今様草加宿と松並木 平成二十年四月五日(土)
講釈師が地元の草加宿を案内してくれることになった。東武伊勢崎線蒲生駅集合。講釈師、ダンディ、宗匠、瀬沼(久し振り)、正田、住職(久し振り)、若井夫妻、大橋、清水、胡桃沢、阿部、あっちゃん、私の十四人だ。花粉症でマスクをつけているのは瀬沼さんと清水さんだ。 「男は汗臭いからさ、誘いたくなかったんだよ」講釈師は相変わらず心にもない言葉を口にする。美女の説明では伊勢崎は「いせさき」と濁らずに読むのだ。「それなら上州の伊勢崎もそうですか」とダンディが辞書を引けば確かに濁らない。また新しい知識を得た。 岳人、隊長、ドクトル、サッチーは、金時山日本遠征隊(!)を組織して、今日はそちらの方に行っている。神奈川・静岡の県境、箱根の北部に位置する山で、標高は千二百十三メートルというのを調べなければ私は知らない。岳人は折角清水さんを誘ったのに、花粉症の彼女はこっちに参加したから、とても残念がっているだろう。 講釈師はコピーを大量に用意している。「野口富士男と豊田三郎」(染谷洌)。豊田三郎が草加出身なのだというけれど、私は豊田の本は読んだことがない。このコピーによれば、最初の短編集『弔花』は紀伊國屋書店出版部から出ているのだ。不明を恥じなければならない。新聞記事「芭蕉・せんべい・松並木の草加」、「其月庵社中連句碑」。それに桜の種類を図解したもの、白木蓮を解説したもの。「このあいだは、木蓮の膨らんだほうが南だって言ってるのに。これ読めば分るだろう」 向こうのコンビニの前にはコブシが咲いている。「私は簡単な見分け方を聞きました。花が下を向いていればコブシ、上を向いていればモクレン」ダンディの説明は実に簡単だ。 「とにかく、この連中は俺の言うこと信じないんだから」と瀬沼さんに説明している。美女は綾瀬川の歴史を簡単にまとめたコピーを用意していた。あとで俳句を投稿するからと、講釈師は投句用のカードを宗匠と私に配る。悪口ばかり言っている癖に、会津に旅行して撮って来た斎藤一の墓、清水屋旅館の写真もくれるから根は親切な人だ。
出羽橋の下を流れるのは出羽堀だ。会津出羽と言う土豪が開発した地域が出羽村で、新田開発のために沼沢の水を綾瀬川に落とすために開削したという。もう少し歩くと中村家に到着する。入り口を入ると、奥の事務所のほうから、女性職員が金庫をぶら下げて走ってきた。今日はじめての訪問者が私たちだったようだ。ひとり百円を支払ってスリッパに変えたところなのに、職員がまず土間のほうから案内してくれる。一度脱いだ靴をまた履くのは面倒だから、部屋のほうから覗き込む。そちらが終わってから家の中の案内だ。 旧大間野村の名主を勤めた中村氏の旧宅で、母屋は大正三年、長屋門は明治十九年に建てられたものだ。土蔵や石倉を見れば、名主の財力の大きさが偲ばれる。土蔵の床板を空けると下は一メートルほどの空間になっている。保存庫のようなものかと尋ねてみると、水が溢れた場合に備えて床を上に上げてあるというから、綾瀬川はしばしば氾濫を起こしたのだろう。 これだけの建物の維持管理と相続税に負担に耐えかねたのではないだろうか、平成九年に越谷市に寄贈され、今では市の管理になっている。百円の入館料は割りにお得だ。 国道四号線に入って南に少し歩き、綾瀬川橋を渡って対岸に出る。ここから草加市だ。岸に沿って桜並木が続く中を今度は東に向かう。離れてみると満開の桜が続いているようだが、近くで見ると、もうかなりの花が散っているのが分る。土手の緑の上に、白い花びらが堆積している。花見の酒に酔って下手なカラオケで歌っている連中もいる。花見も今週で終わりだろう。 根元のほうに花をつけている木もある。これは衰えていく木が子孫を残すために懸命になっているもので、樹木にとっては余り嬉しいものではないらしい。「ソメイヨシノの寿命は四十年から六十年ですからね」 ウィキペディアを参照してみる。
旭神社はもとは氷川神社だが、その鳥居に垂れ下がっている注連縄は、左の柱の島木と貫の間に、蛇が口を大きく開けたような形を作っている。「蛇ねじりって言う」講釈師は何でも知っている。 毎年十月十四日が宵宮、十五日が「お日待ち」と決められていて、十三日には、町内の年番の組が稲藁を持ち寄って、全長五メートルの蛇の形に編んで鳥居に懸ける。収穫、方策祈願のためのものには違いないが、それが蛇の形であるのはどういうわけだろうか。私は民俗信仰に疎いのだが、蛇は水に縁があり、氷川神社そのものも水に所縁が深い。綾瀬川氾濫を鎮めることが目的だったかもしれない。 東武伊勢崎線の下を潜り、綾瀬橋を渡って今度は対岸に出て、川べりを歩く。白い小ぶりな花をたくさんつけているのは、「誰かがプラムって言ってました」阿部さんにも詳しくない分野があるようで、瀬沼さんが「そう、プラムみたいだね」と言うからそれに決めておく。花の軸が短くて、枝に直接ついているように見える。 ハンノキ。榛。松ぼっくりを細くしたような黒い実がついている。コンクリートの護岸の排水のために空けてある穴から枝を伸ばしているのはアカメガシワだ。細い枝が先のほうでいくつかに枝分かれして、その先端に薄紅色の葉をつけているのは新芽のようだ。 道路に戻れば蒲生の一里塚だ。埼玉県内の日光道中では現存する唯一の一里塚だ。私には判定でいないので説明の看板から抜書きすれば、ムク、エノキ、ケヤキ、マツ、イチョウを植えてある。 川に沿って南にちょっと歩けば藤助河岸跡。川に下りる石段を真ん中にした木造の小屋が復元されている。江戸中期、高橋藤助の経営したことに始まる。綾瀬川にはこんな河岸場がいくつもあったらしい。明治になっても、粕壁、岩槻、越谷一帯の商品が荷車で集められ、河岸場から高瀬舟を使って東京まで運ばれた。この場所は、藤助十八代当主から草加市が寄贈を受け、建物を復元したものだ。向かい側には藤助酒店があるから、これが高橋藤助の子孫なのだろう。 橋の柱に巨大はカブトムシがしがみついている。槐戸橋サイカチドバシ。宗匠が早速辞書を検索すると、サイカチはカブトムシの古名である。私はてっきり、樹木のサイカチだとばっかり思っていて、カブトムシには思いも寄らない。サイカチの木を好むからだと言われる。しかし樹木のサイカチは皀莢と書く。 阿部さんの持っている地図には、この文字が禾編に鬼となっていたけれど、私の持っている辞書『角川最新漢和辞典』にはそんな字はないから、多分間違いだろう。ただ、「槐」の文字はエンジュと読むはずで、サイカチと読むのはどういう典拠があるのだろう。橋を渡る。 ここからは自動車道と平行して延びる遊歩道を、綾瀬川を左に見ながらまっすぐ南に向かっていく。芭蕉と曾良の旅姿をタイル絵にした壁画があった。マンガのような絵だ。 この辺りから前方に松並木が続いていく。川にはコサギとカモメがゆっくりと泳いでいる。「あのカモメは何」と宗匠が聞くと阿部さんが自信なさそうに「セグロカモメ」と答える。講釈師も「せぐろだと思うよ」と言うから間違いないだろう。大きな句碑が立つ。 草紅葉草加煎餅干しにけり 水原秋櫻子 碑文では「草加煎餅」の下に「を」の文字があるようにも見える。講釈師によれば、秋櫻子は草加について四句残しているそうだ。ただ、そんなのは山本健吉『定本現代俳句』には採用されていないので私には分らない。秋櫻子ならば、むしろ葛飾との関連のほうが有名だ。私が去年の夏に俳句を勉強しようと思い立ったとき、最初に買った入門書が、秋櫻子門下の藤田湘子のものだったし、『俳句小歳時記』も秋櫻子編なので、初心者の癖に随分大それた言い方だが、なんだか、知人に出遭ったような気分になってくる。 阿波野青畝、山口誓子、高野素十とともに『ホトトギス』の四Sと呼ばれたが、後に虚子と対立して『馬酔木』を主催した。近代俳句の巨人と言って良いだろう。豊田三郎が『馬酔木』に参加しているから草加との縁ができたのだろうか。 「草紅葉って、そういう植物があるの」流石のダンディの教養も季語には及ばないようだ。「草が紅葉色に」と美女が言うとおりで、『合本俳句歳時記』から引用すれば、「秋の千草が色づいてくること。田の畦や土手の上など、靴で踏みにじるのが惜しいほど美しくなる」様子を表す。 芭蕉文学碑もあって、『おくのほそ道』の「草加」の条が記されている。講釈師が「曾良は草加のことを書いていない」と言ったとき、私の記憶は混乱していて、とんでもない勘違いをしでかすことになる。 千住の次に泊まったのは曾良の日記によって粕壁だと分るのだが、それを草加に泊まったように思い込んでいたものだから、千住から草加まで三十キロもあるなんて、バカなことを口走って、宗匠の疑い深い眼差しを浴びてしまった。今日は草加宿を歩くのだから、当然「おくのほそ道」を携帯してくるべきだ。
松原文化通りをまたぐ長い歩道橋は太鼓橋の形になっていて、百代橋と名付けられる。勿論『おくのほそ道』冒頭の部分に因むもので、ただ、平仮名で「ひゃくたいばし」と書いてあるのはいかがなものだろうか。「百代」は高校時代の授業では「はくたい」と読んだ筈で、岩波文庫本にも同じルビを振っている。最近の学説では読みが変わったのだろうか。 橋の上から今来た道や前方を眺めると、松の並木が美しい。この松は天和三年(一六八三)、綾瀬川改修の際、関東郡代の伊奈氏が植えたのが始まりだ。ただ、近代に入って自動車の排気ガスでほとんどが死滅し、最悪の時には六十本しか残らなかった。それが道路拡張を機にここを遊歩道としたとき、松並木が復元された。およそ一・五キロメートルに渡って六百本の松並木が続いている。川沿いには桜が続いている。駅の方を眺めて、向こうのビルの屋上に見えるキャバレーの看板を指差して、七十年代の名残りだと教えてくれるのは講釈師だが、阿部さんはこんなことにも一々感激する。 川を渡って文化会館の敷地の中で昼食休憩だ。残念ながら阿部さんは午後用事があるというのでここでお別れだ。「俺も駅まで送っていって、帰っちゃおうかな」リーダーが途中棄権するのは前代未聞のことで、心にもないことを言って人を混乱させるのが楽しいのだ。「入間詞ですよ」とダンディが笑う。 あとで投稿する句を「俺はもう作ってある」と、私や宗匠には見せずにダダンディだけにこっそりと見せるのが怪しい。「だって、あの連中は必ずケチつけるからさ」そんなことはない。どうやら、先月狭山丘陵の菩提樹池の辺りで、おたまじゃくしを採っていた子供を詠んだものらしい。「水ぬるむ、って言うのが良いんだよ」そうか、私はまだ句を思いつかないから、いざとなったらあの時のものを出してしまおう。 オレンジ、リンゴ、飴、チョコレートが次々に出てくる。美女はチョコレートの箱をもって、私に「要らないのよね」とわざとらしく念を押す。「だって、食べないくせに、冷たく通り過ぎるなんて書かれちゃうんだもの」大橋さんは、煎餅の町草加を歩くのに、大胆にも新潟の煎餅を持ってきている。 突然、平野隊長からの電話が鳴った。「暖かいディナーを食べてる」ラーメンでしょうと言うと、「なんで分ったの」と驚くが、たぶん、岳人なら山でインスタントラーメンというのが合っていそうだ。ところが、後で岳人の報告を読めば、なかなか豪勢な昼食だったようだ。
休憩を終えて文化会館の中の伝統産業展示室に入る。草加煎餅、浴衣、皮革製品が展示してある。私が煎餅を買っていると「珍しい」と宗匠が冷やかす。たぶん、結婚以来はじめて土産を買うと言うと、清水さんも笑っている。ダンディは、煎餅にもいろいろ好みがあるからと、電話で奥様に確認をとって買っている。読書家の美女は革のブックカバーを買ったようだ。「買わないんですか」と聞いてくるが私はブックカバーを使わない。「だって本が痛むでしょう」愛書家はちゃんと考えている。 皮革製品が草加の名産だなんて私は勿論知らないが、あっちゃんは知っている。ほんの二十年前は、雨が降ると革を鞣すためのものだろうか、アンモニアの臭いが町中に漂ったそうだ。それに染色用の晒し粉の臭いも混じっていたよと講釈師も応じてくる。 松並木に戻る。道端には小さな赤い花を付けた躑躅が咲いていて「クルメツツジ」と教えると、美女と清水さんが「なんで知っているの」と驚く。本当は自慢したいところだが、さっき説明板を発見していたのだ。「なーんだ」 矢立橋もさっきの百代橋と同じ造りになっている。この橋を渡ると望楼に出る。上るには靴を脱がなければならない。どうしようかと思っていると、「出さないのかい」と講釈師が俳句の投書箱を指差す。いきなり言われても困ってしまうが、何か捻り出さなければいけない。 このところ、家を出てからバス通りを歩いていて、植え込みに小さな白い花が、ほとんどはまだ蕾なのだが、少しは花が開いているのに気づいていた。図鑑で調べてみると自信はないが、どうやらドウダンツツジらしい。ドウダンの文字が分らずに宗匠の辞書を借りてでっち上げた。 満天星の蕾眩き朝日かな 眞人 草加とは関係ないがこれで許してもらおうか。カードには二句書けるようになっているので、もう一つは、仕方がないので先月のおたまじゃくし(蝌蚪)の句を書き込む。宗匠は勿論だが、清水さん、正田さんも捻っている。「こんなに俳人がいたんですか」ダンディは驚く。 札場河岸公園には芭蕉が江戸の方角を振り返っている像が立ち、その近くには更に句碑が並んで立っている。 梅を見て野を見て行きぬ草加まで 子規 順礼や草加あたりを帰る雁 虚子 草加は俳句の町だった。子規が虚子を誘って千住から草加まで歩いたのは明治二十七年だった。この年、子規は満で二十七歳になる。若い頃から喀血を繰り返してはいたが、まだそれほど症状は悪化していない。翌年には日清戦争の従軍記者として大陸に渡っている。 秋櫻子虚子子規芭蕉若緑 眞人 ちゃんと季語「若緑」を入れたのだが、漢字ばかり、それも俳人の名前だけで俳句になるものか。甚左衛門堰は煉瓦作りだ。もともとは伝右川の治水、利水のために造られた堰だが、明治二十五年に、今見るような煉瓦造りになった。煉瓦をアーチ型に組み合わせるのは、「古代エジプトで始まりました」とダンディが講義する。 さっきの札場河岸まで少し戻って、ここで松並木とはお別れだ。草加の町に入れば煎餅屋が軒を連ねる。「創業寛政八年」なんていう看板を掲げた店がある。ちょっとした休憩所になっているのは「おせん茶屋」だ。「谷中の笠森お仙を想像してしまうよね」私が言うと、「でもここのおせんは、お婆さんだったらしい」と宗匠が応じる。ここでちょっと休憩する。「お茶も出ないからそろそろ出発しましょうか」と笑わせるのは若井夫人だ。道端に白い花を見つけて、シャガというものだと教えてもらう。射干、著莪とも書く。アヤメ科の多年草である。 草加煎餅発祥の地という大きな煎餅形の石碑の後ろには、箸の形だろうか、細く長い石を立てている。神明社の鳥居は、柱は垂直で、貫は柱を貫通していない。笠木は水平だから、正に教科書通りの神明系の形をしている。 東福寺に入ってまず目に付くのが鐘楼だ。屋根の下の彫刻が素晴らしい。鐘を吊るしてある天井には梵字が書かれているが、当然のことながら読めない。真言宗の寺院だが派が分らない。宗匠はちゃんと「成田山って書いてあるから、智山派だよ」と断言する。そうか、成田山は智山派の総本山であったか。慶長年間の創建になる。「三鈷の松」が竹の柵に囲まれている。本堂の軒下の龍の彫刻も見事なものだ。 「こっちだよ」と講釈師が墓域に案内してくれる。かなり古いタイプの墓石があり、これが大川図書の墓だった。草加宿を開き、この東福寺を創建した。相州の人、北条氏に仕えたが、小田原落城後浪人となって、この地に移ってきた。
次は歴史民俗資料館だ。昭和五十八年、埼玉県内最初のコンクリート造りの小学校の西校舎として建設された。少子化で使われなくなった校舎の有効利用なのだ。靴を下駄箱に入れ、スリッパを履いて中に入ると館長が案内してくれる。 最初の部屋には、縄文時代の丸木舟が展示されている。教室を移動しながら展示物を見ていく。里神楽の面。肥桶の手前に小さな船が置かれ、「これが田船でしょうか」とあっちゃんが尋ねる。そうではなく、これは肥桶を乗せるものなのだ。「桶を担いで畦道を歩くのは大変じゃないですか。これで引っ張ったんですよ」館長が一所懸命説明してくれているのに、それを聞かずに大きな声を出す講釈師。かつて使われた農具の展示。宗匠の実家は農家で、子供の頃触ったことがあるものが多いそうだ。私は街中の子供だったから、生活現場で触れたことがない。 玄関の廊下には、大川平八郎に関するものが飾られている。戦前の俳優で、私はよく知らない。さっき東福寺で見た大川図書の子孫に当る。『鶴八鶴次郎』では長谷川一夫、山田五十鈴と共演しているようで、どうやら主役になったことはなさそうだ。大勢の俳優がサインを書き入れた日章旗は応召したときのものだろう。「この中で生きている人がどれだけいるか」 館長にお願いして玄関前で集合写真を撮る。「この会は、どんな趣旨の会ですか」と聞かれても、別に趣旨はない。ただ物好きな連中があちらこちらを歩き回っているのです。「そうですか」 ここで見学すべきものは全て見たことになり草加駅に向かう。途中、黄色の花を見て質問すれば、ヤマブキだと答えが返ってくる。駅前の喫茶店でお茶を飲む。店内に十三人は入れないので、表に出してある椅子を占領する。ちょっと風が出てきたようだ。 四時少し前に本当の解散だ。今日は蒲生、新田、松原団地、草加と東武伊勢崎線の四つの駅の区間を歩いた計算になる。ダンディは夕方用事があるという。瀬沼さんも都合が悪いので、結局酒を飲まなければ済まない人間は、宗匠、美女、私の三人だ。この時間、知らない草加の町で飲み屋を探す気力はない。南越谷に出て、駅舎構内のニュートーキョー「旬花」で飲む。生ビールを飲んで、この人数では焼酎ボトルというわけにはいかず、日本酒にする。金時山遠征隊は池袋で飲んでいるようだ。 疲れていたのだろうか。私はすぐに酔ってしまい、帰りの武蔵野線では乗り過ごして東所沢まで行ってしまった。どうも越谷で飲むと必ず乗り越してしまうようで気をつけなければならない。帰宅して、風呂にも入らずそのまま床に就いた。 春うらら草加の松に酔ひつぶれ 眞人
|