歴史と自然に育まれた埼玉の酒造業

投稿:   大内 誠 氏     2008.06


昨年の10月上旬、埼玉県酒造組合主催「埼玉36酒蔵大試飲会」が大宮ソニックシティで開催されるので「誰か一緒に行って見ませんか?」と、横の会(昭和45年秋田高校卒業同期会)のM・K君から呼びかけがあった。

自分は日本酒を殆ど飲まないし、どちらかと言うと風呂上りの冷え冷えのビール派であり、2杯目からはウイスキー水割り派の方だ。
ごくたまに飲む別の種類のお酒も毎年晩秋に開放されるライト系の赤ワインが多い。
しかしながら最近では、ワインやウイスキーの量産国のヨーロッパ諸国でも静かな日本酒ブームと言われて久しい。
日本人でありながら日本酒の事を全く知らない上、好きになる機会にも恵まれないことは実に恥ずかしく情けないことであると常々思っていたので、この機会にもっと日本酒に対する知識を深め、日本酒を好きになるのも良いと思い、早速参加することにした。

当日は定刻に業務を終え、午後6時前には会場に着いたが、M・Kからは自分から誘っておきながら「仕事の都合で閉会間際にならないと行けない」と連絡が入った。
彼を会場の外で待つのは時間が勿体無いので、先に一人で会場をぐるりと巡ることにした。
会場内には蔵元の旗のぼりがブースごとに立っていて、経営者・営業マン・杜氏の方々がテーブルの上にところ狭しと置かれた自慢の蔵出し銘酒の説明に当っている。
後に詳しく書き加えるが、埼玉酒造組合主催の試飲会なのに何故か蔵元の語りに時々関西弁アクセントが聞こえる出店がある。一体どういう訳があるのだろうかと興味を覚える。

お伝えしたように、普段日本酒は殆ど飲んでいないので試飲とは言え全部飲んだら急性アル中で倒れるのは間違いないと直感したが、折角の日本酒との出会いの機会なので「お勧めの銘酒」を中心に会場の展示ブースを巡った。

早速いただいたどれもがみな香り良く味わい深かく、それでいて上品なサラリとした呑み心地だ。フルーティーと言う表現を日本酒にしていいのか判らないが、呑んだ後の舌にべたつく感じの残っていた、今までの自分の中の日本酒の印象と全く違う。
日本酒が苦手と思っていた自分でも、どういう訳かいくらでもスイスイと入ってしまう。
「これが埼玉の銘酒か!」と深い感銘を受けながら、また一杯と飲んでしまった。
良く見るとお勧めのお酒には殆ど大吟醸のラベルが貼られている。
注*白米の玄米に対する重量の割合の精米歩合が60%以上の米から造られた酒を吟醸酒、そして50%以上のものを大吟醸酒と呼ぶそうである。
つまり超高級なお酒のみに集中して何杯も頂いてしまった訳だ。いくらお酒の知識が無かったとは言え、遠慮の無い行為と反省している。

自宅の位置する北埼玉郡に比較的近いので時々店先を車で通過する、テレビコマーシャルでもお馴染みの騎西町の「力士」釜屋と、同じく北埼玉管轄の税務署のある行田市の「日本橋」横田酒造以外は、どんな銘柄があるのかも全く知らないので、逆にこんなに多くのしかも歴史の古い蔵元があったのかと新たな発見に接し、またもや深い感銘を受けた。

関心したのは全国新酒鑑評会で何度も金賞を受賞している蔵元が実に多いことである。
あちこちに金賞受賞のマークが燦然と輝いているのだ。埼玉酒って本当に凄い!と初めて知った。

創業の歴史

埼玉県酒造組合からの提供資料から主な蔵元と創業年をアトランダムに書き込むと、 秩父菊水酒造(寛永2年創業=1625年)、藤崎ハ兵衛商店(享保13年創業=1728年)、釜屋(寛延元年創業=1748年)、八尾本店(寛延2年創業=1749年)、内木酒造(安永4年創業=1776年)、横田酒造(文化2年創業=1805年)、小山本家酒造(文化5年創業=1808年)、武蔵鶴酒造(文政2年創業=1819年)、寒梅酒造(文政4年創業=1821年)、石井酒造(天保11年創業=1842年)、佐藤酒造(弘化元年創業=1844年)、長澤酒造(弘化元年創業=1844年)、川端酒造(安政7年創業=1860年)、滝澤酒造(文久3年創業=1863年)などである。

江戸時代の創業が24社、明治時代の創業が10社、他は平成創業2社の計36社。
出展先の創業が380〜150年前からの老舗が中心なのには実に驚きである。
*注:秩父菊水酒造は寛永2年創業=1625年の蔵元から平成15年に引継ぎ醸造を開始と酒造歴欄に書き込みがあった。

参考*郷里秋田も酒処なので少し調べてみた。由利本庄市の飛良泉が室町時代足利義政が銀閣寺を建立した1487年の創業と大仙市の千代緑(奥田酒造)延宝年間(1674〜1680)創業というので大変な老舗ある。秋田市にも土崎の銀鱗(那波商店)の文化12年、同じく秋田市内新屋の英雄(森川酒造店)宝歴4年などある。他にも県内には北鹿が文化5年、新政が嘉永5年など老舗も多数みられるが、現在の秋田の中心をなす酒造業者は明治・大正以降の創業のようだ。


3つのタイプの埼玉の酒造経営
前述の蔵元の語りに関西のイントネーションを感じたのには訳があった。
後日、埼玉県酒造組合(埼玉県熊谷市末広2−133 )にその理由を尋ねたところ事務局長の岸さんから埼玉には3つの酒造経営タイプがあると説明を受けた。

一つ目は在郷有力者による地店(じだな)二つ目は近江商人による江州店(ごうしゅうだな)三つ目は越後出身者による越後店(えちごだな)である。


どうやら例の関西弁は江州店の流れを汲んだ経営者の方に間違いなさそうである。
熊谷の埼玉県酒造組合には、創業の経緯など歴史的背景に関する文書は戦争中に消失してしまい、現在は残って居ないとのことだった。
岸事務局長はこの点に詳しいし方がいるので興味があるのなら伺ってみてはと、国立歴史民俗博物館(千葉県佐原市城内町117)の清水隆浩先生を紹介してくれた。
さっそく江戸時代の武州の酒造家について聞いてみることにした。

江戸周辺の酒造業の新規参入について

清水隆浩先生は物静かな語り口の方で、こちらからの突然の電話にも拘わらず丁寧にお教えいただいことに感謝している。ただ電話では聞き取りにくいかなり小さなお声の方であった。

清水隆浩先生の説明の趣旨は概ね次のとおりである。
一、 江戸時代の日本酒の代表的な生産地は上方中心であり、その辺りから下り酒として酒の大量消費地江戸に入っていた。(*江戸時代前期は伊丹や池田など、後期に行くにしたがい後発の灘が席巻=江戸の歴史―酒の話から引用)
(嫌な表現だが当時は上方から江戸へ運ばれる品は下り物と呼ばれたらしい。)

二、 江戸幕府はある時期、江戸近郊にも灘の銘酒などにも負けない酒の生産地を確保するため、地元有力者に酒造の権利(酒株)を与え保護奨励した時代があった。
 *(寛文・元禄・寛政・天保期など=国税庁の「税務大学校」の江戸時代の酒税欄から引用)

三、 やがて時代の変遷とともに、酒造の権利(酒株)が貸与や売買の対象となるようになっていった。
そういった背景の後にこの地の酒造業に新規参入したのが江州店であり越後店である。

四、 埼玉の江州店は近江商人の中でも日野地区と言われる、滋賀県蒲生郡日野町大窪辺りからの極めて狭い地域からの出身者が多い。いわゆる日野商人といわれる人々である。

五、 埼玉の越後店は柿崎や柏崎からの出身者が殆どである。多くは親戚などの伝を頼って地店に丁稚奉公に入り努力が認められ、やがて暖簾分けをしてもらったのが新規参入の始まりと考えられる。
越後杜氏も多いが、彼らが出稼ぎに来たのは明治以降のことと考えるのが自然である。

以上が清水隆浩先生の話の概略だが、これで武州に3つのタイプの酒造家が存在することがより理解できたことに感謝している。
清水隆浩先生はさらにご自身の著書に「近代酒造の地域的展開」吉川弘文館出版があるので、興味があるなら一読されるようにと紹介してくれた。


江州店酒造元へのインタビュー


行田市桜町の横田酒造株式会社(文化2年創業=1805年)の横田保由社長に江州店や、酒造りのことに付いてお教えいただいた。
* 横田酒造株式会社は全国新酒鑑評会に於いて近年10年で9回も金賞を受賞している。

横田社長の説明は概ね次のとおりである。
一、創業者のルーツは現在の滋賀県蒲生郡日野町であり、横田酒造以外も埼玉の江州店はこの周辺からの出身者が多い。
多くの江州店では幼年から成人頃までは滋賀で過ごし、その後埼玉で家業を継ぎなが ら滋賀と行き来する。そして隠居後はまた滋賀で過ごし家を守るという習慣がある。

二、横田社長の記憶している江州店は久喜市の寒梅酒造(文政4年創業=1821年)、秩父市の八尾本店(寛延2年創業=1749年)、寄居町の藤崎ハ兵衛商店(享保13年創業=1728年)、騎西町の釜屋(寛延元年創業=1748年)などである。

三、近江商人の中でも日野地区から出身は特に日野商人と呼ばれていた。
  領主の戦国武将、蒲生氏郷公が伊勢からさらに会津へと転封することになる。
そういった経緯で日野と元城主の任地との交流がはじまった説があり、途中の経由地であり巨大消費地である江戸周辺に根を下ろす日野商人もいたと考えられる。また江戸の一時期に酒造業を幕府が奨励した背景には酒税徴収拡大があったと思われる。

* 注:この地に生まれ若き日は日野城主として当地を治めていた蒲生氏郷公は幼少期は織田信長の多くの人質の中の1人であった。
信長の下で学んだ城下町の手法を取り入れた氏郷は楽市楽座の掟を下し商業を保護し、これが日野商人の活躍を促す基礎となったようだ。やがて氏郷は会津若松九十二万石の大大名となり、日野と奥州との交流が始まり、日野商人の行商活動の母体となった。(日野町のホームページを参考に記載)

四、酒造りに欠かせないものは、良質の水と良質の酒米を確保すること。そして優れた技術者である杜氏に恵まれることである。
* 横田酒造では全国から良質な酒米や地元の古代米など、そして水は荒川の伏流水中川系の源流の湧水を利用し、代々ベテランの南部杜氏が酒仕込みを担当しているそうだ。

五、横田社長ご自信は伊勢のご出身だが、縁あって遠縁の横田酒造に来られたようである。
生家もやはり300年以上の老舗の酒造業を営んでおられたそうなので、やはり日野商人の末裔である。



横田社長は電話でのインタビューにも親切に対応され、時折出てくる関西のイントネー ションからは中世から継承される横田家や日野商人の歴史に思いを馳せるに十分だ。
私の唐突な質問に対する真摯なお応えからは、優しさと深みのあるお人柄がしのばれた。

「米処は酒処」改め「名水処は酒処」


俗によく「米処は酒処」と言われているし、そう思っている者も実に多い。
いわゆるコシヒカリ、秋田小町、ササニシキなどの食用米とお酒の原料になる酒米とは全く種類が違うようだ。

前述の国立歴史民俗博物館の清水隆浩先生の説明では 酒米に適した土地は山間部や丘陵であり、気候は昼はガンガン日照り夜は急激に冷える 温度差の激しいところが適している。したがって水田の穀倉地帯と言われる米処とは全く 違う。一般的に言われる米処は酒米処という説は全くの偽りであると断言する。

酒米ブランド産地で日本一と言われるのは兵庫県、かつての播磨の国である。そこは灘・ 伊丹などの当時最大の日本酒生産地のすぐ背後に立地し、酒米生産に適した気候風土に 恵まれ藩政時代から優良な酒米産地として、その名声を全国に轟かせていたようである。

今日酒米の王座を占めるのは「山田錦」という事をお聞き及びの方も多いと思うが、藩政 時代からの酒米「山田穂」がベースになっていて、今日も大吟醸などの超高級酒は殆んど この「山田錦」を原料としているようである。

新潟県魚沼といえば、日本一の食用米の産地であることは今更言う必要も無いことだが、 ここに全国に名を馳せた「八海山」の八海醸造株式会社・本社がある。(新潟県魚沼市長森 1051番地)
注*日本酒愛好家の話によると「八海山」は販売ルートが限定されてなかなか入手困難な銘酒のようである。
「米処は酒処」の真相が気になって、現地の広報担当に訪ねてみた。
「日本一の米処の魚沼産のお米はお使いでしょうか?」と、先方は苦笑いしながら、しか もきっぱり言い切ったのだ。
「この周辺では環境的に酒米は不適のため、当社は兵庫県産の山田錦と長野県産の美山錦 のみ使用です。」と。
しかし「五百万石」と言う酒米は1938年新潟県農業試験場で誕生し、全国的な栽培 が東北から九州まで広がり、作付け面積日本一と言うのに実に不思議な話である。
もう一軒「越乃寒梅」で有名な石本酒造株式会社(新潟県新潟市北山847−1)にも同 様の質問をしてみた。
答えは「高級酒は兵庫県産の山田錦のみ使用。いわゆる旧1級酒、2級酒などのクラスは 県内産の五百万石も使用している。」ということだった。

郷里秋田ではどうだろうか?と、辛口で人気の「高清水」の秋田酒類製造株式会 社(秋田市川元むつみ町4番12号)に問い合わせた。
答えは同じで高級酒は全て兵庫県産山田錦を限定使用、最近は県内産の高級酒米「秋田酒 こまち」の人気も高いが、一番のブランド酒はやはり山田錦が使われているようだ。

酒米の王者「山田錦」は入手が困難で稲の実る前から行き先が予約されるほどの人気の ようである。
全国新酒鑑評会で金賞に輝く北海道から九州の銘酒の殆どが「兵庫県産山田錦」を原料に していると言う。
現在は流通システムが発達し、全国どこにでも物が翌日までには届けられる時代であり、 米の生産地(米処)と酒の生産地(酒処)とは必ずしも一致して居ないことが良く理解で きた。

最近では温度や湿度など科学的に管理された工場での酒造が殆どで、それだけを考えたら 大都会のど真ん中でも酒造は可能なことになるが、埼玉は都心では入手困難な武蔵野の 名水に恵まれているから銘酒の生産が長期にわたり可能なのであろう。
全国の銘酒の産地もまた名水の故郷に違いない。


埼玉の素晴らしい環境の維持の必要性


私の住む北埼玉は、今はちょうど1ヶ月前に田植えが終わり、鏡のように美しい水田の風 景が大宮近くまで延々と続いている。
田んぼの中には無農薬農法特有の合鴨の親子の群れをいくつも見つけることができるし、 白鷺のつがいも水草や小魚を求めて水田に佇んでいる。
こういった風景を車窓から眺めながら都心まで通勤できるのは実にのどかであり、贅沢な ことだと思う。
このあたりでは、田植えのころから利根川からのパイプラインの水を小川に流し、それで 水田を潤している。
そのパイプラインのお陰で、この時期には僅か1.5m幅の小川にも1m近い大きな 鯉が何十匹も群れ遊んでいる。
梅雨のひと休みの日の夜には満天の星空が広がり、肉眼でも人工衛星が夜空を横切って行 くのを確認できる。これが東京の都心から僅か一時間少々に位置する、平成20年の埼玉の 素晴らしい環境なのだ。

この大地からは武蔵野の雑木林に囲まれた荒川や利根川水系の源流からの伏流水の確保が 容易であり、今日もまた銘酒が生産されている。

埼玉が未来永劫「酒処」として存続できるよう、森林伐採や河川の汚染など環境破壊が進 まぬよう「名水」の湧きいずる環境維持を叫び続けるのが、「埼玉の銘酒」の恵みを受ける われわれ消費者の使命ではないかと痛感する。


埼玉県酒造組合主催「埼玉36酒蔵大試飲会」を通し、今まで知らなかった日本酒の歴史 を知る事ができたり、環境問題の大切さを再認識することができて、主催者に本当に感謝している。