいるからお茶を飲まなければならない。竹さんはここで別れる。クローバーという喫茶店では、一番高い(?)飲み物がジュースで、裕福な私はトマトジュースにした。買い物をしてくると言ったサッチーとカズちゃんが遅れて到着したが、全員がなんとか座る事ができた。サッチーは初対面の筈のカズちゃんを、さかんに「カズコ、カズコ」と呼ぶ。こういう席に初めて参加するカズちゃんに、ダンディが参加者のそれぞれの得意技やセカンドネームの由来を説明する。「セカンドネームって言うんですね。私は渾名とかニックネームとかしか知りませんでした」 適当な時間になって解散し、画伯はカラオケに行かなければならないのでお別れだ。反省しなければならない面々は飲み屋を探す。「さくら水産はないのかい」まだ四時半だが、「花の舞」が開いていた。通りの向こうの「天狗」まで偵察に出かけた岳人とあっちゃんを呼び戻して店に入る。隊長、ダンディ、シオ爺、和尚、岳人、宗匠、ヤマちゃん、サッチー、カズちゃん、あっちゃん、私。相変わらず大声で仕切るのはシオ爺だ。 壁に渓斎英泉の浮世絵「《木曽海道六十九次》蕨之驛 戸田川渡場」が掛けられていて、朝なのか夕方なのか、石段を降りてくる人物は男か女かなどと喧しく話は盛り上がる。ダンディ、宗匠、私は朝説を主張し、シオ爺や隊長は夕方説だ。いつものように喧しく賑やかに反省会は更けてゆく。反省の足りない四人(特に名を秘す)は二次会で更に反省を重ねていった。 眞人
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