両 親

佐藤清也とその一族に関する考察はこちら

2004年5月


 父や母の生きてきた道筋、家系は私の性格形成にどう影響を与えたか。
父方については、詳しく知っている人が既に余り残っていないため、父の記憶に基づいたが違っていることがあるかも知れない。「浜のおじさん」秀三という人が書き残したものを、最近父が探し出してくれたが、余りに達筆すぎてほとんど判読不能に近い。ただ、その中で父の記憶違いがいくつか見つかった。更に解読調査が必要。母方については、母の叔父石山皆男が多くの資料を渉猟して克明な記録を残しているのでこれを参照した。皆男は、その父利頴の遺訓によって一族の記事をまとめることを生涯の義務と考えた。バランスを失して母方の記事が多くなるのはそのためである。
 資料:石山皆男『東海林の両親 利頴と利器』『東海林の兄弟姉妹 東海林利生』『東海林の弟妹 鵜沼弥生』。これらは全てB4版罫線紙を袋綴じにしたものに縦書き手書きされていて、それをコピー簡易製本し、一族に配布している。

 「佐藤清也は由利の人である。」   → 佐藤清也墓碑銘
教育実習で秋田に帰ったときのことだったが、柴田の伯父がまだ元気で、『土崎港史』だったかの中にあるその一節を見せてくれた。おそらく矢島の貧農だったのではないかというのが父の意見だ。幕末、志を立て、行商をしながら御城下に上ってきた。やがて土崎港で船を持ち、それが佐竹藩の御用を勤めるまでに到った頃が絶頂であろう。家紋は「違い鷹の羽」、浅野内匠頭と同じだが、父は「鷹の羽のぶっ違い」と言った。
 清也には清三とキクの二子があったが、キクが小鴨左記を迎えて分家をたて、回船問屋の業を継いだ。ここから私たちの一族の歴史が始まるということになっている。キク女は「たいした偉いひとだったらしい」と一族の者が口を揃えて言う。木内の婆(母はおれんさんという名で記憶している)、榮太郎の婆と並んで、秋田の三大女傑と称えられたこともあったと言う。しかし、鉄道が(特に秋田から船川までが開通)敷設され、すでに回船問屋を必要とする時代ではなくなっている。家を維持するだけで精一杯だったに違いない。家運は次第に傾いていくが、大正の初めに台湾へ就航中の船が沈没し、それが家の没落に拍車を掛けた。

 左記とキクの長男が賢三という。男子には全て「三」の文字がついているが理由は分からない。賢三の下に津田清三、大黒勝三、名前は分からないが「台湾の叔父」と父が呼ぶ人、マサ(田島家へ嫁ぐ)、セツ(野尻家へ嫁ぐ)秀三が続く。
賢三に嫁したのは仙北郡内小友村宮林の大友キミ。数え十五歳で、乳母がついてきたというから、これもお大尽の家柄だったろうか。「じゃじゃぼこ」(ままごと)のような夫婦だったに違いないと佳夫は言う。賢三とキミの間に長男俊夫、その後は全て三歳ずつ離れて達夫、隆子(柴田家に嫁ぐ)、邦夫、最後に私の父の佳夫が生まれた。父は大正十四年の生まれだから、昭和の年数がそのまま満年齢と一致するので年齢を数えやすい。家計は既に破綻に向かって一直線だった筈だが、子供たちそれぞれに乳母がついていたという。往時の豪奢な生活を棄てきれず、それも後の莫大な借金に繋がっていったと思われる。
 左記が昭和四年に亡くなり賢三が家督を継ぐが、この祖父は何をやっても上手くいかない、実際的な生活能力に乏しい人物だったらしく、さまざまな勤めや商売を経たが長続きしなかったようだ。「売り家と唐様で書く三代目」そのままだ。人付き合いだけは良かったようで、「種蒔く人」同人などの、当時で言えば「赤い」連中との付き合いは、家で何かの寄合があれば必ず警官の立会いがあったという父の記憶に繋がっていく。
秋田市土崎港本山町九番地(結婚して移籍するまで、私の本籍地はここになっていた。今では土崎港中央四丁目という住所表示になっている)の家は、金子洋文の妹と言う人の家が小路に面していて、その奥にあったから、おそらく金子家の地所を分けてもらったものではないだろうか。洋文とも付き合いがあった筈だ。昭和二十三年に賢三が死んだときには莫大な借金が残り、子供たちがそれを背負った。苦労を共にしたせいだろうか、父の兄弟は実に仲が良かった。長男俊夫だけは「トシあんちゃん」で少し別格だったが、その他はたっちゃん、くにちゃん、よっちゃんと呼び合っていた。嫁たちも仲良く付き合っていたのは、祖母キミが良くできた人だったからだと思う。
長男俊夫は秋田中学を出て、借金を一番多く負担しなければならなかった。しかし、トシあんちゃんが一番良い目をしたというのが、親戚中の一致した意見だ。達夫は秋田工業を出て満州に渡ったが、敗戦で命辛々帰国し、その途中で赤ん坊を死なせた。そのときの苦労については、タノ伯母に聞いたことがある。邦夫は秋田工業始まって以来の秀才と謳われ、大学へ行かせて貰う条件で日立の中央研究所に入社した。回りは全て大学出の学士の中で、旧制中学を出ただけの邦夫が研究員になったのは、日立としても前例がないことだという。しかし大学へ行く約束は、戦争の激化によって反故にされた。八十歳を過ぎて今でも専門書は英語の方が読みやすいという伯父だ。

祖母キミは小柄で穏やかな人だったが、「寄らば大樹」というのが口癖だった。賢三の浪費や商売の失敗による莫大な借金に苦しんだ祖母は、せめて子供だけは安穏に生活して欲しいと願っていたから、絶対に倒産しない大会社に勤めろと、末っ子の佳夫には口煩いほど言い聞かせた。そのため佳夫は秋田商業を卒業すると日本勧業銀行秋田支店に入社した。戦後、母と結婚してからもまだ賢三の借金の残りを佳夫も負担していたという(母はマイナスからの出発だったと言う)から、どれほど莫大な借金だったか。
召集はされたが、胸に陰が見つかり即日帰郷になったので、父は戦争を経験していない。その代わり太田の中島飛行機に徴用された。戦争が終わって勧銀に戻ったあとは、組合の専従として東京に常駐する。数年後、組合を離れ秋田支店に戻ってから、同じ支店に入社していた鵜沼和子と知り合い、昭和二十五年に結婚する。

母の家は、初代東海林正信が関が原の後に亀田岩城氏三代藩主重隆に仕えて以来の家柄で、父利生(としなる)が家を継いでいた。但し、二代正次のときに先祖の家系再興を図って次男利正を本家三代とし、長男正定を別家三代と定めてから以後両家が続いていて、利生は別家東海林家十三代に当る。本家五代左右兵衛は天明の頃頭角を現し、功績があって藩主から岩城氏の苗字を賜り、永席家老として五百石の禄を得た。晩年権勢に驕りがあったのか、退隠蟄居を命ぜられ半知召上げとなったが、このひとが最も偉い人だったらしい。このときは別家も「本家不行届」を理由に知行半減されている。
祖父利(とし)頴(ひで)には先妻クニとの間の娘小枝(村井家へ嫁す)に次いで、後妻利器(りき)との間に利生、次男利(とし)雄(たけ)(本家九代十一郎死去に伴いその末期養子として十代を継ぐ)、皆男(石山峰五郎養子)、弥生(鵜沼国義養子)、揚五郎(高橋完助養子)、伸(田中へ嫁す)がいる。長男に万一のとき、あるいは本家に嗣子が絶えた場合を慮って、次男までは「利」の字がつく。
次男以下を他家へ養子に出すについては、利頴が皆男に書き送った手紙にその訳が記されている。
我が東海林家は、智照院(亡父蔀(しとみ)正誠)迄、七代連続の養子相続なりと聞く。智照院幸いに一男二女あり、実子(我)を以って家督相続せられたり。然るに我は五男二女ありて、東海林家には此の如き子福者ありし事は聞かざるなり。然れども七代他家より養子として家名存続せりとせば、五男を以って五家の養子と為すは尚二人不足也。まして長男は我家を継嗣せば只四人のみ。世間に対して尚三人の償い不足なり。故に我は最初より我子を以って他家を相続せしめ、祖先の恩恵に報ゆるの意思也。今の世には多数の子女を膝下に侍坐せしめ、其収穫を以って己の衣食に給補せしめ、老後の安逸を希望する人あるも、世は如何に生存競争を現実するにせよ、我は反対を表するものなり。

母は、利生と佐藤タツミの間に姉祐(さき)、弟利孝、妹ミエの四人姉弟妹の次女として生まれた。ちょうど祖父利頴古希、祖母リキ還暦の祝賀の年に当たり、それを記念して、賀寿(カズ)と名づけられた。男子には東海林家の正嫡だからやはり「利」の字がついている。家紋は「丸に二つ葉五三の桐」。三つ葉の桐はどこにでもあるが、二つ葉は珍しいというのが、叔父の説明だった。
小学訓導を数年経験した後県内各地の山林官を歴て、五十をすぎて職を失った利頴は北海道に職を求めて家を空けた。それ以前にも利頴が県内各地に単身赴任中の間から、長男の利生が一家を支えた。秋田工業(第六期)を卒業し、志は上級学校への進学と上京にあったが、弟妹の世話のためには亀田に残らざるを得なかった。「秋田の片田舎に生を終わるかと思へば実に残念也。すなわち我は努力によりて此の不足を補わんと欲す」(皆男宛書簡)。しかし、勤務先として選ぶ会社が次々に解散するに及んではいかんともしがたく、転機を求めて一大決意(十三代当主として、自分だけでなく父母ともに秋田を捨てよと説得するのは想像以上の努力だったに違いない)のもとに、家を挙げて大阪に移住した。後年、趣味の俳句のグループに参加するなどやや生活の安定を見たが、病に倒れ、志を得ることなく昭和十年、カズ六歳の夏に四十歳で死んだ。胃癌であった。
「利生は親の訓えに順って、よくその責務を守り通した。真正直で、自らお人好しと称し、道を踏み外すことは無かった。しかし、それを実行するには、自らの犠牲を必要とする。」(皆男)
親族会議の結果、カズを引き取ったのは子供のいない鵜沼弥生だった。祖母利器と姉祐は東京の石山方へ、母タツミはミエ、利孝を伴って亀田の実家に身を寄せた。一家は離散した。
カズの記した「生い立ち」には、「その頃の記憶は余り定かではないが、気がついたら母親の姿がなかったとゆう思いがある。(中略)翌十一年、その夏墓参のため亀田で一年ぶりに母と会う。帰りの駅のホームで母の袖を力一杯にぎりしめ、皆を困らせた思い出がある。以来、母や弟妹とは六年間会うことがなかった」と淡々と記されている。
母がこんなものを書いているのは知らなかった。ワープロでB5版縦書きわずか三枚の小さなものだが、何か子供に伝えたい思いがあるかも知れない。皆男は、その父利頴と兄利生について「文筆の徒」と称しているが、母にもその血が流れているか。尤も私に言わせれば、皆男こそが「文筆の徒」であろう。ダイヤモンド社の経済記者から後にその編集局長まで経験した経歴があるとはいえ、その一族の歴史を残そうとした執念は並みのものではない。

鵜沼弥生は兄弟の中で最も親の愛薄く育った。生後すぐ、母の乳の出が悪く乳母に預けられ六年を他家で過ごし、生家に戻っても僅か三年で父に同行して北海道に渡ったが、父とは別に叔母の家で六年間育てられた。他の兄弟は皆中学校を卒業したが、弥生だけは天塩の高等小学校を終えると一人で北海道から帰郷し、家には三日もいずに自転車屋の住み込み丁稚奉公に出た。父、兄弟それぞれが給料取りの道を歩んだのに比べ、弥生だけが商売の道に進んだことも、弥生を「異色の兄弟」(皆男)としている。しかしその弥生が後に一族の面倒を最もよく見る、義理厚い人になったことは、皆男が驚いている。利生の病篤く既に死期の近づいてきたとき、他の兄弟がなすすべもなく見守るしかなかった中で、弥生は懸命に方途を探り、「藤井療法」なる民間療法を試みるべく、利生を大阪から秋田に引き取って看病、死を看取った。
一言でいえば、私らはなんとなく暖かくない。それなのに弥生は、いつも義理に厚く、親族一統の力になっていた。むしろ望外な人柄はどうして身についてきたのか。不遇が逆に、兄弟に益々密着しようとする人情を、無意識のうちに強くしたのか。
弥生は立志伝中の人で、自転車屋の丁稚小僧から身を起こし、自動車免許を取得し、辛苦の末に会社を設立した。昭和八年、自分の名をとって「やよひ自動車商会」として出発した貸切自動車業は順調に発展し、茶町扇の丁に自宅兼事務所兼車庫を構えるようになる。戦時、国の統制によって県内のタクシー会社が統合された「合同タクシー」、戦後の「中央交通」時代からその後「あさひタクシー」を設立して経営する間、ここが弥生の本拠地であり、私たちは「茶町のおじいちゃん」と呼んでいた。当たりの良い穏やかな人柄で人望もあり、私の印象に残っているのは、禿げ上がった頭に手ぬぐいを載せ、真っ赤な顔をして良い機嫌で酒を飲んでいる姿だ。
祖母タマは青森の出身で、幼い頃に置屋の養女に出され、長じて大町にあったカフェの女給をしていて弥生に見初められた。若い頃は評判の美人だったと皆が言う通り、色白で細面の女性だったが、病弱で癇癖の強いひとだった。襟を抜いた着物の着方は粋だが、愛情の薄い人だと私は感じていた。家の中のことは何もしない。会社と家の中を切り盛りするために住み込みの女中が一人いた。
子供を生んだことのない祖母は、犬や猫を無暗に可愛がり、家の中には常に数匹の動物が住んでいた。足を引き摺ったり、片目が潰れたような犬猫ばかりを可哀相だと拾ってきては面倒を見る。これらが茶の間で座布団を占領しているから、子供の頃の私は、茶町の家に行くのが嫌だった。父もほとんど足を向けなかった。私が今でも犬や猫などが苦手なのはその頃の記憶のせいかもしれない。
カズは大事に育てられたのだろう。木内や他の良家の娘に混じって日本舞踊を習いに行かされたりしたこともある。成り上がりの弥生とタマの見栄だったのかも知れない。昭和十七年に秋田高女に入学し、その頃、正式に鵜沼家の養女として入籍した。戦時中のことで、当時の入学試験には筆記試験はなく、口頭試問の面接と、体操、健康診断だけだったそうだ。やがて戦争も終わり、昭和二十二年に秋田高女を卒業して勧銀の秋田支店に入社した。

「あの男はアカではないか」とタマは反対したらしいが父と母は昭和二十五年四月に結婚し、翌年私が生まれる。弥生としても本来カズに婿を取って家を継がせる希望もあったのだろうが、それは一端消える。後に弥生の死の直前になってまたその話が再燃するのだが、それはずっと後年のことになる。
この頃の佳夫は燗癖が強く、しょっちゅう人と衝突した。面白くないことがあれば母にも当った。私自身も子供心に、父は怖い人だったというイメージがある。おそらく銀行員になるのは本意ではなかったのではないか。秋田商業卒業時のアルバムに達筆で書かれた決意の文字は、佳夫が明らかに文学少年であったことをうかがわせる。戦争が終わってすぐに古本屋を駆け回って、当時は二束三文で売られていた小説類を掻き集めたのも、銀行員としての感覚ではない。東洋史の教師になりたかったのだと、後に私に洩らしたことがあるが、それが許される時代と家庭環境ではなかった。
給料からは祖父の残した借金の返済に加えて、給料日払いの約束で毎月本屋から購入している本代も引かれ、実質半分に満たなかったと母は回想するから、生活は苦しかった筈だ。

結婚してからは市内にある社宅を転々とした。私が生まれたのは上亀の丁の社宅だというが記憶がない。一度はたまたま空いていた支店長社宅に入居したこともあった。朧げながら、大きな庭のあるその家を記憶しているように思えるのは、後に写真で見たためだろうか。女中部屋までついた豪壮な家だと言うがほとんど憶えていない。私の記憶がはっきりするのは、楢山末無町の社宅にきてからだ。社宅と言ってもちょっと大きな普通の二階建ての家で、通りに面した玄関脇の部屋に私たち、奥の離れになった部屋に別の家族、二階には、後に良くテレビを見せてもらいに行くことになるもうひとつの家族が住んでいた。
この家は日当りが悪くいつもじめじめとしており、次々に家族が病気になった。私が四歳になったとき、真理子と真紀子の双子の妹が生まれる。二キロと一・九キロという未熟児で無事に育つかどうか両親は危ぶんだが、なんとか生き延びた。
昭和三十二年十月、佳夫は肺炎から結核を再発し県立病院に入院する。翌年の十月に退院自宅療養となるまで、丸一年間の入院生活だった。
実に貧乏だったように思う。夕飯のお菜が足りず、母が苦労をしていたことも覚えている。油揚げ一枚を焼いて醤油を掛けたものだけだったこともある。ライスカレーはご馳走だった。尤も周囲も皆同じだから恥ずかしかったわけではない。高度経済成長前の日本の、ごく普通のサラリーマンの家だったと言えるだろう。しかし幼い頃の私は病弱だったし、しょっちゅう医者の世話にならなければならなかった。双子の妹の世話もしなければならない。手伝ってくれたのは父方の祖母キミで、母は祖母を頼りにしていたが、ずいぶん苦労した筈だ。カズの「生い立ち」でも、この頃が経済的に最も苦しい時期だったと述懐している。
全国規模の銀行という組織で、旧制中学を出ただけの、組合活動の急先鋒だった男が、おまけに結核で長期欠勤するに及んでは、出世はできない。銀行員としてはおそらく余り幸福ではなかったのではあるまいか。仕事はいつも忙しく、子供の頃、私が起きている間に帰宅することは滅多になかった。日曜日には遅くまで寝ているから、私たち兄妹は午前中は静かにしていなければならない。やっと起きても午後一杯は布団の中で本を読み続け、夕食にはビールを飲むのを楽しみにしていた。今でも変わらないがとにかく本を読む人だった。戦前に教育を受けた人に到底敵わないのは、古典や漢文に関する教養だ。私はこの点において、父に全く歯が立たない。
「そっくりだ」と母も妻もしょっちゅう口にするほど、私と父は考え方や物の言い方、食物の好みに到るまで似ているようだ。どちらかと言えば理詰めで物を言いたがる性分は、ひとに嫌われやすいが、私のこの性格は明らかに父の血を引いている。もう少し、母親の優しさを引き継いでいればよかったのだが。実に父に似ていると自分でもそう思うが、こと酒に関してだけは正反対だ。私はビールを余り好まないが、父はアルコールといえばビールしか飲まない。

キミ祖母は、本山町の家を本拠にしてはいたが、孫に好かれ、嫁たちにも頼りにされていたので、定期的に各家々を泊まり歩いてはいたものの、一番長逗留をしたのは私の家だった。それが悔しかったと、今でも従兄弟たちが私に文句を言う。
「形あるもの全て壊れるのだ」というのもキミの口癖のひとつだった。嫁たちが失敗して食器を割ったりしても、決して怒らない。そんなものはいつか壊れる。たまたまその時期に来ていたのだ。 誰かが放屁すると必ず「けふ九重に匂ひぬるかな」ともキミは言った。いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に匂ひぬるかな。我が家にある百人一首には読み札に何の絵も書かれていていなかったが、質は良いものだったのではないだろうか。記憶がはっきりしないが、確か「定価三十八銭」と書かれていたように思う。随分と長く持ったものだ。絵がないので坊主めくりなどはできなかったが、正月には家族揃ってよくやった。父が読み手になると、最初の一枚は空札と称して実朝の歌を詠んだ。大海の磯もとどろに寄する波割れてくだけて裂けて散るかも。若い頃「金槐集」も読んでいたのかも知れない。小学校の高学年になると、私は家中で一番早く取れるようになった。

弥生の体調が思わしくなく、入院するようになって、鵜沼の家の後継題が再燃した。当時私たち一家は佳夫の転勤に伴って埼玉県熊谷市に在住していたが、万一を慮って、佳夫は上司の理解ある計らいを得て、昭和四十年の四月に秋田支店に戻った。その頃佳夫がどの程度悩んだか当時の私には分からないが、最終的には決断を下し、継家の話は消えた。弥生の入院はおよそ三年にも及んだが、六十三歳で死んだ後、タマの姪にあたる久子が夫武光とともに夫婦養子となって鵜沼の跡を継いだ。
ノートの一行を二行に分かち(倹約の精神と思われる)、細かい文字で几帳面に記された弥生の日記はしばらくカズの手元にあったが、今は久子が保管している。弥生が日記をつけ始めたのは、自転車店の住み込み奉公をしていた頃、皆男に勧められたものだった。

私の名前「眞人」は『海軍』という小説の主人公から採られた。真珠湾攻撃の「軍神」をモデルに、獅子文六が岩田豊雄の本名で発表した小説だ。軍国主義を嫌って、子供の玩具にも刀やピストルを与えなかった父の思想と、どう結びつくか良く分からないが、『海軍』は悪い小説ではなかった。

by Masato Sato